一昨年「血圧を測って・・・」を記した。人間ドックに行って今まで見たこともない数値を見てびっくりした次第だ。確かに血圧144などという数字は何度測っても100に達しなかった若い頃の血圧に比較したら驚愕の数値だったが、その後こんなに高い数値を刻んだことはない。とはいえ、このごろは100以下などという数値は見たこともなく、ごくふつうの数値を継続している。というか血圧を測るのは人間ドックの時だけだから、1年に一度だけ。その計測をこの金曜日に行ったが、120代というふつうの値を示した。ようは1年に一度の人間ドックの日。
正月に向方を訪れてお潔め祭りを見学してきたわけであるが、その際にも触れた通り、かつてオキヨメマツリは願が掛けられた際に行なわれた祭りだったという。身体が弱かったりすると神様にお願いして願いを掛けたというわけだ。そして一生宮人としてお宮に奉仕するという。そういう意味で捉えると、現代なら人間ドックは再生の場面かもしれない。人間ドックを前にすると少し不安を抱く。でも結果がどうあれ、人間ドックを終えると安堵感が訪れる。けして再検査が宣告されようと、自分の身体の状態が確認できる時だ。もちろんそれが全面的に信用できるというものでもないだろうが、まったく1年間検診もせずにいれば、この日は生まれ清まりの日になるだろう。とりわけ人間ドックを終えたあとの食事は、その第一歩のような新鮮さを抱く。病は気からという言葉があるように、そもそも身体の異変がある場合、その不安さを拭うのが第一。人間ドックに限らず、医者にかかるという行動だけで安堵感を得、再生感がやってくる。昔は医者に誰もがかかることはできなかったわけで、そうなれば神様が医者代わりということになったのだろう。現実的に効力はなくとも、頼るものはほかになかったなかでは、病は気からを晴らす行為として何かが必要だったと言える。もちろん気ではなく本当に重い病にかかっていたら、それでは何も解決にはならなかっただろうが…。
現在人間ドックを受けている病院は、もう15年以上継続している。が、しかし近年毎年少しずつ雰囲気が変わっている。昨年は控え室が移動され、今年はその控え室に人影が少なかった。一時たくさんの人が同日に人間ドックを受けていたのに、今年は拍子抜けするほど閑散としていた。病院側が人間ドックに力を入れなくなったのかどうなのか。そういえば問診票もずいぶん簡素化された。また胃の内視鏡検査の際、喉に麻酔をしてもらうのだが、これまではずっと女性の看護師がやってくれた、というかこの空間には女性の看護師しか以前はいなかったが、今年は男性の方が多い。そのせいだろうか何度となく吹き付けてくれた麻酔が、今年はずいぶん効いていた。そのせいで内視鏡を飲み込む時は意外に楽だった。がいっぽう女性の看護師がついてくれた時代には、内視鏡検査で胃の中をああだこうだされている際のたいへん辛い際に、背中を優しく撫でてくれたものだが、近年そんなことがなくなった。というか男性看護師はそんなことはしない。世の中ひとそれぞれなのだから当たり前なのだが、ちょっと得をしたように思う時もあれば、損をしたように思う時もある。それでも生まれ清まったと感じることだけは変わらない。
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