ようやく最終回です。
サーベルは大東亜戦争終結とともに滅びるわけですが、話はその前夜にさかのぼり、いわゆる「警杖」というやつの歴史も見ておきましょう。
「警杖(けいじょう)」とは、長さ120センチの樫の棒。
観光などで皇居の周りをウロウロしていますと、手に長い棒をもったおまわりさんが点在しているのを見ると思いますが、その棒が警杖です。
警杖が捕物用具に加わったのは比較的新しく、昭和8年のこと。
その4年前となる昭和2年、弥生神社(殉職警察官の御霊を祀るお社。明治18年創建。)における弥生祭奉納演武において、筑前福岡藩の御留流・神道夢想流杖術の清水隆次師範が演武を披露したところ、これが大好評を博しました。
折しも当時の東京では、野球の早慶戦など、大群衆がひしめくイベントが普通に行われるようになっており、警視庁はその都度群衆整理・交通整理にあたるわけですが、当時の警察には「群衆整理」的なもののノウハウがなく、イベントの度、その整理に四苦八苦。
なので当時の警視庁幹部は「群衆整理ができる部隊」「合理的かつ威圧感のない警備用具」の必要性を強く感じていました。
そこに登場した杖(じょう)は、警視庁幹部にとって福音以外の何物でもなく、まずは昭和6年、清水師範をさっそく嘱託師範として招きます。
昭和8年、現在の警視庁機動隊の前身ともというべき、群衆整理専門部隊「特別警備隊」発足。
清水師範は同隊員に対して厳しく杖術を指導しますが、もともと武芸に優れた警官のなかから選抜されただけあって、隊員はスポンジのように杖術を習得。
「突けば槍 払えば薙刀 持たば太刀」と称される高度な杖の技術を使いこなす特別警備隊員は「警視庁の華」「昭和の新選組」と謳われ、東京府民の信頼を勝ち得たものです。
これが現在も続く「警察警杖」の始まりとなります。
(余談ですが、一達流捕縄術の達人でもあった清水師範は同時期、捕縄・早縄術も並行して教えていました。)
ここで話を大東亜戦争の終結時に戻します。
大東亜戦争終結とともに日本には進駐軍が入ってきて、政治を牛耳るようになります。
「日本の民主化」という美名のもと、日本人のキンタマを抜こうと画策する進駐軍にとって、警察官の腰にぶら下がっているサーベルは「日本帝国主義の権化」以外の何物でもなく、昭和21年、速攻で廃止の憂き目を見ます。
昭和21年3月12日勅令第133号「警察官及消防官服制、巡査服制及判任官待遇消防手服制臨時特例」に記載された「刀又ハ短刀ヲ佩用セザルコト」という一文により、サーベルは日本の警察官の腰から、永遠の別れを告げました。
明治16年から「官憲の権威の象徴」であったサーベルを外すというのは間違いなく一つの時代の終わりです。
しかし、警察制度は大きく姿を変えつつ、まだまだ続いていく。
この渦中にいた警察官の心中は「寂しい」とか「せつない」などという言葉だけでは表現できない、さまざまな葛藤があったことでしょう。
このあたりの機微については、昭和の大作詞家・阿久悠先生の名作小説「瀬戸内少年野球団」「無冠の父」(ともに岩波現代文庫刊)をお読みいただくと大変よくわかりますが、ここでは「無冠の父」のほうから、携行武器が警棒に切り替わった時期の描写を引用します。
「昭和21年になって、サーベルが警棒になった。他にも、警察機構には大きな変化がさまざまあったが、私の目から見ると、サーベルから警棒へというのは重要であった。(中略)
サーベルは精神の拠り所のようなもの、どこか象徴的なものがあったが、警棒は、どんなに素朴であっても、武器である。撲る道具である。
『これで、撲れっちゅうんか』
と、父の武吉(←深沢武吉。阿久悠先生の御父上がモデル)は警棒を振り回しながら憮然とし…」
「もう、深沢武吉巡査が歩いても、自転車を走らせても、カチャカチャと鳴ることはなくなった。従って、私の周囲で、巡査が来たぞう、と叫ぶ子供の声もしなくなった。」
昭和21年7月21日、警視庁本部第一会議室において、上記勅令に基づくサーベルの返還式が行われ、かわりに同日、進駐軍が警察官に与えた携行武器は…警棒でした。
