今回は話を健治親分の方に戻しつつ、柔拳興行の落日と、「柔道の総合武術化の完全途絶」についてお話しします。
ルールやユニホーム、試合会場の整備によって柔拳興行を成功に導いた健治親分は立て続けに「柔道対レスリング」「柔道対相撲」「レスリング対相撲」などの異種格闘技戦のみならず、「柔道対剣道」「拳闘対小太刀」といった、対武器の異種戦も興行にかけます。
いっけんキワモノのように見られがちなこの対戦ですが、前々回もお話ししましたとおり、健治親分はこれらをあくまでも「スポーツ」と位置付けました。
たとえば大正10(1921)年2月9日付神戸新聞には、フランス人レスラーのルイケル・カロロフVS力士(四股名「虎林」)によるレスリングVS相撲試合が、同年5月5日の同紙にはカロロフVS柔道家・東郷久義によるレスリングVS柔道の試合が掲載されていますが、掲載カテゴリとしてはいずれも「スポーツ」として取り上げられています。
前回は、健治親分が自身の興行を「スポーツ」とした理由として、「柔道と柔拳はどっちもスポーツであり、それを同じ土俵に上げるため」ということをお話ししましたが、実はいまひとつ「新しい異種格闘技戦に挑む柔道家を保護する」というものもありました。
詳細は以前お話ししましたが、あの「サンテル事件」は、前出のカロロフVS虎林戦の翌月(大正10年3月)のこと。
講道館はこのとき、この試合に下らない高段者たちが下らない因縁をつけた挙句、けっきょく治五郎先生は「柔道は決して興行師の金儲の道具として使ってはならぬ」(「有効乃活動」7巻5号より、治五郎先生のお言葉)などと発言し、試合参加者の段位を剥奪するという挙に出ました。
この愚挙は当然批判されるべきことではありますが、サンテルとのミックスド・マッチには、治五郎先生やバカ高段者たちがツッコミを入れても仕方がないだけの「ワキの甘さ」がありました。
じつは件のサンテル戦ですが、運営形態は間に興行師を介し、入場料金を取って行った完全なる「興行」であり、しかも日本柔道側の首班であった庄司三段が金持ちボンボン(早大の学生なのに、愛人に料亭を経営させていたほど!)だったこともあり、カネの管理がスキだらけ。なんと、興行師に売掛金を全額持ち逃げされています。
このあたりのワキの甘さが「講道館のメンツをつぶした」と判断され、庄司三段らが必要以上に叩かれ、段位剥奪という苛烈な処分につながったわけです。
日本一の興行師だった健治親分は「言わんこっちゃない」と呆れつつも、考えました。
「柔道家が『興行』に参加することが問題なら、柔道を利用できる『スポーツ』に参加するという態であれば、講道館のメンツも立つから、問題なかろう。」
メンツが立った立たない、潰した潰されたというレベルで商売をしているのは、ヤクザも講道館も全く違うところはありませんから、「興行に参加することはまかりならん」という講道館の顔を立てるには、柔拳が「興行」であってはならず、あくまで「スポーツ」でなければならなかったわけです。
健治親分の本拠地であった神戸は、当時の柔道勢力図でいえば講道館の手が及ばない治外法権の地区であり、「講道館がナンボのもんじゃい!」と息巻いて、興行に参加することも可能ではあったのですが、あくまで健治親分は「スポーツ」という予防線を忘れませんでした。
さらに言えば、「神戸柔拳」は練習環境もすばらしく、親分の邸宅内に設えられた道場では、各種格闘技の選手が熱心に練習を共にしていました。昭和40年代にキックボクシングブームを築いたプロモーター・野口修(昭和9~平成28年)は、こう回想しています。
