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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

高野山34 上州榊原家墓所 

2014年03月27日 | 高野山

 高野山にある上州榊原家墓所には姫路藩主初代の榊原忠次が眠る。榊原氏は前回に紹介した鳥取藩・池田氏と繋がりが深い。池田光政の娘・富磯と榊原忠次の息子・政房が結婚することで榊原氏を受け継いでいくこととなる。実はこの姫路初代藩主・榊原忠次は黒田官兵衛の孫娘を正室に迎えている。また、榊原忠次の母は松平康元の娘であるから、徳川家康の姪が忠次の母なのである。一方、鳥取藩初代・池田光政の祖父輝政は家康の次女・督姫を妻とした。このように池田氏とともに榊原氏も徳川家康の重用により繁栄して播磨・因幡の大名として長州藩を牽制する立場を築いた。高野山の奥の院に続く一帯に隣接して造られた墓地には、このようなつながりがあることに注目したい。

土田弥平次  
 ┣  
生駒吉乃1528-1566
  ┣1織田信忠1557-1582(岐阜城主)二条御所(本能寺の近く)で討死
 ┃ ┣秀信1580-1605(三法師)本能寺の変時に清洲城へ非難 
 ┃ ┣秀則1581-1625(秀信と共に関ヶ原合戦で西軍)
 ┃┏森可成(祖は河内源氏・源義家)娘(徳寿院)
 ┃┣森可隆1552-1570
 ┃┣森長可1558-1584小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃  ┣-   督姫1565-1615(家康次女)
 ┃┃┏━娘   ┣池田忠雄1602-1632(鳥取藩祖)
 ┃┃┃    ┃┣池田光仲1630-1693(初代鳥取藩主)
 ┃┃┃    ┃三保姫┣池田綱清1648-1711(2代)
 ┃┃┃    ┃茶々姫(徳川頼宣娘)┃┣池田吉泰1687-1739(3代)
 ┃┃┃    ┃        式姫┃┃  ┣池田宗泰1717-1747(4代)
 ┃┃┃    ┃      菊子(側室)敬姫 中村氏┣池田重寛1746-1783(5代)
 ┃┃┃    ┃        (徳川綱紀娘)  久姫  ┃ ┣池田治道1768-1798(6代)
 ┃┃┃    ┃             (徳川宗直娘) 律姫┃ ┃┣池田斉邦
 ┃┃┃    ┃                  上氏(側室)┃於三保
 ┃┃┃    ┃                    生姫(伊達重村娘)
 ┃┃┃    ┃    松平広忠1526-1549
 ┃┃┃    ┃     ┣徳川家康1543-1616
 ┃┃┃    ┃    於大の方1528-1602(水野忠政娘)                
 ┃┃┃    ┃     ┗松平康元 黒田長政娘(正室)
 ┃┃┃    ┃         ┗娘 ┣-
 ┃┃┃    ┣池田忠継1599-1615 ┗榊原忠次1605-1665(姫路藩主)
 ┃┃┃    ┣池田輝澄1604-1662   ┗榊原政房1641-1667(姫路藩2代) 母は寺沢広高娘
 ┃┃┣━池田輝政1565-1613(姫路城主)   ┣榊原政倫1665-1683(姫路藩3代)
 ┃┃┃    ┣池田利隆1584-1616  ┏富幾 ┣榊原政邦1675-1726
 ┃┃┃中川清秀娘・糸姫┣池田光政1609-1682 鍋島娘┗榊原政祐1705-1732(養子)
 ┃┃┃        ┃┣池田政言1645-1700    ┗榊原政岑1713-1743(養子)   
 ┃┃┃        ┃┣池田綱政1638-1714(岡山藩主 後楽園を造営)   
 ┃┃┃        ┃┃┣池田吉政1678-1695    
 ┃┃┃        ┃┃千子(丹羽光重娘)    
 ┃┃┃        ┃┣奈阿姫   
 ┃┃┃        ┃勝姫(本多忠刻娘)   
 ┃┃┃   柳原康政 ┣池田恒元1611-1671   
 ┃┃┃      ┣鶴姫(徳川秀忠養女)
 ┃┃┃      ┗大須賀忠政1581-1607
 ┃┃┃         ┣榊原忠次1605-1665(姫路藩主)
 ┃┃┃       松平康元娘 
 ┃┃┣━池田長吉1570-1614
 ┃┃┃  ┣池田長幸1587-1632(備中松山初代城主)
 ┃┃┃ 伊木忠次娘  ┣長常,長信
 ┃┃┃      松子,宮子(森忠政娘)
 ┃┃┣━池田元助1559
 ┃┃┃ 片桐半右衛門娘
 ┃┃┃  ┣-
 ┃┃┣━池田長政1575-1607(母:荒尾善次娘 犬山城にて生)
 ┃┃┃  ┣池田長明1606-1678(伊賀守)
 ┃┃┃加藤嘉明娘┣長重 
 ┃┃┃     ┣長久1645-1697
 ┃┃┃     妾 ┣長喬1676-1723
 ┃┃┃      香昌院 ┣長處1696-1754
 ┃┃┃         峯松院 ┣長仍1725-1796
 ┃┃┃             妾 ┗長玄1741-1814
 ┃┃┃                 ┗-
 ┃┃┃
 ┃┃┣━━若御前   菊亭晴季(越後流罪)1539-1617娘
 ┃┃┃日秀┣-      ┣
 ┃┃┃ ┣豊臣秀次1568-1595(高野山で切腹)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀勝1569-1592小吉(妻は淀の妹お江与 朝鮮で病死)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀保1579-1595
 ┃┃┃三好吉房1522-1600
 ┃┃池田恒興1536-1584(信長の乳兄弟)清洲会議の宿老 小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃                    ↑
 ┃┣森蘭丸1565-1582(長利)本能寺の変で討死 【小牧長久手戦】
 ┃┗森忠政1570-1634
 ┗━━━━━━┓              ↓
        ┣2織田信雄1558-1630(本能寺の変時に伊勢に撤退 宇陀松山藩初代)
        ┃ ┃┣高長1590-1674(宇陀松山藩2代藩主)   
        ┃ ┃┃ ┣長頼1620-1689(宇陀松山藩3代藩主)  
        ┃ ┃┃富田氏      ┣信武1655-1694(宇陀松山藩3代藩主)
        ┃ ┃久保三右衛門娘  津川氏   
        ┃ ┣秀雄1583-1610(亀山城主 関ヶ原合戦で西軍)   
 ┏織田信広-1574┃北畠具教娘(千代御前) 
織田信秀    ┣徳姫(見星院)1559-1636 
   1510-1551 ┃  ┣登久姫                 毛利輝元娘
        ┃  ┃  ┣熊姫┏━━5勝長-1582岩村城主 二条御所で討死┣-  
       ┃  ┃徳川信康┃┏━4羽柴秀勝1568-1586(母不祥)丹波亀山城で病死 
       ┃  ┃    ┃┃┏3信孝1558-1583(母坂氏)伊勢神戸氏継ぐ 四国征伐
      ┗織田信長 1534-1582 

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高野山33 鳥取池田家墓所 

2014年03月26日 | 高野山

 高野山・鳥取池田家墓所には初代藩主・池田光仲が眠る。光仲は池田輝政の孫にあたり祖母は徳川家康の娘・督姫である。従って池田家の本流ともいえる。池田輝政といえば姫路城の城主であったことから息子・利隆、孫・光政の系統が姫路城主を継ぎ、姫路藩主、岡山藩主を輩出していることから、こちらのほうが有名であるが、徳川秀忠の養女・鶴姫系統なので本来は主流ではなかった。従って池田光政の事績は大きい。ところで鳥取藩池田家は坂本龍馬とも縁がある。龍馬が剣術指南を受けたのが幕末の三剣客のひとりで北辰一刀流を編み出した千葉周作である。ほかの弟子には清川八郎、山岡鉄舟、また新撰組の山南敬助、藤堂平助らがいる。龍馬が土佐からでてきて久しく修行をしたのは、千葉周作の弟・千葉定吉の道場「小千葉道場」である。弟・定吉は、兄周作の玄武館道場の隆盛に貢献した後、自らも付近に「小千葉道場」や「桶町千葉道場」などと通称される道場を開き、剣術修行のために江戸へ出てきた土佐藩士坂本龍馬は、定吉の門に入ったのである。この時定吉は、鳥取藩池田家の江戸屋敷に仕官していたため、龍馬は定吉の息子・千葉重太郎のもとで修行に励んでいる。

