その3でございます。かなり長いので、忙しい方は読まないほうがいいかもしれません(;^ω^)。
お読みになっている奇特なあなた!あと2回の辛抱でございますよ!
前回の末尾で「空手の形というのはものをきちんと知った師匠に師事して各挙動の意味を口伝とともに習い、また、その変化(=応用技)についても、口伝を受けないと全くわけがわからなくなる性質を持つもの」というお話をしましたが、本土で空手が普及していく過程と、その大切な「口伝」が失われてゆく過程は完全に歩を一にします。
このあたりを仔細に見てみましょう。
まず、空手が本土において広まる過程で、稽古の形態が変質します。
かつての沖縄における「師弟マンツーマン体制」の時代には、師匠宅の庭などで形の反復と巻藁突き、モノがわかるようになれば二人一組の形の分解や変手、ということをやっていた稽古でした。
しかし内地に渡った空手には、内地の武道並みの「板張りの道場において、1人の先生がたくさんの弟子に教える」という教授形式を求められました。
その結果、それまで存在しなかった「基本→移動稽古→形→約束組手→自由組手」という、現在も行われている稽古形態が誕生します。
これは当時の沖縄空手界の大物・屋部憲通先生が軍隊における体操や教練方式などを参考にして作った、と言われていますが、ワタクシ個人的には、それ以外にも剣道の稽古のエッセンスを相当取り込んで作られたのではないか、と思っています。それはさておき。
この内地式稽古メニューは「1人の先生が多くの手下を一斉に教える」という「一度にたくさんの人間が同じことを習える」という効率の点においては格段に向上したものの、逆に形の価値を「唐手表芸」(糸洲十訓より)の座から、「いくつかある稽古メニューのひとつ」にまで格下げさせてしまいます。まあ、当然といえば当然の話ですが。
形稽古の質が落ちれば当然、形稽古のキモである「数多く練習し一々手数の旨聞き届け是は如何なる場合に用ふべきかを確定」すること、数多い口伝を師匠から「聞き届け」る機会は減殺されていきます。
ひとことでいえば、内地式の稽古形態をとった瞬間から空手は「達人・名人を作り出す伝統芸」から、「スポーツ・体育」への変質が始まったたわけです。
これと並行して「内地流の自由組手が始まった」ことが、更に形の価値を下げていきます。
今では噴飯モノの話ですが、かつて格闘界の常識として「沖縄ローカル武術時代の空手には組手がなく、カキダミシ(掛け試し)というストリートファイトで腕を磨くしかなかった」というものがありました。
これは無知・不勉強に起因する完全な誤解で、空手は沖縄ローカル時代から形の分解・変化技(沖縄では「変手ヒンディー)と呼称)・組手が存在していました。「カキダミシ(掛け試し)」という名称の稽古方法は確かに存在しましたが、これは同門同士が一定の合意事項の下、師匠の面前で行うといった態のものであり、「腕を磨くためのストリートファイト」ではない。そっちのほうは「イリクミ」と呼称され、「カキダミシ」とは明確に分けられていました。
これについては多数の資料が発掘されており、また、良質な検証本も多数出ているので、詳しくはそちらを参考にしてください。
ただ、沖縄のものだけであった時代の空手における「組手」というのはあくまでも形の分解の発展形のようなもので、現在のようなやれ寸止めだ、グローブだ、フルコンだといったいわゆる「ルールありきのゲーム形式」とは全く違い、形の練度と、自らの拳足の鍛錬度合いを確認するという目的の下成り立つまったくの別物だ、という点だけはきっちりと抑えておいてください。
