【その2】武道大好き!三島通庸総監と武道振興の意外な関係
西南戦争によりトップレベルの人物を多数喪失し、中央政界で活躍する人材を大きく損ねた薩摩閥ですが、それでもまだまだ傑物は残っていました。
そんな「生き残りの傑物薩摩閥」のひとりに、第5代目警視総監・三島通庸(みしま・みちつね。天保6(1835)~明治21(1888))という方がおられます。
西郷隆盛に見いだされて幕末の動乱に身を投じ、維新後は大久保利通にその実務能力を買われて抜擢された三島は、維新後も要職を歴任。
警視総監になる前には酒田・鶴岡・山形・福島・栃木などの県令を歴任。県政、特に土木工事に剛腕を揮った(揮い過ぎて、反乱が発生したりしましたが(;^ω^))「鬼の三島ツウヨウ」はしかし、警察武道振興にも剛腕を揮いました。
ちなみに、令和元年度の大河ドラマ「いだてん」で登場した、日本初の短距離オリンピアン・三島彌彦(明治19(1886)~昭和29(1954)。生田斗真さんが演じてましたね)は、三島総監の実子(6男6女の五男)です。おっと、余談が過ぎました。
三島総監の就任は明治18年12月22日。
実はその就任の少し前の10月、本郷区向ヶ丘(現在の文京区)に、川路利良大警視及び殉職警察官の招魂社・弥生神社が創建され、翌11月には第1回となる奉納演武大会が行われています。
「総監就任前のこの大会を三島通庸が見ていた」とする確かな記録は、残念ながらありません。
しかし、無類の武道好きであり、そして総監就任以後の警察武道振興に対する力の入れようを見る限り、この第1回奉納演武大会を観戦していただろうと考えるのが妥当…そう結論付けていいくらい、以後の弥生祭奉納武術大会、そして警視庁主催の武道大会は、天下第一の名人ばかりをそろえた、名実ともにビッグなものに発展していきます。
三島総監は在任中、先述した明治19年11月の大会を皮切りに、20年11月・21年5月と、都合3回弥生祭武術大会を開催していますが、最大規模のものは明治21年の「弥生社天覧武術大会」と銘打った大会。
その大会の撃剣部門では、明治天皇陛下に対し奉り、天下随一の名人・全12組の熱戦をお目にかけ、そしてそののち…これが本当にスゴイのですが、総勢700人もの剣士を紅白に分け、弥生神社前の芝生で、350対350の総当たり殴り合い大会を天覧に供したのです( ゚Д゚)!!!!!これには明治大帝も驚かれ、玉座を外し、選手の直近まで足を運んでご覧になられたそうです。
(ただし、21年大会実施時、三島総監はリウマチの療養のため神奈川県の大磯に滞在、欠席)
このビッグな武道大会は、野に埋もれていた斯界の名人たちの再発見・再評価に繋がるとともに、「これから伸びるかも、スゴくなるかも」といった柔術・剣術のホープたちの発掘にもつながりました。
では、この大会における柔術の動き、そして何より気になる、講道館の台頭について見ていきましょう。
【その3 「講道館VS古流柔術」の実際って?】
そんな「発掘」された流派の中で、皆さんの記憶にひときわ鮮やかなのは、現在の柔道を形成した、嘉納治五郎率いる講道館でしょう。
巷間、「警視庁と講道館柔道」伝説として、まことしやかに言われているのは以下のようなものです。
「明治中期、新興の講道館柔道と、古流柔術諸派は警視庁の実施した大会において対戦、講道館が勝ったことにより、講道館柔道が警察の正課武道となった…云々」
ワタクシはずっと、「警視庁の主催した試合」の存在と、「ルールの違う柔術諸派が同じ土俵で戦うという試合の存在」についてかなり懐疑的であり、上に掲げた俗説は「勝者の作ったウソ歴史だ」と永く思っていたのですが、資料を見ていきますと、意外とこの俗説、まるっきりのデタラメというわけでもなさそうです。
上記の「武術大会における講道館の活躍」について、嘉納治五郎は著書で以下のように述べています(「警視庁武道九十年史」より抜粋)
「明治21年ころのある試合に、戸塚門下(※1)も14、5人、講道館からも14、5人各選手を出したと思う。その時4、5人は他と組んだが、十人ほどは戸塚門と組んだ。戸塚のほうでは、わざし(=技師)の照島太郎や西村定助という剛の者が居ったが、照島と山下義韶(※2)が組み、西村と岩崎法賢が組み合った。河合は片山と組んだ。この勝負に、実に不思議なことには、2、3引き分けがあったのみで、他は悉く講道館の勝ちとなった…」
