私のひとり言

出来事、出会いなど気の向くままに!

沖縄旅行2

2015-03-28 12:48:42 | Weblog
沖縄旅行も三日目、ルネッサンスホテルの朝、6時に起きウォーキング5000歩程歩く、息子夫婦と別々に孫娘と三人で日本食の朝食をいただく。その後ホテルの中にあるイルカとの触れ合いに孫娘が参加、有料で綺麗な海で楽しくめったにできない貴重な時間を過ごしたようだ。父兄は近くでその様子を見学。ホテルをチェックアウトし、また息子運転で、かつて栄えた琉球王国首里城を見学する。40年前家内と訪れた時は再建されておらず、20年前位に建築がなされたようで、圧倒される琉球王国の建物に感銘したようだ。昼食は毎食豪華な食事ばかりなのでローソンのおにぎりですませる。そこからまた南下し、ひめゆりの塔平和記念館へ。その前に琉球ガラス村へ、琉球ガラスのグラスを購入した。息子夫婦は泡盛とグラスのセットものを嫁の両親にお土産として送った模様。三日目で最後のホテル、ひめゆりの塔から程近い糸満市にあるサザンビーチホテルリゾートに向かう。このホテルもオーシャンビューで目の前はマリンブルーの海が広がっている。ここまで曇りの
ち晴れの二日間だったが今日は午後からパラパラと小雨に出会う。夕食はホテル
のレストランでバイキングの料理と泡盛とビールで最後の夜を締める。
4日目沖縄旅行最後の日ホテル近辺をウォーキング少々風が強いが朝日も顔を出し海の色も一段と美しい、この次この景色を見ることができるのはいつになるか?全員で朝食バイキング、沖縄にも中国人パワー、そこここで中国語が飛び交っている 恐るべし中国。9:30ホテルを出発。途中泡盛の製造メーカー「まさひろ酒造」に立ち寄り、古酒を試飲結局数本購入する羽目になる。家内曰わく、買いっプリはお婆ちゃん似だね・と。近くのJA道の駅に寄る、地場産品が並んだ沖縄ならではの品々が興味をそそる。さあ沖縄旅行も最終章、フジレンタカーに4日間お世話になったボクシーを返車、長男に4日間運転してもらい、お疲れ様でした。感謝感謝。マイクロバスで他の旅行客と沖縄空港へ 、ものすごい旅行客がごった返す沖縄空港、観光の島沖縄を印象付ける。さあ仙台空港へフライト。14:15に飛び立つ。4日間楽しかったと口々に!またいつの日か計画したいと思いながら。

沖縄旅行

2015-03-26 20:56:29 | Weblog
3月25日
仙台空港から9時頃の少々小型の飛行機で中部国際空港へ、乗り換え時間30分での慌ただしく沖縄行きに乗り込む。13時頃那覇空港に到着どんよりの曇り空、早速レンタカー屋さんで予約してたワゴン車ボクシーをレンタルする。今回の旅行は長男夫婦と女の子9才と3才の男の孫それに家内の6人での3泊4日の旅である。JTBで5ヶ月前に行程を決めてもらい、孫の春休みを利用し決行。空港から那覇市内を抜け、昼食事は定番の沖縄ソーキソバ、コンビニで地元の人に聞いて行っただけあって美味しかった。高速道路で北上、許田(きょだ)の道の駅に寄る。そこで沖縄土産を購入し自宅まで送ることにする。土産の心配せずに道中楽しめるように。本部(もとぶ)のホテルに直行、ホテルオリオンモトブリゾート、昨年7月に出来たばかりの真新しいホテルで部屋も広く快適なホテルであった。夕食はホテルのレストランでのバイキングで初めての沖縄の夜をオリオンビールで乾杯。オーシャンビューの沖縄な
らではの景色は何とも言葉ではいい表せないほどビューティフル。
翌日26日
朝6時に起床、ホテルの海岸線をウォーキング、エメラルドグリーンの海を眺めながら歩くのは何とも贅沢なことか。バイキングの朝食を済ませ、近くの美ら海水族館へ7ー8年前に会社の旅行で訪れているので驚きはなかったが、みんなは目を見張る驚きだったようだ。大きな水槽にジンベイサメ、マンタ、いろいろな魚の群れを見学し孫はじめ満足していた。長男の運転で今度は海岸線を南下、沿道のレストランで昼食を済ませ、万座毛へ。 珊瑚礁の岩が侵蝕され断崖絶壁の岩場が観るものを感動させる。二日目の宿恩納村にあるルネッサンスオキナワリゾートへ、このホテルも高級ホテルのようで沢山の宿泊客が ロビーを賑わせている。夕食は近くの沖縄料理店にゴーヤチャンプル、島豆腐、島らっきょ、海ブドウなどと泡盛を頂き二日目の夜も更けゆく。