さて、空手の内地伝承後、真っ先に「自由組手をやれ、ルールのある試合をやれ」とうるさく騒ぎ立てたのは、東京帝大唐手研究会の三木二三郎。
三木は東京帝大に入るだけあってアタマはいいのですが、空手は帝大に入って数年稽古した程度であり、その腕は実に未熟でした。
しかし、その無駄に明晰な頭脳は、帝大唐手研究会師範にして、内地に空手を伝えた恩人でもある師匠・富名腰(当時の姓。のちもとの「船越」に戻す)義珍の行う沖縄古伝の稽古を「型稽古ばかりを繰り返す、古臭く、因循なもの」と決めつけます。
頭の良すぎる人はえてして、自分の脳みそを絶対の正義であると恃むこと甚く、それゆえに越えてはいけない一線を容易に超えてしまう傾向がありますが、三木はまさにその典型といえる人物でした。
富名腰師範の稽古の在り方に青臭い疑問を抱いた三木は、昭和4(1929)年5月、わざわざ高い金を払って沖縄に出向きます。
三木は沖縄に於いて、超がつくビッグネームの師範(屋部憲通、大城朝恕、喜屋武朝徳、宮城長順、屋比久猛伝)を訪ね歩き、「師匠のやっていることは本当に沖縄空手のスタンダードなのか」といった、実に失礼なことを聞いて回ります。
そのやる気だけは壮とすべきでしょうが、空手に関しては「浅学菲才」を地で行くようなボンクラ大学生が、レジェンドたちの深い言葉を心の底から理解できたとは到底思えませんし、だいたい「師匠のやっていることが正しいのかどうか」なんて僭越極まりない質問を、手の蘊奥を極めたレジェンド師範たち(しかも富名腰師範の大親友ばかり)がまともに答えたとは思えない。
おそらく、キチガイをあやすような答えしかしてあげられなかったことでしょう。
(なお三木は、屋比久猛伝先生の前でパッサイとナイハンチを披露しましたが、「あなたの形は唐手ではなく踊りだ」と酷評されています)
しかし、口だけは達者な三木、沖縄から戻ってわずか半年後「拳法概説」なる本を出版。驚くべきことに三木はこの本の中で、宮下甚八郎というペンネームを使い、唐手は「琉球と客観的情勢を異にする点より自然異ならざるを得ない」などと書きました。要するに富名腰師範が形を用いて教える突き・蹴り・受けといった動作は古臭くて因循であり、俺たちの考えている自由組手のある唐手のほうが実戦的だ、と言っているわけです。井の中のカワズぶり、ここに極まれり…です。
これにはさすがの富名腰師範もあきれ果て、「こんなバカ学生の面倒は見ていられない」と同年12月、帝大唐手研究会師範の座を辞しますが、三木はこれを「オレは因循な爺さんを論破した」と勘違い。自分の思う「試合形式の組手」を進めていきます。
そんな三木の提唱した組手は防具組手。剣道の面・胴・小手に脛当てとファールカップをプラスした防具を装着し、面・水月・釣鐘(=金的)の3部位を一本のポイントとするというものでした。
ただ、金的をポイント対象とした危険なルールであったことや、防具の作りが悪くて面を殴った人間が次々に手を負傷した、なんてことが相次いだため、この防具組手はわずかな期間ブームになっただけで沙汰止みとなります。しかし、「空手のスポーツ化・競技化」はこれをきっかけに、戦後大きく燃え上がっていきます。
現在全空連が採用している「寸止めルール」は、昭和27年に早大空手部が創始、30年に拓大空手部がルールを整備・明文化、32年に行われた第1回全日本学生空手道選手権大会開始で供用開始されたと言われています。
沖縄の多くの空手家がこの試合形式を目にしたのは、昭和48年、沖縄の本土復帰を記念して行われた海邦国体のときと言われていますが、「沖縄伝統空手『手TIY』の変容」(野原耕栄著 球陽出版)によりますと、こんな様子であったそうです。
