【その26 盛り上がり、そして続くよ対署試合】
大正11年に開始された警視庁の対署試合は、思いのほか盛り上がりを見せ、警視庁管内で大きな話題を呼ぶようになります。
雑誌「自警」には、対署試合に関する以下のような珍エピソードが掲載されており、その過熱ぶりがうかがわれます。
「●●署では選手を激励するため、ビール(!)や卵をふんだんに準備し、存分に飲み食いさせた」
「対署試合への往路は選手の疲労軽減のため官用車を使って送っていったが、負けたら『せっかく車で送ったのに負けやがって!電車で帰れ!バカタレ!』と言われ、電車で寂しく帰った」
「妻帯者の選手は、帰宅後に無駄な精力?を使わぬよう、試合前夜は署に監禁された」
「いくつかの署では、25名の選手の大将を、署長自らが務めた」
この「対署試合騒動」をご覧いただいて、皆さん、なにか違和感を感じませんでしょうか?
これまでの警察の柔道・剣道は、その稽古に関する内実はともかく、表向きには「気力・腕力を鍛え、あくまでも相手を一撃のもとに制圧すること」に主眼を置いたものでした(←「大阪府警察史」には警察剣道に関し、そう書いてあります(;^ω^))。
しかし、上記の状況を見ればわかりますとおり、対署試合に参加する警察官各員の間に、そういうゴタクが入り込む余地は一切なく、「試合に勝つ!」ことだけに熱中している様子がはっきりと分かるでしょう。
じつは対署試合が始まった1920年代ころは、「スポーツ」というものが、国民的に広く認知された時期でもありました。
大正時代の初めころ、第一次世界大戦による景気の向上により、それまで国民の約8割が農家・漁家だったわが国に「中産階級」…いわゆるサラリーマンというものが誕生し、都市部に人が集中し始めます。
サラリーマンは、農家漁家に比べれば生活に余裕がありますから、「子弟に高等教育を受けさせたい」と望むのは無理からぬことです。
しかしこの当時、現行官立高校・大学の数はものすごく少なく、従って高等教育を受けるためには、恐ろしい倍率の過当競争を勝ち抜かないといけません。
ここに至り、官立高等教育機関に受かるだけの学力はないけど、なんとか高等教育を受けたい…という子弟のため、「そこそこ勉強して、そこそこの学歴をつけられる」学校を設立する必要性が、澎湃と湧き上がってきました。
この声を受けて政府は、「高等教育機関拡張計画」なるプロジェクトを発動。これはその後「大学令」(大正7年12月6日勅令第388号)として法律化され、これによって私立大学の数が激増→大学生・大卒者の数も激増、となります。
それまで、わが国の大学生というのは非常なエリートであり、「大学卒業→殆ど全員が官僚になる」であったところ、私立大学卒業生の増加とともに、サラリーマンを志向する者も増加の一途を辿ります。
サラリーマンとなった元大学生たちは、高校・大学時代に熱中した「スポーツ」というものを、一般社会でも実践。彼らは良くも悪くも、大正時代の社会にスポーツというものを広く知らしめる原動力となります。
そんな彼らが社会に広めた「スポーツ競技」の中には、「試合に勝つことが価値観の全てである、学生さんの柔・剣道」も、当然存在していたのです。
彼らが広めようとした「学生さんの柔・剣道」は、晩年の嘉納治五郎が提唱した「柔道」(例の「勝負法」がくっついている柔道)や、古くから伝わる「撃剣」の観点から見れば、とんでもない心得違いの柔・剣道なのですが、専門知識を持たない一般の柔・剣道修行者は、エリート様が教えてくれる柔道や剣道こそが「ナウなヤングにバカウケ(←死語中の死語(-_-;))な柔・剣道」と広く認識されるに至ります。
結果、武道は「実戦に役立つ身体と技を練るもの」から「試合に勝つ!ためのもの」に変質し、「各種の試合に勝つことこそが最も尊い」という価値観がガッチリ根付いたわけであり、警察の柔道・剣道も、そのムーブメントの中に完全に飲まれてしまっていたのです。
しかし、警察幹部のお歴々の中には、そうした風潮に危機感を感じている人もたくさんいました。
