最近、お出かけするときはいつもガンちゃん(カメラ)と一緒です。
ガンちゃんの心が少しだけど分かるようになってきたので、楽しくって、毎日々写真が増えます。
ブログにそのままアップさせるまでには、まだまだ技術が未熟なので、画像編集ソフトで写真をかなりいじらないといけません。(いじらないと気がすまないんです。)
その結果、写真がどんどん増えて・・・写真付きでブログをアップしたいと思うことがた~くさんあるのに、画像編集が追い付かずに全然アップできません(泣)
すみません。愚痴でした
こんな私を癒してくれる動画を探していたら、ありました。
『フレンチボッサ』の曲がたくさん入った動画です。ボサノバが海を渡ってフランスに行ったら、こんなおしゃれになったんです。それにとっても可愛くって、・・・フレンチボッサ大好き♪ (この動画には普通のポップスの曲も混じってます。)
特に、11:35あたりからの Coralie Clementの L'Ombre et Lumiereが素敵です♡
木村純さんがたまにフレンチボッサだけのライブをするので行ってみたいです。
こんなおしゃれで可愛いフレンチボッサですけど、実はブラジルの政治的な背景があって生まれた音楽なんです。
【参考データ】
1964年、クーデターによって軍事独裁体制を確立したカステロ・ブランコ将軍は、親米反共政策と、外国資本の導入を柱にした工業化政策を推進したが、驚異的な経済成長を遂げる一方で、人権侵害も大きな問題となった。そんな厳しい時代は1985年に民政移管が実現するまで続いた。
自由で新しい音楽ボサノバを生み出した若者たちや芸術家たちは当然のごとく反政府的活動を展開していく。そんな時期に自由を求めて、ブラジル政府批判を繰り返した女性シンガーがいた。ボサノバ創生期、学生たちの間でミューズ、女神と呼ばれた、「ナラ・レオン/Nara Leão (1942年1月19日 - 1989年6月7日)」である。
ナラは軍部に徹底的に目をつけられ、結局、1968年ナラは「カエターノ・ヴェローゾ」、「ジルベルト・ジル」等と同様パリに亡命し、ボサノバと決別した。
しかし、自身の出自と向き合いボサノバとの和解を決意し、1971年、堰を切ったように全編ボサノバのアルバム「Dezanos Depois(美しきボサノバのミューズ)」を録音する。シンプルなギターの伴奏で、ボサノバの定番を歌った。
彼女を始めとして、パリには亡命するブラジル人音楽家たちを受け入れる素地があったと思われる。
フランスへサンバを紹介した男、1957年に「Dans mon ile」を発表し、「アントニオ・カルロス・ジョビン」に影響を与え、ボサノヴァの誕生に貢献したといわれる「アンリ・サルヴァドール/Henri Salvador」がいたし、放浪の果てにボサノバに出会い、フランスに戻って、ボサノバを広めた「ピエール・バルー/Pierre Barouh」などがいたのだ。
1964年のクロード・ルルーシュ監督の映画「男と女」の音楽は、「フランシス・レイ」と並んで、「バーデン・パウエル」が担当し、「ピエール・バルー」は「アヌーク・エーメ」の夫役で出演し、ボサノバ讃歌を歌った。
こうして、フランスで広まっていったボサノバは、ロック界の「セルジュ・ゲンズブール」などにも大きな影響を与え、「フレンチ・ボッサ」と呼ばれるジャンルを築いていくまでになる。
代表的なフレンチ・ボッサ歌手といえば、「クレモンティーヌ/Clémentine」であろうか。彼女の「カフェ・アプレミディ~クレモンティーヌが歌うボサノヴァ」はボサ・ノヴァ・テイストの人気曲ばかりを贅沢にセレクトし、まさにフレンチ・ボッサの傑作集である。
※ブログ「大屋地爵士のJAZZYな生活」から引用
http://oyajijazz.exblog.jp/12911781
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