1000kラン(2)

2014-09-16 06:50:30 | Weblog
9月3日夜12時ころ雄勝町に向け愛車を走らせる、石巻近辺の道の駅で2~3時間の仮眠をとり、南さんの宿泊地に5時に到着。同伴者の今村氏も元気に現る5:30ころから昨日の到着地点に戻り、スタート。朝日が水平線から現れる、朝日を拝むのは正月以来かもしれない、朝日に輝く美しい雄勝湾を右手に見て出発。今村車と2台の伴走車で前後しながらランナーをサポート。この辺はアップダウンが多いところ順調に走り4~5kのところで一回目の給水、休憩、朝食を買い求めるのを忘れ、コンビニまで走る、といってもこの辺には民家もなければ店やも無い、ひとっ走り山を下りコンビニもあるところまで、北上川の縁の道路を遡り10k以上もあるところまで走行、食料と氷を2袋買い求め引き返す。もうかなり距離を伸ばしており北上川の側まで走ってきたいた。沿道の梨と桃を車で販売しているおじさんに頑張ってと梨を贈呈される。北上川の河口にほど近い1kほどもある橋を渡り対岸に。天気にも恵まれ残暑がまだ続いているようで陽光は厳しいが海風が心地いい。窓をかけての走行で涼しいがランナーはさぞ暑いことだろう。氷を挟んだ手ぬぐいを首筋にまいてのラン。順調に右手に海岸線漁港を見ながら北上。4~5ごとに休憩を入れ午前中11時ころまで走り昼食。風光明美なレストランにたどり着きノンアルコールビールと焼き肉定食を食す。この続きはまた。

1000kラン

2014-08-30 08:12:07 | Weblog
学生時代の友人 TM君が千葉県の旭市から青森県の三沢市まで1000kmのランに出てから8日目、一日約40kを走破し福島県の飯館に着き、そこからまた走るというので応援に駆けつける。なかなか見つけることが出来ず結局南相馬市の道の駅でやっと発見することができる。千葉、茨城、福島のいわきを通り、 そこからは海岸線は通れないので山側に進路を変え小野町川俣町経由し飯館村南相馬市に到着、ボランティア仲間が応援に二人来ていた。ここまでも相当の距離を走っているのに至って元気なのには驚くばかり。昼食を一緒にとり、二時頃道の駅をスタート、まだ復興真っ最中のダンプカーが行き交う海岸線を北上、鹿島町に入る。ボランティア仲間が自転車を車に積んできていたのでそれを借り後ろから伴走する。午後5時頃まで走り今日の走行距離も40k、なんという超人的な友人であることか。

集中豪雨

2014-08-25 19:50:23 | Weblog
観測史上最大雨量とか、最高気温といった表現、さらには想定外の、、、といった
言葉をよく耳にするようになりました。
個々の豪雨や猛暑・酷暑の原因が地球温暖化だと断言は出来ませんが、自然現象
の複雑さを通り越して我々が抱いてきた気象というか自然現象に対する常識の変わ
り目であるように思います。想定外が常態化していると認識すべきでしょう。
今回の広島の土砂災害の現場の惨状は「東日本大震災時の津波」や昨年の「伊豆
大島の土砂災害」と重なります。
又、阪神・淡路大震災以来の住宅密集地での都市型災害のリスクが広島でも顕在化
したように、同じような自然災害を繰り返して、さまざまな情報がありながら、それを生
かすことが出来ないのが問題であり、根本的な都市防災力の弱さと、内面での自分は
大丈夫という本来の危険を認識できない人間の弱さがクローズアップされている感が
します。底知れぬ力で襲い掛かる自然の猛威から身を守るために人間は何を為すべ
きか? 広島他の惨事を悼みつつ又早期の復旧・復興を願いながら、平凡な結論です
が”今一度、地域での人のつながりを再認識して、自然災害へのリスクと防災を一人一
人が考え直すべき”だと思っております。 NT文より