 土田弥平次  
 ┣  
生駒吉乃1528-1566
  ┣1織田信忠1557-1582(岐阜城主)二条御所(本能寺の近く)で討死
 ┃ ┣秀信1580-1605(三法師)本能寺の変時に清洲城へ非難 
 ┃ ┣秀則1581-1625(秀信と共に関ヶ原合戦で西軍)
 ┃┏森可成(祖は河内源氏・源義家)娘(徳寿院)
 ┃┣森可隆1552-1570
 ┃┣森長可1558-1584小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃  ┣-   督姫1565-1615(家康次女)
 ┃┃┏━娘   ┣池田忠雄1602-1632(鳥取藩祖)
 ┃┃┃    ┃┣池田光仲1630-1693(初代鳥取藩主)
 ┃┃┃    ┃三保姫┣池田綱清1648-1711(2代)
 ┃┃┃    ┃茶々姫(徳川頼宣娘)┃┣池田吉泰1687-1739(3代)
 ┃┃┃    ┃        式姫┃┃  ┣池田宗泰1717-1747(4代)
 ┃┃┃    ┃      菊子(側室)敬姫 中村氏┣池田重寛1746-1783(5代)
 ┃┃┃    ┃        (徳川綱紀娘)  久姫  ┃ ┣池田治道1768-1798(6代)
 ┃┃┃    ┃             (徳川宗直娘) 律姫┃ ┃┣池田斉邦
 ┃┃┃    ┃                  上氏(側室)┃於三保
 ┃┃┃    ┃                    生姫(伊達重村娘)
 ┃┃┃    ┃    松平広忠1526-1549
 ┃┃┃    ┃     ┣徳川家康1543-1616

 ┃┃┃    ┃    於大の方1528-1602(水野忠政娘)                

 ┃┃┃    ┃     ┗松平康元 黒田長政娘(正室)
 ┃┃┃    ┃         ┗娘 ┣-
 
┃┃┃    ┣池田忠継1599-1615 ┗榊原忠次1605-1665(姫路藩主)

 ┃┃┃    ┣池田輝澄1604-1662   ┗榊原政房1641-1667(姫路藩2代) 母は寺沢広高娘
 ┃┃┣━池田輝政1565-1613(姫路城主)   ┣榊原政倫1665-1683(姫路藩3代)
 ┃┃┃    ┣池田利隆1584-1616  ┏富幾 ┣榊原政邦1675-1726
 ┃┃┃中川清秀娘・糸姫┣池田光政1609-1682 鍋島娘┗榊原政祐1705-1732(養子)
 ┃┃┃        ┃┣池田政言1645-1700    ┗榊原政岑1713-1743(養子)   
 ┃┃┃        ┃┣池田綱政1638-1714(岡山藩主 後楽園を造営)   
 ┃┃┃        ┃┃┣池田吉政1678-1695    
 ┃┃┃        ┃┃千子(丹羽光重娘)    
 ┃┃┃        ┃┣奈阿姫   
 ┃┃┃        ┃勝姫(本多忠刻娘)   
 ┃┃┃   柳原康政 ┣池田恒元1611-1671   
 ┃┃┃      ┣鶴姫(徳川秀忠養女)
 ┃┃┃      ┗大須賀忠政1581-1607
 ┃┃┃         ┣榊原忠次1605-1665(姫路藩主)
 ┃┃┃       松平康元娘 
 
┃┃┣━池田長吉1570-1614

 ┃┃┃  ┣池田長幸1587-1632(備中松山初代城主)
 ┃┃┃ 伊木忠次娘  ┣長常,長信
 ┃┃┃      松子,宮子(森忠政娘)
 ┃┃┣━池田元助1559
 ┃┃┃ 片桐半右衛門娘
 ┃┃┃  ┣-
 ┃┃┣━池田長政1575-1607(母:荒尾善次娘 犬山城にて生)
 ┃┃┃  ┣池田長明1606-1678(伊賀守)
 ┃┃┃加藤嘉明娘┣長重 
 ┃┃┃     ┣長久1645-1697
 ┃┃┃     妾 ┣長喬1676-1723
 ┃┃┃      香昌院 ┣長處1696-1754
 ┃┃┃         峯松院 ┣長仍1725-1796
 ┃┃┃             妾 ┗長玄1741-1814
 ┃┃┃                 ┗-
 ┃┃┃
 ┃┃┣━━若御前   菊亭晴季(越後流罪)1539-1617娘
 ┃┃┃日秀┣-      ┣
 ┃┃┃ ┣豊臣秀次1568-1595(高野山で切腹)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀勝1569-1592小吉(妻は淀の妹お江与 朝鮮で病死)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀保1579-1595
 ┃┃┃三好吉房1522-1600
 ┃┃池田恒興1536-1584(信長の乳兄弟)清洲会議の宿老 小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃                    ↑
 ┃┣森蘭丸1565-1582(長利)本能寺の変で討死 【小牧長久手戦】
 ┃┗森忠政1570-1634
 ┗━━━━━━┓              ↓
        ┣2織田信雄1558-1630(本能寺の変時に伊勢に撤退 宇陀松山藩初代)
        ┃ ┃┣高長1590-1674(宇陀松山藩2代藩主)   
        ┃ ┃┃ ┣長頼1620-1689(宇陀松山藩3代藩主)  
        ┃ ┃┃富田氏      ┣信武1655-1694(宇陀松山藩3代藩主)
        ┃ ┃久保三右衛門娘  津川氏   
        ┃ ┣秀雄1583-1610(亀山城主 関ヶ原合戦で西軍)   
 ┏織田信広-1574┃北畠具教娘(千代御前) 
織田信秀    ┣徳姫(見星院)1559-1636 
   1510-1551 ┃  ┣登久姫                 毛利輝元娘
        ┃  ┃  ┣熊姫┏━━5勝長-1582岩村城主 二条御所で討死┣-  
       ┃  ┃徳川信康┃┏━4羽柴秀勝1568-1586(母不祥)丹波亀山城で病死 
       ┃  ┃    ┃┃┏3信孝1558-1583(母坂氏)伊勢神戸氏継ぐ 四国征伐
      ┗織田信長 1534-1582

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高野山32 大和織田家墓所 

2014年03月23日 | 高野山

 奈良大宇陀には織田家松山藩の菩提寺・徳源寺がある。織田信長の次男・信雄の戒名が徳源院であることから命名され、信雄の五男・織田高長(宇陀松山2代藩主で出雲守)が父の菩提のために創建したという。実は奈良・大宇陀には柿本人麻呂に縁のある 「かぎろひの丘」があり、その近くに徳源院があり、織田家墓所が境内奥にある。徳源寺縁起によると本尊は釈迦如来坐像で、千手観音像、開山像、円照禅師像なども納められている。 

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高野山31 徳島・蜂須賀家の墓所

2014年03月15日 | 高野山

 徳島藩主蜂須賀家といえば通称小六、蜂須賀正勝は家祖にあたり、羽柴秀吉の家臣である。もともと蜂須賀氏は徳島がゆかりの地ではなく尾張国蜂須賀郷を本拠地とした国人であるため、主君は斎藤道三であった。道三が織田信長に滅ぼされると信長に仕え、その後豊臣秀吉に仕えた。豊臣秀吉との出会いは秀吉が織田氏に仕える以前と云われている。蜂須賀氏は織田信長の側室・生駒吉乃の実家・生駒氏とは縁戚関係にあり、秀吉が織田氏に仕えたのは正勝と縁のあった吉乃の推薦によるという説もある。中国大返しでは黒田官兵衛孝高とともに貢献し成功に導いた立役者である。そして正勝は娘のイトを黒田官兵衛の嫡男・長政の正室としている。このように蜂須賀正勝と黒田官兵衛は親子のように年齢は違ったが結びついていった。

