「長野県の今を紐解く①」より
林虎雄が知事になったのは昭和22年のこと。初めての民選知事である。その後現在の村井仁知事まで5人の知事を数えるのみである。党籍をもって担ったのは社会党であった林知事と、知事時代に新党をたちあげた田中康夫知事のみである。しかし、だからといってそのほかの知事が党依存型ではなかったというわけではない。安定期にあった自民党寄りの政治に寄り添っていたといっても過言ではない。「農民と労働者、社会党と共産・協同民主党は提携して、「民主団体協同闘争協議会」を結成し、林虎雄知事を出馬させ」当選にこぎつけたと新津氏はいう。「先頭に立って米軍や政府とわたりあった行動」(「戦後長野県政と田中県政」信州現代史研究所)というほどだから、このごろ盛んに話題になる大阪府知事並の体制に対して反論者と言えるだろうか。全国に社会党の知事は長野県だけだったわけで、当時「赤い県」と呼ばれた所以だと新津氏は説明する。しかしその後の林知事の政策は、政権を執るとこういうものなのだというほどに、時代の中で当時としては先進的な彩を見せていく。その最たるものが総合開発事業である。そのことを「セクト的になろうとする行政面の欠陥をあらため、林政、砂防、開拓、河川、耕地、観光などを含めた総合的な施策」だったと新津氏は『県政十年の歩み』から引用している。それが企業局の前身である電気部を起こさせ、そして西沢県政へと引き継がれていき、企業局と名を変え観光道路を次々と建設していくのである。総合開発としては伊那市長谷に建設された美和ダム計画とその流域で展開された開発がある。治水利水だけではなく、観光を目途にして大きな事業に取り組んでいく。もちろん高度成長という時代にあって、それを県民が望んだとも言えるのだろうが、結果的にはそれらのつけが現代にきているという面も少なからずある。わたしがよく触れるように、「果たしてそれりで良かったのか」ということになるのだが、その時代の志向性としては正しかったこととあえてここでは記録したい。なぜならば、過疎や地方の衰退は、それを行わなくても行き着いた場所であったはず。どこに現代顕著になっているような課題に視点をあてて優先した地域があっただろう。皆無のはずである。もちろんそれを想定していたら、という発想はあるが、結果論に過ぎない。いまだに成長を期すこころが正しいとばかりは思わないが、高度成長とは県土というボードに、リーダーたちが絵を描いていく時代であったのである。企業局の造成したバードラインが後に地付山地すべりを招く要因にもなっていくのであるが、それらを「長所と短所の両方が今日は見えてくるが、当時はプラス面のみが注目されていた」と新津氏は記している。
新津氏は林県政についてこうまとめている。「政治家の最大の要件は、県政の将来像を見通して県民をリードすることである。この点、林県政には、ビジョンがあったし、林個人の魅力があった。また、県民をリードする姿勢が明確であった」と。林県政は昭和22年に始まり、昭和34年に幕を閉じる。戦後初めての民選知事という立場にしてみれば、大きな手腕が問われた時代だろう。後の西沢・吉村と続く時代は年を重ねるほどにトップの手腕など栄えなくとも時代は流れた。昭和50年代に入ると林元知事は『過ぎてきた道』という回顧録を出版している。わたしの手元にもその本があるのだが、購入したものではない。会社が購入して各部署に配布したもので、捨てられる寸前にわたしが拾い上げて手に入れたもの。何の思いがあったか知らないが、「いつか紐解く時があるかもしれない」程度の気持ちだった。当時5千円もする本は、普通の人には手に入れることはできない本だっただろうが、実はけっこう出回っている本に違いない。その回顧録の中で林氏は「年ごとに豊かになった県財政は、県民の要望をふまえた県議会の要請を満たすことが容易になり、県議会と対立するものが何もなく」と記している。昭和38年の知事選において共産党の対抗馬を大差で破って3選を果たした西沢が、その権威を確定付け、6期という長きにわたって県のトップに立っていく原点には、こうした県議会との慣れあいの始まりがあったというわけなのだ。
続く