長崎の悲劇

2014-08-09 22:36:12 | Weblog
【無機質の奥にあるもの】
今日8月9日は長崎原爆の日。私にとっても、異母姉2人の命日である。
南啓子6歳、英子4歳。ともに、爆心地から南西約500メートルの国鉄竹の久保官舎で死んだ。摂氏1万度を超す熱線、秒速360メートルの爆風。ひとたまりもなかったろう。瞬時に炭と化したその「亡骸」は、風呂場の跡付近で見つかった。二人の姉葉子12歳は12日に長与の救護所で、兄寛之9歳は16日に喜々津の親類宅でそれぞれ息を引き取った。一番上の兄だけは爆心地から離れた旧制中学へ出かけ、辛うじて難を免れている。
 子どもたちは前月末、入院中の母親を亡くしていた。父は長崎機関区の仕事で忙しい。乏しい食糧事情。いつも、母親代わりの長女葉子はご飯に添える味噌汁の具を父の椀にだけ入れ、弟や妹に「お父さんは仕事で頑張らんといかんからね」と優しく諭していた。原爆が直撃した時、啓子と英子は留守番しながら、風呂場で仲良く水遊びをしていたのか。原子野で、父は機関区の焼け跡の片付けや救援列車運行の指揮に忙殺され、子どもたちの捜索がままならない。葉子は「お父さんはまだでしょうか」と言いながら息を引き取った。
 長男を抱えた父は戦後間もなく再婚し、男女4人の子どもを設けた。いずれも、名前の1字には「久」。「幾久しく、しっかり生き抜いて」―。原爆で幼子を一瞬に失くした父の願いが伝わってくる。私たちに原爆の話をして聞かせる時、父は必ず寛之の最期の言葉を口にして泣いた。「お父さん、今何時?」。
 父は私が大学を出て就職する前年の夏、死んだ。大学による解剖の結果、肝臓の機能が普通の人の3分の1しかなかった。「自分の一生は重い荷を背負って長い坂道を上り続ける人生だった」。父はそう言っていた。父の死で、親不幸を重ねていた私には、その恩に報いる機会が永遠に失われてしまった。
 私はこれまで、一瞬一瞬を大切に悔いのないよう生きたい、と願ってきた。胸の中には、生きる時を求めながら断たれた兄姉や、被爆の後遺症に苦しみ抜いた父たちに寄せる無念の思いがある。
 長崎原爆の死者74000人。無機質な数字の裏には、私たちと同様、いやそれ以上に大切な人生の物語がその数だけあったはずである。そして、それはナガサキ、ヒロシマに限らない。今も、世界のあちこちで戦争や紛争による犠牲者の報道が絶えない。ともすれば麻痺しがちな日常に抗って、「無機質」の奥にあるかけがえのない「生」の物語に想像を馳せたい。

森の会

2014-06-17 12:12:49 | Weblog
高尾山薬王院

精進料理を頂きました。

浜辺の足跡

2014-06-10 10:08:50 | Weblog
夢を見た、クリスマスの夜
浜辺を歩いていた、主と並んで
砂の上に二人の足が、二人の足跡を残していった
私のそれと、主のそれと

ふと思った、夢の中でのことだ
この一足一足は、私の生涯の一日一日を示していると

立ち止まって後ろを振り返った
足跡はずっと遠く見えなくなるところまで続いている

ところが、一つのことに気付いた
ところどころ、二人の足跡でなく、一人の足跡しかないのに

私の生涯が走馬灯のように思い出された

なんという驚き、一人の足跡しかないところは
生涯でいちばん暗かった日とぴったり合う

苦悶の日、悪を望んだ日、利己主義の日、試練の日
やりきれない日、自分にやりきれなくなった日

そこで、主のほうに向き直って
あえて文句を言った

「あなたは、日々私たちと共にいると約束されたではありませんか
なぜ約束を守ってくださらなかったのですか
どうして、人生の危機にあった私を一人で放っておかれたのですか
まさにあなたの存在が必要だった時に」

