鶴の衣服はなぜ学生に不評なのか?
そもそもひとはなぜに服を着るのか?福を着る?
大學入試で頻出の作家であり、鶴の師匠(鶴がかってにそう思っているだけ)でもある鷲田先生!受験生・大學生のみなさん、夏休みに是非好きなタイトルからお読みください。
近代市民社会と自己の不安・・・・(鷲田清一先生の講演より)
http://osaka.yomiuri.co.jp/university/dn70830a.htm
上の毛とかくりそつでつ 親しみ感がありすぎまつ。先生の本は、楽しく分かりやすい!
以下の文章がデツ調ではないのが新鮮(笑)とのコメントをいただいておりまつ。
人の価値は、その人が生涯の中で何を生み出していくか、どのような価値を実現していくかにかかっているのであって、そのひとがどういう場所に生まれたか、誰の子どもであったとかどういう階層に生まれた、どの地域にどういう性に生まれたかということであらかじめ決まっているのではなくて、スタートラインは一緒なのだ、みんな1以上でもなく、1以下でもない。その人が生きた意味とはみんなと同じスタートラインに立って、そこから一人の人間が何を生み出していったのか、どういうことをやったのか何を成し遂げるたかによって決まるのだと、そういう理念のもとに作られた社会です。
そういう理念に立って私たちは200年前に出発したわけです。もちろんこれは理念であって、そこに今もまだ近づこう、近づこうとしているのです。現に性の違い、男性も女性も同じ1票というところまでには100年がかかりました。
理念としては、出自によって差別されないということになるのですから、個人の自由ということが中心になってきたのですが、言い換えると、可能的にはあらゆる職業が自分の前に開けている、家族を構成するときに、潜在的にはあらゆる人がパートナーとして開かれているということを意味しています。
以前の社会では職業は生まれたときにだいたい決まっていましたし、結婚する相手もどういう地域のどういう階層の人かだいたい決まっていて、自分は誰なのかと考える人は哲学者以外あまりいなかったのです。問わなくても人生は見えていたし、それ以外の可能性というものは現実的にはほとんど開かれていなかった。
ところがこの表現の自由、職業選択の自由、結婚の自由そういうものが理念として開かれてきますと、個人は自分の意志で何にでもなりうる存在となります。そして可能的には何にでもなりうるという社会を私たちは今も、目指しているのですが。
これは逆に言うと自分が自分であるために理由が必要になった時代になったということ。つまり、自分の人生というものを自分の意志でデザインすること、自己決定といわれますが、要するに個人が自分のライフというものを自分でデザインするということは、裏返しにいうと、自分が今こういう人間であることの理由が必要だということです。その理由がうまく見いだせないと非常に不安になる。自分がこの職業に就いていることに理由が、あるいはこの人と家庭を持ったことに理由がうまく見つからないとき、感じられないときには、私たちは「自分とはいったい何なんだろう」という問を発せざるをえない時代になったということです。
『ひとはなぜ服を着るのか』の中で、自分という存在と衣服との関係についてこんなことを言っています。
「衣服という皮膚という言い方がなされます。衣服は肉体を守るためのものと考えられがちですが、それだけでしょうか。中国での纏足や、ヨーロッパのコルセット、現代のピヤスなどの肉体を傷つける習慣をみると、自然のままの肉体を守るということが衣服の目的とは言い切れないようです。考えてみると僕たちは自分自身の肉体について持っている情報はとても貧弱です。どうも私たちは自分自身の身体、言い換えれば私の輪郭を補強する技法としてファッションが用いられるのではないでしょうか」
「衣服には社会的な記号としての働きがあります。ロラン・バルトはファッションは「わたしとはだれか」という問いと戯れているといっています。わたしはだれか?男性か女性か、大人か子どもか、どんな職業に就いているか、オフはどんな生活をしているか、どんな性格か・・・。性別、職業、年齢、ライフスタイルこれらへの問いのすべてとファッションは関わっている。親に着せられるのではなく、自ら服を選びとるようになるのは「私とは何なのだろう」という問いを始めたときからなのです」
鶴のアロハは鶴のみぞ着る
タイトルにあるとおり、就活を控えている学生諸君!就活では20年間の人生をたな卸しして、与えられた状況の中で、どのように行動してきた人間なのかを、論理的にESに書き、面接やGPディスカッションで、論理的に相手に伝えなければなりません。
真の自己は、未来にではなく、過去に存在する!
ブックマークの最初にそのヒントがありまつ。是非秋にお会いしましょう!