「初めて(寸止め)組み手の試合を見た沖縄の空手家は全員が唖然とした。失望と同時に笑いも起こった。」
「全く意味不明な空手であった。このような空手の試合を見て沖縄の空手家は驚いた。これが空手か、と多くの沖縄の空手家はあっけにとられたのだ。昔の沖縄の「手」(TIY)の組手であった「カキダミシ」(実戦空手)とは遠くかけ離れたものであった。」
ここでは「空手が試合形式を採ることががいいか、悪いか」という議論はひとまず措きます。
ただ、本稿の目的である「形がなぜ変質したか」ということを考えた場合、「試合というものの登場によって『空手のありかた』というものの質自体が変わってしまい、結果、形から学ぶものの重要性が大きく落ちた」ということについて、試合の勃興で発生した弊害を看過することはできません。
空手が沖縄だけのものだった時代の空手は「実戦で確実に勝つ達人を生み出すもの」であり、稽古のメインは、そのエッセンスが詰まった形をみっちりやること。組手は師匠の面前で行い、「一々手数の旨聞き届け」ながら、勝敗をある程度度外視して行う、あくまでも副次的な稽古でした。
ところが「ルール優先、試合に勝つことだけがすべて」という話になった瞬間、すべての価値観が変わってきます。
「ルール優先」の中で重要となるのは、単純に「ポイントを取れる突き、取れる蹴り」をパターン化し、それを反復して先鋭化させることだけです。巌を砕くような正拳も、殺意を明らかにした暴漢を制圧せしめる必殺の技も必要ない。必要なのはどんなバカで未熟な人間にもすぐわかる「コンビネーション」「パターン練習」「瞬発力」「スタミナ」…😞。
前掲著で「初めて(寸止め)組み手の試合を見た沖縄の空手家」が「全員が唖然とした」のは、無理もありません。
そんなことが延々と続いた結果、形は「挙動の順番は覚えているが、何をどうやって使うのかわからない、昇段審査のときだけやるもの」に変質していったわけです。
今まで述べてきた内容から勘案しますと、内地式の道場稽古を続けても、現行ルールの組手(寸止め、フルコンすべて含む)でいくら強くなっても、「競技」としての形がうまくなっても、それによって形の本質が見えることは未来永劫絶対にない、ということははっきり言いきれます。
と、ここまで読んで「なんだ、周防平民珍山は、ルールを整備したがゆえに発達した組手テクニックの向上をバカにし、なおかつ、現代空手の在り方をバカにするのか!」と思う方もいるかもしれませんが、ワタクシは上記でいう「内地式の空手」により、空手というものの門戸が大きく開き、敷居が下がり、「スポーツ・体育」としての発展したことをまるで意味のないこととは思っていません。だいたいワタクシだって、そっちの門から空手に入ってきたんですから(;^ω^)。むしろ大いに意義があることだったと思います。
しかし、身体操作の極致であり、攻防技術の精華であり、道場稽古や組手の勝ち負けの「その先」を示してくれる形をほっぽらかしていいのかというと、それには異論を唱えます。
形の本質をないがしろにすること、わからないままにしておくことは、空手を生涯武道と考えた場合「その先」を指す道しるべをヘシ折ることであり、空手を実戦に供するための「牙」を保持できなくなる、ということでもあります。
これは憂慮すべきことなんじゃないでしょうか…。
その4では、やっとサバキっぽいお話!「芦原空手の形の有効性と、なぜ伝統形と同じ扱いを受けるようになったか」を見てみたいと思います。
お読みになっている奇特なあなた!あと2回の辛抱でございますよ!
