講演「祭礼と権威の民俗-都市祭礼における“見栄”への視点-」から中編より
さて、本題である。市東氏の展開は総代と鳶の関係を論じたもの。かつては総代には「権威」があったものの、総代の権威は低下し、総代の役割は名誉職から現実的な「代表」的存在に変化してきている。権威があったからこそ、かつては鳶にも一目置かれていたのであろう総代は、祭礼以外の場でも雇用関係という側面でお互いの立ち位置を認識していたのであろう。しかし、今は祭礼のみの雇用関係に至り、鳶にとって総代の威厳は低下したということなのだろう。当然といえば当然のことで、これはこと鳶と総代という関係だけに限られたことではない。例えば政治である。かつてなら政治家に頼れば恩恵に預かっただろうが、今はそうたやすいものではない。もちろんいまもってそうした疑念がなくなったわけではないが、明らかに過去とは異なる。地域社会でも同様だ。昔は地域の有力者が金を出した、が今は異なる。となれば地域社会の「権威」者も、昔のように現れない。熊谷における現実的な「権威」に触れながら市東氏は「権威の創造」という表現をするが、「彼らは、日常的に鳶との関わりが無くても、祭礼の中で鳶を雇用し、自分が商家の旦那であるという事をアピールしていることが指摘できる。つまり、旦那が旦那として祭礼で存在するためには鳶の存在が欠かせないものとなっている。同様に、鳶も祭礼の中で鳶として存在するためには、自分たちを雇用してくれる旦那がいなければ鳶として存在できない。その中で、総代と鳶の両者の思惑が重なり合い、祭礼内での旦那と鳶の関係を構築している」という姿は、果たして「権威の創造」なのか。このことについて質疑の中で、遠路足を運んでいただいた安室知氏は何をもって「創造」なのか、「変容」ではないか、と指摘された。指摘に対して市東氏は、総代によってそれぞれの町内のあり様がことなることから、自らの町内をアピールする象徴として総代の存在があり、だからこそそれが「権威」となり、それは「創造」されるものだと捉える。
マチの祭礼に鳶がかかわる例は多い。松本の天神祭りにおいても、かつては鳶が大きくかかわったという。そもそもマチで曳行される屋台や舞台は、マチの商人が曳行するのではなく、雇われた人々によって曳かれた例が多い。地域社会の変化とともに、その環境は大きく変わった。自ずとマチの祭礼はたえず変容する。人の動きがあるから当然のことで、農村、あるいは山村のように人の流動性がない地域では、伝統を守ろうという意識が強い。とりわけ熊谷うちわ祭は、戦後の変化を捉えただけでも時々によって変化している。しかし、市東氏が言うように、行政からの援助、あるいはかかわりをなるべく避け、マチの「権威」を誇示するように続けられていることも事実。それは祭りにはよくある意識でもある。櫻井弘人氏は飯田市下伊那を「民俗芸能の宝庫」と命名し、その背景のひとつに競争意識を取り上げた。飯田下伊那地域における近世は、領主が入り乱れていたことから、隣接地との競争が芽生えたのではないか、と。しかし、隣接地域と競うのはそうした環境を度外視した現実とわたしは捉える。どこにでも、誰にでもある意識のはず。市東氏には、地元である松本のマチの祭りも同様に捉えてもらいたい。
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