「ピス健の家の庭には立派な道場があって、柔道や拳闘、合気道や槍の稽古もしていた。柔道家とボクサーが試合形式の練習をしていたのを見た記憶もある。」
ただ、健治親分がこれほどまでに知略を巡らせ、カネと時間をかけて成功させた「柔拳興行」の命は非常に短く、人気を博した!と思われたその直後から、徐々にその人気を落としていきます。
健治親分がマスコミに対し、公式に語った柔拳撤退の理由は「神戸柔拳の成功を聞きつけたその他興行師が、その猿真似をした劣化版興行を次々に打ったことで試合の質が劣化したため、自分は憤然とこの興行から撤退した」というものでした。
いっけん合理的に見えるこの理由ですが、健治親分の社会的地位を鑑みた場合、けっこう無理があります。
なにしろ健治親分は当時、興行界においては押しも押されもせぬ日本一の大親分であり、自分の興行をパクった劣化版興行が本気で気に入らなければ、瞬時に叩き潰すことが可能でした。しかし健治親分は、あえてそれをしなかった。
なぜか。
健治親分が柔拳から手を引いた真の理由は、健治親分が本当に愛していた「柔拳に代わる格闘スポーツ」の成算が見えていたからです。
その格闘スポーツとは…それまで「柔拳」のオマケでしかなかった純然たるボクシング、当時の言葉でいう「純拳」です。
健治親分が「神戸柔拳」を興したのと同じ大正10年の3月、15年間の長きに亘ってアメリカにボクシング留学していた渡辺勇次郎(明治22~昭和31年)が帰国。同年12月には東京は目黒権之助坂下の田んぼの中に、日本拳闘倶楽部を設立します。
日本ボクシングの公式史では、このことを以て「日本プロボクシングの発足」としていますが、実態はかなりお寒いもので、入門者はまったく来ず、経営状態は火の車。翌11年6月にはわが国初となる「純拳」試合を挙行しますが、見事な大失敗に終わり、日倶の土地建物を抵当に入れることで、ファイトマネーや経費の不足分を補填するという有様でした。
渡辺が当時、わが国随一のモダン・ボクシング有識者であったことは間違いないのですが、「組織の長」としての才能と、「興行師」としての才能が完全に欠落しており、その後も似たような失敗を繰り返しては、興行を取り仕切るヤクザに命を狙われる、なんてことがよく起きていました。
そんな時期、渡辺のそうした至らざる部分を金銭的にも権力的にも補い、昭和の初期に「純拳」がブレイクする下地を作ったのは、まさに健治親分でした。
当然そこには、渡辺に恩を売ることでわが国ボクシングのイニシアチブを取る、という「ヤクザ」「興行師」としての打算もありましたが、健治親分には「日本のボクシングは、自分が動かないとどうにもならない」という、いい意味での自負と責任感がありました。
元不良や与太者ばかりがゴロゴロしていた(渡辺はケンカのしすぎで中学校を放校。渡辺の弟子で、のちにピストン堀口を連れて渡辺のもとを飛び出した岡本不二も有名な不良だった)黎明期のわが国ボクシング界が、曲がりなりにもある程度の統制を保てていたのは、健治親分という表・裏双方にまたがる社会の「権力者」いたからであり、この頃から昭和初期にかけてボクシングがブレイクする要因を作ったのは、その「権力者」である健治親分が、いわゆる「ヤクザのシノギ」の域を大幅に超えた支援と投資を行っていたからに他なりません。
要するに健治親分にとっての「柔拳」は、若くて気合の入った柔道家を鍛える場所であると同時に、健治親分が本当に育てたかった「純拳」を世に認めさせるためのコヤシでした。
「純拳」が一本立ちできたとき、コヤシの使命を終えた柔拳に残されたのは、歴史の波間に埋もれることだけだった。けだし当然の結末だったといえましょう。
