Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

支援するべきものが違う

2015-01-17 23:40:05 | 農村環境

 信濃毎日新聞の本日朝刊トップに「飯伊の民俗芸能を県が支援」という見出しが躍った。なぜ支援しなくてはならないのか、と捉えるとつまるところ存続危機という課題にある。報道が正しいのかどうかをまず判断しなくてはならないが、我々にはそれを判断するだけの材料はない。しかし報道から読者がどう捉えるかは、拡散方向にある。ようはどれほど正確に報道しても、限られた取材と紙面の制約から読み手は必ずしも意図通りに認識しないということはごくふつうに起きる。ましてや報道に曖昧さや間違いなどあったら、記事が一人歩きする事例はよくあること。「飯田下伊那地域の多様な伝統行事(民俗芸能)を将来に継承するため、県は来年度から担い手確保の支援策などに積極的に乗り出す」は、記事冒頭の言葉である。「担い手確保」と聞くと担い手になるべき人を創出するように聞こえる。そもそも集落が維持できずに中止されていくわけで、民俗芸能を支援するのが先ではなく、それ以前の問題解決が優先されるべきことは言うまでもない。記事はこのあと「2027年予定のリニア中央新幹線開業時、民俗芸能には地域をPRする役割も期待されるが、研究者は「このままではリニア開業までに消える民俗芸能は少なくない」と指摘する」と続く。「研究者」とは何の研究者なのか。記事は文化財指定されている民俗芸能を取り上げて、その存続の危機を救う「県」という取り上げ方だ。それは観光立県している長野の文化財利用ということになるのだろうが、無形民俗文化財は有形文化財と異なり、芸能が行われていることだけに意味があるわけではない。それを組織している地域と住民がどうかかわっているかという背景にも意味がある。たとえば芸能だけが存続すれば良いと言うものではないとわたしは思う。

 最近は遠山の霜月祭りを訪れると、地元の人ではない人が祭りに参加されている例を見るようになった。無縁とは言わないまでもかつてならそこに参加するには値しなかったような人が参加する。もちろん地元の人々が主たる存在であることに変わりはないが、いずれ存続が危ぶまれるような状況に至るとそれは逆転することもあり得る。「県は地域の象徴である文化を持続させるため、担い手集めに向けた環境を整えようと検討を進めている」と言うが、リニア開通時の観光の目玉と意識して支援するとしたら、注意が必要だ。たとえば本日記でも何度も触れてきていることであるが、泰阜村で行われていた榑木踊りは梨久保では途絶えて久しい。住民がほとんどいなくなれば絶えてしまっても仕方がない。それ以前にすることといえば、集落維持に対する支援だろう。複数個所で行われている同系の民俗芸能なら、合同で行うような誘導もあるだろう。いずれにしても文化財指定されても、それ以降の状況を把握しない現在の文化財行政にも問題はあるだろう。ただ観光目的で「研究者」の言葉を借りて「支援」を躍らせるのは、正確な報道なのかを疑うとともに、行政ならもっとトータルな問題を整理し、解決するべきだろう。


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