【その28 「大正時代」と関東大震災がもたらした、治安戦略の変化】
大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災は、帝都東京を含む関東一円の甚大な被害を与えました。
東京府だけで死者7万以上、全半壊・焼失家屋20万戸というこの災害により、帝都・東京府付近の治安は一気に悪化、大規模騒擾状態に陥ります。
治安の維持に関し、警察だけでは全く手が足りない状態となったことから、政府は戒厳令を発出、軍隊まで出動させて治安維持に当たります。
この間、警察官の武装はサーベル1丁…しかも、抜刀することが殆ど許されないサーベルでの警備実施ですから、その困難は察するに余りあります。
事実、この騒動の中で、警察は保護した被災者を暴徒に奪取され、そのまま行方不明になったという事案や、たった1つの糧秣倉庫をガードするのに数十人もの警察官を割かなければならなかったりするなど、とにかく「警察力」の不足が大きな課題となりました。
また「その27」で、大正時代は「中流階級」という階層が勃興したというお話をしましたが、ヒマとカネをある程度持て余している彼らは、いわゆる「市民意識」なるものに目覚めるのも早く、新たな権利を求めてワーワーと騒ぎ立てます。いわゆる「大正デモクラシー」というヤツですね。
アホな歴史教科書では、それがさもいいことのように書かれていますが、要は生活にあまり不自由のない階級が、面白半分に社会を扇動したわけであり、そのため、明治時代には考えられなかった大小各種の騒擾事件が相次いで発生(その最たるものが米騒動)。
警察は、関東大震災以前からその対応に手を焼いており、実は「警察力のさらなる増強」は、大正時代全般を通じ、喫緊の課題だったわけです。
そこへ降ってわいてきた関東大震災。
ことここに至り、一刻の猶予もないと判断した内務省(警察を統御していた官庁。今は消滅)は、警察力の増強と、「警察官は強いぞ!!!!」というイメージ戦略を大々的に打ち出す作戦に打って出ます。
こうした取り組みのうち、ガチの「警察力の増強」対策の最右翼となったのは「警察官のけん銃携帯」でしょう。
大正12年10月20日、勅令第450号により「警察官消防官服制」が改正されます。
この改正により「土地の状況または勤務の性質により、必要あるときは樺太庁長官又は庁道府県長官(=現在でいう都道府県知事の意)は主務大臣(=内務大臣のこと)の認可を受け拳銃を帯用せしむることを得」との文言が追加され、警察官の拳銃携帯・使用が許可されることとなりました。
しかし、関東大震災の発災が同年9月1日ですから、改正があまりにもスピーディーすぎる…実は、関東大震災の発災前から、内務省は米騒動などの反省をもとに、すでに警察官の拳銃携帯について法制化の下準備を済ませており、関東大震災を契機に、一気に制度化したという説があるにはありますが…閑話休題。
拳銃の使用・携帯のトレーニングについては、全国の警察で様々な取り組みがなされましたが、警視庁については大正12年12月、近衛騎兵連隊下士官集会所において、65名の警察官が東京憲兵隊・水野保憲兵中佐の指導を受けています。
ただ、戦前における警察官の拳銃携帯は全国どこでも「警察署に保管し、必要があったら持ち出す」形式であったことから、その配備状況はかなりしょっぱいもので、終戦直後、昭和21年時点における警視庁全体の保有拳銃挺数は、警察官18,718名に対し、なんとたったの572挺!充足率0.03%!