 次に蜂須賀正勝の嫡男・蜂須賀家政1558-1639も織田信長、羽柴秀吉に仕える。1582年、信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、秀吉に従って山崎の戦いに参加し、1583年の秀吉と柴田勝家の決戦・賤ヶ岳の戦いで勝利したときには播磨佐用郡内に3,000石を与えられた。1585年の紀伊雑賀攻めの後に行なわれた四国征伐では、阿波木津城攻め、一宮城攻めなどで武功を挙げ、四国征伐後、その戦功により秀吉は正勝に対して阿波一国を与えようとしたが、正勝は秀吉の側近として仕える道を選んで辞退し、秀吉はやむなく家政に阿波を与えたという。因みに父・正勝はこれを見届け、翌年に没している。だから高野山には徳島蜂須賀家とあるのである。こうして家政は1586年に阿波18万石の大名となり、徳島城を築城した。朝鮮出兵には、文禄の役・慶長の役の2度とも出陣、南原城の戦い、蔚山城の戦いでは救援軍の一端を担い、浅野幸長を助け出すという武功を挙げたが、戦線縮小を主張する石田三成らにかえってこの戦闘行為を非難され、預かっていた蔵入地を没収される懲罰を受けた。1598年に秀吉が死去し、1599年に前田利家が死去すると、福島正則や加藤清正、浅野幸長らとともに三成襲撃を蜂起し、子の至鎮と徳川家康の養女の縁組を結ぶなど、典型的な武断派・親家康大名として活動している。1600年の関ヶ原の戦いでは、時代の流れを察知し、自身は出馬せず、西軍に対しては軍勢だけを送った。家康とは直接戦うことのない丹後田辺城攻防戦に加わった。ここは細川忠興の父・幽斎が東軍として立て篭もっていた城であったが戦闘まもなく補給と称して阿波に戻り、アリバイ工作としての西軍参加を表明したようであるが、西軍が敗れたときには家来は無断で西軍に味方したとして蜂須賀家を追放されている。一方、家康の上杉景勝征伐に同行させていた至鎮は関ヶ原の本戦で東軍として参加させ、武功を挙げたため、家康から所領を安堵された。家政は西軍についた責任を取る形で剃髪し隠居したが、早くに至鎮が病死したために、その子・忠照の成長と家臣団の統制に務め81歳まで生きたのである。

黒田重隆1508-1564(龍野城主・赤松政秀→小寺政職に仕える)
  ┗黒田職隆1522-1585(姫路城代)⇔赤松政秀
  ┃┣娘         蜂須賀正勝1526-1586           
  ┃┃┣-         ┣蜂須賀家政1558-1639   
  ┃┃浦上清宗-1564    ┗イト
  ┃┣黒田官兵衛孝高1546-1604 ┣-  
  ┃┃      ┣黒田長政1568-1623
  ┃┃幸園(櫛橋伊定娘)    ┣黒田忠之1602-1654
  ┃┣黒田利高1554-1596    ┣黒田長興1610-1665      
  ┃明石宗和娘(小寺養女)   ┣黒田高政1612-1639
  ┣黒田利則1561-1612     栄姫
  ┣黒田直之1564-1609
 神吉氏

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高野山30 周防吉川氏の墓所

2014年03月14日 | 高野山

 吉川氏といえば吉川元春、毛利元就の3兄弟の真ん中で3本の矢でたとえられることで知られる。ということは吉川元春は元々吉川氏ではない。毛利家が領地獲得の末に吉川氏に入り込んだのである。わかりやすくいうと毛利は吉川を支配下に置いたのである。これは1550年のことであるが、吉川氏は実質的にはこの年に滅びた。吉川元春は吉川興経の養子になると、父・吉川興経と実子・吉川千法師は毛利元就に暗殺され、養子の吉川元春が吉川氏の当主となった。元々吉川氏は毛利よりもずっと血統は高く、藤原氏南家の流派である。まさに下克上の時代だったのである。遡ること100年前、吉川経基という安芸国の領主は足利将軍家に仕え、娘の吉川夫人は尼子経久の正室となっている。尼子経久は出雲を中心に中国地方の覇権をもつ大名である。しかも宇多源氏佐々木氏の流れを汲む京極氏の分家である。吉川氏はこの尼子氏と手を組んで磐石の態勢を整えたが毛利に滅ぼされた。因みに吉川氏の初代は吉川経義といって平安時代末期の駿河の豪族、鎌倉御家人である。1183年に源頼朝から駿河国を得たときに吉川氏を名乗ったことが始まりである。この吉川氏を滅ぼした毛利家の反映は幕末まで続くのである。

 毛利輝元・長州藩初代藩主の祖父・毛利元就は安芸の国人に過ぎなかった毛利氏をわずかに一代で大大名とした人物である。輝元は父を早くに失い、当初は元就が、後には二人の叔父である吉川元春、小早川隆景が輝元を補佐した。信長の時代には、輝元は石山本願寺と同盟を結び、配下の村上水軍を使って石山に兵糧を運び、本願寺側の唯一の欠点である補給問題を 毛利がカバーすることで 信長を苦しめたのである。信長が本能寺で急死すると備中高松城で対峙していた羽柴秀吉を攻撃せず中立を守ることで毛利の大領土を守った。広島の土地に巨城と城下町を築いたのも輝元である。秀吉は天下をとった後五大老に輝元を加え、毛利の知将である毛利隆景を入閣させている。ところが知将・隆景を失い、秀吉がなくなると輝元の武将としての迷彩は欠いていくのである。そして毛利輝元は、石田三成の意を受けた安国寺恵慧の説得に乗って関ヶ原の戦いの西軍総大将に祭り上げられてしまった。結局関ヶ原の戦いは吉川元春の子である広家が小早川秀秋を裏切らせたために東軍の勝利で終わった。しかし輝元は秀頼という切り札をもって大阪城という難攻不落の要塞にいたのであるが、毛利の本領は安堵する、という家康の誘いに乗って大阪城をでていってしまった。これにより家康は毛利家を完全に取り潰そうとしたが、吉川広家の嘆願により毛利家は大名としてかろうじて生き残ることができたのである。二百数十年を経た長州から吉田松陰、久坂玄随、高杉周作で代表される幕末の志士を輩出し、ついには倒幕を果たすこととなる。これらの原動力になったのは関が原の戦いでの苦渋に違いない。 

  乃美大方殿-1601        高橋興光┓
    ┣               高橋久光娘
  毛利弘元1466-1506(安芸吉田郡山城主) ┣幸松丸1515-1523   
      ┣毛利興元1492-1516(大内興元傘下)   
      ┣毛利元就1497-1571  ⇔ 武田元繁
      ┣女  ┣毛利隆元1523-1563
  福原広俊娘┃  ┃      ┣輝元1553-1625      
        ┃  ┃大内義興┏尾崎局(養女)1527-1572      
        ┃  ┃  ┗大内義隆1507-1551 ⇔ 陶隆房(晴賢) ⇔ 相良武任     
        ┃  ┃     ┣-     (義隆討つが厳島の戦で元就来島水軍に敗れる)
        ┃  ┃   万里小路秀房娘貞子      
        ┃  ┣長女(高橋氏の養女)      
        ┃  ┣五龍局(宍戸隆家室)-1574      
        ┃  ┣吉川元春1530-1586      
吉川経基    ┃  ┃  ┣吉川元長1548-1587    
 ┃(藤原南家)┃  ┃  ┣毛利元氏1556-1631    
 ┣吉川国経  ┃  ┃  ┣吉川広家1561-1625     
 ┃┣元経1459-1522┃新庄局(熊谷信直娘)-1606       
 ┃┣経長     ┣小早川隆景1533-1597    
 ┃┗妙玖 1499-1546  ┣小早川秀包1567-1601     
 ┃           ┣小早川秀秋1582-1602   
 ┗長女        ┏正平娘     ┣羽柴秀行     
   ┃        ┗繁平1542-1574 毛利輝元養女
   ┣政久1488-1518 
   ┃ ┗晴久1514-1561(1540年毛利征伐で敗走)    
   ┣国久 ┣義久1540-1610     
   ┃ ┗娘    
   ┣塩治興久     
 ┏尼子経久1458-1541(宇多源氏)        
尼子清定-1478(出雲守護代)

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高野山29 紀州徳川家の墓所

2014年03月13日 | 高野山

 今回は紀州徳川家2代以降の墓。墓標には2代から6代までの藩主名が記されている。しかし5代の名が抜けているのは何故かというと、紀州徳川家第5代藩主こそが徳川8代将軍・吉宗だからである。吉宗公については何度か町火消し48組制定、享保の改革、目安箱の設置等で紹介した。ここでは吉宗が徳川宗家の将軍となった経緯を記す。

 八代将軍吉宗は極めて幸運であった。吉宗は紀伊徳川家第二代藩主・徳川光貞の四男として生まれた。つまり紀伊徳川家の藩主になることすら難しい四男であり、母は当主・光貞の湯殿番の女中であった。父、光貞と江戸にいたときに、紀州藩邸に当時の将軍綱吉がやってきた。綱吉の一人娘・鶴姫が光貞の嫡男・綱教と結婚していたからである。このとき綱吉の子・徳松は死に、綱教を時期将軍に考えていたほどに鶴姫を溺愛していた。ところが綱教が41歳でなくなり、頼職が26歳でなくなったことにより、紀伊家当主となり、綱吉の一文字をもらい吉宗と改めた。この時点で吉宗が将軍になることは不可能といってよい。つまり綱吉の跡を継いでやっと6代将軍になった家宣にしてみれば、最も嫌っていた大名・紀伊家の綱教のせいで冷や飯を食わされたのであるから、その弟・吉宗、しかも綱吉の字をもらったことを思えば、家宣が紀伊家ではなく尾張の徳川吉通に継がせる遺志があったことはいうまでもない。ところが吉通は頓死し、7代将軍家継もわずかに8歳で死んだ。これらの幸運の次に絵島生島事件により紀州家の者は将軍にしないと言う月光院が大打撃を受けた。事件により優位に立った天英院にしてみれば尾張は受け入れることはできず、紀伊を押すことになる。このように吉宗には考えられないほどに幸運がついてまわり、その結果天英院に押された紀州・吉宗が八代将軍となったのである。

