本論とはまったく関係ないことですが、この投稿をもって、投稿数が300本目となりました。自分でもビックリ!ですが、何事もなかったかのように「サバキ、ふしぎ発見!」をやりますよ(;^_^A。
そもそも論ですが、まず「形って何だ?」という点について考えます。
非常に数少ない、空手形考察本の白眉「隠されていた空手」(桧垣源之助著・CHAMP)では、形の第一の目的は「攻防技術の記憶」としております。
理由として、柔道、剣道、その祖先たる各種古流柔術や各種古流剣術など、空手以外の日本伝武道のほとんどが「形」を持ち、修練の骨子として据えていることを挙げていますが、ワタクシもこの意見については、全面的に賛同いたします。
ただ、内地の武道と、沖縄の「手(ティー)」における形の存在意義は、そこから少し趣を異にします。
以下、その「異」な点を列挙します。
【その1 形に込められた「目的」は1つ?2つ?】
明治41年に起草された空手の聖典「唐手心得十ケ條」(いわゆる糸洲十訓。以後糸洲十訓と呼称)の7番目にはこうあります。
「唐手表芸は是れは体を養ふに適当するか又用を養ふに適当するかを予て確定して練習すべき事」
(超意訳…「空手の形は、空手に特化した身体をつくるのためなのか、実戦の役に立てるのかを確定して練習しなきゃ意味ないYO!」)
つまり空手の形は、第一意義である「攻防技術の記憶」もさることながら「体を養ふ」、つまり空手に特化した身体をつくり、空手に特化した身体操作の習得という第二の意義があるわけです。
これは、二人一組の組形がほとんどであり、従って「攻防技術の記憶」としての意義しか持たない内地の形とはずいぶん趣を異にします。
「空手の形には身体操作向上・身体鍛錬の意味がある」ことの原因ですが、これは空手の動作のほとんどが「解剖学的には極めて不自然、力学的には非常に高尚」という特色を持つことに起因しているからだと思いますが、その点は本稿で語るべき内容でないため、詳細は略します。
【その2 伝書の有無と口伝】
内地武道の形と空手の形との間における相違点その2は「伝書の有無と口伝の重要性」にあります。
形の内容を理解し、上達を促すためには口伝が必要です。
口伝は技を不心得者や敵対する人間に盗まれないための鍵の役割を果たしており、武技の秘匿性を保つため必要不可欠なものでした。
内地武道においても当然、たくさんの口伝が存在しますが、それと並行してたくさんの伝書が存在しています。
口伝だけでは伝言ゲームのようになっていき、最終的に誤伝・失伝してしまう危険性があります。それを防ぐためにはやはり、文書や絵で技術を残す必要性があったのでしょう。
ところが空手の形には、口伝以外の解説が永く存在しませんでした。
いちおう那覇の手(のちに剛柔流に発展したといわれるもの)には「武備誌」なる伝書があると言いますが、これは那覇の手のモトになった白鶴拳の伝書ではあっても、純然たる那覇の手の伝書ではなく、従って「武備誌」を那覇の手の伝書というのは、かなり無理があります。
ではなぜ、空手には口伝以外の教授法がなかったのか。
原因は簡単で、「作る意味がなかった」からです。
理由その1は、薩摩の禁武政策によって、大々的に道場を構えて組織的に教えることが表立って禁止されていたから。
そんな時代に空手の伝書なんか残せば「私は禁武政策を冒しています」ということを公言するようなものですからね(;^_^A。
理由その2は、空手の技の複雑性ゆえ。
内地武道は、日本剣道型などを見て頂ければわかるように「相手の一技に対し、カウンターも一太刀」あるいは「一投げ」みたいな感じであり、従って文字に起こしやすい。しかし空手は、相手の一技に対する返しが一技ではなく、いくつかの動作が一つにまとまった挙動となっているため、伝書に記載するには労が大きすぎ、これが伝書作成をためらわせたとも考えられます。
そして理由その3。コイツが一番重要です。
当時の空手の教授形態に対し、「伝書」の存在自体がそもそもそぐわないものだったから。
理由その3については、ちょっと詳細な説明が必要でしょう。
空手は明治時代の終わりころまで、師匠と弟子がほぼマンツーマンの状態で、師匠から形の意味を教えてもらうという教授体系がずっと続いていました。
なぜこの体系が永く続いたかといいますと、当時の空手が目指した究極の目的「達人を作る」を達成するためには、それが最も効率の良い教授法だったからです。
先述の糸洲十訓の6番目を見てみましょう。
「唐手表芸は数多く練習し一々手数の旨聞き届け是は如何なる場合に用ふべきかを確定して練習すべし且入り受けはずし取手の法有之是口伝多し」
「手数」とは形における各挙動、「取手(トウィティー)」とは空手独特の投げ・崩し手法を指します。つまり、「形の各挙動には用法がある。また、その変化は口伝が多いよ」という意味と理解すればよいでしょう。
つまり空手の蘊奥を窮めるには、形の反復と、師匠の口伝が必要であり、それを融合させた稽古をするには、「師匠とマンツーマン」、あるいはそれに近い稽古体制が最良であったわけで、その体制が保たれている間は、伝書なんてものは作る必要性が全くなかったのです。
空手が沖縄ローカルの武道であり、世の中が比較的のどかであった時代はこうした教授方法により、形が持つ意味を師匠からしっかり学べたわけですが、時代の流れがそうした教授法を否定するようになり、形の持つ意味や形の重要性もどんどん変質していきます。
次回はそのあたりについてお話しします。
そもそも論ですが、まず「形って何だ?」という点について考えます。
非常に数少ない、空手形考察本の白眉「隠されていた空手」(桧垣源之助著・CHAMP)では、形の第一の目的は「攻防技術の記憶」としております。
