役所 信太のひとりごと。。。(カウントダウン365×4→0)

旅先で感じたことや報道など私的に思うこと

表現の難しさを痛感・・・、表現の自由を「押し付け」とする人もいるということ再認識

2011年01月17日 20時13分14秒 | Weblog
外は寒いので久しぶりに家でひきこもっていました。
新聞を読んでいると神戸の震災から16年も経ったとか・・・

夕方を過ぎ
車で映画でも行こうか考えて
ネットで上映時間を見ていると
映画欄でそれぞれの映画のレビューがありました。

少しのぞいてみると・・・
アンストッパブルの欄、
結構な高評価が続出でした。
デンゼルワシントンは好きな俳優
さすがの評価でした。

で、レビューを続けてみてみると・・・
BSヤマトの欄が3000件を超えていました。
驚きの数字です。

それだけ注目を集めているということなのでしょう。
いくつか読んでいると・・・・

結構、低評価が多く
真ん中が無く、少ないながら高評価もあり
高・低の評価者がお互いにけん制し合い
攻撃を繰り返しているような印象がありました。

全体的には低評価。

そういう私も
以前のブログで至上最悪の烙印を押してしまいました。

ただ、レビューを見ていて
攻撃対象が良く分からない批難や
稚拙な文章に意味がわからず辟易したり・・・
納得できる低評価もありました。
また、高評価の中にも
そういう考えもあるのかと
納得する文章もありました。

売り言葉に買い言葉、喧嘩腰の文章も数多く
貶し合いも結構ありました。

それだけ
ヤマトに思い入れが強い人が多いということを
改めて認識しました。

そんな中にも気になった文章がありました。

高評価の人の文章なのですが・・・

「低評価の人が多い中
 実際に観てみると
 私はキムタクが素晴らしい演技だったと思うし
 ストーリーも
 涙なくして観れない感動の映画だったと思いました。
 低評価の人がこの映画をこき降ろすのは
 何かキムタクに嫉妬してのことのようにしか思えない。
 ヤマト世代とかいうオタクの世界観を
 若い人に押し付けないでほしい」

確かこんな感じの文章でした。

気になったのは「押し付け」と言う言葉。

私の個人的な意見ですが・・・

人の評価や考え方は、
いろいろあっていいと思っています。

これだけ多くの人がいれば
自分と意見の違う人がいても不思議では有りません。
自分の意見を自由に言えるこの国はすばらしい。
責任を取らなくても良いし
何を言っても投獄されることも無い。

だから
誰も「押し付け」ては いないように思うのです。

その人にはその人の生きてきた歴史が有り
その時、一生懸命に生きてきたわけで・・・。

そこでの思いや情熱が魂に込められ
人として成長して行くわけで・・・。
経験として積み上げられていくのです。
そこでの経験は、
実際に経験したその人にしか分からない
そう思うのです。

それを表現として形にしたことが
「押し付け」と考えてしまうことは、
少々柔軟性に欠けるように感じてなりませんでした。

例えば、
今日は、神戸の地震で被害にあわれた方への黙とうを捧げる日。
亡くなった人の冥福を祈るとともに
その経験を今後の多くの天災に行かせるように
対応して行かねばなりません。

しかし、いくら語り継いでも
当事者がいくら演説しても
聞く人の琴線に触れたとしても
一過性にしかすぎず
実際にそこで経験した恐怖や絶望、
本当の人の優しさや温かさは
経験していない人にはわからないと私は思います。

これが私の意見ですが
決して「押し付ける」気は有りません。

BSヤマトのレビューも
押し付けるのではなく
単なる意見と受け止めればいいように思うのですが・・・
あまりに酷い誹謗中傷はいけませんが・・・。

地震の被災の話でもう一つ・・・

ボランティアのこと。
多くのボランティアが救援に訪れました。
ボランティアと言えば
正義の味方みたいな感じがします。
一般的にはそうですが
私は違います。

たぶん多くのボランティアに従事した方は
多大に救済の手助けになったと思います。
しかし、
少なからず
迷惑なボランティアもいたのも事実。

ボランティアにも関わらず
救済テントで食事をするし
自衛隊からの救援おにぎりや水を飲食するし
被災者用テントで一緒に寝ようとするし・・・。

何も、技術が無い・・・
特に土木作業や電気工事の経験、
医療など資格も無いし・・・。
とりあえず来たという人が多かった。
そう・・・とりあえずです・・・。
神戸の地理や気候(特に冬だということ)も調べず、
宿も確保せず、食料や飲料をどうするかも考えず、
マスクやタオルも持たず、
社協にも登録せず単独で行動するなど
二次災害で自分が迷惑をかける可能性があるという認識がないなどです。

こういう側面もあると言うことです。
この見解は決して「押し付け」では有りません。

私が実際に現地で体験した事実に基づき
その時に自分が思ったことを
表現しただけなのです。


。。。。。

阿久根市長選で竹原氏が落選・・・残念でした。

2011年01月17日 00時30分17秒 | Weblog
鹿児島県阿久根市長選挙の投開票が
日曜に行われ前竹原市長が落選となりました。

個人的な意見ですが・・・・

竹原市長は
報道では、「専決処分」などを繰り返し
議会も開かずにめちゃくちゃしている とされていました。

以前のブログでも触れましたが、

反対派が多数を占める議会では
正しいことをやっても
必ず否決される・・・
実際に何度議会に掛けても
否決という結果・・・。

そのため
市長が専決処分と言う「ウルトラC」を強行した
 という事実はあまり報道されていません。

民主主義の世の中で
多数が必ず正しい判断が出来るとは限らないと言う
政治学者トクヴィルの仮説と同じような気がします。

議員の「視察」と称した豪遊出張や
民間と比して年収100万円以上も多い市職員の給与削減問題など
身内には甘い議員と市職員の中で
自分たちの身を削ることを議決するわけがない
出来るわけがないと思うのです。

それをやろうとしていたわけで・・・。

この結果、改正が難しくなったわけで・・・。

完全に報道とマスコミに
してやられたと言う感じが否めません。

もし彼がただの変人なら
市長に当選するわけがない。

私利私欲のためにしていたとは考えにくい。
専決処分を繰り返す行為が
なぜそこまで行われたのか
その背景には何が有ったのか
私はそれが大事に思うのです。

悲しいかな
選挙は微妙な僅差で落選してしまいました。
僅差と言うことは
やはり彼を支える人が多く存在していたということ。
そのことに少し安堵する気持ちです。

法令は人のために有るもので
それを「守るためだけ」に有るのではない。
所詮、人の作ったものであって
解釈の仕方や
屁理屈立てて都合の良いように誘導するのは日常茶飯事です。
 
彼だけが悪いとは私は思いません。

彼の主義主張が
最初から一貫している点をもっと評価するべきだと
私は思います。
組織と言う大きな壁に立ち向かって行くときは
いつでもどの時代でも
必ず大きな障害と障壁が立ちはだかります。
しかも、その障害や障壁は
法令遵守と慣例に守られ
かなり強固なものとなるのです。

江戸幕府から明治政府の時代もしかりです。

民主主義の恐ろしさの中に次のことが一つあります。

陰に隠れた正論が
情報伝達の偏りによって
多数という見えない「力」に
押し消されてしまうこと・・・。

落選したことはしょうがありません。
公の選挙結果ですから・・・。

ただ、
彼がしようとしたことに対して
その裏にある心裡を
私は評価したいと思います。
今までの行動は勇気あるすばらしい行いだったと
私は思います。

誰にでもできることではありません。

。。。。