海月美紗のおでかけ日記

おでかけ大好きです
見つけた小さな“happy”を記録していきます

日本100名城・松本城

2024年12月07日 | 

松本城は、石川氏が築いた漆黒の天守
所在地:長野県松本市
別名:深志城(ふかしじょう)
城地種類:平城
築城年代:文禄2~3年(1593~94年)
築城者:石川数正・康長
主要城主:石川氏、小笠原氏、戸田(松平)氏、松平氏、掘田氏、水野氏
天守の現状・形態:五重六階、木造(現存)

黒漆塗りの下見板張の天守群はどこから見ても美しい
天守と乾小天守を渡櫓で結ぶ石垣造の近世城郭を築造したのは石川数正・康長父子
本丸正門の復興された黒門は侵入者が直進できない枡形門で、一の門が櫓門、二の門は高麗門になっている
藩の政庁だった二の丸御殿跡は規模・間取りが分かるように史跡公園として平面表示されている
二の丸御殿跡北西隅の御金蔵蔵も必見

主な遺構
天守、乾小天守、渡櫓、辰巳付櫓、月見櫓、本丸、二の丸、堀

東から見た天守群
大天守と乾小天守が渡櫓で連結し、辰巳付櫓と月見櫓(朱塗り欄干付き)は大天守と複合している

大天守と乾小天守、その両者をつなぐ渡櫓は、戦国時代末期に、豊臣秀吉の家臣、石川数正・康長父子により、関東の徳川家康の監視という役割を負って築造された

天守一階
天守の壁の下部は「黒漆塗の下見板」、上部は白漆喰仕上げ
天守の壁は一・二階で約29cmと厚く、火縄銃の弾丸を通さない
石落は、石垣を登る敵兵に石を落としたり熱湯をかけたりして天守を守る装置、戦国末期にはここから這い上がる敵兵に火縄銃を撃った
大天守・渡櫓・乾小天守各一階に合計11か所の石落が備えられている

天守二階の武者窓・堅格子窓
格子に使われている部材は13×12cmで、ここからも火縄銃を撃った

天守三階
下から二重目の屋根が三階の周囲を巡ってつくられているため窓がない、乾小天守も同様
隠し階、暗闇重と呼ばれる

天守四階・御座所
城主が天守に入ったときはここに座を構えたと考えられている、客人の接待場所ではない
戦時に城主がここに籠もる場合は天守も戦闘の最終局面

天守五階は作戦会議室
東西に千鳥破風、南北に唐破風が取り付けられ、武者窓から全方向の様子を見ることができる

天守六階
屋根裏は太い梁が井の字に組まれる井桁梁(いげたばり)で、四方へ出て軒をつくる垂木(たるき)の下に、さらに太い桔木(はねぎ)が外側に向かって放射状に配置されている
これは、天守最上階の重い瓦屋根の軒先が下がらないように支えるため、てこの原理を使った「桔木構造」という装置

天守から見た埋門

天守最上階から見た東方面・本丸御殿跡

天守最上階から見た北方面

埋橋

西側から見た松本城

辰巳付櫓の華頭窓
泰平の世になって増設された櫓、月見櫓を天守に付設するための連結の役割をもつ
華頭窓は中国から鎌倉時代に伝えられた仏教建築の様式、乾小天守の四階にもつけられている

月見櫓の舞良戸(まいらど)
徳川家光は寛永11年(1634年)に上洛し、その帰り道に善光寺参詣を願い、宿城として松本城を当てた
時の松本城主・松平直政は、急遽寛永10年(1633年)から普請にかかった
家光は中山道木曽路等に落石があり、来松しなかった

戦いのない江戸時代初期に築造された、戦いに備えて造られた天守とは大きな違いがある
月見櫓の北側、東側、南側の三方向が開口部だが、柱と舞良戸という横に桟を打った薄い板戸だけの建物
月見をするときは、舞良戸を外し、畳敷きの部屋で東から昇る月を愛でた
月見櫓の三方を朱色の漆が塗られた刎ね勾欄(はねこうらん)を施した回縁が巡り、見るからに泰平な世の建造物

どの方向から見ても美しい! 今度はできれば晴天の日に…

 

2018.12.23


この記事についてブログを書く
« 日本100名城・犬山城 | トップ | 日本100名城・姫路城 »

」カテゴリの最新記事