そして、始まりからグダグダだった講道館の「柔道の武術化」も、柔拳の衰退と歩調を合わせるように陳腐化します。
最晩年の治五郎先生は、日本へのオリンピック招致事業に奔走中。高齢にムチうち、海路・鉄路で世界を飛び回る治五郎先生には、「柔道の武術化」なんかに構っているヒマはなくなっていました。
そして昭和13(1938)年の治五郎先生死去により、「柔道の武術化」研究は完全に放棄され、以後柔道は「試合に勝つ!ための柔術」という、ある意味創立当時の基本理念(;^ω^)にめでたく立ち戻りました。
健治親分は純拳へ、治五郎先生は黄泉の世界へ。
「柔道の武術化」を夢見た2人がどこかに行ってしまったそのとき、「柔道の武術化」はすべての道が完全に閉ざされ、柔道は本来のあるべき姿である「ルールがよく整備されたジャケッティッド・レスリング」に戻りました。
治五郎先生が「柔道の武術化」を叫び始めた理由を、様々な史料をもとにいろいろ考察しましたが…おそらく治五郎先生は、当時最強の抵抗勢力だった高専柔道がどんどん勃興していくなかで、これまで講道館柔道の成立過程で(政治力で)捻りつぶし、叩き潰したはずの「古い柔術」の亡霊を見たのではないかと思うのです。
「立ち技偏重の柔術」である講道館柔道はそもそも、古い柔術の否定で勢力を伸ばしてきました。
しかし、治五郎先生に対する最大の抵抗勢力・高専柔道はかつて講道館が否定し、苦汁をなめさせられた寝技で競技を成立させており、しかも講道館柔道より大人気!
治五郎先生が「叩き潰したはずの柔術が、違う形で帰ってきた…」とイヤな気持ちになったことは、想像に難くありません。
治五郎先生が高専柔道を否定するには、高専柔道にないもの…当て身と立ち関節技を主軸とした「勝負法」に頼るしかなかった。
しかし、過去に叩き潰した古い柔術への後ろめたさと、高専柔道への恐れがないまぜになったネガティブな気持ちだけが先行した「勝負法」研究は、なんの準備も成算も、そして「何が何でも成立させる!」という覚悟もなかったため、迷走を繰り返した挙句尻すぼみして終わった…というのが、「勝負法」研究の総論といえましょう。
本連載でもお話しした、講道館の「勝負法」研究機関「古武術研究会」に所属、その後合気道研究に派遣された望月稔(養正館開祖。1907~2003)は、「勝負法」研究に関するこんな興味深い回想を残しています。
「武道教育の普及徹底に急なため、先人たちが血を流し骨を砕いて学び、一生をその練磨にささげた貴重な各流派の特質がほとんど失われかかっていたのが大正末期のことである。しかもそれに最も早く気がついたのが、なんと武術を体育競技的武道にしてしまった張本人である嘉納治五郎先生と高野佐三郎先生という二大先生であった。」
治五郎先生が柔道をいかに無造作にスポーツ化してしまったか、そして治五郎先生が一時提唱していた「古い講道館の稽古こそが、勝負法だ!」という発言が如何にデタラメだったかを示す、貴重な証言といえましょう。
以下、エピローグです。
健治親分のシノギを越えた「真の最強を求める」動きは神戸柔拳滅亡後も続いていました。
わが国に初めて「実戦空手」を見せつけた空手界のレジェンド・本部朝基先生はある座談会において、「飛び入り」が主流だった柔拳興行に参加した際、ボクサーを一撃の下に破り去ったことで「ナントカという親分に招かれ、空手談義をして、非常な歓待を受けた」という証言をしています。
…個人的にはその親分が健治親分であったと信じたい!ですね。
名門一族からドロップアウトしつつも、裏社会で超一流の大物となり、シノギを越えた「格闘技愛」を発揮し続け、さらにいえば、講道館の何百倍もの熱意とお金を投入して「柔道の武術化」を推進した健治親分は、もっと評価されるべき傑物であるといえましょう。