大正からそろそろ昭和に世替わりせんとしていた頃、警視庁警務部長は管下各署長に対し「対署試合の利弊及将来永続施行の可否」というお題目で意見を照会しました。要するに「対署試合の利点・欠点を挙げ、続けるべきか廃止すべきかという意見を徴する」ということです。
対署試合に反対する署長連中は、下記のような理由を挙げ、ここぞとばかりに対署試合廃止の論陣を張ります。
1 時日永きに失したること
2 本務を困却する嫌いありしこと
3 勝敗にのみ重きを置き、精神を没却する嫌いありしこと
4 選手たる者のみ発達して一般に発達せざること
5 選手を優遇する結果、諸種の弊を生ずること
6 演武公傷者を激増すること
このうちの3~5が、「学生さんのスポーツ柔・剣道」に異論を唱える意見であり、このとき「試合継続絶対不可」を唱えた署長は、実に12名にも上りました。
しかし「試合方法や表彰方法を検討のうえ、対署試合を継続すべき」との意見が大勢を占めたため、対署試合は廃止されず、そのまま続行されることが決議されました。
「警視庁武道九十年史」には、その後の対署試合の運営につき「いろいろと改善を加え、いたずらに競技化することを避け、武道本来の目的に反しないような方法をとることにして継続することとなった」と記載されています。
ではこの時、警視庁が対署試合にどのような「改善」を加え、試合と実戦との間に立ちはだかる壁を越えようとしたのか?
「九十年史」には、その具体的取り組み内容が何も記されていないため不明なのですが…その後の警察武道と試合との関係性を見る限り、「特に何もしなかった」という結論以外、導き出すことはできません。
いや、「何もしていない」というのは語弊がありました。
じつは警察武道が「試合に勝つ!」の潮流に抗わなかったのには、ちゃんとした理由?があるのです。しかも治安維持の観点からも、ほんの少し重要なものが…
「その28」ではそのあたりをお話し致します。
大正11年に開始された警視庁の対署試合は、思いのほか盛り上がりを見せ、警視庁管内で大きな話題を呼ぶようになります。
雑誌「自警」には、対署試合に関する以下のような珍エピソードが掲載されており、その過熱ぶりがうかがわれます。
「●●署では選手を激励するため、ビール(!)や卵をふんだんに準備し、存分に飲み食いさせた」
「対署試合への往路は選手の疲労軽減のため官用車を使って送っていったが、負けたら『せっかく車で送ったのに負けやがって!電車で帰れ!バカタレ!』と言われ、電車で寂しく帰った」
「妻帯者の選手は、帰宅後に無駄な精力?を使わぬよう、試合前夜は署に監禁された」
「いくつかの署では、25名の選手の大将を、署長自らが務めた」
この「対署試合騒動」をご覧いただいて、皆さん、なにか違和感を感じませんでしょうか?
これまでの警察の柔道・剣道は、その稽古に関する内実はともかく、表向きには「気力・腕力を鍛え、あくまでも相手を一撃のもとに制圧すること」に主眼を置いたものでした(←「大阪府警察史」には警察剣道に関し、そう書いてあります(;^ω^))。
しかし、上記の状況を見ればわかりますとおり、対署試合に参加する警察官各員の間に、そういうゴタクが入り込む余地は一切なく、「試合に勝つ!」ことだけに熱中している様子がはっきりと分かるでしょう。
じつは対署試合が始まった1920年代ころは、「スポーツ」というものが、国民的に広く認知された時期でもありました。
大正時代の初めころ、第一次世界大戦による景気の向上により、それまで国民の約8割が農家・漁家だったわが国に「中産階級」…いわゆるサラリーマンというものが誕生し、都市部に人が集中し始めます。
サラリーマンは、農家漁家に比べれば生活に余裕がありますから、「子弟に高等教育を受けさせたい」と望むのは無理からぬことです。
しかしこの当時、現行官立高校・大学の数はものすごく少なく、従って高等教育を受けるためには、恐ろしい倍率の過当競争を勝ち抜かないといけません。
ここに至り、官立高等教育機関に受かるだけの学力はないけど、なんとか高等教育を受けたい…という子弟のため、「そこそこ勉強して、そこそこの学歴をつけられる」学校を設立する必要性が、澎湃と湧き上がってきました。