とはいっても、このころ与えられた警棒は長さ45センチ、先端の直径が3.5センチの、バットのような形状をしたもの。柄の部分には、10条の溝を刻み込んでいました。
しかし終戦直後の剣呑な世相は、警察官がこんなチャチな警棒を携帯して、のんびりと警邏することを許しませんでした。
終戦と同時に在日朝鮮・シナ・台湾人が「戦勝国民」を名乗り(いわゆる「第三国人」というヤツ)、日本各地で「乱暴狼藉」という表現だけでは全く足りないような各種凶悪犯罪を連発させます。
さらに、戦時中は完全に頭を押さえられていた左翼主義者=アカが大手を振って活動できるようになるに至り、日本各地で各種デモや、デモに名を借りた集団暴力が繰り返されるようになりました。
このカオスの時期にあって、警察は武器は取り上げられるわ、人手は足りないわ、何かと進駐軍の顔色を窺わないといけないわで、手足を縛られたような状態。仕方なく警察がヤクザの親分やいわゆるフィクサーにお願いし、三国人退治やデモ破りなどをお願いしていたのも、このころのお話です。
進駐軍は新たな日本警察の携行武器を「警棒とけん銃」の2本柱に据えようと画策しており、その方針に沿った携行武器の選定をしていたわけですが、その過程でまず、バット式の警棒の使い前の悪さが露呈します。
とにかく短いため「両手に構え」(警棒の先端を左手、把手を右手で握った状態)からの「受け」が難しい、また、同状態で警官を横一列に並ばせて人の壁を作って交通規制をする、いわゆる「規制線」を敷くのにも不便至極。また、バットのような形をしているから「叩く」以外の使用方法がない…などなど、普段の使い前も、群衆整理・大規模警備実施にも全く不向きなシロモノでした。
警察幹部は再三に亘ってGHQに抗弁、その不便さ・役立たなさをようやく理解した?進駐軍は昭和24年4月、長さ60センチの警棒携帯を認めます。これが平成5年ころまで、日本の全警察官が携行していた「昭和の警棒」。平成以降に生まれた方は、60巻以前の古い「こち亀」のコミックスを見てください。どんなものか、すぐに確認できます。
ちなみにこの警棒、なぜかグリップ部分の10条の溝だけは継続され、バット式警棒時代の名残をわずかに留めていました(;^ω^)。
ただ、進駐軍による「警棒とけん銃」の方針は変わらず推進され続けます。
60センチ警棒の採用と同時期の昭和24年5月6日、進駐軍は警視庁に対し、けん銃射撃訓練場の新設を指示。同年11月には月島射撃場が完成し、翌25年1月には警視庁の全警察官に対し、拳銃が貸与されることとなりました。
この際貸与された拳銃は、コルト又はS&W社製の45口径&38口径のリボルバー各種でしたが、こうした新銃の配布は国家地方警察及び6大自治警察(当時の警察制度は現在と違い、『国家地方警察』『自治体警察』に分離しており、自治体警察のなかでも規模の大きい東京警視庁・大阪警視庁(当時)・名古屋市警・横浜市警・京都市警・兵庫自治警を「6大自治警」と呼んだ)から優先的に行われたため、ド田舎の地方では、メンテナンス不十分かつ、種類雑多な旧軍の拳銃を使用させられる始末(東北の警察では、なんと日露戦争より前に採用されていた、26年式拳銃を使わされていたこともあったとか( ゚Д゚))。結局田舎警察の「グッチャグチャ状態」は、けん銃がニューナンブで統一されるまで続いたようです。
しかし「警棒とけん銃」推進の裏では、それに水を差すものの廃止が強圧的に行われていました。
まずは、剣道訓練の禁止。
学校における柔剣道は昭和20年11月に早々に禁止されていますが、警察については地域差こそあったものの、少なくとも警視庁については進駐軍に対する演武などの必要性などから、辛うじてその命脈を保っていました。
ところが昭和24年、予備隊(現在の機動隊)柔剣道大会の開催に当たり、進駐軍の幹部を何気なしに招待したところ、進駐軍は「キサマら、マーダ剣道なんテもノをヤッテンノカ!」と激怒!