前回の末尾で「空手の形というのはものをきちんと知った師匠に師事して各挙動の意味を口伝とともに習い、また、その変化(=応用技)についても、口伝を受けないと全くわけがわからなくなる性質を持つもの」というお話をしましたが、本土で空手が普及していく過程と、その大切な「口伝」が失われてゆく過程は完全に歩を一にします。
このあたりを仔細に見てみましょう。
まず、空手が本土において広まる過程で、稽古の形態が変質します。
かつての沖縄における「師弟マンツーマン体制」の時代には、師匠宅の庭などで形の反復と巻藁突き、モノがわかるようになれば二人一組の形の分解や変手、ということをやっていた稽古でした。
しかし内地に渡った空手には、内地の武道並みの「板張りの道場において、1人の先生がたくさんの弟子に教える」という教授形式を求められました。
その結果、それまで存在しなかった「基本→移動稽古→形→約束組手→自由組手」という、現在も行われている稽古形態が誕生します。
これは当時の沖縄空手界の大物・屋部憲通先生が軍隊における体操や教練方式などを参考にして作った、と言われていますが、ワタクシ個人的には、それ以外にも剣道の稽古のエッセンスを相当取り込んで作られたのではないか、と思っています。それはさておき。
この内地式稽古メニューは「1人の先生が多くの手下を一斉に教える」という「一度にたくさんの人間が同じことを習える」という効率の点においては格段に向上したものの、逆に形の価値を「唐手表芸」(糸洲十訓より)の座から、「いくつかある稽古メニューのひとつ」にまで格下げさせてしまいます。まあ、当然といえば当然の話ですが。
形稽古の質が落ちれば当然、形稽古のキモである「数多く練習し一々手数の旨聞き届け是は如何なる場合に用ふべきかを確定」すること、数多い口伝を師匠から「聞き届け」る機会は減殺されていきます。
ひとことでいえば、内地式の稽古形態をとった瞬間から空手は「達人・名人を作り出す伝統芸」から、「スポーツ・体育」への変質が始まったたわけです。
これと並行して「内地流の自由組手が始まった」ことが、更に形の価値を下げていきます。
今では噴飯モノの話ですが、かつて格闘界の常識として「沖縄ローカル武術時代の空手には組手がなく、カキダミシ(掛け試し)というストリートファイトで腕を磨くしかなかった」というものがありました。
これは無知・不勉強に起因する完全な誤解で、空手は沖縄ローカル時代から形の分解・変化技(沖縄では「変手ヒンディー)と呼称)・組手が存在していました。「カキダミシ(掛け試し)」という名称の稽古方法は確かに存在しましたが、これは同門同士が一定の合意事項の下、師匠の面前で行うといった態のものであり、「腕を磨くためのストリートファイト」ではない。そっちのほうは「イリクミ」と呼称され、「カキダミシ」とは明確に分けられていました。
これについては多数の資料が発掘されており、また、良質な検証本も多数出ているので、詳しくはそちらを参考にしてください。
ただ、沖縄のものだけであった時代の空手における「組手」というのはあくまでも形の分解の発展形のようなもので、現在のようなやれ寸止めだ、グローブだ、フルコンだといったいわゆる「ルールありきのゲーム形式」とは全く違い、形の練度と、自らの拳足の鍛錬度合いを確認するという目的の下成り立つまったくの別物だ、という点だけはきっちりと抑えておいてください。
さて、空手の内地伝承後、真っ先に「自由組手をやれ、ルールのある試合をやれ」とうるさく騒ぎ立てたのは、東京帝大唐手研究会の三木二三郎。
三木は東京帝大に入るだけあってアタマはいいのですが、空手は帝大に入って数年稽古した程度であり、その腕は実に未熟でした。
しかし、その無駄に明晰な頭脳は、帝大唐手研究会師範にして、内地に空手を伝えた恩人でもある師匠・富名腰(当時の姓。のちもとの「船越」に戻す)義珍の行う沖縄古伝の稽古を「型稽古ばかりを繰り返す、古臭く、因循なもの」と決めつけます。
頭の良すぎる人はえてして、自分の脳みそを絶対の正義であると恃むこと甚く、それゆえに越えてはいけない一線を容易に超えてしまう傾向がありますが、三木はまさにその典型といえる人物でした。
