集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

警視庁剣術の史料から眺めた「柔道史」の怪しさ

2023-01-02 11:27:38 | 雑な歴史シリーズ
 昨年まで弊ブログにおいて、警察逮捕術と、その下敷きとなった「警察武道」の歴史を長々と振り返る連載を行いました。
 現在、とある理由で(;^ω^)、その増補改訂作業を少しずつやっておりますが、今回は史料再発掘の過程でわかったことをお話しします。

 連載の第1回で、「警視庁は武道の熟練度を示す段位・級位に相当するものとして『切紙・目録・免許・名人』という古臭い名称に変えて1~7級という級位を設け、大正時代には1~5級になった」というお話をしました。
 ちなみに1~7級の級位制度ができたのは明治19年、「警視庁流型」(後述の「皇国剣道史」による名称)の制定と同時期です。

 で、このたび剣道史料のほうから、この級位制度を具体的に示す資料が出てきました。
 「剣法至極詳伝」という大正2年に刊行された書籍では、同制度をこのように説明しています。
「警視庁に於ては等級を分ちて七級から二級に至る六階級あれど七級は級外と看做すべきを以て真の等級は六級よりとす」
「六級五級四級には各上中下あり」
 これとは別の史料「皇国剣道史」(昭和19年刊)には、「剣法至極詳伝」と全く同様の解説があるほか、この警視庁級位がいかほどの実力であったかも示されており、
「二級は当時の名人、三級は当時の免許、四級は当時の目録、五級は当時の切紙、であり後の大日本武徳会に於て、四級は三段に相当するが、実際はそれ以上の力があった」
 なお同制度発足時、二級(=天下のスーパー名人クラス)はわずか11人、三級(=現在の全日本トップクラス)が39名という陣容。
 そのうち二級には「フロックコートの剣士」と謳われた籠手打ちの名人・得能関四郎(天保13(1842)~明治41(1908)年)、「日本一の突きの名人」下江秀太郎(嘉永元(1848)~明治37(1904)年)、二刀流の名人で「蟹の三橋」と謳われた三橋鑑一郎(天保12(1841)~1909(明治42)年)などなどがズラリ。当時の警視庁がいかに本気で天下の名剣士を集め、分厚い指導陣を持っていたかを示す証左となっております。
 余談ですが、このとき四級に「藤田五郎」という人物が存在しますが…これは新選組にいた、斎藤一のこと( ゚Д゚)。あの「るろうに剣心」でも名をはせた幕末きっての剣豪が四級…当時の警視庁、どんだけ指導陣が分厚かったんでしょうか( ゚Д゚)( ゚Д゚)( ゚Д゚)。

 上で紹介した史料は、いずれも国立国会図書館のデジタルコレクション蔵書なのですが、剣道の方はこのほかにもしっかりとした史料が残っており、当時いつごろどこで何があって、どういうムーブメントが起きたかということが正確に理解できます。

 これに対し、捏造や記憶違いの記述がやたらと多く、真相がよく見えないのが柔道史。特に警視庁に採用された明治20年前後の様子がほんとうに不明瞭で、嘉納や、その弟子たちによって好き勝手に書かれたものばかりが「正史」として大手を振っているのが現状です。まあそれは、嘉納が望んだことなので仕方がないんですが…

 たとえば昭和14年に講道館が発行した「大日本柔道史」には、後の講道館四天王・山下義韶と、「警視庁切っての猛者、確か中村師範」…つまり、良移心頭流師範・中村半助とが試合を行い、「たちまちのうちに惨々(原文ママ)投げた」とありますが、この記述は「長い長い歴史」をご覧になられた皆様は等しくお分かりの通り、捏造甚だしい大嘘です。

 まず、「山下と中村師範が試合をした」という一次記録自体が「大日本柔道史」以前の史料に一切存在しません。
 次に「そもそも問題」として、講道館が海のものとも山のものともつかなかった当時、警視庁柔術掛のトップ実力者である中村師範が、どこの馬の骨ともわからない山下と試合をしなきゃならない理由がありません(;^ω^)。
 これは武道家の格・実力の双方から考えてもありえない話であり、この対戦の無理筋っぷりを今日の格闘界、しかもボクシングで例えれば…絶対王者の井上尚弥選手に対し、プロデビューしたての4回戦ボーイが、ジム会長の政治力を盾に挑戦させられるようなものです(;^_^A。絶対に絶対に、ありえん話でしょう。
 それでももし万が一、何かの拍子にこの対戦が実現して山下が勝利を得ていたとすれば、自慢大好き嘉納治五郎(;^ω^)が、著書でバリバリ吹聴していたはずですが、膨大すぎるほど膨大な嘉納の著作のどこにも、そういう記述が一切存在しない。この事実だけで「中村師範VS山下の対戦はなかった」と結論付けて、全く不足はないでしょう。