※1 「戸塚門」=戸塚派揚心流。ウィキでは「揚心古流」が正式名称となっている。
九州肥前発祥の流派で、乱捕を重視していたことで有名。江戸時代のごく末期、沼津藩のお抱え師範であった同流の鬼才・戸塚英俊が同流派を大きく勃興させたことから「戸塚」の名が広く知れ渡るようになった。
※2 やました・よしつぐ(慶応元年(1865)~昭和10(1935))
小田原藩武芸指南役の家系に生まれる。講道館草創期の強豪で、講道館四天王の1人。明治22年、警視庁柔道世話係となり、警察柔道の地歩を固める。のちに述べる「捕手の形」設立にも大きく関与。講道館初の十段。
この話はあっちこっちの武術関係・講道館関係の書籍で引用された有名な一説であり、これを鵜呑みにすれば、「明治21年の弥生祭武術大会で講道館と戸塚派揚心流が団体戦をやって講道館が圧勝、そして講道館の天下に…」という流れになるのかもしれませんが、もともと弥生祭武術大会の第一目的は武道の振興であり、「勝ったらその流派を即採用」なんていう採用テストの要素はほとんどなかった。この点を見誤ってはいけません。
また、ここで出てきているお話は講道館VS戸塚派揚心流との対決のお話だけで、講道館がさらに他流派の柔術家を圧倒した、ということが書かれているわけでもありませんし、何より、既にこの時警視庁武術世話役でもあった良移心頭流・中村半助と、講道館四天王の1人であった横山作次郎が対決した「講道館VS古流柔術」白眉の一番が取り上げられていないのは片手落ちというものです。
話がちょっと長くなりましたので今回はここでチョン、と致しまして、次回は当時の講道館と古流柔術のありようを象徴する大一番・「横山作次郎VS中村半助」の試合と、当時の「試合」ってどんなものだったの?ということについて述べたいと思います。
西南戦争によりトップレベルの人物を多数喪失し、中央政界で活躍する人材を大きく損ねた薩摩閥ですが、それでもまだまだ傑物は残っていました。
そんな「生き残りの傑物薩摩閥」のひとりに、第5代目警視総監・三島通庸(みしま・みちつね。天保6(1835)~明治21(1888))という方がおられます。
西郷隆盛に見いだされて幕末の動乱に身を投じ、維新後は大久保利通にその実務能力を買われて抜擢された三島は、維新後も要職を歴任。
警視総監になる前には酒田・鶴岡・山形・福島・栃木などの県令を歴任。県政、特に土木工事に剛腕を揮った(揮い過ぎて、反乱が発生したりしましたが(;^ω^))「鬼の三島ツウヨウ」はしかし、警察武道振興にも剛腕を揮いました。
ちなみに、令和元年度の大河ドラマ「いだてん」で登場した、日本初の短距離オリンピアン・三島彌彦(明治19(1886)~昭和29(1954)。生田斗真さんが演じてましたね)は、三島総監の実子(6男6女の五男)です。おっと、余談が過ぎました。
三島総監の就任は明治18年12月22日。
実はその就任の少し前の10月、本郷区向ヶ丘(現在の文京区)に、川路利良大警視及び殉職警察官の招魂社・弥生神社が創建され、翌11月には第1回となる奉納演武大会が行われています。
「総監就任前のこの大会を三島通庸が見ていた」とする確かな記録は、残念ながらありません。
しかし、無類の武道好きであり、そして総監就任以後の警察武道振興に対する力の入れようを見る限り、この第1回奉納演武大会を観戦していただろうと考えるのが妥当…そう結論付けていいくらい、以後の弥生祭奉納武術大会、そして警視庁主催の武道大会は、天下第一の名人ばかりをそろえた、名実ともにビッグなものに発展していきます。
三島総監は在任中、先述した明治19年11月の大会を皮切りに、20年11月・21年5月と、都合3回弥生祭武術大会を開催していますが、最大規模のものは明治21年の「弥生社天覧武術大会」と銘打った大会。
その大会の撃剣部門では、明治天皇陛下に対し奉り、天下随一の名人・全12組の熱戦をお目にかけ、そしてそののち…これが本当にスゴイのですが、総勢700人もの剣士を紅白に分け、弥生神社前の芝生で、350対350の総当たり殴り合い大会を天覧に供したのです( ゚Д゚)!!!!!これには明治大帝も驚かれ、玉座を外し、選手の直近まで足を運んでご覧になられたそうです。