【参考文献】
〔書籍〕
・「実録!柔道対拳闘 殴るか、投げるか」池本淳一 BABジャパン
・「昭和の不思議101 2023年秋の男祭号」内「元祖総合格闘技 柔拳を仕掛けた嘉納健治 すべてはこの侠から始まった」木本玲一 大洋図書
・「有効の活動」7巻4号・5号 柔道会本部編(大正10年)
・「拳闘五十年」郡司信夫 時事新報社(昭和30年)
・「拳闘読本 一問一答」川嶋清 木村書房(昭和7年)
・「技法日本伝柔術 黒帯合気道」望月稔(昭和53年)
・「日本プロレス風雲録」小島貞二 ベースボールマガジン社(昭和32年)
・「愚談」水島爾保布 厚生閣(大正12年)
・「武道学研究」6巻1号 日本武道学会
・「嘉納健治の「柔拳興行」と日本ボクシング史におけるその位置づけ」 池本 淳一(論文)
〔Webページ〕
「「山口組みたいなもん」「灘中の運動会で実弾撃ってた」日本にボクシングを広めた“大物ヤクザ”「ピス健」とは?」
「「打撃なし“骨抜き”柔道で警察官は仕事ができるか!」100年前に“柔道vsボクシング”を企画したヤクザの思惑」
いずれもNumber Web掲載 細田昌志著
ルールやユニホーム、試合会場の整備によって柔拳興行を成功に導いた健治親分は立て続けに「柔道対レスリング」「柔道対相撲」「レスリング対相撲」などの異種格闘技戦のみならず、「柔道対剣道」「拳闘対小太刀」といった、対武器の異種戦も興行にかけます。
いっけんキワモノのように見られがちなこの対戦ですが、前々回もお話ししましたとおり、健治親分はこれらをあくまでも「スポーツ」と位置付けました。
たとえば大正10(1921)年2月9日付神戸新聞には、フランス人レスラーのルイケル・カロロフVS力士(四股名「虎林」)によるレスリングVS相撲試合が、同年5月5日の同紙にはカロロフVS柔道家・東郷久義によるレスリングVS柔道の試合が掲載されていますが、掲載カテゴリとしてはいずれも「スポーツ」として取り上げられています。
前回は、健治親分が自身の興行を「スポーツ」とした理由として、「柔道と柔拳はどっちもスポーツであり、それを同じ土俵に上げるため」ということをお話ししましたが、実はいまひとつ「新しい異種格闘技戦に挑む柔道家を保護する」というものもありました。
詳細は以前お話ししましたが、あの「サンテル事件」は、前出のカロロフVS虎林戦の翌月(大正10年3月)のこと。
講道館はこのとき、この試合に下らない高段者たちが下らない因縁をつけた挙句、けっきょく治五郎先生は「柔道は決して興行師の金儲の道具として使ってはならぬ」(「有効乃活動」7巻5号より、治五郎先生のお言葉)などと発言し、試合参加者の段位を剥奪するという挙に出ました。
この愚挙は当然批判されるべきことではありますが、サンテルとのミックスド・マッチには、治五郎先生やバカ高段者たちがツッコミを入れても仕方がないだけの「ワキの甘さ」がありました。
じつは件のサンテル戦ですが、運営形態は間に興行師を介し、入場料金を取って行った完全なる「興行」であり、しかも日本柔道側の首班であった庄司三段が金持ちボンボン(早大の学生なのに、愛人に料亭を経営させていたほど!)だったこともあり、カネの管理がスキだらけ。なんと、興行師に売掛金を全額持ち逃げされています。
このあたりのワキの甘さが「講道館のメンツをつぶした」と判断され、庄司三段らが必要以上に叩かれ、段位剥奪という苛烈な処分につながったわけです。
日本一の興行師だった健治親分は「言わんこっちゃない」と呆れつつも、考えました。