警視庁剣道は即刻、全面禁止の憂き目を見ます。
もうひとつの凶事は、警杖の使用禁止。
昭和24年5月、都庁付近で行われたデモにおいて、予備隊(機動隊の前身)は違法行為者65名を逮捕します。
この際予備隊は警棒を持たず、警杖を使用していましたが、進駐軍の幹部が「俺たちの選定した警棒の使い前」を観察すべく注視していた目の前で、進駐軍ご推薦の警棒を持たず、非認可品の杖を使ったのですからさあ大変。
「キサマラー!マ~ダ毛唐の恐ロしさヲ分かっテナイのカー!!!!」と、剣道同様、即日の警杖使用禁止を申し渡されます。
杖がまさかこんなことで槍玉に挙げられるとは思っていなかった清水師範の驚きと失望は大変なものでした。
なにしろ清水師範はこの騒動のほんの少し前、警視庁幹部に乞われ、三重県尾鷲市に赴いて1万2000本もの杖を準備したばかり。
杖の有用性を誰よりも知る清水師範は、杖を持たないデモ規制に相当な懸念を持っていましたが、それは悪い形で現実のものとなってしまいます。
昭和27年5月に発生したいわゆる「血のメーデー」事件。
デモ慣れした悪質な運動員は、プラカードや旗竿を武器化し、警棒しか持たない警察官に激しい暴力を加えてきます。
プラカードは文字を書いている板を外せば即刻、人を殴る棒に早変わりします。旗竿もしかり。悪質な運動員はさらに「板や旗を固定するため」という名目で、必要以上に釘をたくさん打ち込んで殺傷力を増した棒を振り回します。
対する警察官は杖もなく、後年使われる盾もなく、警棒1本でこれに応戦せざるを得ず(最終的には催涙弾も使用した)、警察側の最終的な負傷者数は、なんと800名以上を数えることとなりました。
これについては、現場警察官も幹部もよほど悔しかったのか、「警視庁武道九十年史」に「なにも(警杖使用が)まかりならぬの一点張りも、顧みて短見的措置ではなかったかと思う」と、かなり強い口調でイヤミが書かれています。
直後に行われた会議により、「警杖禁止」の解除が衆議一決し、再び警杖が制圧用具に戻ったのでありました。
その後、けん銃はニューナンブに変わり、60センチの樫の警棒はそのまま…という時代が長く続き、平成6年の制服・装備改正を迎えます。
この際、制服とともに変更されたのが警棒。
「いままでの樫の警棒はビジュアル的に威圧感がある」とのことで、三段伸縮・全長53センチの警棒に変更となりましたが…この威圧感のない、ヘタしたら第三者から見えない警棒になったとたん、公務執行妨害の件数が倍増しました。
これを受け、現在の警棒は全長65センチ・二段伸縮・ドアクラッシャーつきのものに変わりましたが…どうも携行性・使い前については微妙…なようでございます(;^ω^)。
以上3回に亘り、明治元年~現在に至るまでの「警棒等の歴史」をざざっと見て参りましたが、まとめてみた感想としましては…「う~ん、モノに歴史あり!」でした。
次回はいつになるか不明ですが、「警察逮捕術の歴史」について調べてみたいと思っておりますので、完成披露の際には閲覧を乞う次第でございます。
今回もご精読、ありがとうございました。
【「警察官の腰に「二段伸縮」が光るまでの長い歴史」参考文献等】
・「警視庁武道九十年史」警視庁警務部教養課 編
・「陸軍戸山流で検証する 日本刀真剣斬り」兵頭二十八・籏谷嘉辰共著 並木書房
・「陸軍用語よもやま物語」比留間弘 光人社
・「瀬戸内少年野球団」「無冠の父」阿久悠 岩波現代文庫
・ブログ「日本警察拳銃史」
・秀杖会公式ウェブサイト
・フリー百科事典ウィキペディア「特別警備隊」「サーベル」「血のメーデー事件」の項目
サーベルは大東亜戦争終結とともに滅びるわけですが、話はその前夜にさかのぼり、いわゆる「警杖」というやつの歴史も見ておきましょう。
「警杖(けいじょう)」とは、長さ120センチの樫の棒。
