Crosby, Stills, Nash, and Young "Ohio"
ピンク・シャドウーブレッド&バター
Bombay Bicycle Club - Willow (feat. Lucy Rose) [Live Acoustic]
チャラン・ポ・ランタン / 内緒の唄 - Official music video
Move With the SeasonーTemples
Yayoi, Iyayoi 幾何学模様
なるほどね。
成功と失敗の体験。就職に影響するかしないか。
一理はあると思う。
でも、どうももやもやした気分は晴れない。
例えば、日本の今の若者に「60年代へのノスタルジー」がないかというとそうともいえないし、私はむしろ60年代、70年代の楽曲が注目されたり、ファッションや60年代の文化への憧れは今の若者にもあるように思う。
そう考えると、デモ文化の有無や日本の若者の社会の空気感では「デモをするというのは、他の意見を見下す敵対行為であり、自分の意見を至上とする唯我独尊である」となることが、理解できなくなる。
成功、失敗や就職云々のことも併せて考えても、「日本のZ世代が冷笑しかできぬ訳」としてはどうも弱いような気がするし。
一体どういうこと?
そこでよくよく考えてみると、こういう60年代への憬れとデモへの否定という「相反する感情」というのは、そもそもZ世代だけが持ち合わせているものではないよね、ということに気付いた。
私自身は60年代の文化肯定派であり、過激派等には否定的だが「デモ」に関しては民主的行動として肯定している。しかし、団塊の世代を除いた以降の世代の多くはそうではなく前述した「相反する感情」を持っているのではないか。いや、団塊の世代の中にだって持っている者もいるだろう。
私自身「どちらも肯定派」であるだけに気付くのに遅かったが、「60年代はいい時代だったと思うけど、あのデモがね」と思うことは至極当然である。矛盾でも何でもない。
そうなるとℤ世代だけではなく日本の国民の多くは今回の米国のデモについて「どうせやっても変わらない」と「冷笑」しているということになるが、自分のこととして行動出来ぬ限りはそういう風になってしまうのは仕方のないことなのかもしれない。
「冷笑しかできぬ訳」の「訳」については結局よく分からないが、私的考えとしては恐らく日本社会の右傾化と無縁ではないなとは思っている。
ピンク・シャドウーブレッド&バター
Bombay Bicycle Club - Willow (feat. Lucy Rose) [Live Acoustic]
チャラン・ポ・ランタン / 内緒の唄 - Official music video
Move With the SeasonーTemples
Yayoi, Iyayoi 幾何学模様
なるほどね。
成功と失敗の体験。就職に影響するかしないか。
一理はあると思う。
でも、どうももやもやした気分は晴れない。
例えば、日本の今の若者に「60年代へのノスタルジー」がないかというとそうともいえないし、私はむしろ60年代、70年代の楽曲が注目されたり、ファッションや60年代の文化への憧れは今の若者にもあるように思う。
そう考えると、デモ文化の有無や日本の若者の社会の空気感では「デモをするというのは、他の意見を見下す敵対行為であり、自分の意見を至上とする唯我独尊である」となることが、理解できなくなる。
成功、失敗や就職云々のことも併せて考えても、「日本のZ世代が冷笑しかできぬ訳」としてはどうも弱いような気がするし。
一体どういうこと?
そこでよくよく考えてみると、こういう60年代への憬れとデモへの否定という「相反する感情」というのは、そもそもZ世代だけが持ち合わせているものではないよね、ということに気付いた。
私自身は60年代の文化肯定派であり、過激派等には否定的だが「デモ」に関しては民主的行動として肯定している。しかし、団塊の世代を除いた以降の世代の多くはそうではなく前述した「相反する感情」を持っているのではないか。いや、団塊の世代の中にだって持っている者もいるだろう。
私自身「どちらも肯定派」であるだけに気付くのに遅かったが、「60年代はいい時代だったと思うけど、あのデモがね」と思うことは至極当然である。矛盾でも何でもない。
そうなるとℤ世代だけではなく日本の国民の多くは今回の米国のデモについて「どうせやっても変わらない」と「冷笑」しているということになるが、自分のこととして行動出来ぬ限りはそういう風になってしまうのは仕方のないことなのかもしれない。
「冷笑しかできぬ訳」の「訳」については結局よく分からないが、私的考えとしては恐らく日本社会の右傾化と無縁ではないなとは思っている。