 また嘉納は、あっちこっちで「柔よく剛を制す」などと言いながら、その実「体格・フィジカルが上の相手に、技だけで勝つことはできない」ことをよく知っていました。このあたりはさすが、わが国に「スポーツ」を取り入れた第一人者らしい慧眼といえましょう。
 それをわかっていた嘉納だからこそ、のちに(おそらく、政府高官に人脈を持つ嘉納が、警視総監の三島通庸に強引に認めさせたであろう)中村師範VS自分の弟子との試合に、小兵の西郷四郎や山下ではなく、講道館とは略無関係者ながらデカさとフィジカル抜群で、「講道館の用心棒」として恃んだ横山作次郎を投入したのは、決して偶然ではない!といえます。
(試合経過はご存じの通り、1時間近い試合のすえドロー。しかし寝技では中村師範が完全に圧倒)

 なお、山下と中村師範が同じ空間で何かをしたという記録は、明治27(1894)年に講道館の道場新築を記念して行われた演武会で、山下が起倒流の形を、中村師範が良移心頭流の形を演じたというものしかありません。

 このように柔道の歴史は、講道館が編纂した「正史」ですらデタラメな記述が多いうえ、戦前~戦中にかけては講道館の御用作家・古賀残星が書きなぐった「お子様向け講道館読み物」のせいで、その姿はさらに歪められました。戦後にはその古賀作品を種本にして書かれた「柔道の歴史」すら存在し、何をかいわんや…です。

 「逮捕術の歴史」をひもとこうと思えば、「柔道の歴史」をしっかりひもとく必要があることは「長い長い歴史」の連載でイヤというほど思い知らされたばかりです。
 しかし「柔道史」はいまお話ししました通り、「講道館とその縁故者が書きなぐった、じつにいい加減なもの」が異様に多いことから、その歴史を正確に知るためには、その横を並走した剣道などの史料をトレースしなければ、精度の高い「長い長い歴史」が作れないなあ…と思っております。
 完成がいつになるかは、皆目見当もつきませんが…(-_-;)。

 あ、お話ししたいことが先走り過ぎてしまい、新年のご挨拶を忘れていました。本年もよろしくお願い申し上げますm(__)m。
 

3 コメント

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ありがとうございます! (周防平民珍山)
2023-01-04 20:37:57
 (゜_゜)さま、老骨武道オヤジさま、新年早々ありがとうございますm(__)m。

 「長い長い歴史」の増補改訂を決意したきっかけは、国会図書館の資料を漁れば漁るほど、いろんな資料がゴロゴロ出てくることをふまえ、(゜_゜)さまが連載終了時におっしゃって下さった「お台場での披露」でした。

 「お台場での披露」の実現はまだまだ先になりそうですが(;^ω^)、じつは「長い長い話」シリーズ系統の史実分析話は意外な人気???を博しており、本稿が本日なんと、gooブログで最大瞬間ですが、200位くらいまで上がっていました( ゚Д゚)。ウソダロ…

 世の中には意外と「武道史のウラ話」に興味を抱いておられる方がたくさんいるようですので、「長い長い歴史」につきましては、その方面に目の肥えた方々の前に出しても恥ずかしくないものを完成させたいな、と思っております。
(ですので、どうせ改正することがわかっていますから、ブログの「長い長い歴史」はそのまま放置しておきます。っていうか、誰か剽窃してくれないかな?と思っているくらいです(;^ω^))

 本年もよろしくお願い申し上げますm(__)m。
 
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Unknown (老骨武道オヤジ)
2023-01-04 06:17:23
私が柔道から空手に“転向”した若造の頃、先輩方の愚痴は姿三四郎で正義のミカタになった柔道×悪役になってしまった空手でありました。最も柔道を知らない空手の使い手では少々殴られるのを我慢した柔道使いに不覚を取るのは当たり前ですが・・なにせ明治になってからの世相はエリートの象徴=帝国大学(東京大学)の誰かさん(カノウジゴロ)には甘いのですな・・。だから私はお遊びで門下生に柔道破りの反則技を時々教えております・・チャンチャン!!
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Unknown ((゜_゜))
2023-01-03 17:52:16
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。
年明けからのトップギア、流石です。m(_ _)m又藤田五郎で四級って……どれだけ………😱。
研究成果、本当に夏か冬のお台場で発表して頂けないかな~~?と本当に思います。m(_ _)m
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