観光などで皇居の周りをウロウロしていますと、手に長い棒をもったおまわりさんが点在しているのを見ると思いますが、その棒が警杖です。
警杖が捕物用具に加わったのは比較的新しく、昭和8年のこと。
その4年前となる昭和2年、弥生神社(殉職警察官の御霊を祀るお社。明治18年創建。)における弥生祭奉納演武において、筑前福岡藩の御留流・神道夢想流杖術の清水隆次師範が演武を披露したところ、これが大好評を博しました。
折しも当時の東京では、野球の早慶戦など、大群衆がひしめくイベントが普通に行われるようになっており、警視庁はその都度群衆整理・交通整理にあたるわけですが、当時の警察には「群衆整理」的なもののノウハウがなく、イベントの度、その整理に四苦八苦。
なので当時の警視庁幹部は「群衆整理ができる部隊」「合理的かつ威圧感のない警備用具」の必要性を強く感じていました。
そこに登場した杖(じょう)は、警視庁幹部にとって福音以外の何物でもなく、まずは昭和6年、清水師範をさっそく嘱託師範として招きます。
昭和8年、現在の警視庁機動隊の前身ともというべき、群衆整理専門部隊「特別警備隊」発足。
清水師範は同隊員に対して厳しく杖術を指導しますが、もともと武芸に優れた警官のなかから選抜されただけあって、隊員はスポンジのように杖術を習得。
「突けば槍 払えば薙刀 持たば太刀」と称される高度な杖の技術を使いこなす特別警備隊員は「警視庁の華」「昭和の新選組」と謳われ、東京府民の信頼を勝ち得たものです。
これが現在も続く「警察警杖」の始まりとなります。
(余談ですが、一達流捕縄術の達人でもあった清水師範は同時期、捕縄・早縄術も並行して教えていました。)
ここで話を大東亜戦争の終結時に戻します。
大東亜戦争終結とともに日本には進駐軍が入ってきて、政治を牛耳るようになります。
「日本の民主化」という美名のもと、日本人のキンタマを抜こうと画策する進駐軍にとって、警察官の腰にぶら下がっているサーベルは「日本帝国主義の権化」以外の何物でもなく、昭和21年、速攻で廃止の憂き目を見ます。
昭和21年3月12日勅令第133号「警察官及消防官服制、巡査服制及判任官待遇消防手服制臨時特例」に記載された「刀又ハ短刀ヲ佩用セザルコト」という一文により、サーベルは日本の警察官の腰から、永遠の別れを告げました。
明治16年から「官憲の権威の象徴」であったサーベルを外すというのは間違いなく一つの時代の終わりです。
しかし、警察制度は大きく姿を変えつつ、まだまだ続いていく。
この渦中にいた警察官の心中は「寂しい」とか「せつない」などという言葉だけでは表現できない、さまざまな葛藤があったことでしょう。
このあたりの機微については、昭和の大作詞家・阿久悠先生の名作小説「瀬戸内少年野球団」「無冠の父」(ともに岩波現代文庫刊)をお読みいただくと大変よくわかりますが、ここでは「無冠の父」のほうから、携行武器が警棒に切り替わった時期の描写を引用します。
「昭和21年になって、サーベルが警棒になった。他にも、警察機構には大きな変化がさまざまあったが、私の目から見ると、サーベルから警棒へというのは重要であった。(中略)
サーベルは精神の拠り所のようなもの、どこか象徴的なものがあったが、警棒は、どんなに素朴であっても、武器である。撲る道具である。
『これで、撲れっちゅうんか』
と、父の武吉(←深沢武吉。阿久悠先生の御父上がモデル)は警棒を振り回しながら憮然とし…」
「もう、深沢武吉巡査が歩いても、自転車を走らせても、カチャカチャと鳴ることはなくなった。従って、私の周囲で、巡査が来たぞう、と叫ぶ子供の声もしなくなった。」
昭和21年7月21日、警視庁本部第一会議室において、上記勅令に基づくサーベルの返還式が行われ、かわりに同日、進駐軍が警察官に与えた携行武器は…警棒でした。
