山の神の祭りがどのような人たちで実施されているのか、どういう人たちが参加するのか、そうした捉え方のまとめが『長野県史民俗編』ではされていて、調査表のまとめた欄に「参加者」という欄が設けられている。例えば高遠町藤沢荒町の例では、同姓別に講が組まれていたようで、過去には4つの講があったと地元では言われていた。県史の調査地「上堀」(旧堀金村)でも同姓ごとに講があったといい、「下之原」(下諏訪町)ではムラ内に6組の講があり、ムラ人はその講のどれかに所属したという。下之原の場合同姓に限られたものではなかったのかもしれないが、いずれにしても小集落内にいくつかの講があった例は多いようだ。いっぽう地域全体で祀っている例も多く、地図に示したようにムラ中や区といった単位で祭るという例は全県に分布している。「神宮寺」(諏訪市)では、ふだん山に出入りして仕事をする人は誰でもよいというものの、現在は狩人のような特殊な人が祭るといい、また「柏原」(旧穂高町)でも大正時代は村全体で祭ったが、今は山に関係ある人だけで祭ると言っており、かつては地域全体で祭っていたものが、山とのかかわりがなくなると、山の仕事をする特殊な人だけの祭りと受け止められているようだ。したがって山の神の捉え方も、昔とは様変わりしているといえる。県史のデータは昭和40年代のものであり、当時すでに山とのかかわりがなくなりつつあったことがわかる。したがって、今ならもっと山の神の存在は特異なものと捉えられるのかもしれない。図でも「山仕事をする人々」という答えが全県に分布し、かなりの数みられることからもその傾向がうかがえる。したがって「講仲間」で祭るという事例は意外に少なく、長野から上田周辺、そして上伊那、さらに下伊那南部に点在するのみである。また、各戸それぞれで祭るというところが長野から上田周辺にかけて点々とあり、木曽谷にもみられる。
参加者については、男性のみというところは多いが、必ずしも男女問わないというところもある。「野底」(伊那市)では地域の子ども、とくに男子とされていて、「中坪」(伊那市)でもムラ中の男子と言っており、この場合の祭りの内容は餅をワラヅトに入れて神前に供えるというもので、十日夜に行われた。いわゆるトオカンヤの行事で同様のことは他地域でも十日夜に行われているが、それらは山の神の祭りとして行われているわけではないよう。「〝山の神〟再考 ②」で述べた通りである。「下殿島」(伊那市)では「昔はとおかんやに「おからこ」をはたいて藁づとにつめ男の人が朝早くお参りし山の神に供えたのち、たき火をしてそれを焼いて頂いたものだが、今はほとんどやらない」という。
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