この充足率では、治安維持の役に立つとは思えませんし、じっさい、戦前に「警察官が拳銃を使用して相手を制圧した」という事案を、ほとんど見聞きしたことがありません(知っているという方は教えてください)。
しかしわが国では江戸時代から、「捕縛」の現場における実力行使に、異様なほど気を遣うという実に不思議な文化・伝統があり、その風潮は当然、大正時代にも続いていました(現在も、警察官が極悪犯人を相手に、ほんの少し拳銃を使ったくらいでガタガタぬかすバカがいますが、それは、こうした伝統のせいでしょう…たぶん(-_-;))。
そういった伝統・社会文化のなかで「拳銃携帯」を成立させ、「警察官は拳銃を持っているから、抵抗してもムダだぞ!」というイメージ戦略を行ったのは、わが国の治安を語るうえで、実にエポックメイキング的なできごとだったのです。
もう一つの取り組みは、「武道の強い警察」の世間へのアピール。
大正末年ころには、「その27」でお話しした「武道スポーツ化」の流れを受け、各種の大規模柔道・剣道大会がバンバン行われるようになりつつありました。
柔道のほうを見てみますと、大正12年には朝鮮・満州対抗柔道大会、翌13年には明治神宮大会や都下高専柔道大会(おそらく、有名な京都帝大の高専柔道ではなく、東京府とその近辺の高校・高等商工・専門学校の大会)、14年には、幼き日の木村政彦も胸躍らせたという、伝説の福岡VS熊本の対県柔道大会といったあんばい。
こういった大試合に警察、特に、内務省の直轄であった警視庁はどういった態度であったかというと…選手をバンバン送り込んでいました。
大正・昭和前期を通じ、全国の柔・剣道修行者が仰ぎ見た大会と言えば、明治神宮大会、そして不定期に開催されていた天覧試合。ここでは、天覧試合における警視庁の動きを見てみることと致します。
昭和最初の天覧試合は昭和4年5月4~5日にかけて行われた「御大礼記念天覧武道大会」。
本稿では柔道だけに話を限ってお話ししますが、このとき柔道は「府県選士の部」「指定選士の部」に分けて実施されました。
警視庁からは、川上忠六段(33歳・師範)・佐藤金之助六段(32歳・師範)山口孫作五段(35歳・師範)の3名が指定選士(総員32名)として参加を許され、このうち佐藤六段が予選リーグを突破、準々決勝へ駒を進めます。
佐藤六段はその準々決勝で牛島辰熊(当時・熊本医大柔道教師)に敗れますが、警視庁柔道の強さを内外に示したことは「強い警察」のアピールにはもってこいであり、その反響はかなりのものでした。ちなみに指定選手の部・優勝は、武道専門学校の栗原民雄でした。
さらに、また少し時代が下りますが、昭和9年5月4~5日にかけて行われた「皇太子殿下(現在の上皇陛下)御誕生奉祝天覧武道大会」においても、警視庁からは指定選手16名中6名もの多数を拠出する栄に浴します。
とはいっても、これは警視庁が、天覧試合や明治神宮大会の優秀選手を片っ端から師範や教師として引っこ抜いていたから、という注釈付きではありますが…(;^ω^)。
それはともかく、このとき「警視庁」の肩書で参加した6選手はこちら。
・皆川国次郎 教士五段(34歳) 柔道教師
・飯山栄作 精錬証五段(28歳) 柔道教師
・川上忠 教士六段(38歳) 柔道師範
・曽根幸蔵 六段(32歳) 柔道教師
・牛島辰熊 教士六段(31歳) 柔道師範
・菊池揚二 教士五段(29歳) 柔道教師
このほか、府県選手(東京代表)として、村田与吉五段(32歳、本富士警察署助教)が出場しています。
試合結果のほうですが、指定選手のほうは残念ながら、いずれも予選リーグで敗退。
特に第3部予選(牛島六段・菊池五段参加)では、この天覧試合優勝の栄冠を勝ち得た、大谷晃(樺太庁警察部柔道教師)の前に善戦するも惜敗、苦汁をなめます。
しかし府県代表として出場した村田五段は無人の野を行く活躍を見せ、決勝まで進出。決勝で惜しくも平田良吉(武道専門学校学生・錬士五段)に判定で敗れますが、天覧試合での準優勝は「警視庁強し!」のアピールに、格好の戦果となりました。
このように警察、とくに警視庁は、柔道・剣道の強い学生さんを警察官として採用して鍛え、あるいは既に名の売れている柔道・剣道選手を武道師範としてスカウトし、著名試合で活躍してもらうことによって「警察官は柔道や剣道で鍛え上げているから、そんじょそこらのチンピラが絡んできたところで、一発で制圧されるんだぞ!」という「強い警察官」のイメージづくりを行っていました。
有名選手を師範や教師として迎えた意味は「イメージ戦略」だけではなく、警察官を本当に厳しく鍛えてもらおうという親心も、あるにはあったとは思います。
