天気が悪いと身体のあちこち不具合ばかりで、
同年代では最先端をいっているような気がします。
さて、お昼休憩を挟んで午後の部です。
その前に今回は、昨年までと変わったことがありました。
パンフレットに協賛企業名が添付されており、会場内にもそれがありました。
市外で開催される同様のイベントにも行きますが、そのような例を見た記憶がありません。
とうとう郷土芸能の発表も、ままならないほどの懐具合になったのかと・・・。
どうせ企業献金と同じような仕組みなら、いっそのこと、政治家からのこのような寄付を
条件付きでOKにして、そこからも頂いたら手っ取り早いのでは?
報告書に載せないんでしょうから 笑
さて、バカな話はこれまでとして、続きにいきましょう!
午後の1番目は宮守町の下郷さんさ踊りさん
活動団体名は下郷芸能保存会というんですね~!
演目は、立踊り、輪踊り、組み踊りです。
普通のレンズなので、どれもこれも暗めになってしまいました!(;^_^A
9月下旬の砥森神社のお祭りでは、いくつかのグループに分かれて活動していたので、
お目にかかれなかった方々の姿もありました。執着至極に存じます。笑
下郷さんさでは皆さん、踊りながら歌っていて楽しそうに見え、
この唄を覚えて、撮りながら一緒に歌いたいなあ~!なんてね。(;^_^A
それぐらい見ている人の気分をアップさせてくれます。
次は特別招待団体です!
その前に休憩時間のホワイエの様子から。
最先端の物づくりとは真逆の物づくり、わらじです!
なぜ、ここでわらじかと云うと、郷土芸能の履物のひとつがわらじで、舞台などで演じる際、
わらじそのままだと滑るので、ゴム?加工のわらじ風の物を履いている団体があります。
ところが、それが生産中止になった?なる?そうです。
ここで、特別招待団体として北上市の相去鬼剣舞さんが登場です!
先ほどのわらじ、ゴム?加工のわらじを履いていたこの団体でも、生産中止を憂慮。
そこで宮守町の(上の写真の)男性からわらじ作りを習い、わらとゴム?を織り交ぜた底を
開発。ここでも女性が大活躍ですね!
相去鬼剣舞さん
明治23年頃に岩崎鬼剣舞の指導を受け、同29年に秘伝書を伝授され、中断を経ながら、
活動しているということのようです。
北上市は郷土芸能数が多い地域ですが、中でも特化しているのは、この鬼剣舞でしょう。
その本家本元の剣舞はどこにでもあると云う訳でなく、宮城県と岩手県に見られる芸能です。
この日は最初に一番庭、
次に一人加護
膳舞と宙返りの組み合わせ
刀剣舞の狂い と云う内容でした!
午後から、お客さんが増えたと感じたのは、この相去鬼剣舞さん目当ての方々だったようです。
始まる時、そばに居たご婦人グループのひとりが、一人加護は・・・・、などと説明して
いたのが聞こえ、人気のほどが窺い知れました。
北上市の「鬼の館」では、年間、結構な回数、鬼剣舞の公演が行われています。
北上市の翔南高校鬼剣舞部は、岩泉高校の中野七頭舞を演じる郷土芸能同好会と共に
全国的にその名が知られています。
是非、ユーチューブなのでご確認下さい!
ところで、この日、参加した遠野の芸能関係者の中に相去に縁ある方がおりました。
そのような人との縁を感じると、今まで以上に親しみを感じるようになるのも
芸能ものの良さかもしれません。
相去は岩崎が未だ鬼剣舞の名称を使用していない時期に最初に相伝したようですね。ある意味で本家帰り的な感じかな??岩崎の剣舞はやはり仙台藩胆沢郡から伝わったようだし、相去の三十人町は胆沢郡の藩境の村で足軽が藩境を守っていた地域ですね。岩崎も江戸末期には衰退していたようで幕末から明治初期にかけて胆沢の南下幅念仏剣舞に習いに出かけていました。その時習った内容はおそらく現在の南下幅と同じだったとは思いますが、明治中期には現在の鬼剣舞のように変容していました。それが大きな謎なのですがこの変容があったからこそ今の鬼剣舞の人気があるんですね。私の解釈ではやはり修験道廃止や神仏分離の影響があったのだろうと考えています。それと輪踊を極力排して神楽のように正面に向かって踊るスタイルが旧修験者の影響があったのではないだろうか?それと面が胆沢の念仏剣舞と比べると神楽面になっている点が気になります。
遠野で鬼剣舞を見ることは滅多にないので、久しぶりの生は迫力満点で、お客さんの反応も良好でした!
流石に全国区の芸能ですね!