理由として、柔道、剣道、その祖先たる各種古流柔術や各種古流剣術など、空手以外の日本伝武道のほとんどが「形」を持ち、修練の骨子として据えていることを挙げていますが、ワタクシもこの意見については、全面的に賛同いたします。
ただ、内地の武道と、沖縄の「手(ティー)」における形の存在意義は、そこから少し趣を異にします。
以下、その「異」な点を列挙します。
【その1 形に込められた「目的」は1つ?2つ?】
明治41年に起草された空手の聖典「唐手心得十ケ條」(いわゆる糸洲十訓。以後糸洲十訓と呼称)の7番目にはこうあります。
「唐手表芸は是れは体を養ふに適当するか又用を養ふに適当するかを予て確定して練習すべき事」
(超意訳…「空手の形は、空手に特化した身体をつくるのためなのか、実戦の役に立てるのかを確定して練習しなきゃ意味ないYO!」)
つまり空手の形は、第一意義である「攻防技術の記憶」もさることながら「体を養ふ」、つまり空手に特化した身体をつくり、空手に特化した身体操作の習得という第二の意義があるわけです。
これは、二人一組の組形がほとんどであり、従って「攻防技術の記憶」としての意義しか持たない内地の形とはずいぶん趣を異にします。
「空手の形には身体操作向上・身体鍛錬の意味がある」ことの原因ですが、これは空手の動作のほとんどが「解剖学的には極めて不自然、力学的には非常に高尚」という特色を持つことに起因しているからだと思いますが、その点は本稿で語るべき内容でないため、詳細は略します。
【その2 伝書の有無と口伝】
内地武道の形と空手の形との間における相違点その2は「伝書の有無と口伝の重要性」にあります。
形の内容を理解し、上達を促すためには口伝が必要です。
口伝は技を不心得者や敵対する人間に盗まれないための鍵の役割を果たしており、武技の秘匿性を保つため必要不可欠なものでした。
内地武道においても当然、たくさんの口伝が存在しますが、それと並行してたくさんの伝書が存在しています。
口伝だけでは伝言ゲームのようになっていき、最終的に誤伝・失伝してしまう危険性があります。それを防ぐためにはやはり、文書や絵で技術を残す必要性があったのでしょう。
ところが空手の形には、口伝以外の解説が永く存在しませんでした。
いちおう那覇の手(のちに剛柔流に発展したといわれるもの)には「武備誌」なる伝書があると言いますが、これは那覇の手のモトになった白鶴拳の伝書ではあっても、純然たる那覇の手の伝書ではなく、従って「武備誌」を那覇の手の伝書というのは、かなり無理があります。
ではなぜ、空手には口伝以外の教授法がなかったのか。
原因は簡単で、「作る意味がなかった」からです。
理由その1は、薩摩の禁武政策によって、大々的に道場を構えて組織的に教えることが表立って禁止されていたから。
そんな時代に空手の伝書なんか残せば「私は禁武政策を冒しています」ということを公言するようなものですからね(;^_^A。
理由その2は、空手の技の複雑性ゆえ。
内地武道は、日本剣道型などを見て頂ければわかるように「相手の一技に対し、カウンターも一太刀」あるいは「一投げ」みたいな感じであり、従って文字に起こしやすい。しかし空手は、相手の一技に対する返しが一技ではなく、いくつかの動作が一つにまとまった挙動となっているため、伝書に記載するには労が大きすぎ、これが伝書作成をためらわせたとも考えられます。
そして理由その3。コイツが一番重要です。
当時の空手の教授形態に対し、「伝書」の存在自体がそもそもそぐわないものだったから。
理由その3については、ちょっと詳細な説明が必要でしょう。
空手は明治時代の終わりころまで、師匠と弟子がほぼマンツーマンの状態で、師匠から形の意味を教えてもらうという教授体系がずっと続いていました。
なぜこの体系が永く続いたかといいますと、当時の空手が目指した究極の目的「達人を作る」を達成するためには、それが最も効率の良い教授法だったからです。
先述の糸洲十訓の6番目を見てみましょう。
「唐手表芸は数多く練習し一々手数の旨聞き届け是は如何なる場合に用ふべきかを確定して練習すべし且入り受けはずし取手の法有之是口伝多し」
「手数」とは形における各挙動、「取手(トウィティー)」とは空手独特の投げ・崩し手法を指します。つまり、「形の各挙動には用法がある。また、その変化は口伝が多いよ」という意味と理解すればよいでしょう。
つまり空手の蘊奥を窮めるには、形の反復と、師匠の口伝が必要であり、それを融合させた稽古をするには、「師匠とマンツーマン」、あるいはそれに近い稽古体制が最良であったわけで、その体制が保たれている間は、伝書なんてものは作る必要性が全くなかったのです。
空手が沖縄ローカルの武道であり、世の中が比較的のどかであった時代はこうした教授方法により、形が持つ意味を師匠からしっかり学べたわけですが、時代の流れがそうした教授法を否定するようになり、形の持つ意味や形の重要性もどんどん変質していきます。
次回はそのあたりについてお話しします。
いにしえの沖縄では、手を教える際には習う人間を厳選し、さらに先祖の仏壇に拝礼させ(沖縄に住んで初めてわかりましたが、沖縄の仏壇は、内地の仏壇に数倍する尊崇の対象です!)…といった手続きが必要であったようで、本物の大先生はそうしたお眼鏡にかなって、さらに厳しい修行にいそしまれたということで、本当に心の底から尊敬致しますm(__)m。
「天才肌に教えることが上手い方はいない」…これはまったくそのとおりで、ワタクシは「作物はワセより、オクテのほうが旨いんだ」というふうに吹聴しております(;^_^A。