  松平広忠 ━━ 徳川家康 1543-1616年 ┓幼名:竹千代
(八代当主) ┏ 松平忠政       ┃
  ┃    ┣ 徳川家元       ┃
 於大の方  ┣ 樵臆恵最       ┃ 
(伝通院)  ┣ 内藤信成       ┃
       ┗ 市場姫  矢田姫   ┃
   ┏━━━━━━━━━━━━━━━━┛
   ┃ 
正室・篠山殿━┳ 長男・松平信康(1559年 - 1579年)(母:築山殿)       
正室・朝日姫 ┣ 長女・盛徳院 (1560年 - 1625年)(母:築山殿)
側室・お津摩 ┃ 
側室・お万  ┣ 次女・督姫  (1565年 - 1615年)(母:西郷局)池田輝政室
側室・小督局 ┣ 次男・結城秀康(1574年 - 1607年)(母:小督局)
側室・西郷局 ┣ 三男・徳川秀忠(1579年 - 1632年)(母:西郷局)━━┓幼名:長松
       ┣ 四男・松平忠吉(1580年 - 1607年)(母:西郷局)  ┃
       ┣ 次女・良正院 (1565年 - 1615年)(母:西郡局)  ┃
       ┣ 三女・振姫   (1580年 - 1617年)(母:お竹 )    ┃ 
       ┣ 徳川義直1601-1650(初代徳川尾張藩主)(母:お亀)  ┃
       ┃ ┣光友1625-1700(2代藩主)             ┃
       ┃ ┣京姫┣綱誠1652-1699(3代藩主)          ┃
       ┃ 歓喜院┃    ┣吉通1689-1713(4代藩主母本寿院) ┃
       ┃    ┃    ┃ ┣五郎太1711-1713(5代)    ┃
        ┃     ┣松平義行┃九条輔姫            ┃
        ┃     ┣松平義昌┣継友1692-1732(6代藩主 母は和泉)┃
        ┃     ┣松平友著┣義孝1694-1732(母は唐橋)    ┃
       ┃  千代姫(家光娘)┣宗春1696-1764(7代藩主 母は梅津)┃   
        ┃         ┗松姫(綱吉養女)           ┃
       ┣ 徳川頼宣1602-1671(初代徳川紀伊藩主)(母:お万)    ┃
        ┃  ┣徳川光貞1627-1705(生母 中川氏)         ┃
        ┃  ┃ ┣徳川綱教1665-1705(3代尾張藩主)      ┃
        ┃  ┃ ┃ ┣徳川頼職1680-1705(養子)        ┃
        ┃  ┃ ┃鶴姫1677-1704(徳川綱吉娘)         ┃
        ┃  ┃ ┣徳川頼職1680-1705(4代尾張藩主 母真如院) ┃
        ┃  ┃ ┣徳川吉宗1684-1751(5代藩主8代将軍 母浄円院┃
        ┃  ┃瑞応院                      ┃
        ┃  ┣因幡姫1631-1709(鳥取藩主池田光仲正室)     ┃
       ┃  ┣松平頼純1641-1711                            ┃
       ┃  ┃ ┣徳川宗直1682-1757            ┃
       ┃  ┃観樹院 ┣宗将1720-1765           ┃
       ┃  ┃   永隆院                 ┃
        ┃ 八十姫1601-1666(加藤清正娘)              ┃
       ┗ 十一男・徳川頼房(1603年 - 1661年)(母:お万)    ┃
                                    ┃
     ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 
正室・於江与の方━┳ 千姫(天樹院):豊臣秀頼室、のちに本多忠刻室
母は信長の妹お市 ┣ 徳川家光 三代将軍 福・春日局に養育 幼名:竹千代 
         ┣ 徳川忠長                         
側室・お静の方  ┣ 徳川和子(東福門院):後水尾天皇中宮           
         ┣ 珠姫  (天徳院) :前田利常室             
         ┣ 勝姫  (天崇院) :松平忠直室             
         ┗ 初姫  (興安院) :京極忠高室

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高野山28 徳川宗将の墓所

2014年03月12日 | 高野山

 紀州家7代徳川宗将の事績は良くわからない。享保5年、1720年という天下泰平・徳川吉宗の時代に生まれた。先代は徳川宗直といって、伊予西条藩の第2代藩主でもある。そして西条藩初代藩主・松平頼純、祖父にあたる。この代になると高田馬場の決闘で知られている。1694年江戸郊外の高田馬場で起きた事件である。当事者は伊予国西条藩・松平頼純の家臣、菅野六郎左衛門らと村上庄左衛門らである。ところがこの事件で思い浮かべる名は堀部安兵衛であろう。安兵衛こと堀部武庸は菅野に助太刀して名を挙げたのである。そして松平頼純は紀州藩主・徳川頼宣の三男である。つまり初代将軍・徳川家康の子であるから、徳川宗将の祖父の祖父が家康となる。

  松平広忠 ━━ 徳川家康 1543-1616年 ┓幼名:竹千代
(八代当主) ┏ 松平忠政       ┃
  ┃    ┣ 徳川家元       ┃
 於大の方  ┣ 樵臆恵最       ┃ 
(伝通院)  ┣ 内藤信成       ┃
       ┗ 市場姫  矢田姫   ┃
   ┏━━━━━━━━━━━━━━━━┛
   ┃ 
正室・篠山殿━┳ 長男・松平信康(1559年 - 1579年)(母:築山殿)       
正室・朝日姫 ┣ 長女・盛徳院 (1560年 - 1625年)(母:築山殿)
側室・お津摩 ┃ 
側室・お万  ┣ 次女・督姫  (1565年 - 1615年)(母:西郷局)池田輝政室
側室・小督局 ┣ 次男・結城秀康(1574年 - 1607年)(母:小督局)
側室・西郷局 ┣ 三男・徳川秀忠(1579年 - 1632年)(母:西郷局)━━┓幼名:長松
       ┣ 四男・松平忠吉(1580年 - 1607年)(母:西郷局)  ┃
       ┣ 次女・良正院 (1565年 - 1615年)(母:西郡局)  ┃
       ┣ 三女・振姫   (1580年 - 1617年)(母:お竹 )    ┃ 
       ┣ 徳川義直1601-1650(初代徳川尾張藩主)(母:お亀)  ┃
       ┃ ┣光友1625-1700(2代藩主)             ┃
       ┃ ┣京姫┣綱誠1652-1699(3代藩主)          ┃
       ┃ 歓喜院┃    ┣吉通1689-1713(4代藩主母本寿院) ┃
       ┃    ┃    ┃ ┣五郎太1711-1713(5代)    ┃
        ┃     ┣松平義行┃九条輔姫            ┃
        ┃     ┣松平義昌┣継友1692-1732(6代藩主 母は和泉)┃
        ┃     ┣松平友著┣義孝1694-1732(母は唐橋)    ┃
       ┃  千代姫(家光娘)┣宗春1696-1764(7代藩主 母は梅津)┃   
        ┃         ┗松姫(綱吉養女)           ┃
       ┣ 徳川頼宣1602-1671(初代徳川紀伊藩主)(母:お万)    ┃
        ┃  ┣徳川光貞1627-1705(生母 中川氏)         ┃
        ┃  ┃ ┣徳川綱教1665-1705(3代尾張藩主)      ┃
        ┃  ┃ ┃ ┣徳川頼職1680-1705(養子)        ┃
        ┃  ┃ ┃鶴姫1677-1704(徳川綱吉娘)         ┃
        ┃  ┃ ┣徳川頼職1680-1705(4代尾張藩主 母真如院) ┃
        ┃  ┃ ┣徳川吉宗1684-1751(5代藩主8代将軍 母浄円院┃
        ┃  ┃瑞応院                      ┃
        ┃  ┣因幡姫1631-1709(鳥取藩主池田光仲正室)     ┃
       ┃  ┣松平頼純1641-1711                            ┃
       ┃  ┃ ┣徳川宗直1682-1757            ┃
       ┃  ┃観樹院 ┣宗将1720-1765           ┃
       ┃  ┃   永隆院                 ┃
        ┃ 八十姫1601-1666(加藤清正娘)              ┃
       ┗ 十一男・徳川頼房(1603年 - 1661年)(母:お万)    ┃
                                    ┃
     ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 
正室・於江与の方━┳ 千姫(天樹院):豊臣秀頼室、のちに本多忠刻室
母は信長の妹お市 ┣ 徳川家光 三代将軍 福・春日局に養育 幼名:竹千代 
         ┣ 徳川忠長                         
側室・お静の方  ┣ 徳川和子(東福門院):後水尾天皇中宮           
         ┣ 珠姫  (天徳院) :前田利常室             
         ┣ 勝姫  (天崇院) :松平忠直室             
         ┗ 初姫  (興安院) :京極忠高室

