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農業用水路の登録文化財答申報道

2022-08-03 23:00:47 | 歴史から学ぶ

旧黒川堰追平隧道

 

 7月22日県のプレスリリースに「松本市、諏訪市、小諸市、大町市、軽井沢町、辰野町、宮田村に所在する25件の建造物が国の登録有形文化財に登録されます」が掲載された。その中に山形村に事務局を置く黒川堰土地改良区の旧黒川堰追平隧道が含まれる。実は昨年何度か足を運んでいた隧道は、この追平隧道だった。市の文化財関係者の中に、建築物の専門家はいるものの、土木構造物を専門にした方はいない。そこでこの手の施設に詳しかったわたしに、登録に向けての調査依頼があった。農業用施設の隧道には、あまた潜ってきたという経験があったので、引き受けたわけだが、登録文化財ともなるとその造成年がはっきりしなくてはならない。それらしい造成年を記した黒川堰の歴史を綴った書物はあったものの、はっきりと対象物を指した造成年の明記はなかった。

 そこで土地改良区に問い合わせしてもらい、その資料を探してもらったわけであるが、驚くことに当時の予算書のようなものがたくさん保存されているようで、それら予算書の中から対象物件を探したわけである。土地改良区というと、長い年月同じ事務所に籍を置いているところは少ない。なぜかというと、公的施設に同居されていることが多く、とくに小さな土地改良区はそうした例がほとんどだ。黒川堰土地改良区も山形村役場内に籍を置いており、おそらく役場が改築されるような際には、書類の処分がされても不思議ではなかったわけだ。書類を処分してしまって「今はない」という話をたくさん耳にしてきた。ところが黒川堰土地改良区には、かこのたくさんの資料が保存されていたよう。そうした資料が保存されていたことも、貴重ともいえる。

 さてこの隧道は黒川新堰工業組合によって明治31年から同34年にかけて造成されたもので、当初は素掘の隧道だった。それ以前から黒川堰は存在していたものの、この工事によって用水量の確保が確立されたようだ。実は登録文化財には素掘では登録とならない。ようは建造物ではない、ということになるらしい。したがって隧道全体は246メートルあるものの、素掘ではない出口側37メートル、ちょうど20間部分が今回答申となった。この部分は石積(当時は「石巻」と表現していた)となっており、その石はおおよそ長さ36センチ、幅25センチ、厚さ22センチという切り石を組み合わせたもので、さすがにたくさん隧道に潜ってきたが、このような構造の隧道は記憶にない。石積で上側に蓋をするように石を載せたものはあっても、追平隧道は上部をアーチ状にしており、脆弱部に応急的に施したという例ではない。それはこの工事を行った大正3年ころ、隧道に限らず大々的に「石巻」工事を行ったからで、もちろん隧道の一部分を改修した理由には脆弱部に対する防護があったのだろうが、しっかりした工事が行われた背景には、大々的改修を目論んだことがあったからだろう。実は現在も底部にコンクリートを施した痕跡が見られるが、当初は、それは石積化したあとに摩耗した底部をコンクリートで補修したと考えたが、当時の予算書に底部をコンクリート基礎を施したらしい材料が計上されていて、当初から施工されたものだったことがわかった。まだコンクリートが汎用化していなかった時代だからこそ石積で施工されたのだろうが、にもかかわらず基礎にコンクリートが施工されていたことは意外なことだった。

 農業用水路の登録文化財は、例として少ない。その数少ない例に関われたことはもしかしたら最初で最後だろうが、貴重な経験であった(まだ答申された段階で、登録までにはもうしばらく時を要す)。


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