とはいっても、このころ与えられた警棒は長さ45センチ、先端の直径が3.5センチの、バットのような形状をしたもの。柄の部分には、10条の溝を刻み込んでいました。
しかし終戦直後の剣呑な世相は、警察官がこんなチャチな警棒を携帯して、のんびりと警邏することを許しませんでした。
終戦と同時に在日朝鮮・シナ・台湾人が「戦勝国民」を名乗り(いわゆる「第三国人」というヤツ)、日本各地で「乱暴狼藉」という表現だけでは全く足りないような各種凶悪犯罪を連発させます。
さらに、戦時中は完全に頭を押さえられていた左翼主義者=アカが大手を振って活動できるようになるに至り、日本各地で各種デモや、デモに名を借りた集団暴力が繰り返されるようになりました。
このカオスの時期にあって、警察は武器は取り上げられるわ、人手は足りないわ、何かと進駐軍の顔色を窺わないといけないわで、手足を縛られたような状態。仕方なく警察がヤクザの親分やいわゆるフィクサーにお願いし、三国人退治やデモ破りなどをお願いしていたのも、このころのお話です。
進駐軍は新たな日本警察の携行武器を「警棒とけん銃」の2本柱に据えようと画策しており、その方針に沿った携行武器の選定をしていたわけですが、その過程でまず、バット式の警棒の使い前の悪さが露呈します。
とにかく短いため「両手に構え」(警棒の先端を左手、把手を右手で握った状態)からの「受け」が難しい、また、同状態で警官を横一列に並ばせて人の壁を作って交通規制をする、いわゆる「規制線」を敷くのにも不便至極。また、バットのような形をしているから「叩く」以外の使用方法がない…などなど、普段の使い前も、群衆整理・大規模警備実施にも全く不向きなシロモノでした。
警察幹部は再三に亘ってGHQに抗弁、その不便さ・役立たなさをようやく理解した?進駐軍は昭和24年4月、長さ60センチの警棒携帯を認めます。これが平成5年ころまで、日本の全警察官が携行していた「昭和の警棒」。平成以降に生まれた方は、60巻以前の古い「こち亀」のコミックスを見てください。どんなものか、すぐに確認できます。
ちなみにこの警棒、なぜかグリップ部分の10条の溝だけは継続され、バット式警棒時代の名残をわずかに留めていました(;^ω^)。
ただ、進駐軍による「警棒とけん銃」の方針は変わらず推進され続けます。
60センチ警棒の採用と同時期の昭和24年5月6日、進駐軍は警視庁に対し、けん銃射撃訓練場の新設を指示。同年11月には月島射撃場が完成し、翌25年1月には警視庁の全警察官に対し、拳銃が貸与されることとなりました。
この際貸与された拳銃は、コルト又はS&W社製の45口径&38口径のリボルバー各種でしたが、こうした新銃の配布は国家地方警察及び6大自治警察(当時の警察制度は現在と違い、『国家地方警察』『自治体警察』に分離しており、自治体警察のなかでも規模の大きい東京警視庁・大阪警視庁(当時)・名古屋市警・横浜市警・京都市警・兵庫自治警を「6大自治警」と呼んだ)から優先的に行われたため、ド田舎の地方では、メンテナンス不十分かつ、種類雑多な旧軍の拳銃を使用させられる始末(東北の警察では、なんと日露戦争より前に採用されていた、26年式拳銃を使わされていたこともあったとか( ゚Д゚))。結局田舎警察の「グッチャグチャ状態」は、けん銃がニューナンブで統一されるまで続いたようです。
しかし「警棒とけん銃」推進の裏では、それに水を差すものの廃止が強圧的に行われていました。
まずは、剣道訓練の禁止。
学校における柔剣道は昭和20年11月に早々に禁止されていますが、警察については地域差こそあったものの、少なくとも警視庁については進駐軍に対する演武などの必要性などから、辛うじてその命脈を保っていました。
ところが昭和24年、予備隊(現在の機動隊)柔剣道大会の開催に当たり、進駐軍の幹部を何気なしに招待したところ、進駐軍は「キサマら、マーダ剣道なんテもノをヤッテンノカ!」と激怒!