そもそもひとはなぜに服を着るのか?福を着る?
大學入試で頻出の作家であり、鶴の師匠(鶴がかってにそう思っているだけ)でもある鷲田先生!受験生・大學生のみなさん、夏休みに是非好きなタイトルからお読みください。
近代市民社会と自己の不安・・・・(鷲田清一先生の講演より)
http://osaka.yomiuri.co.jp/university/dn70830a.htm
上の毛とかくりそつでつ 親しみ感がありすぎまつ。先生の本は、楽しく分かりやすい!
以下の文章がデツ調ではないのが新鮮(笑)とのコメントをいただいておりまつ。
人の価値は、その人が生涯の中で何を生み出していくか、どのような価値を実現していくかにかかっているのであって、そのひとがどういう場所に生まれたか、誰の子どもであったとかどういう階層に生まれた、どの地域にどういう性に生まれたかということであらかじめ決まっているのではなくて、スタートラインは一緒なのだ、みんな1以上でもなく、1以下でもない。その人が生きた意味とはみんなと同じスタートラインに立って、そこから一人の人間が何を生み出していったのか、どういうことをやったのか何を成し遂げるたかによって決まるのだと、そういう理念のもとに作られた社会です。
そういう理念に立って私たちは200年前に出発したわけです。もちろんこれは理念であって、そこに今もまだ近づこう、近づこうとしているのです。現に性の違い、男性も女性も同じ1票というところまでには100年がかかりました。
理念としては、出自によって差別されないということになるのですから、個人の自由ということが中心になってきたのですが、言い換えると、可能的にはあらゆる職業が自分の前に開けている、家族を構成するときに、潜在的にはあらゆる人がパートナーとして開かれているということを意味しています。
以前の社会では職業は生まれたときにだいたい決まっていましたし、結婚する相手もどういう地域のどういう階層の人かだいたい決まっていて、自分は誰なのかと考える人は哲学者以外あまりいなかったのです。問わなくても人生は見えていたし、それ以外の可能性というものは現実的にはほとんど開かれていなかった。
ところがこの表現の自由、職業選択の自由、結婚の自由そういうものが理念として開かれてきますと、個人は自分の意志で何にでもなりうる存在となります。そして可能的には何にでもなりうるという社会を私たちは今も、目指しているのですが。
これは逆に言うと自分が自分であるために理由が必要になった時代になったということ。つまり、自分の人生というものを自分の意志でデザインすること、自己決定といわれますが、要するに個人が自分のライフというものを自分でデザインするということは、裏返しにいうと、自分が今こういう人間であることの理由が必要だということです。その理由がうまく見いだせないと非常に不安になる。自分がこの職業に就いていることに理由が、あるいはこの人と家庭を持ったことに理由がうまく見つからないとき、感じられないときには、私たちは「自分とはいったい何なんだろう」という問を発せざるをえない時代になったということです。
『ひとはなぜ服を着るのか』の中で、自分という存在と衣服との関係についてこんなことを言っています。
「衣服という皮膚という言い方がなされます。衣服は肉体を守るためのものと考えられがちですが、それだけでしょうか。中国での纏足や、ヨーロッパのコルセット、現代のピヤスなどの肉体を傷つける習慣をみると、自然のままの肉体を守るということが衣服の目的とは言い切れないようです。考えてみると僕たちは自分自身の肉体について持っている情報はとても貧弱です。どうも私たちは自分自身の身体、言い換えれば私の輪郭を補強する技法としてファッションが用いられるのではないでしょうか」
「衣服には社会的な記号としての働きがあります。ロラン・バルトはファッションは「わたしとはだれか」という問いと戯れているといっています。わたしはだれか?男性か女性か、大人か子どもか、どんな職業に就いているか、オフはどんな生活をしているか、どんな性格か・・・。性別、職業、年齢、ライフスタイルこれらへの問いのすべてとファッションは関わっている。親に着せられるのではなく、自ら服を選びとるようになるのは「私とは何なのだろう」という問いを始めたときからなのです」
鶴のアロハは鶴のみぞ着る
タイトルにあるとおり、就活を控えている学生諸君!就活では20年間の人生をたな卸しして、与えられた状況の中で、どのように行動してきた人間なのかを、論理的にESに書き、面接やGPディスカッションで、論理的に相手に伝えなければなりません。
真の自己は、未来にではなく、過去に存在する!
ブックマークの最初にそのヒントがありまつ。是非秋にお会いしましょう!