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高野山27 姫路・酒井家の墓所

2014年03月11日 | 高野山

  姫路酒井家は、姫路城主としては最後の家系となる。その経過を見ると、池田家→本多家→松平(奥平)家→松平(越前)家→榊原家→松平(越前)家→本多家→榊原家→松平(越前)家→酒井家となり、越前敦賀藩主酒井忠菊の三男・酒井忠恭1710-1772が初代で、第10代酒井忠邦1854-1879が最後となる。池田輝政が52万石で播磨一国を与えられて三代継いだのち、徳川四天王本多忠勝の子・本多忠政が伊勢桑名より15万石で入って三代継ぐ。家康が外孫として可愛がっていた松平(奥平)忠明が18万石で入り、次ぎは親藩の越前家・結城秀康五男の松平(越前)直基が、15万石で入る。さらに徳川四天王の榊原康政の三男・榊原忠次が陸奥白河より、15万石で入る。越前直矩が成長して戻ってくるが、宗家の越後高田の騒動の連座で減封を受け、陸奥福島より、本多忠国が入るが、越後村上へ。入れ替わって上野前橋より、酒井忠恭が15万石で入ってやっと安定し、以降酒井家の支配で、明治に至る。酒井家は松平親氏の子が酒井広親となったことから出る松平庶流であり、酒井忠次・家次父子を祖とする出羽庄内の左衛門尉系酒井家と、酒井重忠を祖とするこの姫路に至る雅楽頭系酒井家がある。

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高野山26 武田信玄・勝頼の墓所

2014年03月10日 | 高野山

 武田信玄 は1521年に清和源氏の名門である甲斐武田氏の17代目として甲府で生まれた。武田氏の本拠・躑躅ヶ崎館ではなく 要害山城とも積翆寺とも云われている。父は信虎、母は大井氏の娘である。武田信玄が家督を継いだのは父より受け継がれたのではない。信虎は信玄(晴信)を忌み嫌い、弟の信繁に家督を継がせたいと考えていたた。信繁は武田家の当主になろうという野心はなく、(兄信玄の部下として忠誠を誓った副将で 戦国の名将真田幸村の本名は信繁。 ) 信玄は父を追放する。武田家の家臣が当主として選んだのは子の信玄のほうであった。信玄は元服して初陣で手柄を立てたのであるが、 父と共に攻め立てた城が落ちずに引き上げた後、信玄は殿軍を願い出た。殿軍は退却の際に大将をかばって敵と戦い、逃げ延びる時間稼ぎを行うのが目的である。しかし信玄はその目的とは反して、城に籠もった敵を攻め立てて呆気なく落としてしまった。(敵の大将・平賀源心を討ち取ったのは騎馬隊侍大将の馬場信春) 初陣で大勝利を収めた信玄に対して父・信虎は命令違反を咎め、評価しなかった。これにより自分が当主になることを誓った信玄は父を追放したのである。このとき信虎の重臣であった板垣信方、甘利虎泰の賛同を得ているから謀略の片鱗をこのときから見せている。信玄の姉は今川義元に嫁いでいたため、父を今川家に保護してもらおうとし、今川義元はこれに応じたのである。今川義元も信玄の器量に呼応したのは信玄の姉の賛同もあったと考えられる。信玄は息子・義信の妻に今川義元の娘を迎え入れている関係でもある。 (これにより、今川、北条、武田の三国同盟が成立) 後に今川義元は桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られ、後継者として氏真が当主となったが、氏真は戦国史上名高いバカ殿であった。お互いの政略結婚により均衡を保っていた武田家と今川家の同盟均衡が破れたのはこのときである。武田信玄は今川領攻めに出たのであるが、これに反対したのが今川の娘を妻にしていた義信である。そして義信は父に対して反乱を企てた。義信は捕らえられ東光寺に幽閉されると、後に自刃して果てたとされる。このときに連座したのが嫡男・義信の傅役であった飯富虎昌である。虎昌は信虎の寵愛をうけたが、武田信玄が信虎を追放したときに板垣、甘利同様、虎昌も信玄を推した。そして義信の傅役を務めることとなったが、謀反の罪に問われては飯富家も廃絶するしかなかった。虎昌には弟・三郎兵衛がいて、謀反の企てを告発せよといい含めたことから、三郎兵衛だけは功が認められた。後に武田信玄の四天王となる山県昌景がその人である。 

 1572年武田信玄が京への道を確保する際、織田の同盟軍である徳川家康軍を蹴散らしたが、このとき武田信玄側の中核にいたのが山県昌景率いる騎馬隊である。 家康はかろうじて浜松城へ逃げ帰ったが、このとき恐怖のあまり脱糞していたという。家康はこれを契機に戦略を武田流に変え、軍学・甲州流の祖である小幡勘兵衛を召抱えた。家康は本能寺の変後、甲斐国に進出して多くの武田遺臣を採用しており、徳川四天王の一人・井伊直政に 赤備え(鎧兜を赤で統一したスタイルで、自分をアピールする必要のあった戦国時代に始めて山県昌景が行った) を受け継がせたというから家康がいかに武田軍および昌景を尊敬していたかがわかる。昌景と同じ騎馬隊侍大将に馬場信春がいる。抜群の武勇と勘のよさを持ち、築城術は山本勘助に学び 最後に1575年長篠の戦で討死するまではかすり傷ひとつ負わなかったという。長篠の戦での大将は武田信玄の後を継いだ勝頼(諏訪御料人の子)であったが重臣たちはその力を信じていない。それに反発する勝頼と信春らの重臣との間にできた分裂を突いて、攻めてきた織田軍との戦いが長篠の戦である。勝頼を諌めて退却させ、殿軍を務めた信春はここに倒れたのである。馬場信春、山県昌景と並んで武田四天王の一人に内藤昌豊がいる。 父・工藤虎豊を先代の信虎に手打ちにされ放浪していたが、武田信玄の父追放によって呼び戻された昌豊は領地を与えられ 内藤家を継いで武田信玄に忠誠を誓った。川中島の合戦で騎馬隊大将を務め北条氏康との三増峠の戦いでは補給部隊の大将を務めた。勝頼の時代になり長篠の戦で山県昌景に続いて 内藤昌豊も犬死したところでやっと勝頼は退却に従った。最後の四天王は高坂昌信、といって他の3人と違って百姓生まれで春日源助といった。父を早くに亡くした源助は遺産相続に負けてたが、そのときに武田信玄の眼に留まって近習となったのであるが、その理由は男色の相手としてである。 しかし武勇にも優れており、上杉謙信との防衛線である海津城の城大将(お目付け役に小幡虎盛といって甲州流軍学の祖・小幡勘兵衛景憲の祖父である )にしていたというから四天王なのである。現在、武田信玄に関する武功は、「甲陽軍艦」に記載されていることからその詳細が知られているが、これを書いたのが実は高坂昌信であるから、現代への功績は昌信が一番であろう。 