この声を受けて政府は、「高等教育機関拡張計画」なるプロジェクトを発動。これはその後「大学令」(大正7年12月6日勅令第388号)として法律化され、これによって私立大学の数が激増→大学生・大卒者の数も激増、となります。
それまで、わが国の大学生というのは非常なエリートであり、「大学卒業→殆ど全員が官僚になる」であったところ、私立大学卒業生の増加とともに、サラリーマンを志向する者も増加の一途を辿ります。
サラリーマンとなった元大学生たちは、高校・大学時代に熱中した「スポーツ」というものを、一般社会でも実践。彼らは良くも悪くも、大正時代の社会にスポーツというものを広く知らしめる原動力となります。
そんな彼らが社会に広めた「スポーツ競技」の中には、「試合に勝つことが価値観の全てである、学生さんの柔・剣道」も、当然存在していたのです。
彼らが広めようとした「学生さんの柔・剣道」は、晩年の嘉納治五郎が提唱した「柔道」(例の「勝負法」がくっついている柔道)や、古くから伝わる「撃剣」の観点から見れば、とんでもない心得違いの柔・剣道なのですが、専門知識を持たない一般の柔・剣道修行者は、エリート様が教えてくれる柔道や剣道こそが「ナウなヤングにバカウケ(←死語中の死語(-_-;))な柔・剣道」と広く認識されるに至ります。
結果、武道は「実戦に役立つ身体と技を練るもの」から「試合に勝つ!ためのもの」に変質し、「各種の試合に勝つことこそが最も尊い」という価値観がガッチリ根付いたわけであり、警察の柔道・剣道も、そのムーブメントの中に完全に飲まれてしまっていたのです。
しかし、警察幹部のお歴々の中には、そうした風潮に危機感を感じている人もたくさんいました。
大正からそろそろ昭和に世替わりせんとしていた頃、警視庁警務部長は管下各署長に対し「対署試合の利弊及将来永続施行の可否」というお題目で意見を照会しました。要するに「対署試合の利点・欠点を挙げ、続けるべきか廃止すべきかという意見を徴する」ということです。
対署試合に反対する署長連中は、下記のような理由を挙げ、ここぞとばかりに対署試合廃止の論陣を張ります。
1 時日永きに失したること
2 本務を困却する嫌いありしこと
3 勝敗にのみ重きを置き、精神を没却する嫌いありしこと
4 選手たる者のみ発達して一般に発達せざること
5 選手を優遇する結果、諸種の弊を生ずること
6 演武公傷者を激増すること
このうちの3~5が、「学生さんのスポーツ柔・剣道」に異論を唱える意見であり、このとき「試合継続絶対不可」を唱えた署長は、実に12名にも上りました。
しかし「試合方法や表彰方法を検討のうえ、対署試合を継続すべき」との意見が大勢を占めたため、対署試合は廃止されず、そのまま続行されることが決議されました。
「警視庁武道九十年史」には、その後の対署試合の運営につき「いろいろと改善を加え、いたずらに競技化することを避け、武道本来の目的に反しないような方法をとることにして継続することとなった」と記載されています。
ではこの時、警視庁が対署試合にどのような「改善」を加え、試合と実戦との間に立ちはだかる壁を越えようとしたのか?
「九十年史」には、その具体的取り組み内容が何も記されていないため不明なのですが…その後の警察武道と試合との関係性を見る限り、「特に何もしなかった」という結論以外、導き出すことはできません。
いや、「何もしていない」というのは語弊がありました。
じつは警察武道が「試合に勝つ!」の潮流に抗わなかったのには、ちゃんとした理由?があるのです。しかも治安維持の観点からも、ほんの少し重要なものが…
「その28」ではそのあたりをお話し致します。
(゜_゜)さまのご回答…実はバッチシ正解だったり致します(;^ω^)。
ただこのお話、「正解です」だけで終わらせるには、あまりにも余談がイロイロありますので、次回もお読みいただきますれば幸甚に存じますm(__)m
試合に反対するショッチョサンの何と的確な事・・・現在にも通じます・・・。
何故試合が無くならなかったか・・・個人的な答
A 一般人に「警察官は皆これぐらい鍛えてるぞ。抵抗しても無駄だ。(昭和のドラマ)」という宣伝になったから・・・・かなぁ🤔。