集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
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日本レスリング黎明史≒講道館の激烈!黒歴史(その5)

2024-02-04 14:09:33 | 集成・兵隊芸白兵雑記
「その3」「その4」では、早大レスリング部と八田一朗の動静を2回に分けて見てみましたが、今回はとても気になる「講道館レスリング部」の動きの方も見てみましょう。

 八田たちのアマレス協会発会と相前後して、あの日比対抗戦で大借金を作った挙句に逃亡した庄司彦雄元コーチが夢よもう一度、と「大日本レスリング協会」を発会。講道館もほぼ同時期に「講道館レスリング部」を立ち上げます。
 「裏番長」が治五郎先生なのはわかりきっていることなのですが(;^ω^)、表向きの代表は、立教大学柔道部を創部した講道館の大幹部・田口利吉郎。 
 発会したばかりの講道館レスリング部ですが、実はこの時、アマレス協会やレスリング協会に先んじて強力な「隠し玉」をアメリカ向け派遣していました。
 それは後にロス五輪レスリング競技に「講道館代表」として出場した選手3人のうちの1人、小谷澄之(明治36(1903)~平成3(1991)年、最終段位十段)。
 ちなみに小谷澄之とはいかなる人物かと申しますと、身長162センチ・69キロ(全盛期)という小兵ながら明治神宮大会制覇、昭和4(1929)年の天覧試合には指定選士となるなど、要するに「戦前最強クラス柔道家の1人」です。

 小谷の自伝「柔道一路 海外普及に尽くした五十年」(ベースボール・マガジン社)によると、満州鉄道大連本社勤務&満鉄柔道部のエースであった小谷が、日本郵船が誇る最高級旅客船「秩父丸」に乗ってサンフランシスコ向け出港したのは、オリンピックが始まる約4か月前、3月下旬のこと。
 小谷の自伝によると、派遣理由は満鉄から「米国における体育ならびに厚生施設をはじめ、特に鉄道関係の厚生事業を見学」(前掲著より)せよという、取って付けたようなものでしたが、その本当の派遣理由はこれです。
「ロス五輪のレスリング競技に出て、メダルを取ってこい。」

 講道館のこの「密命」は、小谷に対して明言されたものではないのですが、前掲著から判明している状況証拠として
・この米国派遣は小谷だけでなく、同じく小兵の業師で、のちに小谷と共にロス五輪レスリング競技に参加した吉田四一五段も同道する予定だった。
(ビザ発給に手間取ったため小谷だけ先行。吉田は後から追いついた)
・派遣時期が五輪の数か月前、しかも講道館レスリング部発会とほぼ同時期
・渡航先が五輪開催地・ロサンゼルス
・小谷・吉田とも、渡米直後に「偶然にしては出来過ぎ」というような状況でレスリングをやるようになった(詳細は「その6」で述べます)
というものであり、はっきり言って「講道館が小谷をレスリング選手に仕立てようとしていた」ことは明白。小谷も当然そのことは分かっていたはずであり、「柔道の普及のために渡米したら、なんとなく成り行きで五輪に出るようになってしまった」と言っても、誰も信じないと思います。
 自伝において、小谷はあくまで「成り行きのまま五輪出場した」と主張していますが、後世「柔道海外普及の父」と謳われ、十段まで授与され、「柔道界の生き神様」みたいな存在となった小谷にとって、講道館自体の黒歴史である「講道館レスリング部」に所属したことも、五輪に出場して不調だったことも、すべては「封印したい過去」であったため、「全ては成り行きだったんだ」という体を保ち続けたかったんだと思います。
 閑話休題、話を講道館レスリング部の方に戻します。
 
 講道館の「日本レスリング乗っ取り計画」の骨子をお話ししますと、以下のようなものでした。
「八田の協会も庄司の協会も、所詮は部活の延長みたいなものであるうえ、何より慢性的な金欠で、海外に選手を派遣できるようなカネはない。
 そこへ行くとわが講道館は分厚い選手層と豊富な資金、広い海外ネットワークを持っている。
 五輪に先駆けて有望選手を先に外国に送り込んでレスリングに慣れさせ、八田のところの選手や庄司のところの選手よりハイレベルなレスリング選手を先に作ってしまえば、体協も八田も庄司も、その出場を認めざるを得ないだろう。
 あとはメダルさえ取ってしまえば、水が低きに流れるがごとく、日本レスリングのイニシアティブは講道館の手に落ちる。」

 これを裏付けるように、講道館は発会と同時に「五輪選手を講道館から独自に推薦する」ことを発表します。
 4月10日、講道館レスリング部長・田口利吉郎は体協理事会において、コロンビア大学に留学中の鈴木英太郎四段を推薦。しかしこのときはまだ「隠し玉」の存在を明かしていません。


 勢いに乗る講道館はさらに、八田のアマレス協会に対して「降伏勧告」も行います。
 当時のアマレス協会幹事で、八田とともにロス五輪にも出場した宮崎米一の証言によると、講道館は八田のところに使者を送り、「日本レスリングを作るなら本部を講道館に置きなさい。そうすれば諸君たちの段を1つずつ昇段させてあげよう」と勧告しましたが、八田は「そんなバカなことはできません!」と一蹴したそうです。
 
 いっぽう、庄司のところの「大日本レスリング協会」は、体協の許可なしに勝手に「オリンピック予選会」なる大会を開催。明大・立大の柔道部員や相撲部員が参加したこの「予選会」に対して体協は「去年公式大会をしたくせに、今頃になって何をふざけたことをしているんだ!」と激怒。当然、公式な五輪予選とは認められず終わりましたが、こっちも講道館・アマレス協会に対し、明確な敵対姿勢を見せます。

 五輪をわずか3か月後に控えた日本レスリング界は、こうしてにわかにカオスの様相を呈してきました。

1 コメント

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Unknown (老骨武道オヤジ)
2024-02-06 05:57:03
私こと高校柔道部時代は純粋に加納ジゴロ先生をなーんにも分からない高校生だったので仕方ありません・・崇拝しておったのですが・・大学で空手道に転向し、先輩先生方より姿三四郎で対柔道で悪役にされた空手使いの恨みを散々聞かされ、元柔道部員の特性を活かし「柔道破りの接近技」を
面白可笑しく後輩、弟子たちに教えはじめたのでした。・・いやあ、講道館はろくでもないことをやらかしたのですね・・まさに黒歴史ですね・・愉快愉快・・チャンチャン!!
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