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下天は夢

2012年04月01日 21時44分07秒 | 人生の羅針盤アーカイブ・法華経の実践と実証
下天は夢

▼この世は
すべては無常のなかにあり、この世のすべては時とともに変化し形あるものは
いずれはすべて消滅する。

人のこころも、健康も、命も
財も地位も、時とともに常にさまざまな外縁によって変化の過程にあり
すべて一定(いちじょう)なものはない。(諸行無常)

▼たとえ億万の財や地位や名誉をを築いてそれに執着しても
臨終にはすべて無くなる。

仏の境涯(宇宙法界)から見れば、
人のこの世の事象はすべて幻想で「一瞬の夢」のような出来事
かもしれません。



話は変わりますが

「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり
ひとたび生を享け 滅せぬもののあるべきか」

あの信長の有名な出陣前の言葉(幸若舞「敦盛」の一節)があります。

訳:人間界の50年間は、天界の時間に比すれば一瞬のまぼろしに過ぎない

一度この世に生まれて 死なずにすむ者のいるはずもない。

(織田信長の好んで唱えたもので、出陣の際にもこれを歌い舞って勇を鼓した
が、本能寺を急襲された時も、猛火の中でこの歌を歌いつつ49年の生涯を
閉じたと伝えられます。信長公記)


▼本能寺の変で「明智が者と見え申し侯」
謀反が明智だと知らされた信長は「是非に及ばず」と言ったと伝えられていますが

「是非に及ばず」の意味について
是非(ぜひ)も無い
当否や善悪の判断をするに至らない。しかたがない。やむを得ない。

1.どうしょうもないと諦めた。死を覚悟した。

2.「明智が者と見え申し侯」と
情報が錯乱している状況で首謀者を特定し対策を練ることすらできない。
是非を考えている(論じている)状況にない、応戦するしかない。

3.三河物語で言われるような「光秀ならやむを得ない」といった意味合い。

とさまざまな解釈がありますが

▼私はそれを深くこころで観るならば
信長が「是非に及ばず」といった意味は「すべては天命」その一言。

そのことは
桶狭間の奇跡からはじまり、そして越前朝倉氏を攻めていた途中浅井長政の
裏切りを知った時にも「是非もなし」と言って奇跡的に難を逃れた。
まさに生死の境を隔てた「ある境地」に達していたのではないかと思います。

▼それは「敦盛」の一節
「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり」からも思ひ量られる。
(人間界の50年間は、天界の時間に比すれば一瞬のまぼろしに過ぎない)

(織田信長肖像)
常に生と死の境にある「境地」あり
(すべては天命によって動かられている。腹を据えてじたばたするな、という思い)
から出たその一言が 「是非に及ばず」


織田信長の不思議な性格

信長が好きな唄からも、そのことは推察できる。
死のうは一定 忍び草忍び草には何をしよぞ一定 語り起こすよの」

「死のうは一定 」
誰にでも死は訪れる。人は必ず死ぬという意味。
「忍び草には何をしよぞ 」
自分の死後にも語り継がれる事をする為に何をしようか。
「一定 語り起こすよの」
後の世の人は自分のしてきた事を語り継いでくれるだろう。

「武士道は死ぬ事と見つけたり」という葉隠れの名句と同じように、
死という観念から力を引き出すのである。
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思うに、この世はすべて不確実のなかにあって死は一定。
常に臨終のことを心得て
所詮臨終只今にあり、
と解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を「是人命終為千仏授手令不恐怖不堕悪趣」と説かれて候、悦ばしい哉一仏二仏に非ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎し手を取り給はん事歓喜の感涙押え難し(生死一大事血脈抄)

一大事のときの戦いの心構えは「臨終只今にあり」との精神で戦わねばならない。
明日はない、次はない、という決心で苦難に立ち向かうことだ。
明日がある、次がある、と思ってしまえば心の油断が生ずる。
只今、いまその時、このチャンスは2度と来ないとの気持ちで臨んでこそ
一大事は成就する。

また、そのとき、「一仏二仏に非ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎」とあるように、
多くの諸天善神も現れて守護し賜る。


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