 武田信玄が冷血(実は人は城、人垣、堀・・・と言っているように決して冷血ではないのであるが。) とされる理由に諏訪氏の滅亡がある。甲斐国と接する諏訪郡の領主に諏訪頼重がいた。頼重には武田信玄の妹・禰禰が嫁ぎ、虎王丸を産んでいた。武田信玄はこの諏訪を攻め、油断していた義兄・諏訪頼重はすぐに降伏に追い込まれ、和議が成立したのであるが武田信玄は頼重を切腹させたのである。頼重がすぐに降伏に追い込まれたのには理由があり、諏訪家の分家である高遠頼継という男が諏訪家を裏切り、武田家の味方をしたのである。 本家に不満を持つ頼継を調略した結果の成果といえるが、このあたりに影響力を持つ諏訪大社については頼継に一切手をつけさせなかったことから、怒った頼継は挙兵して上原城を落とし、諏訪大社を奪い取った。これに反応した武田信玄は諏訪家の遺児である虎王丸を担いで軍の総大将として頼継を討ち、諏訪大社を含む領地すべてを奪い取るのである。 虎王丸はいつの間にか歴史から消えたが、武田信玄の謀略である可能性は高い。このとき、頼重の娘で絶世の美女といわれた諏訪御料人は武田信玄の側室になっていた。 諏訪家を継ぐ幼児・虎王丸を餌にされて側室にならざるをえなかった諏訪御料人が悲劇のヒロインになる所以である。多くの家臣は御料人を側室にすることは反対であったが、軍師・山本勘助が一人異を唱え、諏訪家の血を残して諏訪の民を心服させることが必要と進言したというが、 結果、諏訪家は高遠家とともに滅ぼされている。理由はもちろん武田信玄と諏訪御料人との間に男子が生まれたからである。名を勝頼といい諏訪家一族として家督を継いでいたが、後に武田家当主となる。 武田信玄次男は生まれつきの盲目で、三男は早世したからである。17歳で勝頼を産み、25歳でなくなった御料人は諏訪湖を望む小坂観音院に墓所があるという。

 さて、武田信玄亡き後嫡流で跡を継ぐものは誰もいなかったのは諏訪勝頼にとっては幸いであった。ところが織田信長との長篠の戦で多くの戦力を失った勝頼はほぼ武田家を滅亡させたといっていい。しかし信長は勝頼にとどめはさしていなかったため、国に帰った勝頼は再起を期すことができたのである。その最大の好機が1578年の御館の乱であった。上杉謙信亡き後家督相続の遺言を残していなかった上杉家は、謙信の甥・景勝と北条氏政の弟・景虎が分裂し家督争いをし、御館の乱に発展したのである。武田勝頼は断交していた北条家と同盟を結び、氏政の妹を妻とした。最初の妻の信長の養女は信勝を産んだ後に死んでいた。これで武田勝頼と上杉景虎は義兄弟となった。妹を勝頼の嫁にだしていた北条氏政より、弟の景虎の援護を依頼してきたのである。上杉は強大ではあるが分裂した今となっては勝頼が援護すれば、それで勝敗は決し、武田、上杉、北条の大同盟ができあがる。はじめは景虎の援護をするつもりであったが、途中で心変わりし武田勝頼は上杉景勝側の援護を行ったのである。これに激怒した北条氏政は信長、家康とともに武田家に総攻撃をかけて呆気なく倒したのである。心変わりの原因は劣勢にたたされていた上杉景勝からの賄賂であったという。金銀の宝庫であった越後で謙信は多大な金を春日山に残していた。この資金を抑えた上杉景勝はこの金を使って勝頼を味方に引き入れた。結果、優勢だった景虎は自刃に追い込まれ、弟を失った北条氏政が織田、徳川と連合を組んで襲ってきたのである。そのとき勝頼は援護を上杉景勝に求めたが何の援護もなく、追い詰められた勝頼は北条夫人と嫡子・信勝とともに天目山で自害し、1582年武田本家は滅亡したのである。尚、天目山ふもとの景徳院には 勝頼と北条夫人、嫡子・信勝の墓がある。

武田信虎1494-1574     
  ┃諏訪頼重-1542(諏訪領主 ⇔信玄に攻められ)  
  ┃ ┗娘1530-1555(諏訪御料人)
  ┃  ┣武田勝頼1546-1582 
  ┃  ┃ ┣信勝1567-1582 
  ┃  ┃信長養女 
  ┣武田信玄1521-1573
  ┃  ┣義信1538-1567(父に謀反自刃)
  ┃  ┃ ┣
  ┃  ┃┏今川義元1519-1560娘
  ┃  ┃┗今川氏真1538-1615
  ┃  ┣黄梅院1543-1569(北条氏政室)
  ┃  ┣海野信親1541-1582(龍宝)
  ┃  ┣信之1543-1553 
  ┃  ┣見性院1545-1622(穴山梅雪室)
  ┃  ┣真理姫1550-1647(木曾義昌室 母:不明)真竜院
  ┃  ┣仁科盛信1557-1582(高遠城主)
  ┃  ┣菊姫1563-1604(上杉景勝室 母:油川夫人)
  ┃  ┣松姫1561-1616(織田信忠と婚約 母:油川夫人)信松尼
  ┃┏三条の方(三条公頼娘)1521-1570
  ┃┗如春院(顕如室) 
  ┣武田信繁1525-1561(川中島4戦で戦死)  
  ┣武田信廉1532-1582(画才有)
  ┣松尾信是-1571(母:松尾信賢娘)
  ┣河窪信実-1575
  ┣一条信龍1539-1582()
  ┣武田信友-1582(母:内藤氏)
大井の方1497-1552大井氏(⇔本拠地:佐久郡)

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高野山25 徳川頼宣の墓所

2014年03月08日 | 高野山

 徳川家康が孫のような側室・お万の方に生ませた十男が頼宣、徳川御三家の紀伊徳川家の祖である。お万の方は家康との間にもうひとり頼房・徳川水戸家の祖を設けている。関ヶ原の戦いで勝利して西軍の大名の所領を大量に没収した徳川家康は、武田家の名跡を継いでいた武田信吉が若くしてなくなったことで宙に浮いていた遺領をわずか2歳の頼宣に与えたが、結局頼宣が一度も水戸入りしないうちにその領土は駿河、遠江50万石に加増転封され、紀伊伊勢55万石が与えられることとなった。頼宣が元服すると領主として紀伊国和歌山へ入部する。このとき本家からの付家老として安藤直次が紀伊田辺城、水野重央が紀伊新宮城をあたえられ、監視役を担った。1614年大坂冬の陣で初陣を飾り、翌年の大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いで後詰として活躍し、1617年に加藤清正の第五女・八十姫(瑤林院)を正室としている。紀州徳川家の家祖となったのは1619年紀伊国紀州藩55万5千石に転封したときで、入国後は、和歌山城の改築、城下町の整備や、地元の国人を懐柔する地士制度を実施した。1651年の慶安の変において、由井正雪が頼宣の印章文書を偽造していたため幕府に謀反の疑いをかけられ、10年間紀州へ帰国できなかったが、その後、疑いは晴れて無事帰国する。

  松平広忠 ━━ 徳川家康 1543-1616年 ┓幼名:竹千代
(八代当主) ┏ 松平忠政       ┃
  ┃    ┣ 徳川家元       ┃
 於大の方  ┣ 樵臆恵最       ┃ 
(伝通院)  ┣ 内藤信成       ┃
       ┗ 市場姫  矢田姫   ┃
   ┏━━━━━━━━━━━━━━━━┛
   ┃ 
正室・篠山殿━┳ 長男・松平信康(1559年 - 1579年)(母:築山殿)       
正室・朝日姫 ┣ 長女・盛徳院 (1560年 - 1625年)(母:築山殿)
側室・お津摩 ┃ 
側室・お万  ┣ 次女・督姫  (1565年 - 1615年)(母:西郷局)池田輝政室
側室・小督局 ┣ 次男・結城秀康(1574年 - 1607年)(母:小督局)
側室・西郷局 ┣ 三男・徳川秀忠(1579年 - 1632年)(母:西郷局)━━┓幼名:長松
       ┣ 四男・松平忠吉(1580年 - 1607年)(母:西郷局)  ┃
       ┣ 次女・良正院 (1565年 - 1615年)(母:西郡局)  ┃
       ┣ 三女・振姫   (1580年 - 1617年)(母:お竹 )    ┃ 
       ┣ 徳川義直1601-1650(初代徳川尾張藩主)(母:お亀)  ┃
       ┃ ┣光友1625-1700(2代藩主)             ┃
       ┃ ┣京姫┣綱誠1652-1699(3代藩主)          ┃
       ┃ 歓喜院┃    ┣吉通1689-1713(4代藩主母本寿院) ┃
       ┃    ┃    ┃ ┣五郎太1711-1713(5代)    ┃
        ┃     ┣松平義行┃九条輔姫            ┃
        ┃     ┣松平義昌┣継友1692-1732(6代藩主 母は和泉)┃
        ┃     ┣松平友著┣義孝1694-1732(母は唐橋)    ┃
       ┃  千代姫(家光娘)┣宗春1696-1764(7代藩主 母は梅津)┃   
        ┃         ┗松姫(綱吉養女)           ┃
       ┣ 徳川頼宣1602-1671(初代徳川紀伊藩主)(母:お万)    ┃
        ┃  ┣徳川光貞1627-1705(生母 中川氏)         ┃
        ┃  ┃ ┣徳川綱教1665-1705(3代尾張藩主)      ┃
        ┃  ┃ ┃ ┣徳川頼職1680-1705(養子)        ┃
        ┃  ┃ ┃鶴姫1677-1704(徳川綱吉娘)         ┃
        ┃  ┃ ┣徳川頼職1680-1705(4代尾張藩主 母真如院) ┃
        ┃  ┃ ┣徳川吉宗1684-1751(5代藩主8代将軍 母浄円院┃
        ┃  ┃瑞応院                      ┃
        ┃  ┣因幡姫1631-1709(鳥取藩主池田光仲正室)     ┃
        ┃ 八十姫1601-1666(加藤清正娘)              ┃
       ┗ 十一男・徳川頼房(1603年 - 1661年)(母:お万)    ┃
                                    ┃
     ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 
正室・於江与の方━┳ 千姫(天樹院):豊臣秀頼室、のちに本多忠刻室
母は信長の妹お市 ┣ 徳川家光 三代将軍 福・春日局に養育 幼名:竹千代 
         ┣ 徳川忠長                         
側室・お静の方  ┣ 徳川和子(東福門院):後水尾天皇中宮           
         ┣ 珠姫  (天徳院) :前田利常室             
         ┣ 勝姫  (天崇院) :松平忠直室             
         ┗ 初姫  (興安院) :京極忠高室