富名腰師範の稽古の在り方に青臭い疑問を抱いた三木は、昭和4(1929)年5月、わざわざ高い金を払って沖縄に出向きます。
三木は沖縄に於いて、超がつくビッグネームの師範(屋部憲通、大城朝恕、喜屋武朝徳、宮城長順、屋比久猛伝)を訪ね歩き、「師匠のやっていることは本当に沖縄空手のスタンダードなのか」といった、実に失礼なことを聞いて回ります。
そのやる気だけは壮とすべきでしょうが、空手に関しては「浅学菲才」を地で行くようなボンクラ大学生が、レジェンドたちの深い言葉を心の底から理解できたとは到底思えませんし、だいたい「師匠のやっていることが正しいのかどうか」なんて僭越極まりない質問を、手の蘊奥を極めたレジェンド師範たち(しかも富名腰師範の大親友ばかり)がまともに答えたとは思えない。
おそらく、キチガイをあやすような答えしかしてあげられなかったことでしょう。
(なお三木は、屋比久猛伝先生の前でパッサイとナイハンチを披露しましたが、「あなたの形は唐手ではなく踊りだ」と酷評されています)
しかし、口だけは達者な三木、沖縄から戻ってわずか半年後「拳法概説」なる本を出版。驚くべきことに三木はこの本の中で、宮下甚八郎というペンネームを使い、唐手は「琉球と客観的情勢を異にする点より自然異ならざるを得ない」などと書きました。要するに富名腰師範が形を用いて教える突き・蹴り・受けといった動作は古臭くて因循であり、俺たちの考えている自由組手のある唐手のほうが実戦的だ、と言っているわけです。井の中のカワズぶり、ここに極まれり…です。
これにはさすがの富名腰師範もあきれ果て、「こんなバカ学生の面倒は見ていられない」と同年12月、帝大唐手研究会師範の座を辞しますが、三木はこれを「オレは因循な爺さんを論破した」と勘違い。自分の思う「試合形式の組手」を進めていきます。
そんな三木の提唱した組手は防具組手。剣道の面・胴・小手に脛当てとファールカップをプラスした防具を装着し、面・水月・釣鐘(=金的)の3部位を一本のポイントとするというものでした。
ただ、金的をポイント対象とした危険なルールであったことや、防具の作りが悪くて面を殴った人間が次々に手を負傷した、なんてことが相次いだため、この防具組手はわずかな期間ブームになっただけで沙汰止みとなります。しかし、「空手のスポーツ化・競技化」はこれをきっかけに、戦後大きく燃え上がっていきます。
現在全空連が採用している「寸止めルール」は、昭和27年に早大空手部が創始、30年に拓大空手部がルールを整備・明文化、32年に行われた第1回全日本学生空手道選手権大会開始で供用開始されたと言われています。
沖縄の多くの空手家がこの試合形式を目にしたのは、昭和48年、沖縄の本土復帰を記念して行われた海邦国体のときと言われていますが、「沖縄伝統空手『手TIY』の変容」(野原耕栄著 球陽出版)によりますと、こんな様子であったそうです。
「初めて(寸止め)組み手の試合を見た沖縄の空手家は全員が唖然とした。失望と同時に笑いも起こった。」
「全く意味不明な空手であった。このような空手の試合を見て沖縄の空手家は驚いた。これが空手か、と多くの沖縄の空手家はあっけにとられたのだ。昔の沖縄の「手」(TIY)の組手であった「カキダミシ」(実戦空手)とは遠くかけ離れたものであった。」
ここでは「空手が試合形式を採ることががいいか、悪いか」という議論はひとまず措きます。
ただ、本稿の目的である「形がなぜ変質したか」ということを考えた場合、「試合というものの登場によって『空手のありかた』というものの質自体が変わってしまい、結果、形から学ぶものの重要性が大きく落ちた」ということについて、試合の勃興で発生した弊害を看過することはできません。
空手が沖縄だけのものだった時代の空手は「実戦で確実に勝つ達人を生み出すもの」であり、稽古のメインは、そのエッセンスが詰まった形をみっちりやること。組手は師匠の面前で行い、「一々手数の旨聞き届け」ながら、勝敗をある程度度外視して行う、あくまでも副次的な稽古でした。
ところが「ルール優先、試合に勝つことだけがすべて」という話になった瞬間、すべての価値観が変わってきます。
