「長野県道祖神碑一覧」に県図を掲載するということになっている。『長野県中・南部の石造物』にも同様の図を掲載していて、わたしが用意したと言われるまで記憶から消えていた。記憶を呼び起こすとネット上にあったフリーの図を修正していたことがわかった。ところが一覧を平成の合併以前の旧村単位で掲載することから、旧村を表示したいということになった。『長野県中・南部の石造物』に掲載した図には旧村は示されていない。そこで、既製にある図から旧村枠を修正しようとすると、そうした図と『長野県中・南部の石造物』に掲載した図となかなか整合しない。世間に出回っている県図は、同じようでトレースするとなかなか整合しないのだ。そういう意味で今悩んでいるのが、長野県民俗地図のこと。何年も前にこの図の元図にしたものは、『長野県史』から引用したが、それもまたほかの図とトレースするとズレがある。ほかの要素を示す図を作成しようとしても、元図が異なるから整合しないのである。何を元図にしたらよいかと、これまで発行されている県対象の図書を紐解くが、これがまたそれぞれ。どれもこれも違うのである。
結局『全国市町村要覧(60年版)』(自治省行政局振興課)に掲載されていた長野県図を基にトレースすることに。なぜこれを利用したかというと、細かすぎると作成に手間がかかる。ある程度大雑把な方が“成りが良い”という印象があったからだ。ところが市町村名と市町村界が重なっていると、線が消されている。そうした部分をほかの図で修正しようとすると、やはり誤差が大きい。「これで良いのか」と思いながらも、始めてしまったのでとりあえず今回は「これていこう」ということに割り切った。それが冒頭の図である。前掲書に掲載されている図も、公な機関で作成したものだが、けっこう間違っている。たとえば立科町と茅野市の境界が明確に違う。図でも解るように立科町は南北に細長く、とりわけ首の皮一枚で繋がったように南に伸びて、八ヶ岳のあたりで膨らんでいる。これが前掲書にはないのである。また、ほかの図書で確認しようとしてわかったことは、意外に県全域を扱った本でも、長野県図を明確に示したものは少ない。前掲の『長野県史』でも各巻に県図を示しても良いように思うが、意外に県図は示されていない。民俗編にしても市町村界を示したものは、わたしが見る限り県全体を示したものには無いようだ。また、そもそも県図をまったく示していない県全域を扱った図書も少なくない。加えて前述したように間違っているものがほとんどだ。長野県民俗の会が編集したものでも、『信州に生きる』(郷土出版社1993)に掲載されている県図を見ていると間違っていると思われる箇所がある。略図なので間違っていると断定はできないが。たとえばほとんどの図が間違いやすいのが、飯島町の天竜川東岸に張り出したエリア。この張り出しのない図が多い。元図に利用した『全国市町村要覧』もそうだ。
仕事がら「図は正しいのがあたり前」という感覚がある。ところが文系の世界の図は、あくまでも略図レベルなのだ。ここに示した図も、あくまでも「略図」である。大きな画像はこちらに掲載している。
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