 

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高野山24 多田満仲公の墓所

2014年03月07日 | 高野山

 平安時代の中期頃、花山天皇が藤原氏の謀略によりなかば無理矢理に出家させられ、藤原兼家の権勢が始まったことは、平安時代に明るい人は良く知るところである。このときに藤原氏の護衛役であったのが源満仲で代表される源氏であった。藤原権勢の経緯は次である。

 984年円融天皇が譲位し冷泉天皇の皇子・師貞親王が即位して花山天皇となった。母は藤原伊尹娘・女御懐子であったが、藤原伊尹はすでに没し、子息も早世が多く5男の義懐が天皇側近の蔵人頭、参議、権中納言と昇っただけだった。ゆえに太政大臣藤原頼忠がひきつづき関白に任ぜられた。藤原頼忠は父・藤原実頼と同様温厚で兼家とも良好な関係を保ち、兼家も右大臣の地位を保っていた。兼家は娘・詮子を円融天皇の女御にいれ、懐仁親王をうんでいたが、花山天皇即位とともに懐仁親王を東宮につけていた。花山天皇は一流の文化人で従来の慣習を壊して文化事業を主催した。朝儀では先例を無視したことから官僚の批判をあびたほどで、具体的な政治は官僚に任せて、外向きの政治だけは立派と揶揄された。政治の中心となったのは藤原義懐であり補佐にあたったのは藤原惟成であったという。惟成は藤原魚名流の学者系出身の才人であり枕草子にもその名は見られるが、地位はそれほどでもないことから敏腕ぶりには疑問もある。花山天皇には数人の女御がいたが、特に大納言・藤原為光(兼家の異母弟)の娘・藤原忯子を寵愛し、懐妊してから内裏を退出し、985年に没した。天皇の悲しみは尋常ではなく、世をはかなんで出家を考えた。これを好機とした花山退位計画をたてて懐仁親王の即位をくわだてたのが藤原兼家である。兼家の4男通兼は天皇を清涼殿から連れ出し山科の元慶寺に向かわせ、途中は源満仲率いる武士に警護させて出家させてしまった。義懐、惟成が気づいたときはすでに遅く、二人とも出家してしまった。かくして懐仁親王は即位して一条天皇となり、皇太子は冷泉天皇皇子・居貞親王が立てられた。 こうして天皇、東宮ともに兼家の孫にあたることから、不遇に甘んじてきた兼家の出番がようやくやってきたのである。 

 

 源満仲の子息で、武勇をほしいままにした源頼光948-1021は、時の権力者・藤原道長の重臣で源氏の棟梁である。母は嵯峨源氏の近江守源俊娘で、 妻には伊予守藤原元平娘などがいる。子には頼国、頼家、頼基、永寿、頼昭などがあり、満仲の長子として清和源氏の三代目を相続して摂津国多田源氏を束ね、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる。異母弟には大和源氏の源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信がいる。同時代の中級貴族と同じく、20前後で出仕し、満仲と同じく摂関政治を行っていた藤原氏に臣従して官職を得て、財力を蓄えていたと考えられて、986年頃、居貞親王(三条天皇)が皇太子となった際に東宮権大進に任じられる。東宮大進時代には朝廷の儀礼や典礼関係の年中行事に記録が見られ、藤原道長の主催した競馬などに参加している。同時期には、大江匡衡が隣国の尾張守となり、両者は赴任するにあたって書状を交わしており、また、匡衡妻の赤染衛門は頼光を詠んだ和歌を残しているなど親交があったと思われる。左馬権頭となって正四位下になり、後一条天皇の即位に際して昇殿を許された後は、受領として蓄えた財により一条邸を持ち、たびたび道長に多大な進物をしてこれに尽くした。道長の権勢の発展につれて、その側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、弟の頼信と共に後の源氏の興隆の礎を築く。

 また、頼光の四天王といわれた渡辺綱953-1025は平安時代中期の武将で嵯峨源氏の源融の子孫で、大江山の酒呑童子と戦った源頼光・四天王の筆頭である。武蔵権介だった嵯峨源氏の源宛の子で、摂津源氏の源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の養子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺に居住したことから渡辺綱と名乗り、渡辺氏の祖となった。 大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻り橋の上で羅生門の鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話で有名である。その子孫は渡辺党と呼ばれ、内裏警護に従事する滝口武者として、また摂津国の武士団として住吉の海を本拠地として瀬戸内海の水軍を統轄し、源平の争乱から南北朝にかけて活躍した。九州の水軍松浦党の祖の松浦久もまた渡辺氏の出である。

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高野山23 信州松本藩水野家墓所

2014年03月06日 | 高野山

 信州松本藩といえば石川数正1533-1593を思い浮かべる。酒井忠次と共に徳川家康に仕えていたが、小牧・長久手の戦いの後に徳川家を出奔して豊臣秀吉側に寝返ったことで知られている。徳川家康が駿河国の大名・今川義元の人質になっていた頃から仕えていた石川数正が何故寝返ったのか。色々な説があるが、ほんとうのところはわからない。織田信長が死去し、秀吉が台頭してきた頃、数正は家康の命令で秀吉との和睦交渉を担当していたのであるが、逆に秀吉に調略されたのである。この石川数正が信州松本藩の初代とも言われているが、もうひとりの松本藩初代藩主が水野忠清1582-1647、ここ高野山の墓所に眠る人物なのである。備後福山藩初代藩主・水野勝成の弟であり、正室には前田利家の娘を持つ。1600年父・水野忠重が加賀井重望に殺された後、水野氏の家督は兄・勝成が継ぎ、忠清は徳川秀忠の家臣として仕えることとなった。1614年からの大坂の陣では冬・夏の両陣とも参戦し、父の過去の功績と大坂の役の軍功により、1642年信濃松本7万石に加増移封された。1647年江戸にて死去すると東京小石川の伝通院に眠る。この伝通院は徳川家の菩提寺であることから、水野家が徳川家に重用されてきたことが伺える。

