集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
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サバキ、ふしぎ発見!(それはサバキの進化?退化? 試合編その1)

2019-07-12 20:35:47 | 芦原会館修行記
 「サバキ」を辞書風に定義づけるとするならば「芦原英幸先代館長が作った、芦原会館オリジナルの空手のテクニック」でしょうが、サバキはそういった陳腐な定義を超えて余りある魅力があり、好事家には特別な思いをもって受け止められているもの。そのことは、先代没後20数年を経た現在もなお、芦原会館以外の「サバキ」を名乗る道場・団体が多数存在するという事実が、何よりの証左でしょう。
 しかし、そうした「サバキ」を標榜する道場・団体の現状は「玉石混合」としか言えない、ということも、悲しいことですが事実です。
 その「石」を大きくふたつに分けますと、「サバキらしき試合をやっている集団」と、「護身に特化したサバキをやっている集団」となりますが、今回はは、前者が行っている試合と、その問題点を分析していきたいと思います。
(なお前者につき、「サバキチャレンジ」を永年開催されている円心会館は除きます(;^ω^))。

 YOUTUBEなどでは、芦原会館・円心会館などから独立した団体(まれに、総本部の言うことを聞かない支部も混じる(-_-;))が主催している「サバキルール」的な試合をいくつか確認することができます。
 しかしこれがまあ、どれもこれも、正視に堪えないほどひどいレベルです。
 突き蹴りもろくに出さず、開始の合図とともにオッサン同士がゴチャゴチャ揉み合いをやり、そこからようやっとローキックやショートパンチをチョコチョコ出し合う…審判が分ける…同じことをまたやる…1試合見ただけで「もういい!」となるレベル。それでもガマンして何試合か見ましたが、サバキとしても、空手としても、褒めるべき点を一切見つけることはできませんでした。

 こうした情けない試合を生み出す原因は、以下の3つに集約されます。
①主催者がサバキというものを誤解していること
②①から派生した誤解により、「サバキを用いる試合」というものの原理原則が曲解されていること
③まともな審判がいないこと
 ③はすぐにわかる欠点ですが、①②についてはちょっと説明が必要です。その「誤解」「曲解」とは?順を追って説明いたします。

 まずは①「サバキに対する誤解」。
 この誤解とは、一言でいえば「サバキとは掴まないと始まらないものだ、掴んで崩すもんだ、掴んで投げるもんだ」という思い込みを指します。
 「サバキ」という技術自体はすばらしいものですが、サバキのオリジナル団体である芦原会館をはじめ、サバキを標榜する各種団体の母体となる武道はあくまでも空手。磨くべきメインウェポンは突きであり、蹴りであることは論を俟ちません。
 先代はその点をよくわかっており、各種の著書で「サバキは当然空手だが、相手の身体の安全を考え、あるいは正当防衛を考えて、より安全と思われる方法で制圧しているだけ」と、投げや崩しはあくまでも稽古や護身のなかで、相手の安全などを慮って行う性質のものだと説明しております。
 ところが、サバキの表面しか見えない幾人かは、冒頭に掲げた「サバキとは掴んで投げるもんだ、掴んで崩すもんだ」という悪いマスト思考に陥っており、その考え方が、サバキの大原則である「まずはインファイトせよ!」の教訓を誤った方向に導き、結果、②を呼び込みます。

 続きまして②の説明です。
 サバキを試合形式で競うに際し、最も重要視すべき項目は、先ほどもお話しましたとおり、空手のメインウェポンである突き蹴りの有効性(ちゃんと当たる、ちゃんと効く)であるべきです。これは伝統派であろうと、防具ルールであろうと、グローブルールであろうと、フルコンであろうと、「空手」を標榜するものは、須くそうあらねばなりません。
 従って、空手の試合にあって投げ・掴み・崩しの類は、突き蹴りより優先度を下げるべきものであり、メインたる突き蹴りを押しのけてまでルールに溶かし込んでいいものではありませんし、また、「先ずは掴み・投げありき」のルールで選手を縛っていいものでもありません。

 ちょっと長くなりましたので、②をちょいと中断し、次回は「攻めのサバキ」と「受けのサバキ」は同根異種であり、そのことを理解せずしてサバキ試合なんて成り立たない、というお話をします。

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