しかし、プロ野球もプロサッカーもなかった当時、柔道の一流選手というのは、野球でいえば早慶戦のヒーロー(昭和の初期なら、宮武三郎〔慶大〕や小川正太郎〔早大〕レベル)や、相撲の世界でいえば三役以上の知名度があり、警視庁がその大多数をお抱えしているというのは、「武道に強い警察」をアピールしようとしていたとしか思えない…のであります。
ただ、このイメージ戦略を優先させるあまり、「その27」の対署試合で浮き彫りになった「柔道・剣道が実戦から遠ざかり、試合に勝つことだけに血道をあげている」という問題提起に対する有効な対策はけっきょく講じられず、棚上げという状態になってしまいました。
この時点で警察武道は「有名な柔道・剣道試合で勝って勝って勝ちまくって、『警察強し!』というイメージを国民に植え付けよう」という方向で固定されてしまったわけです。
しかし、そのイメージ戦略が激化する陰で、実際に困っていたのは現場の警察官でした。
1920年代~1930年代は、戦前で最も治安の悪かった時代で、昭和8(1933)年における人口10万人当たりの刑法犯発生件数は、戦前最多の2,301件。当然、警察官の職務執行に際して凶悪な抵抗を示す人間も増え、警察官の受傷事故は、増加の一途を辿っていました。
しかし、犯人に対してサーベルをみだりに抜くわけにもいかず、競技柔道の技では、十分な制圧力とは言い切れない…
ここに至り警察は、柔道でも剣道でもない、第3の「警察武術」創設のやむなきに至ったのです。
大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災は、帝都東京を含む関東一円の甚大な被害を与えました。
東京府だけで死者7万以上、全半壊・焼失家屋20万戸というこの災害により、帝都・東京府付近の治安は一気に悪化、大規模騒擾状態に陥ります。
治安の維持に関し、警察だけでは全く手が足りない状態となったことから、政府は戒厳令を発出、軍隊まで出動させて治安維持に当たります。
この間、警察官の武装はサーベル1丁…しかも、抜刀することが殆ど許されないサーベルでの警備実施ですから、その困難は察するに余りあります。
事実、この騒動の中で、警察は保護した被災者を暴徒に奪取され、そのまま行方不明になったという事案や、たった1つの糧秣倉庫をガードするのに数十人もの警察官を割かなければならなかったりするなど、とにかく「警察力」の不足が大きな課題となりました。
また「その27」で、大正時代は「中流階級」という階層が勃興したというお話をしましたが、ヒマとカネをある程度持て余している彼らは、いわゆる「市民意識」なるものに目覚めるのも早く、新たな権利を求めてワーワーと騒ぎ立てます。いわゆる「大正デモクラシー」というヤツですね。
アホな歴史教科書では、それがさもいいことのように書かれていますが、要は生活にあまり不自由のない階級が、面白半分に社会を扇動したわけであり、そのため、明治時代には考えられなかった大小各種の騒擾事件が相次いで発生(その最たるものが米騒動)。
警察は、関東大震災以前からその対応に手を焼いており、実は「警察力のさらなる増強」は、大正時代全般を通じ、喫緊の課題だったわけです。
そこへ降ってわいてきた関東大震災。
ことここに至り、一刻の猶予もないと判断した内務省(警察を統御していた官庁。今は消滅)は、警察力の増強と、「警察官は強いぞ!!!!」というイメージ戦略を大々的に打ち出す作戦に打って出ます。
こうした取り組みのうち、ガチの「警察力の増強」対策の最右翼となったのは「警察官のけん銃携帯」でしょう。
大正12年10月20日、勅令第450号により「警察官消防官服制」が改正されます。
この改正により「土地の状況または勤務の性質により、必要あるときは樺太庁長官又は庁道府県長官(=現在でいう都道府県知事の意)は主務大臣(=内務大臣のこと)の認可を受け拳銃を帯用せしむることを得」との文言が追加され、警察官の拳銃携帯・使用が許可されることとなりました。
しかし、関東大震災の発災が同年9月1日ですから、改正があまりにもスピーディーすぎる…実は、関東大震災の発災前から、内務省は米騒動などの反省をもとに、すでに警察官の拳銃携帯について法制化の下準備を済ませており、関東大震災を契機に、一気に制度化したという説があるにはありますが…閑話休題。
拳銃の使用・携帯のトレーニングについては、全国の警察で様々な取り組みがなされましたが、警視庁については大正12年12月、近衛騎兵連隊下士官集会所において、65名の警察官が東京憲兵隊・水野保憲兵中佐の指導を受けています。
ただ、戦前における警察官の拳銃携帯は全国どこでも「警察署に保管し、必要があったら持ち出す」形式であったことから、その配備状況はかなりしょっぱいもので、終戦直後、昭和21年時点における警視庁全体の保有拳銃挺数は、警察官18,718名に対し、なんとたったの572挺!充足率0.03%!