「ルール優先」の中で重要となるのは、単純に「ポイントを取れる突き、取れる蹴り」をパターン化し、それを反復して先鋭化させることだけです。巌を砕くような正拳も、殺意を明らかにした暴漢を制圧せしめる必殺の技も必要ない。必要なのはどんなバカで未熟な人間にもすぐわかる「コンビネーション」「パターン練習」「瞬発力」「スタミナ」…😞。
前掲著で「初めて(寸止め)組み手の試合を見た沖縄の空手家」が「全員が唖然とした」のは、無理もありません。
そんなことが延々と続いた結果、形は「挙動の順番は覚えているが、何をどうやって使うのかわからない、昇段審査のときだけやるもの」に変質していったわけです。
今まで述べてきた内容から勘案しますと、内地式の道場稽古を続けても、現行ルールの組手(寸止め、フルコンすべて含む)でいくら強くなっても、「競技」としての形がうまくなっても、それによって形の本質が見えることは未来永劫絶対にない、ということははっきり言いきれます。
と、ここまで読んで「なんだ、周防平民珍山は、ルールを整備したがゆえに発達した組手テクニックの向上をバカにし、なおかつ、現代空手の在り方をバカにするのか!」と思う方もいるかもしれませんが、ワタクシは上記でいう「内地式の空手」により、空手というものの門戸が大きく開き、敷居が下がり、「スポーツ・体育」としての発展したことをまるで意味のないこととは思っていません。だいたいワタクシだって、そっちの門から空手に入ってきたんですから(;^ω^)。むしろ大いに意義があることだったと思います。
しかし、身体操作の極致であり、攻防技術の精華であり、道場稽古や組手の勝ち負けの「その先」を示してくれる形をほっぽらかしていいのかというと、それには異論を唱えます。
形の本質をないがしろにすること、わからないままにしておくことは、空手を生涯武道と考えた場合「その先」を指す道しるべをヘシ折ることであり、空手を実戦に供するための「牙」を保持できなくなる、ということでもあります。
これは憂慮すべきことなんじゃないでしょうか…。
その4では、やっとサバキっぽいお話!「芦原空手の形の有効性と、なぜ伝統形と同じ扱いを受けるようになったか」を見てみたいと思います。
古い文献(非常に読みづらい言い回しの)を読み、それをご自分なりの文に起こす作業は本当に大変であろうと想像がつきます。
珍山様の研究熱心さ、老骨武道オヤジ様と同様に私も感服いたします。
…大昔の空手界にも頭でっかちが存在したんですねえ^^;
形に特化した空手、組手に特化した空手…空手って何なんだ?との思いが新たになりました。
奇しくも本日、BSフジにて極真松井派の試合とNHK教育(Eテレ)にて伝統派の試合の放映があるので、双方を見比べながら「その4」の完成を楽しみにしております。
老骨武道オヤジさま、貴重な所見と経験談、そして過分なお褒めの言葉、大変ありがとうございますm(__)m
三木二三郎、その名は知っていましたが、本稿を書くにあたって調べまして…いや、本当にこの人は「勉強のできるバカ」です。
エリートはいらん功名心を持たず、必要な時に必要な手を差し伸べるだけでいいのですが…なまじアタマがいいだけに余計なことをしがち。これは本当に困ったものです。
四十路メタラーさま、過分なお褒めの言葉ありがとうございますm(__)m。
三木のやっていることがバカなのは、戦前の沖縄空手レジェンド・仲宗根源和先生(明治28~昭和53年)の言葉にも表れておりますので、ちょっとご紹介いたします(原文は旧仮名遣いです)
「形に対して或人(あるひと)は斯(こ)う考える。
『型は攻防の術の寄せ集めである。だから型の持つ意味を分解研究してそれによって組手を作り、組手を十分やれば、型はどうでもいい』(中略)
然(しか)しこれは空手道の奥の院まで行かない一知半解の物の見方であり、考え方である。(中略)
故に、会計係のような態度で空手の型を分解して仕分けするならば、攻防差し引きをして零、何も残らない。文字通り空っぽになってしまう。」
…教えていただきましたので、松井極真の世界大会見ました(;^_^A。感想は…まあ…アレですね。