Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

“ヨビサンクロー”から

2015-01-16 23:01:25 | 民俗学

 

 この正月の御柱では、横沢に始まり内田北花見にいたるまで、その度に「道祖神の柱立てを探る」へ指摘をいただいた浜野安則氏に多々ご教授いただいた。浜野氏の精力的な調査に敬意を表すとともに、「道祖神の柱立てと火祭りとの関係-安曇野・松本平・上伊那の事例からー」(『信濃』63-1/信濃史学会)の続編を願うものである。内田荒井の御柱建てを拝見した折、浜野氏に紹介いただいた松本市小屋のサンクローを訪れた。ここのサンクローについて浜野氏は前掲書の中で次のように述べている。

 燃やす日の前日、大小のサンクロウ小屋を組むとき、別に一○メートル余りの長い柱の先に若松の枝を付け、藁束を閉じた傘のように九段ほど巻き付ける。これをヨビサンクロウ(呼び三九郎)またはオンベ(御幣)と呼び、柱の先に八本の藁縄を付けて引き立てる。翌日サンクロウが燃やされると、ヨビサンクロウにも火は移され、あっという間に藁が燃え上がり、柱は倒される。
 松本市中山の埴原でも昭和二○年代まで、同様な祭りが行なわれていたという。埴原東ではこれをシンボク(神木)と呼び、三本がサンクロウの小屋前の道沿いに並んで立てられる。柱に藁を巻くことは同じだが、一四日にはこのシンボク三本だけが燃やされ、翌一五日には再び立てらたシンボク三本と、今度はサンクロウ小屋も燃やされたという。『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌』にも、「三叉のほかの一本に藁などを結び付け一本三九郎(呼び三九郎)等といい景気づけに燃やすところも多い」とある。これは柱立てが火祭りの中に取り込まれててく過程と見ることができる。

 写真の右端の柱がここでいうヨビサンクロウである。浜野氏は「ヨビ」を「呼び」と解釈されている。「呼び」とすれば、場合によってはサンクロウに火をつける前の告知をいるための物とも捉えられる。このヨビサンクロウを説明に「藁束を閉じた傘のように」という表現がある。「傘」ようは伊那谷南部に展開されるホンヤリの傘の通じるものがある。浜野氏はさらに「現在も木曽郡や北安曇郡で、火祭りの松や藁積みのまん中に柱を立てて飾り、これもオンベと称するのも柱立ての一種であろうが、このような分布の周縁部に伝わる形態が原初のものなのか、退化したものなのかは判断が難しい。すくなくとも柱立てが歳神の依り代であるならば、火をかける必要はないわけであり、今後の検討課題としたい」と述べている。いわゆる松焼きのことをオンベあるいはオンビと呼ぶ地域もある。伊那谷南部ではオンベと称すところも多いが、そもそも櫓のてっぺんに御幣を付ける例も見られる。飯島町日曽利のかさんぼこでも触れた通り、柱がここから分離したものか、それとも別々のものが合体したものかは解らないが、サンクロー地帯の御柱とサンクローの存在は、そうした課題を与えてくれるものである。


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