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高野山22 小田原北条家墓所

2014年03月03日 | 高野山

 小田原北条家は、鎌倉幕府の執権である北条家とは全く違う。従って区別するために後北条家と呼ぶべきであるが、一般的には小田原北条家と呼ばれる。この祖・北条早雲は1432-1519元々伊勢氏の出身で実力でのし上がってきた戦国大名の筆頭である。早雲は出家号であり、伊勢長氏、盛時との説があるがはっきりはしていない。早雲の父は伊勢盛定、母は伊勢貞国 (室町幕府の執事で子に伊勢貞親がいる。室町将軍の足利義教・義勝・義政の3代に仕える)の娘である。北条氏は鎌倉時代に執権を世襲する勢力であったが、足利氏に滅ぼされた後は伊豆の地方豪族に没落した。伊勢氏は関西地方を基盤としたが関東へ進出する際に北条の姓を得るために婿入りしたと考えられる。 関東・駿河に名を上げようと下ったのは1490年頃で、早雲の妹が駿河守護の今川義忠の側室(北川殿という)として竜王丸(後に今川氏親)を産んでいたためである。今川家に食い込もうと駿河へ下ったときに、今川家では御家騒動が起こっており、当主義忠は亡くなり妹・北川殿との間の嫡男・竜王丸が残っていたが幼少ということもあり小鹿範満を跡継ぎにする動きがあった。つまり妹と竜王丸を排除する動きに対して待ったをかけたのである。早雲は揉め事の調停役である関東管領上杉家の家老・太田道灌をも後ろ盾にして、竜王丸を後嗣とする(この時元服して今川氏の当主・氏親と名のる)とその功により駿河に興国寺城をもらいうけ、今川氏親を補佐する。そして隣国の伊豆を狙う(伊豆討ち入り)ことになる。伊豆では関東堀越公方の相続争いが起こっていたのである。先の公方・足利政知(足利義教の子)には茶々丸という名前に似ず気の荒い息子がいたが、家督を奪うために義母・円満院とその子・潤を殺害していた(1491年)。茶々丸は主君になっていたものの真の従者はいなかったのであろう。早雲は今川家からも兵を借りて挙兵し、堀越御所の茶々丸を攻めて追放したのである。こうして早雲は伊豆をも領国とし一気に関東領土を手中にしようと目論んだ。さらには隣の相模・小田原を狙ったのである。当初小田原の大森氏は勢力もあり手を出せない状態であったが、小田原城主大森氏が急死し、藤頼という若い城主が後を継いだときに、早雲は贈り物をして親交を深めることに努力をした。これにより大森氏の隙を突いた早雲は、一気に小田原城に攻め入り落としたのである。小田原城は後に豊臣秀吉に滅ぼされるまで5代に渡って栄えることになる。早雲が次に狙ったのは三浦半島一帯を勢力圏に持つ三浦氏である。三浦氏といえば、鎌倉時代からの名族であり、当主三浦義同(道寸)とその息子・義意は三浦半島一帯の豪族である。そして新井城という難攻不落の名城を持っていた。大森氏と姻戚関係にある三浦氏は将来の禍根になりかねないと考え、この難攻不落の三浦氏に対して海上、陸上を封鎖することによって三浦氏の篭城作戦に対抗した。数年の長きに渡って新井城を封鎖し、やっと打ちとった時には早雲85歳であったという。三浦氏滅亡の3年後の1519年に早雲はその生涯を閉じた。

 それから約100年後、北条家は上杉の家督争いの渦にまきこまれる。上杉謙信が倒れたときに起こった御館の乱がそれである。北条家から養子にはいった上杉景虎が圧倒的優位に立っていた。景虎が後継者になれば実家の大大名である北条家と同盟が結ばれる。そして北条家から嫁を迎えていた武田家の当主・武田勝頼とも同盟ができあがり、北条・武田・上杉の義兄弟同盟によって大敵である織田信長にも対抗できるという目算があった。従ってこのお家騒動のとき、北条家の当主・北条氏政は義弟・武田勝頼に対して上杉景虎の援護をするようにと依頼していた。窮地にたっていたのが上杉景勝(謙信の姉の子)である。ところが景勝は絶対不利のこの状況をひっくり返し武田勝頼を味方につけたことにより、御館の乱で勝利して上杉家を継いだのである。これにより武田勝頼は北条家を敵に回しただけではなく、同盟のチャンスの逃し、北条氏政を信長との連合に走らせ、1582年滅亡することとなる。今から考えればありえないことであるが、これは直江兼続の軍師としての采配によるものである。上杉謙信の遺産により勝頼を寝返らせたことと、父信玄のなし得なかった上杉家が武田家の家臣として仕えると景勝が誓ったことで、謀略は成功したのである。軍師といえば山本勘助、竹中半兵衛、黒田官兵衛などが有名であるが、武田信玄は山本勘助がいなくても、今語られる信玄であったであろうし、秀吉も官兵衛がいなくても秀吉であったであろう。しかし直江兼続がいなければ決して上杉景勝はいなかった。つまり豊臣政権の五大老のひとりにはなれなかった。兼続1560-1620は樋口与六として身分の低い家に育ったが、幼き頃から頭角をあらわし、名門直江家を入り婿として相続し、上杉家の重臣となり与板城主となった。

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高野山21 丸亀京極家墓所

2014年03月02日 | 高野山

 高野山にある京極家の墓所にゆかりのある丸亀、丸亀城といえば、讃岐にある廻りを内堀で囲まれた輪郭式の立派な平山城である。石垣は、緩やかであるが荒々しい野面積みと端整な算木積みの土台から、頂は垂直になるよう独特の反りを持たせる「扇の勾配」となっている。山麓から山頂まで4重に重ねられ、総高60メートルの石垣は日本一高く、三の丸石垣だけで一番高い部分は22メートルある。江戸時代以前に建造された天守が現存する12城の一つである唐破風や千鳥破風を施した白亜の天守の高さは15メートルあり、現存のものでは日本で最も小さいが、高い石垣とその扇の勾配の効果により風格を保っている。 天守のほかに大手一の門・大手二の門・御殿表門・番所・長屋が現存しており、天守・大手一の門・大手二の門は国の重要文化財に指定されている。天守からは、瀬戸大橋など瀬戸内の風景だけではなく、讃岐冨士の眺望は絶景である。1597年豊臣政権の時代、生駒親正が讃岐17万石を与えられ高松城を本城とし、亀山に支城を築いた。1658年に山崎氏は3代で無嗣断絶し改易となり、代わって播磨国龍野より京極高和(1619-1662)が入城する。高和(外様大名)は京極高次(お市の方の次女・お初は正妻)流の江戸時代初期の当主で、播磨国龍野藩主、讃岐国丸亀藩初代藩主である。讃岐うどんを食べに丸亀へいったときにはこの城へどうぞ。 

讃岐にある丸亀城 天守には京極家の系図等説明が詳しくあります

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高野山20 秋田藩佐竹家の墓所 平賀源内、蔦屋重三郎、平田篤胤

2014年03月01日 | 高野山

秋田藩・佐竹家は上杉家と同様に関が原の敗者で、かろうじて改易は免れたが領地は召し取られて生きながらえた。 
 ・佐竹家は水戸を中心とした常陸国が先祖伝来の領地であったが、出羽国に移されて貧しい藩経営を強いられていた。 
 ・このころの秋田藩佐竹家は財政改善のために鉱山開発を計画し当時の藩主が江戸から平賀源内1728-1780を招いている。
     ┣16世紀末 常陸の統一をほぼ成し遂げ、領内の鉱山開発推進

     ┣16世紀末 日立鉱山の前身に当たる赤沢鉱山でも金の採掘を開始
     ┃     日立鉱山の赤沢鉱床に佐竹坑と呼ばれる坑道が残っている

     ┣1602   関ヶ原の戦いの結果、秋田へ転封
     ┣1620代  水戸藩が領内の鉱山経営に積極的に乗り出す
     ┣
後の日立製作所に繋がる
     ┗日立製作所を小平浪平1874-1951が創設、多くの有能な人材が日立鉱山の創成期に活躍
     
     
 
 ・出羽国久保田藩の第8代藩主・佐竹義敦1748-1785は源内から文化、学芸を学んだのであるが、 
   それは家臣の小野田直武(画家1750-1780)の功績によるもので、
   源内の親友である杉田玄白1733-1817が解体新書を出したときの人体図を描いたのが、この小野田直武である。 
 ・1773年に直武が源内と出会い、翌年に解体新書が刊行、そしてその2年後に篤胤がうまれている。  
 ・佐竹義敦1748-1785は軍学者であり蘭学者の平田篤胤1776-1843が10歳まで生き、家臣の直武と西洋画論を書いている。
    平沢常富1735-1813
     ┣主君は佐竹義明、佐竹義敦、佐竹義和の3代 
     ┣佐竹家の江戸留守居役----他藩との情報交換 
     ┣筆名は朋誠堂 喜三二という戯作者
     ┣松平定信の寛政の改革を風刺----佐竹義和から叱責
     ┣蔦屋重三郎1750-1797の依頼で序文を寄稿:明月余情
     ┗東京台東区・佐竹商店街はゆかりの地

 ・秋田藩には蘭学に対する深い理解があったことは特筆すべきことである。 
 ・ところが篤胤は20歳のときに突如秋田を出奔して江戸に向かった。あてがあったわけでもなく国学で身を立てようと思ったわけでもない。 
 ・結局本居宣長とは接触することなく江戸で6年を過ごしている。 
 ・この間雑用をしながら学問に励んでいたという。そして江戸在中の備中松山藩の軍学者・平田篤穏に見出されて養子となった。 
 ・これが篤胤の幸運の始まりといえる。落ち着いて学問に励み、本居宣長のことを知るようになると徐々に傾倒していった。 
 ・秋田藩大番組頭大和田祚胤の四男として生まれた平田篤胤、 
 ・平賀源内など佐竹家にかかわる人格者は多い。 
 ・因みに関が原合戦時に西軍として徳川と戦ったのは佐竹氏19代当主・佐竹義宣1570-1633で、出羽久保田藩(秋田藩)の初代藩主である。 

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