談合ブレストでも書いているように、『競争は大賛成』。 ただし、役人が作ったルール(特に経済法規)を無批判に崇め、批判改善すら許さない、考えないのはおかしいと言っているだけ。 無競争が人間を堕落させるのは、古今東西の普遍的法則にまちがいない。
私が小学生くらいのころ(今から35年ほど前)のお年寄りに比べて、今の高齢者はだいぶ人格が劣化していると思う。 当時のおじいさん、おばあさんは、子供心にも人間としての器の大きさを感じさせる立派な人が多かった。 ところが今はどうだ。 10代20代と同じように髪を染め、公共マナーも知らない高齢者をあちこちで見かける。 高齢者の犯罪も急増している。 少子高齢化を考慮しても、高齢者犯罪は激増している。 忍耐力のないキレやすい我儘な者が多くなったということだろう。 ある大物女優が、『最近の若い連中は敬老精神が足りない』とテレビで叫んでいたが、これで敬えと言ってもどだい無理な話である。 そもそも本当に立派な人は、自分を敬えなどと自ら口にするものではない。
なぜか? 理由は簡単である。 社会保障制度の充実で、高齢者同士が競争しなくなったからである。
あくまでも私の推測だが、老人介護が家庭内で行われていた昔は、子供とくにお嫁さんから嫌われた年寄は内々に時間をかけて殺されていたと思う。 もちろん、刃物などの直接的やり方ではなく、わざと塩辛いものを食べさせるとか、栄養価の悪いもの、食事の量を減らすなどといったやりかたで。 結果として、人格修養のできていないお年寄りには早めにお迎えが来て、人から好かれる立派なお年寄りだけが長生きしたのではないか。
家族の収入にも、お嫁さんの労力にも限界がある。 所得も労力も限られていれば、家族内での分配が問題になる。 お義父さんお義母さんの医者代に使うより、住宅ローン、子供の学資ローンが優先されるかもしれない。 両親にはインスタント食品を食べさせ、自分たちはウナギや寿司を食べに出かけていたかもしれない。 医療費ねん出のために借金する家庭などなかっただろう。 まさか、国債ならぬ家債を発行することもできない。 家族の所得と労力が、お年寄りの寿命を決定していた。
民間企業が取引先のご機嫌をうかがうように、昔のお年寄りは、若い人たちのご機嫌を取らなければ長生きできなかった。
ところが、社会保障制度が充実すると、国が一律に面倒を見てくれる。 子供や若者に気を使う必要もない。 わがまま放題でも長生きできる ⇒ 高齢者が減らない ⇒ お金が足りなければ、国債も発行する。もちろん、自分が稼いだ金ではない ⇒ まだ生まれていない世代にまで請求書をつけ回し浪費し放題 ⇒ 財政赤字激増。
今日はここまでにします。おやすみなさい。
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