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〝山の神〟再考 ④

2025-01-19 23:34:44 | 民俗学

〝山の神〟再考 ③より

 水神ほどではないが、里から山へ入ると山の神と称されている祠を目にすることはよくある。『長野県史』の調査地である飯島町石曽根の事例には「山の神を鎮めるため今は飯島区で合同して祀っている」と記されている。飯島区の西山裾のうどん坂を上り与田切川源流へと山道を走ると、道端に「平澤山の神」という社が祀られている。これがここでいう飯島区で祀る山の神社であるが、こうした大きな山の神とは違い、小さな山の神は各地に祀られるが、前回も記したように、山とのかかわりがなくなって忘れ去られそうな山の神であることも事実である。

 旧高遠町藤沢の荒町では、今日「山の講」と言われる祭りが行われた。前回山の神の祭りの呼び名の図を掲載したが、長野県史のデータからは高遠町近在に「山の講」という名称は分布せず、むしろ「山の神の祭り」といった記号が目立っていた。この荒町で行われている現在の山の神の祭りについて見ていこう。

 荒町ではかつて4つの山の神講があったという。しかし現在も祭りを行っているのはさまざまな姓がの方たちで作る講のみ。ほかの講はどちらかというと同姓の人たちによって編成された講だったという。ちなみに荒町の現在の戸数は27戸といい、かつて多かった時は64戸ほどあったというから、ほぼ3分の1まで減少している。ここの山の神講は、昨年まで講員は7戸だったが、今年から移住された方が1戸加わって8戸となった。午前9時に荒町にある公民館に講員が集まると、広間の正面に「大山祇の命」と書かれた掛軸が掛けられ、まず皆でお茶をいただく。当番に当る御当屋(オトーヤ)の挨拶で山の神講は始まる。男性は弓と矢を作り、女性は芋汁と肉を入れた汁を作る。もともとはオトーヤで行われたが、公民館ができると公民館で行うようになったという。過去の経緯については後述する。また男性のみの祭りだったが、現在は女性も加わっている。講員の減少もあるだろうが、時代や環境の変化に伴って変えてきたようである。

 弓はもともとはヨウズミの木を利用したというが、近年竹に変更した。ヨウズミの木を選ぶのには少し経験もいるようで、若い人たちでも手に入れやすい竹にしたようだ。4尺ほどある青竹を4分割にし、4つの弓にする。持った時に手に刺さらないように割った竹は節を取り、割った面は綺麗にする。弦にはバインダーの紐を利用しているが、昔は藁を綯ったものだったともいう。矢は茅を利用したが、これも理想の材料が手に入りずらくなったため、近年竹に変えた。数年前にもらった竹が残っていて、今年はその竹を利用して矢を50本ほど作ったが、一人3本作ると言われている。ここでいう一人とは、かつては1戸当り一人が参加したため、1戸3本と捉えられるのだろうが、現在は一人3本という捉え方のようである。

 弓矢と芋汁などの準備が整うと、弓矢と洗米と御酒を持って貴船神社裏の山の神の祠へ向かう。今年は祠のある尾根に登ったのは男性のみだったが、年によっては女性も登り弓を射る。山の神の祠へ洗米と御酒を供えお詣りすると、神酒を頂く。そしていよいよ弓を射るわけである。恵方に射ると言われており、今年の恵方である西南西ら向けて一斉に弓を射た。その最「あたりー」と言って弓を射、その弓が木の枝に載って落ちてこない方が良いとされている。葉の落ちた木に向かって落ちてこないように射るのは難しいと思っていると、意外に枝に引っかかったり、中には木に刺さって落ちてこない矢もある。祠の前で矢を射た後、弓と矢を1対山の神に供え、山を下りると貴船神社境内で再び矢を入り、貴船神社に参拝後再び御酒をいただき公民館に帰り、直会となる。

 

令和7年1月19日撮影

 

続く


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