林虎雄が知事になったのは昭和22年のこと。初めての民選知事である。その後現在の村井仁知事まで5人の知事を数えるのみである。党籍をもって担ったのは社会党であった林知事と、知事時代に新党をたちあげた田中康夫知事のみである。しかし、だからといってそのほかの知事が党依存型ではなかったというわけではない。安定期にあった自民党寄りの政治に寄り添っていたといっても過言ではない。「農民と労働者、社会党と共産・協同民主党は提携して、「民主団体協同闘争協議会」を結成し、林虎雄知事を出馬させ」当選にこぎつけたと新津氏はいう。「先頭に立って米軍や政府とわたりあった行動」(「戦後長野県政と田中県政」信州現代史研究所)というほどだから、このごろ盛んに話題になる大阪府知事並の体制に対して反論者と言えるだろうか。全国に社会党の知事は長野県だけだったわけで、当時「赤い県」と呼ばれた所以だと新津氏は説明する。しかしその後の林知事の政策は、政権を執るとこういうものなのだというほどに、時代の中で当時としては先進的な彩を見せていく。その最たるものが総合開発事業である。そのことを「セクト的になろうとする行政面の欠陥をあらため、林政、砂防、開拓、河川、耕地、観光などを含めた総合的な施策」だったと新津氏は『県政十年の歩み』から引用している。それが企業局の前身である電気部を起こさせ、そして西沢県政へと引き継がれていき、企業局と名を変え観光道路を次々と建設していくのである。総合開発としては伊那市長谷に建設された美和ダム計画とその流域で展開された開発がある。治水利水だけではなく、観光を目途にして大きな事業に取り組んでいく。もちろん高度成長という時代にあって、それを県民が望んだとも言えるのだろうが、結果的にはそれらのつけが現代にきているという面も少なからずある。わたしがよく触れるように、「果たしてそれりで良かったのか」ということになるのだが、その時代の志向性としては正しかったこととあえてここでは記録したい。なぜならば、過疎や地方の衰退は、それを行わなくても行き着いた場所であったはず。どこに現代顕著になっているような課題に視点をあてて優先した地域があっただろう。皆無のはずである。もちろんそれを想定していたら、という発想はあるが、結果論に過ぎない。いまだに成長を期すこころが正しいとばかりは思わないが、高度成長とは県土というボードに、リーダーたちが絵を描いていく時代であったのである。企業局の造成したバードラインが後に地付山地すべりを招く要因にもなっていくのであるが、それらを「長所と短所の両方が今日は見えてくるが、当時はプラス面のみが注目されていた」と新津氏は記している。
新津氏は林県政についてこうまとめている。「政治家の最大の要件は、県政の将来像を見通して県民をリードすることである。この点、林県政には、ビジョンがあったし、林個人の魅力があった。また、県民をリードする姿勢が明確であった」と。林県政は昭和22年に始まり、昭和34年に幕を閉じる。戦後初めての民選知事という立場にしてみれば、大きな手腕が問われた時代だろう。後の西沢・吉村と続く時代は年を重ねるほどにトップの手腕など栄えなくとも時代は流れた。昭和50年代に入ると林元知事は『過ぎてきた道』という回顧録を出版している。わたしの手元にもその本があるのだが、購入したものではない。会社が購入して各部署に配布したもので、捨てられる寸前にわたしが拾い上げて手に入れたもの。何の思いがあったか知らないが、「いつか紐解く時があるかもしれない」程度の気持ちだった。当時5千円もする本は、普通の人には手に入れることはできない本だっただろうが、実はけっこう出回っている本に違いない。その回顧録の中で林氏は「年ごとに豊かになった県財政は、県民の要望をふまえた県議会の要請を満たすことが容易になり、県議会と対立するものが何もなく」と記している。昭和38年の知事選において共産党の対抗馬を大差で破って3選を果たした西沢が、その権威を確定付け、6期という長きにわたって県のトップに立っていく原点には、こうした県議会との慣れあいの始まりがあったというわけなのだ。
続く
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます