私のひとり言

出来事、出会いなど気の向くままに!

38年を振り返って

2013-01-05 10:03:25 | Weblog
学校を出てから暫らく東京の方で会社勤めをしておりましたが、先々代の社長(父)よりB町に帰って商売を手伝ってくれとお達しがあり、昭和50年(1975年)9月5日に弊社に入社いたしました。27才の時でした。
一年間ほど畜産の飼料販売のノウハウを勉強すべくA社の研究所に通い畜産飼料のいろはを教えて頂き、同社のT県にある畜産試験場(養豚場)で豚の管理で汗をかき、生産者に指導するべき養豚の勉強をさせて頂きました。その後会社に戻りB町での勤務が始まりました。IさんYさんNさんが先輩として勤務しており配送の助手として手伝ったのがスタートでした。そのころは庭先養鶏が盛んで配合飼料を一袋二袋と配達して廻りました。A町、B町、C町と養豚農家に飼料の販売の矛先を転じた時期でもありました。C町の養豚団地に入り込み拡売するべくA社の営業の方と夜遅くまで巡回したのが昨日のことのように思い出されます。
Kさんも入社していただき、少しずつ牛の飼料にも力を入れ始めました。M県のZ町近辺を車で通行した際、大きな畜舎が点在しており飼料のタンクが立ち並んでいるのを見たとき、いつかこの牛屋さんにエサを販売してやるぞと思ったことが今でも忘れられません。南の方はKさんに専属で巡回していただき、私はA県の牛屋さんに販売するべく足繁く通いました。
配合飼料だけでは先細りになると考え、単味飼料、輸入物の牧乾草にも力を入れるようになりました。畜産業界で弊社のようなディーラーが飼料販売の分野で生き残る為に、戸数減少大型化の養鶏養豚の生産者から、酪農肉牛の生産者に販売先をシフトしていったことは、時代の流れに沿った適切な方策ではなかったかと思っております。
入社当時は月間200~300トンの販売量だったと思います、このところの販売量は月間2500トンにまでになりました。
この間Iさん、Yさん、Nさんが定年退職し、現専務、Kさん、T君、K君、I君、S君、T君、Oさん、S君に入社していただきました。Y君、A君にも手伝っていただくようになりました。
一度入社したら定年まで、長年に亘って在籍してもらっていることは会社にとって本当に自慢してもいい、素晴らしいことだと思っております。
残念なことに一昨年の3・11の忌まわしい地震津波原発事故の大災害にみまわれ、皆さんが苦労して繋いできたF県の得意先が一瞬のうちに白紙になったことには言葉がみつかりませんでした。長い間営業や配送で親しくなり懇意にしていただいた得意先が各地で避難生活を余儀なくされていることを思うと一日も早く、故郷に帰還されることを願わずにはいられません。
私の部屋に父の残した色紙が掛けてあります「努者勝」。努める者は必ず勝つという言葉を信じ励んできました。そしてお客様が弊社に一番何を望んでいるかを常に考え接してきたつもりです。お客様の利益になることがあれば多少会社がマイナスになっても実行してきました。我々の商売は家電製品のような一回限りの商売ではありません。信用と自分を売り込むのが仕事と思って努力してきました。
しかし社長一人の力など微々たるもの、みんなの力が重なり合ってはじめて大きな力になることは明白です、そんな意味からも長年に亘ってのみなさんのご尽力に感謝感謝に尽きると思っております。
仕事は面白くないと長続きはしません。与えられたどんな仕事でも自分で噛み砕いて自分で計画を立て自分で納得のいくように実行に移せば面白くなるはずです。上にいる者はある程度権限を与えフォローしてあげなければなりません。いやいやながら会社に出勤すれば、何一ついいことはないし、いい仕事など出来るはずがありません。
会社に関わっている者全員が、与えられた仕事として動くのではなく、自分から進んで自分の仕事として働いていただければ、面白くもなり、その会社は上昇し継続すること間違いないと思われます。
『社員ひとりひとり、それぞれがそれぞれの仕事に邁進し、それ以上の仕事の幅を充実させ、代々引き継がれた仕事を、どのような形であっても、後につなげたいと思います』・・・と、先日の送別会の席である方からこのような貴重なありがたい言葉をいただきました。
私は今年で第一線を退きますが、次期社長T君を中心にして盛り立てていただき、また社員ひとりひとりが、自分が社長のつもりで奮闘精進していただき、後につないでいってもらいたいと切にお願い申し上げる次第です。
長い間みなさんのご協力ご尽力に感謝申し上げます。          H24年12月末日