山陽電車「須磨寺駅」改札口北側に、『平重衡とらわれの遺跡』の碑が建つ。碑の側の立て札によると、生け捕りになった重衡を、土地の人が哀れんで濁り酒をすすめたところ、たいそう喜んで『ささほろや波ここもとに打ちすぎて須磨でのむこそ濁り酒なれ』との歌を詠んだという。1184年2月7日、本三位中将・平重衡は、生田の森の副将軍であったが、敗走の途中、味方の船にも乗れず、馬をも失い、自害を覚悟したところを、当地で庄四郎高家によって生け捕りになった。それも乳母子・後藤兵衛盛長が、主人の駿馬「夜目無月毛」を奪って逃亡するという不幸によって、不覚にも生け捕りにされたのである。
一の谷合戦で討ち死にする武将は敦盛、忠盛をはじめ多くいたが、公卿では三位通盛ただ一人、そして生け捕りは重衡だけであったから、朝廷にとっても、また源平にとってもこの「重衡生け捕り」まさに大事件であったにちがいない。平重衡は『平家物語』では、平家であるがために、滅び行く運命を背負った人間の姿として、同情的に記述することにより、清澄な精神を持ち続ける人間としての一途さをも描こうとしている。「奈良炎上」と「海道下・千手」そして「重衡被斬」を通して、平家物語作者が重衡をいかに描いたか、『吾妻鏡』とは違って『平家物語』では千手への感情など重衡へのせめてもの同情が伺える。千手は「重衡が奈良で斬られたと聞くと、すぐに様を変え、濃き墨染に身をやつし、信濃国善光寺で修行し、重衡の後世菩提を弔い、自身も往生の素懐を遂げた」ことになっている。この記述法は、『平家物語』における建礼門院はじめ多くの女性哀話の定石である。『平家物語』作者は、重衡を新中納言知盛のような勇壮な武将とは対照的に、滅びゆく平家の運命を一身に担わざるを得ない武将として描いた。それは、重衡追善供養としての意図があったかもしれない。