「柔道家が『興行』に参加することが問題なら、柔道を利用できる『スポーツ』に参加するという態であれば、講道館のメンツも立つから、問題なかろう。」
メンツが立った立たない、潰した潰されたというレベルで商売をしているのは、ヤクザも講道館も全く違うところはありませんから、「興行に参加することはまかりならん」という講道館の顔を立てるには、柔拳が「興行」であってはならず、あくまで「スポーツ」でなければならなかったわけです。
健治親分の本拠地であった神戸は、当時の柔道勢力図でいえば講道館の手が及ばない治外法権の地区であり、「講道館がナンボのもんじゃい!」と息巻いて、興行に参加することも可能ではあったのですが、あくまで健治親分は「スポーツ」という予防線を忘れませんでした。
さらに言えば、「神戸柔拳」は練習環境もすばらしく、親分の邸宅内に設えられた道場では、各種格闘技の選手が熱心に練習を共にしていました。昭和40年代にキックボクシングブームを築いたプロモーター・野口修(昭和9~平成28年)は、こう回想しています。
「ピス健の家の庭には立派な道場があって、柔道や拳闘、合気道や槍の稽古もしていた。柔道家とボクサーが試合形式の練習をしていたのを見た記憶もある。」
ただ、健治親分がこれほどまでに知略を巡らせ、カネと時間をかけて成功させた「柔拳興行」の命は非常に短く、人気を博した!と思われたその直後から、徐々にその人気を落としていきます。
健治親分がマスコミに対し、公式に語った柔拳撤退の理由は「神戸柔拳の成功を聞きつけたその他興行師が、その猿真似をした劣化版興行を次々に打ったことで試合の質が劣化したため、自分は憤然とこの興行から撤退した」というものでした。
いっけん合理的に見えるこの理由ですが、健治親分の社会的地位を鑑みた場合、けっこう無理があります。
なにしろ健治親分は当時、興行界においては押しも押されもせぬ日本一の大親分であり、自分の興行をパクった劣化版興行が本気で気に入らなければ、瞬時に叩き潰すことが可能でした。しかし健治親分は、あえてそれをしなかった。
なぜか。
健治親分が柔拳から手を引いた真の理由は、健治親分が本当に愛していた「柔拳に代わる格闘スポーツ」の成算が見えていたからです。
その格闘スポーツとは…それまで「柔拳」のオマケでしかなかった純然たるボクシング、当時の言葉でいう「純拳」です。
健治親分が「神戸柔拳」を興したのと同じ大正10年の3月、15年間の長きに亘ってアメリカにボクシング留学していた渡辺勇次郎(明治22~昭和31年)が帰国。同年12月には東京は目黒権之助坂下の田んぼの中に、日本拳闘倶楽部を設立します。
日本ボクシングの公式史では、このことを以て「日本プロボクシングの発足」としていますが、実態はかなりお寒いもので、入門者はまったく来ず、経営状態は火の車。翌11年6月にはわが国初となる「純拳」試合を挙行しますが、見事な大失敗に終わり、日倶の土地建物を抵当に入れることで、ファイトマネーや経費の不足分を補填するという有様でした。
渡辺が当時、わが国随一のモダン・ボクシング有識者であったことは間違いないのですが、「組織の長」としての才能と、「興行師」としての才能が完全に欠落しており、その後も似たような失敗を繰り返しては、興行を取り仕切るヤクザに命を狙われる、なんてことがよく起きていました。
そんな時期、渡辺のそうした至らざる部分を金銭的にも権力的にも補い、昭和の初期に「純拳」がブレイクする下地を作ったのは、まさに健治親分でした。
当然そこには、渡辺に恩を売ることでわが国ボクシングのイニシアチブを取る、という「ヤクザ」「興行師」としての打算もありましたが、健治親分には「日本のボクシングは、自分が動かないとどうにもならない」という、いい意味での自負と責任感がありました。