警視庁剣道は即刻、全面禁止の憂き目を見ます。
もうひとつの凶事は、警杖の使用禁止。
昭和24年5月、都庁付近で行われたデモにおいて、予備隊(機動隊の前身)は違法行為者65名を逮捕します。
この際予備隊は警棒を持たず、警杖を使用していましたが、進駐軍の幹部が「俺たちの選定した警棒の使い前」を観察すべく注視していた目の前で、進駐軍ご推薦の警棒を持たず、非認可品の杖を使ったのですからさあ大変。
「キサマラー!マ~ダ毛唐の恐ロしさヲ分かっテナイのカー!!!!」と、剣道同様、即日の警杖使用禁止を申し渡されます。
杖がまさかこんなことで槍玉に挙げられるとは思っていなかった清水師範の驚きと失望は大変なものでした。
なにしろ清水師範はこの騒動のほんの少し前、警視庁幹部に乞われ、三重県尾鷲市に赴いて1万2000本もの杖を準備したばかり。
杖の有用性を誰よりも知る清水師範は、杖を持たないデモ規制に相当な懸念を持っていましたが、それは悪い形で現実のものとなってしまいます。
昭和27年5月に発生したいわゆる「血のメーデー」事件。
デモ慣れした悪質な運動員は、プラカードや旗竿を武器化し、警棒しか持たない警察官に激しい暴力を加えてきます。
プラカードは文字を書いている板を外せば即刻、人を殴る棒に早変わりします。旗竿もしかり。悪質な運動員はさらに「板や旗を固定するため」という名目で、必要以上に釘をたくさん打ち込んで殺傷力を増した棒を振り回します。
対する警察官は杖もなく、後年使われる盾もなく、警棒1本でこれに応戦せざるを得ず(最終的には催涙弾も使用した)、警察側の最終的な負傷者数は、なんと800名以上を数えることとなりました。
これについては、現場警察官も幹部もよほど悔しかったのか、「警視庁武道九十年史」に「なにも(警杖使用が)まかりならぬの一点張りも、顧みて短見的措置ではなかったかと思う」と、かなり強い口調でイヤミが書かれています。
直後に行われた会議により、「警杖禁止」の解除が衆議一決し、再び警杖が制圧用具に戻ったのでありました。
その後、けん銃はニューナンブに変わり、60センチの樫の警棒はそのまま…という時代が長く続き、平成6年の制服・装備改正を迎えます。
この際、制服とともに変更されたのが警棒。
「いままでの樫の警棒はビジュアル的に威圧感がある」とのことで、三段伸縮・全長53センチの警棒に変更となりましたが…この威圧感のない、ヘタしたら第三者から見えない警棒になったとたん、公務執行妨害の件数が倍増しました。
これを受け、現在の警棒は全長65センチ・二段伸縮・ドアクラッシャーつきのものに変わりましたが…どうも携行性・使い前については微妙…なようでございます(;^ω^)。
以上3回に亘り、明治元年~現在に至るまでの「警棒等の歴史」をざざっと見て参りましたが、まとめてみた感想としましては…「う~ん、モノに歴史あり!」でした。
次回はいつになるか不明ですが、「警察逮捕術の歴史」について調べてみたいと思っておりますので、完成披露の際には閲覧を乞う次第でございます。
今回もご精読、ありがとうございました。
【「警察官の腰に「二段伸縮」が光るまでの長い歴史」参考文献等】
・「警視庁武道九十年史」警視庁警務部教養課 編
・「陸軍戸山流で検証する 日本刀真剣斬り」兵頭二十八・籏谷嘉辰共著 並木書房
・「陸軍用語よもやま物語」比留間弘 光人社
・「瀬戸内少年野球団」「無冠の父」阿久悠 岩波現代文庫
・ブログ「日本警察拳銃史」
・秀杖会公式ウェブサイト
・フリー百科事典ウィキペディア「特別警備隊」「サーベル」「血のメーデー事件」の項目
ありがとうございます😊
シリーズ完結おつかれさまでした。
ブログ主さまの歴史ネタは
まことに外れざりけりですね。
現場以外の決定で現場が苦労する
所は身につまされるお話でした。
形状、外観、使い勝手どんなことでも
考察できないとだめですね
毎年参考にさせていただいております。
良いお年をお迎えください。
勤務お気をつけて🙇♂️
モノの扱い方は、本人次第。各人の工夫で乗り越えるしかない😭。それは、勤務に対する『姿勢』。偉い人は、嫌がりますが・・・・🙄。個人技で対応が難しい『群衆整理』に有効な『盾』の考察もお願いしたいです。m(_ _)m・・・・。
安納 雲^ ^さま、過分なお褒めの言葉を頂き、大変恐縮でございますm(__)m。
何分、褒められることに慣れていないため、なんとお言葉をお返しすればいいのかわからないのですが、とりあえず大きな感謝を差し上げたく存じます。
来年も、弊ブログの駄文をご覧頂きますれば、大変幸甚に存じます。
(゜_゜)さま、ありがとうございます。
二段伸縮警棒の使い心地につきましては、「その2」における(゜_゜)さまのコメントを無断で反映させて頂きました(;^ω^)。この場をお借りして、お詫び申し上げますm(__)m。
平田警視の事件はよく覚えています。
けん銃使用が大きく啓かれた契機となったエポックのような事件でしたが、いろいろと「それでいいのか?」と考えさせられる事件でございました。
来年も弊ブログをお引き立て…いや、引き立てをお願いするほどのブログじゃありませんので、ヒマでヒマでどうしようもない時にでもお読み頂きますれば幸甚ですので、よろしくお願い申し上げますm(__)m
これからも微力を尽くします!