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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

樫原のコトネンブツを訪ねる・前編

2017-02-04 23:02:52 | 民俗学

コトネンブツを最初に行う地蔵堂(松川町上大島樫原)

 

 今年もコトヨウカを間近に迎えた。ニュースではすでに松本市で行なわれた念仏行事が伝えられていたが、土日開催となると8日が平日ということもあって前倒しをするとこの土日あたりに実施するところもあるのだろう。2月は行事の少ない月。したがってコトヨウカは2月らしい日と言えるが、コトヨウカということを言う地域には偏りがある。わたしの生まれ育った地域もコトヨウカという単語を聞かなかった。むしろその前にある節分の方が親近感があったわけで、昨日触れた「かにかや」はまさにその節分の行事。

 今暮らしている近くの諏訪形ではヤクジンヨケという行事が2月15日ころ実施されている。厄神がやってくるのを防ごうとして大きなゾウリをムラ境に吊るす行事で、松本のコトヨウカ行事に似ている。したがってコトヨウカ行事と間違えてしまいそうだが、昔は春は八十八夜、秋は二百十日に行なわれたというから、コトヨウカ行事ではない。この諏訪形のヤクジンヨケについては「トラブルの日々」や「厄神除け」「ムラ境の厄神除け」で触れた。この諏訪形と片桐松川を挟んだ対岸にある上大島樫原には、コトヨウカらしき行事が現在も行われている。松川町には町史というものがあるが、まったくあてにならないというか、民俗についてはまったく触れられていないに等しくて行事について記されたものもほとんどない。そんななか昭和46年に松川中央小学校の昭和44年度6年生有志が編んだ『松川町の年中行事』という本が松川町教育委員会から発行されていて、唯一この地域の行事を知る手立てとなっている。実は当時の有志の名簿にはわたしの従兄弟の名前が記されているから昭和31、32年生まれの人たちだろうか。100頁ほどの薄い本ではあるが、今では見られない、あるいは聞くこともできないような習俗が掲載されていて興味深いものである。かつて「オヤス」について書いたが、ここに掲載した図は『松川町の年中行事』に掲載されているものである。昨日触れた節分についても、同書には「かにかや」以前の飾り物の図や、竹の串に刺した鰯の頭の写真なども掲載されている。その同書に樫原のコトネンブツのことも記されているし、諏訪形と同じ厄神よけ(ヤクガミヨケと言う)が風の神送りとして行われていたことが記されている。それは村中にはやり病や悪者がはいりこまないよう、村の入口に「塞の神」という立札を立てたというもの。同書ではコトネンブツが6日、風の神送りは6日の夜中に実施したとあり、ふたつの行事はセットで行われていたようだ。

 コトネンブツについて同書に記載されているものをここに引用してみる。

 の五才から十四才までの男の子が夜の家々を廻り、土間で立っていて大きな珠ず=母珠(ぼじゅ)という(長さ十米ぐらい)を持ち念仏をあげる。三回位廻すと終わりにする。時計と反対にまわす。
 始めに大きい人が「光明遍照(こうみょうへんしょう) 十方世界(じっぽうせかい) 念仏衆生(ねんぶつしゅじょう) 摂取不捨(せっしゅふしゃ)」というと、それに続いてみんな一緒に「なむあみだぶつ」を唱えながらじゅずを廻す。終わりにみんなで、「願以此功徳(がんにしくどく) 平等施一切(びょうどうせいっさい) 同発菩提心(とうほつぼだいしん) 往生安楽国(おうじょうあんらくこく) 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と言って次の家へ行く。
 最後に集まって塩けのご飯を食べる。その後は遊ぶ物を持って行って遊ぶ。大きい人だけその家にとまり、小さい人は家に帰った。(樫原)
○また他の所では、の男の子が集まり昼間大きなじゅず(これを念珠ともいう、数珠とかく)(十米ぐらい)を持って、チンチン(磬(けい)という)という鐘をならし、「なむあみだぶつ」と言っての家々を廻って歩く。廻って行った家でお米とお金を少しもらって歩く。その夜、の一軒の家に集まり泊めてもらって、もらって来たお米でご飯をたいて食べる。
○チンチンの鐘に合わせて、まわって来てもらった家の人達も一緒に皆でじゅずをまわして念仏を唱えました。結び目を頭にいただく。年寄りの人はそのじゅずをかりて短くたたんで嫁に腹や肩をじゅずで叩いてもらうと、腰や肩が痛くならないといって「おじゅずを貸しておくんな」と言いました。
○これをしたへ悪病がはいらないように念じる。
 桑園もやった。夜は大人も一緒になり面白く遊んだ。
○で異なっていたと思う。
○第一お地蔵様から始めて廻り、これを休むと悪病がはやるといった。とめてもらった家でもおじゅずをまわしてお念仏をした。
○桑園の場合だいたい樫原と同様であるが、土曜日の午後行なったように記憶している。
○後にはレクリエーショソが主となったが、はじめは村中の災難や悪魔を払う行事であった。
○そのじゅずは大家か区の御堂等に保管されてあり、区に大病人が出た時事は信者親類の者、近所の人が集まり、じゅずを繰って全快を祈願した。
○ご飯を食べたあと十二時、じゅずを持ちチンチンをたたいてざかいに行き念仏をとなえ同時に悪病を追い払いあとを見なしに家へかえり、その夜はそこにとまり朝かえる。

 続いて「風の神送り」についても引用しておく。

 こと念仏でとまった夜十二時ごろする。
紙に馬という字を十二書き(たてに三つ横に四つ)それを封筒の中に入れ、よそのの四つ辻に持って行って捨て、後を振り向かないようにして帰ってくる。そうすると一年中に悪いやまいがはいらなかった。
 どうしてこのようにしたかについて次のようにいわれている。
 年寄りが「馬の夢を見ると風邪をひく」ということを昔は言ったということを聞いたことがあるような記憶がある。あるいはこの地にそんな言い伝えがあり、そのため馬を書いたのかも知れません。
 十二書いた理由は果して何かわかりません。あるいは十二か月でもあらわす意でしょうか?
昔から馬の夢を見ると風邪をひくといい伝えがあるが、たしかにうなづける。
 それで馬の字を書いて道に捨てておく。それを外の人が拾うとその人が風邪をひいてくれて、自分の風邪が軽くてすむ。こんな事を少し前までする人がいたが、現在はそんな人に迷惑のかかることは良くないのでしないようになった。
どうして馬と書くかわからないが、よく風邪をひくと紙に馬の字を一字ずつ十二枚書いて辻に捨てた。何げなしにそれを拾うと風邪がうつるとか言った。
昔は家内中風邪をひくと馬の字十二字を書いて封筒に入れて道の四つ辻にすてて風邪を追い出した。
風邪にかかると紙に馬という字を書き、竹ざさにつけ道路の四つ辻に立て全快を祈ったという。
 この時に鶏の絵を一枚紙に書いて馬頭観音に供えると、子供の鳥ぜきがよくなるといった。
◎塞の神・厄神よけ
 村中へはやり病や悪者がはいりこ悪いように、村の入口のところに「塞の神」というものを竹の皮や太の小さい箱、中には単に建札を立てて、防ぐおまじないをする。塞の神のお札を竹の棒にはさみ道ばたに立てる。これを「厄神よけ」という。今ではもうみられない。

以上である。この樫原で行われているコトネンブツが本日実施されたので、現状を確認しに行ってきた。

続く


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