元不良や与太者ばかりがゴロゴロしていた(渡辺はケンカのしすぎで中学校を放校。渡辺の弟子で、のちにピストン堀口を連れて渡辺のもとを飛び出した岡本不二も有名な不良だった)黎明期のわが国ボクシング界が、曲がりなりにもある程度の統制を保てていたのは、健治親分という表・裏双方にまたがる社会の「権力者」いたからであり、この頃から昭和初期にかけてボクシングがブレイクする要因を作ったのは、その「権力者」である健治親分が、いわゆる「ヤクザのシノギ」の域を大幅に超えた支援と投資を行っていたからに他なりません。
要するに健治親分にとっての「柔拳」は、若くて気合の入った柔道家を鍛える場所であると同時に、健治親分が本当に育てたかった「純拳」を世に認めさせるためのコヤシでした。
「純拳」が一本立ちできたとき、コヤシの使命を終えた柔拳に残されたのは、歴史の波間に埋もれることだけだった。けだし当然の結末だったといえましょう。
そして、始まりからグダグダだった講道館の「柔道の武術化」も、柔拳の衰退と歩調を合わせるように陳腐化します。
最晩年の治五郎先生は、日本へのオリンピック招致事業に奔走中。高齢にムチうち、海路・鉄路で世界を飛び回る治五郎先生には、「柔道の武術化」なんかに構っているヒマはなくなっていました。
そして昭和13(1938)年の治五郎先生死去により、「柔道の武術化」研究は完全に放棄され、以後柔道は「試合に勝つ!ための柔術」という、ある意味創立当時の基本理念(;^ω^)にめでたく立ち戻りました。
健治親分は純拳へ、治五郎先生は黄泉の世界へ。
「柔道の武術化」を夢見た2人がどこかに行ってしまったそのとき、「柔道の武術化」はすべての道が完全に閉ざされ、柔道は本来のあるべき姿である「ルールがよく整備されたジャケッティッド・レスリング」に戻りました。
治五郎先生が「柔道の武術化」を叫び始めた理由を、様々な史料をもとにいろいろ考察しましたが…おそらく治五郎先生は、当時最強の抵抗勢力だった高専柔道がどんどん勃興していくなかで、これまで講道館柔道の成立過程で(政治力で)捻りつぶし、叩き潰したはずの「古い柔術」の亡霊を見たのではないかと思うのです。
「立ち技偏重の柔術」である講道館柔道はそもそも、古い柔術の否定で勢力を伸ばしてきました。
しかし、治五郎先生に対する最大の抵抗勢力・高専柔道はかつて講道館が否定し、苦汁をなめさせられた寝技で競技を成立させており、しかも講道館柔道より大人気!
治五郎先生が「叩き潰したはずの柔術が、違う形で帰ってきた…」とイヤな気持ちになったことは、想像に難くありません。
治五郎先生が高専柔道を否定するには、高専柔道にないもの…当て身と立ち関節技を主軸とした「勝負法」に頼るしかなかった。
しかし、過去に叩き潰した古い柔術への後ろめたさと、高専柔道への恐れがないまぜになったネガティブな気持ちだけが先行した「勝負法」研究は、なんの準備も成算も、そして「何が何でも成立させる!」という覚悟もなかったため、迷走を繰り返した挙句尻すぼみして終わった…というのが、「勝負法」研究の総論といえましょう。
本連載でもお話しした、講道館の「勝負法」研究機関「古武術研究会」に所属、その後合気道研究に派遣された望月稔(養正館開祖。1907~2003)は、「勝負法」研究に関するこんな興味深い回想を残しています。
「武道教育の普及徹底に急なため、先人たちが血を流し骨を砕いて学び、一生をその練磨にささげた貴重な各流派の特質がほとんど失われかかっていたのが大正末期のことである。しかもそれに最も早く気がついたのが、なんと武術を体育競技的武道にしてしまった張本人である嘉納治五郎先生と高野佐三郎先生という二大先生であった。」