この充足率では、治安維持の役に立つとは思えませんし、じっさい、戦前に「警察官が拳銃を使用して相手を制圧した」という事案を、ほとんど見聞きしたことがありません(知っているという方は教えてください)。
しかしわが国では江戸時代から、「捕縛」の現場における実力行使に、異様なほど気を遣うという実に不思議な文化・伝統があり、その風潮は当然、大正時代にも続いていました(現在も、警察官が極悪犯人を相手に、ほんの少し拳銃を使ったくらいでガタガタぬかすバカがいますが、それは、こうした伝統のせいでしょう…たぶん(-_-;))。
そういった伝統・社会文化のなかで「拳銃携帯」を成立させ、「警察官は拳銃を持っているから、抵抗してもムダだぞ!」というイメージ戦略を行ったのは、わが国の治安を語るうえで、実にエポックメイキング的なできごとだったのです。
もう一つの取り組みは、「武道の強い警察」の世間へのアピール。
大正末年ころには、「その27」でお話しした「武道スポーツ化」の流れを受け、各種の大規模柔道・剣道大会がバンバン行われるようになりつつありました。
柔道のほうを見てみますと、大正12年には朝鮮・満州対抗柔道大会、翌13年には明治神宮大会や都下高専柔道大会(おそらく、有名な京都帝大の高専柔道ではなく、東京府とその近辺の高校・高等商工・専門学校の大会)、14年には、幼き日の木村政彦も胸躍らせたという、伝説の福岡VS熊本の対県柔道大会といったあんばい。
こういった大試合に警察、特に、内務省の直轄であった警視庁はどういった態度であったかというと…選手をバンバン送り込んでいました。
大正・昭和前期を通じ、全国の柔・剣道修行者が仰ぎ見た大会と言えば、明治神宮大会、そして不定期に開催されていた天覧試合。ここでは、天覧試合における警視庁の動きを見てみることと致します。
昭和最初の天覧試合は昭和4年5月4~5日にかけて行われた「御大礼記念天覧武道大会」。
本稿では柔道だけに話を限ってお話ししますが、このとき柔道は「府県選士の部」「指定選士の部」に分けて実施されました。
警視庁からは、川上忠六段(33歳・師範)・佐藤金之助六段(32歳・師範)山口孫作五段(35歳・師範)の3名が指定選士(総員32名)として参加を許され、このうち佐藤六段が予選リーグを突破、準々決勝へ駒を進めます。
佐藤六段はその準々決勝で牛島辰熊(当時・熊本医大柔道教師)に敗れますが、警視庁柔道の強さを内外に示したことは「強い警察」のアピールにはもってこいであり、その反響はかなりのものでした。ちなみに指定選手の部・優勝は、武道専門学校の栗原民雄でした。
さらに、また少し時代が下りますが、昭和9年5月4~5日にかけて行われた「皇太子殿下(現在の上皇陛下)御誕生奉祝天覧武道大会」においても、警視庁からは指定選手16名中6名もの多数を拠出する栄に浴します。
とはいっても、これは警視庁が、天覧試合や明治神宮大会の優秀選手を片っ端から師範や教師として引っこ抜いていたから、という注釈付きではありますが…(;^ω^)。
それはともかく、このとき「警視庁」の肩書で参加した6選手はこちら。
・皆川国次郎 教士五段(34歳) 柔道教師
・飯山栄作 精錬証五段(28歳) 柔道教師
・川上忠 教士六段(38歳) 柔道師範
・曽根幸蔵 六段(32歳) 柔道教師
・牛島辰熊 教士六段(31歳) 柔道師範
・菊池揚二 教士五段(29歳) 柔道教師
このほか、府県選手(東京代表)として、村田与吉五段(32歳、本富士警察署助教)が出場しています。