(ただし、21年大会実施時、三島総監はリウマチの療養のため神奈川県の大磯に滞在、欠席)
このビッグな武道大会は、野に埋もれていた斯界の名人たちの再発見・再評価に繋がるとともに、「これから伸びるかも、スゴくなるかも」といった柔術・剣術のホープたちの発掘にもつながりました。
では、この大会における柔術の動き、そして何より気になる、講道館の台頭について見ていきましょう。
【その3 「講道館VS古流柔術」の実際って?】
そんな「発掘」された流派の中で、皆さんの記憶にひときわ鮮やかなのは、現在の柔道を形成した、嘉納治五郎率いる講道館でしょう。
巷間、「警視庁と講道館柔道」伝説として、まことしやかに言われているのは以下のようなものです。
「明治中期、新興の講道館柔道と、古流柔術諸派は警視庁の実施した大会において対戦、講道館が勝ったことにより、講道館柔道が警察の正課武道となった…云々」
ワタクシはずっと、「警視庁の主催した試合」の存在と、「ルールの違う柔術諸派が同じ土俵で戦うという試合の存在」についてかなり懐疑的であり、上に掲げた俗説は「勝者の作ったウソ歴史だ」と永く思っていたのですが、資料を見ていきますと、意外とこの俗説、まるっきりのデタラメというわけでもなさそうです。
上記の「武術大会における講道館の活躍」について、嘉納治五郎は著書で以下のように述べています(「警視庁武道九十年史」より抜粋)
「明治21年ころのある試合に、戸塚門下(※1)も14、5人、講道館からも14、5人各選手を出したと思う。その時4、5人は他と組んだが、十人ほどは戸塚門と組んだ。戸塚のほうでは、わざし(=技師)の照島太郎や西村定助という剛の者が居ったが、照島と山下義韶(※2)が組み、西村と岩崎法賢が組み合った。河合は片山と組んだ。この勝負に、実に不思議なことには、2、3引き分けがあったのみで、他は悉く講道館の勝ちとなった…」
※1 「戸塚門」=戸塚派揚心流。ウィキでは「揚心古流」が正式名称となっている。
九州肥前発祥の流派で、乱捕を重視していたことで有名。江戸時代のごく末期、沼津藩のお抱え師範であった同流の鬼才・戸塚英俊が同流派を大きく勃興させたことから「戸塚」の名が広く知れ渡るようになった。
※2 やました・よしつぐ(慶応元年(1865)~昭和10(1935))
小田原藩武芸指南役の家系に生まれる。講道館草創期の強豪で、講道館四天王の1人。明治22年、警視庁柔道世話係となり、警察柔道の地歩を固める。のちに述べる「捕手の形」設立にも大きく関与。講道館初の十段。
この話はあっちこっちの武術関係・講道館関係の書籍で引用された有名な一説であり、これを鵜呑みにすれば、「明治21年の弥生祭武術大会で講道館と戸塚派揚心流が団体戦をやって講道館が圧勝、そして講道館の天下に…」という流れになるのかもしれませんが、もともと弥生祭武術大会の第一目的は武道の振興であり、「勝ったらその流派を即採用」なんていう採用テストの要素はほとんどなかった。この点を見誤ってはいけません。
また、ここで出てきているお話は講道館VS戸塚派揚心流との対決のお話だけで、講道館がさらに他流派の柔術家を圧倒した、ということが書かれているわけでもありませんし、何より、既にこの時警視庁武術世話役でもあった良移心頭流・中村半助と、講道館四天王の1人であった横山作次郎が対決した「講道館VS古流柔術」白眉の一番が取り上げられていないのは片手落ちというものです。
話がちょっと長くなりましたので今回はここでチョン、と致しまして、次回は当時の講道館と古流柔術のありようを象徴する大一番・「横山作次郎VS中村半助」の試合と、当時の「試合」ってどんなものだったの?ということについて述べたいと思います。
実はいつものように、「軽い気持ちで調べ始めたら、だんだん泥沼に…」みたいな感じになっておりまして、どこまで掘り下げるか、どう解釈すべきか…というところで、カラッポの頭を痛めております(;^_^A。
老骨武道オヤジ様ご指摘の通り、講道館が名を上げる過程は極めて戦略的???であり、その点についても、随時お話しさせて頂きます。
引き続きお読みいただければ、幸甚に存じます。