ところが、主は私に答えて言われた

「友よ、砂の上に一人の足跡しか見えない日は
それは私がきみをおぶって歩いた日なのだよ」

アデマール・デ・パロス(ブラジルの詩人)

ボランティア

2014-04-29 20:54:08 | Weblog
M君という長崎から来た学生時代の友人と、山口県から来たシンガーソングライターのJさん、二人のボランティア活動を
4日間手伝ってきました。
26日は宮城県名取市美田園の仮設住宅、27日は宮城県亘理町の仮設住宅、28日は福島県南相馬市鹿島区の仮設住宅
29日は福島県相馬市大野台の仮設住宅での懐かしい歌のCDコンサートとJ氏の作詞作曲の ライブコンサートでした。
各会場30人~50人位のお爺さんお婆さんが中心で、CDに合わせて懐メロを歌い、約二時間弱の活動でした。
最初はつまらなそうに歌っておりますが徐々に各々乗ってきて、Jさんのライブの時は歌の合間の関西弁にも魅せられて
笑いあり涙ありの会場になりました、最後にお楽しみ会と称して、持参していった盛りだくさんの景品を抽選で皆さんに分け
与え喜んでいただきお開きとなります。
宮城県名取亘理の被災者の復旧復興は徐々にではありますが進んでおり、仮設住宅の 三割の方は新天地で生活に入っている
ようでしたが、やはり福島県の原発事故関連の方々は悲惨です。今度行った南相馬市鹿島区の仮設の代表の方も言っておられ
ましたが、誰もまだ越して行った人はいないとのことでした。この鹿島区には南相馬市の小高区の方々が移り住んでおりまして
なんと偶然にも昔私がお世話になった方が三人もおり、懐かしさのあまり涙を流しながら肩を抱き合い再開しました。
狭い仮設住宅にお邪魔し、お茶を頂きながら昔話に花を咲かせ近いうちまた来ますと言って帰ってきました。
相馬市大野台には飯館の方々の仮設住宅で、除染が一向に進んでおらず、先が全然見えない、若い家族と離ればなれになり
この先どうなるの見当もつかないと話しておりました。三年経過した今、最低でもこの仮設住宅にあと三年は留まることに
なるだろうとこの仮設の会長さんは話しておりました。
安倍晋三「何やってんだ!」と言いたい気持ちと、まだまだ大震災は終わっていないことを全国のみなさんに知らせる
必要があることを思い知らされながら帰ってきました。
近くにいても何もできずにいる我々に比べ、遠くからわざわざ来てボランティア活動に精を出してくれる方々に頭が下がる
思いでいっぱいの4日間でした。

安倍総理の景気対策

2014-01-28 21:48:10 | Weblog
昨年来、「デフレからの脱出」「日本を取り戻す」というスローガンの
アベノミクス三本の矢の宣伝効果により、景況感はよくなり局面が
変わりつつありますが、しかし昨今の株高、円安の実績は実体経済の
裏付けに乏しく、少しでもマイナスの数字、情報が発表される毎に大
幅な乱気流に遭遇しているようです。
素人的浅知恵のデフレ脱却には、市場にお金を沢山流通させ、公共
事業等による民間需要の喚起であり、更に減税による企業や家庭の
可処分所得を増やし投資や消費を促すことと思います。
しかし、4月からの消費増税はじめ福祉費負担増、更に大企業優先の
景気施策を眺めていますとアクセルを踏みつつブレーキを踏むにも
似た図式のようです。
某著名な経済学者が言っていますが「山頂部分には陽がさして春の
気配だが、山裾や日陰部分の雪解けは遅く、谷底の除雪は見捨てら
れ、、、、云々」と。そうならぬようなアベノミクスの進化を確実な再生の
道筋を、問われる年になるのではないか。