試合結果のほうですが、指定選手のほうは残念ながら、いずれも予選リーグで敗退。
特に第3部予選(牛島六段・菊池五段参加)では、この天覧試合優勝の栄冠を勝ち得た、大谷晃(樺太庁警察部柔道教師)の前に善戦するも惜敗、苦汁をなめます。
しかし府県代表として出場した村田五段は無人の野を行く活躍を見せ、決勝まで進出。決勝で惜しくも平田良吉(武道専門学校学生・錬士五段)に判定で敗れますが、天覧試合での準優勝は「警視庁強し!」のアピールに、格好の戦果となりました。
このように警察、とくに警視庁は、柔道・剣道の強い学生さんを警察官として採用して鍛え、あるいは既に名の売れている柔道・剣道選手を武道師範としてスカウトし、著名試合で活躍してもらうことによって「警察官は柔道や剣道で鍛え上げているから、そんじょそこらのチンピラが絡んできたところで、一発で制圧されるんだぞ!」という「強い警察官」のイメージづくりを行っていました。
有名選手を師範や教師として迎えた意味は「イメージ戦略」だけではなく、警察官を本当に厳しく鍛えてもらおうという親心も、あるにはあったとは思います。
しかし、プロ野球もプロサッカーもなかった当時、柔道の一流選手というのは、野球でいえば早慶戦のヒーロー(昭和の初期なら、宮武三郎〔慶大〕や小川正太郎〔早大〕レベル)や、相撲の世界でいえば三役以上の知名度があり、警視庁がその大多数をお抱えしているというのは、「武道に強い警察」をアピールしようとしていたとしか思えない…のであります。
ただ、このイメージ戦略を優先させるあまり、「その27」の対署試合で浮き彫りになった「柔道・剣道が実戦から遠ざかり、試合に勝つことだけに血道をあげている」という問題提起に対する有効な対策はけっきょく講じられず、棚上げという状態になってしまいました。
この時点で警察武道は「有名な柔道・剣道試合で勝って勝って勝ちまくって、『警察強し!』というイメージを国民に植え付けよう」という方向で固定されてしまったわけです。
しかし、そのイメージ戦略が激化する陰で、実際に困っていたのは現場の警察官でした。
1920年代~1930年代は、戦前で最も治安の悪かった時代で、昭和8(1933)年における人口10万人当たりの刑法犯発生件数は、戦前最多の2,301件。当然、警察官の職務執行に際して凶悪な抵抗を示す人間も増え、警察官の受傷事故は、増加の一途を辿っていました。
しかし、犯人に対してサーベルをみだりに抜くわけにもいかず、競技柔道の技では、十分な制圧力とは言い切れない…
ここに至り警察は、柔道でも剣道でもない、第3の「警察武術」創設のやむなきに至ったのです。
剣道も銃剣道もそうなんですが、柔道以外の格闘技って、どうしても専門職のインサイダーで固まりますよね…むかしは警察力を内外に喧伝するため、そして今は警察部内での立ち位置確保のため…調べれば調べるほど、警察武道はほんとうに、様々な側面を持つものでございます。
老骨武道オヤジさま、ワタクシも実は「剣道は得物がなけんにゃーなんもならんけー、やめよー(←山口方言)」という理由で、芦原会館に入りました(;^ω^)。
ちなみに「第3の警察武術」は日本拳法ではございません(;^ω^)。
(日拳が関西で産声を上げたのが昭和7年、のちに逮捕術に影響を及ぼした、シューズを履くほうの日本拳法・拳法協会ができたのが戦後の昭和28年ですんで(;^ω^))
またよろしくお願いいたします!