治五郎先生が柔道をいかに無造作にスポーツ化してしまったか、そして治五郎先生が一時提唱していた「古い講道館の稽古こそが、勝負法だ!」という発言が如何にデタラメだったかを示す、貴重な証言といえましょう。
以下、エピローグです。
健治親分のシノギを越えた「真の最強を求める」動きは神戸柔拳滅亡後も続いていました。
わが国に初めて「実戦空手」を見せつけた空手界のレジェンド・本部朝基先生はある座談会において、「飛び入り」が主流だった柔拳興行に参加した際、ボクサーを一撃の下に破り去ったことで「ナントカという親分に招かれ、空手談義をして、非常な歓待を受けた」という証言をしています。
…個人的にはその親分が健治親分であったと信じたい!ですね。
名門一族からドロップアウトしつつも、裏社会で超一流の大物となり、シノギを越えた「格闘技愛」を発揮し続け、さらにいえば、講道館の何百倍もの熱意とお金を投入して「柔道の武術化」を推進した健治親分は、もっと評価されるべき傑物であるといえましょう。
【参考文献】
〔書籍〕
・「実録!柔道対拳闘 殴るか、投げるか」池本淳一 BABジャパン
・「昭和の不思議101 2023年秋の男祭号」内「元祖総合格闘技 柔拳を仕掛けた嘉納健治 すべてはこの侠から始まった」木本玲一 大洋図書
・「有効の活動」7巻4号・5号 柔道会本部編(大正10年)
・「拳闘五十年」郡司信夫 時事新報社(昭和30年)
・「拳闘読本 一問一答」川嶋清 木村書房(昭和7年)
・「技法日本伝柔術 黒帯合気道」望月稔(昭和53年)
・「日本プロレス風雲録」小島貞二 ベースボールマガジン社(昭和32年)
・「愚談」水島爾保布 厚生閣(大正12年)
・「武道学研究」6巻1号 日本武道学会
・「嘉納健治の「柔拳興行」と日本ボクシング史におけるその位置づけ」 池本 淳一(論文)
〔Webページ〕
「「山口組みたいなもん」「灘中の運動会で実弾撃ってた」日本にボクシングを広めた“大物ヤクザ”「ピス健」とは?」
「「打撃なし“骨抜き”柔道で警察官は仕事ができるか!」100年前に“柔道vsボクシング”を企画したヤクザの思惑」
いずれもNumber Web掲載 細田昌志著
安納雲さまにおかれましては、戦後初の山口県知事・田中龍夫伝や軍神・橘周太中佐伝など、1回こっきりの記述を覚えていて頂き、大変うれしく思います。
ワタクシの偉人伝は、いにしえの偉人伝番組「知ってるつもり?」…ではなく、アウトローな人物を取り上げ続けた「驚きももの木20世紀」に強い影響を受けていますので(;^ω^)、今後もそんなのが続きます。もしよろしければ、お付き合いお願いいたしますm(__)m
老骨武道オヤジ様、ワタクシ1年半のブランクを経て、ふたたび自身の武を何かの役に立てられる職場に復帰し…とはいえ、今は職場が「世代交代」を求めていますので、ワタクシは無理のない範囲で、若い人の活動を見守っていこうと思っています。
表世界の大物がネガティブな心をもち
裏世界の大物が情熱に溢れていたとは
その行いと関わる人の動きが
現代につながる流れ、またまた楽しく
読ませて頂きました。
親分のされた事、主さまの解き明かし
心の中に喜びをもって何かにあたって
おられるのではと愚考します。
山口龍夫、橘中佐、などなど誇らしく
思える先人たちの貴重なお話
引き続きお待ちいたしております。
オヤジさまを筆頭にこちらに集まる
ご意見も勉強させて頂いてます。
朝から欲望が垂れ流しの点は
ご容赦ください。m(_ _)m