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悲劇の副将軍「平重衡」

2018年09月29日 | 平家物語

 山陽電車「須磨寺駅」改札口北側に、『平重衡とらわれの遺跡』の碑が建つ。碑の側の立て札によると、生け捕りになった重衡を、土地の人が哀れんで濁り酒をすすめたところ、たいそう喜んで『ささほろや波ここもとに打ちすぎて須磨でのむこそ濁り酒なれ』との歌を詠んだという。1184年2月7日、本三位中将・平重衡は、生田の森の副将軍であったが、敗走の途中、味方の船にも乗れず、馬をも失い、自害を覚悟したところを、当地で庄四郎高家によって生け捕りになった。それも乳母子・後藤兵衛盛長が、主人の駿馬「夜目無月毛」を奪って逃亡するという不幸によって、不覚にも生け捕りにされたのである。

 一の谷合戦で討ち死にする武将は敦盛、忠盛をはじめ多くいたが、公卿では三位通盛ただ一人、そして生け捕りは重衡だけであったから、朝廷にとっても、また源平にとってもこの「重衡生け捕り」まさに大事件であったにちがいない。平重衡は『平家物語』では、平家であるがために、滅び行く運命を背負った人間の姿として、同情的に記述することにより、清澄な精神を持ち続ける人間としての一途さをも描こうとしている。「奈良炎上」と「海道下・千手」そして「重衡被斬」を通して、平家物語作者が重衡をいかに描いたか、『吾妻鏡』とは違って『平家物語』では千手への感情など重衡へのせめてもの同情が伺える。千手は「重衡が奈良で斬られたと聞くと、すぐに様を変え、濃き墨染に身をやつし、信濃国善光寺で修行し、重衡の後世菩提を弔い、自身も往生の素懐を遂げた」ことになっている。この記述法は、『平家物語』における建礼門院はじめ多くの女性哀話の定石である。『平家物語』作者は、重衡を新中納言知盛のような勇壮な武将とは対照的に、滅びゆく平家の運命を一身に担わざるを得ない武将として描いた。それは、重衡追善供養としての意図があったかもしれない。

 

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新・平家物語 第27話 一の谷・鵯越の逆落とし

2018年09月18日 | 平家物語

 平家は屋島から大軍を率いて福原から一の谷までの3kmにおよび、海上には数千の軍船を浮かべている。源範頼1150-1193、梶原景時1140-1200は平家の総勢3万、源氏洛中の兵は3千ということで、ここは時を待ち、鎌倉からの援軍と合流して平家追討を提案した。ところが義経は今がその時と妙案を携えてでた。源氏の武将を説得し、院の許しを得ると、さっそく3千騎は大江山に陣を構えて平家の動きの詳細をつかんでいた。一軍は範頼を大将として摂津の伊丹から西宮を抜けて生田川への平野を進む2千騎。また義経率いる1千騎は、丹波路を篠山、小野と進み鵯越から敵地の真上へ襲いかかろうというのである。畠山次郎重忠、土肥実平などは、梶原景時を何故か嫌っていただけに、軍艦景時のいない二陣に嬉々としていた。このとき平家の若武者・敦盛(清盛の弟・経盛の三男)は洛の暗がりにただ一人で忍び入っていた。右大弁宗親の姫君の舘へ近づき、尽きぬ名残を語り合い、つい二夜ともなった。右大弁宗親はかねてより平家と源氏が共存できないものかと考えていたお方である。その頃屋島の本拠地では平家総勢が生田、輪田をめざして船出陣をするさなかであった。ところが教盛の三男・敦盛が失踪したという。 臣下には命を捨てて戦に望め、といっているだけに、身内の者が失踪し、教盛は激怒し敦盛を勘当し、船出したのであった。 しかし兄・経正は弟を信じていた。かくして、敦盛は忠度に背を推されて、二の尼の後陣として船出したのである。播磨の室津(姫路の西)には平家の軍船が無数にはいっていた。時に、入道清盛の命日にあたるこの日は法要が営まれる巨大な船では、清盛が好んだ弦が奏でられた。建礼門院は琴を、薩摩守忠度は笙、門脇中納言教盛はひちりき、三位中将重衡は鼓、修理太夫経盛の嫡子・経正は琵琶、弟敦盛は笛という具合である。

 1184年元暦元年二月七日、一の谷の合戦の火蓋はこの神戸、三宮神社付近で始まった。源氏方のさきがけとなったのが、この河原神社に祀られる河原兄弟であった。先陣をなした河原兄弟であったが、この地にて討ち死にする事となる。また、平氏方の平知盛(清盛四男)と平重衝(清盛五男)は生田の森に布陣し、正面の敵主力・源範頼相手に一歩も退かない戦いぶりを見せた。 神戸、かつての福原は平清盛が一代で築き上げた拠点である。1180年まで、ここに都があったが京都に移された。宋船も入ることのできるように造られた港は平家の力を示すものであった。都落ちの際、平家は泣く泣く福原にも火を掛けるのだが、今平家はまさに都へ上らんと、軍勢をそろえて、平家の都福原に舞い戻ってきたのだった。山と海にはさまれた福原、一の谷は難攻不落の要害でもある。 まさに、合戦のスポットでもあったのです。 この生田神社付近には、平家の生田方面の本陣があった。生田の森には、大将軍平知盛ら平家方の名だたる武将が布陣していた。 後白河法皇と和議の話などがあり、平家方には少し油断があった。それでも、この一の谷の城郭は山と海にはさまれた難攻不落の要塞であり、平家方には源氏との戦いに備えていた。まさか、義経の鵯越があるとは知らずに・・・。

 

一の谷・鵯越

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1180年 富士川の戦いの地

2018年06月10日 | 平家物語

 富士川の戦いでは総大将小松少将維盛、副将に薩摩守忠度が任命されたが大敗に終わり、これにより源頼朝の鎌倉は盤石なものとなった。富士川の戦いは、平安時代1180年11月に富士川で源頼朝、武田信義と平維盛が戦った合戦であるが、治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の1つである。

 1180/8/23石橋山の戦いで敗れた源頼朝は安房国で挙兵、すると東国武士が参集して大軍に膨れ上がり鎌倉に入った。一方、甲斐国で挙兵した武田信義らは駿河国目代を討ち取った。その両者が駿河国で合流し、平維盛率いる追討軍と戦い勝利したため、頼朝は南坂東で、武田信義ら甲斐源氏は甲斐・駿河・遠江での拠を確立させた。政変により知行国主の多くが変更となると、上総氏、千葉氏、工藤氏などの旧知行国主に近い豪族たちが新知行国主の息のかかった平氏家人により圧迫されていた。1180/9/8伊豆国に流されていた源頼朝は以仁王の令旨を奉じて、舅の北条時政や土肥実平、佐々木盛綱らと挙兵し、伊豆目代山木兼隆の館を襲撃して殺害した。しかし8/23石橋山の戦いで頼朝は大庭景親、伊東祐親率いる平家方に惨敗した。

 9/13頼朝は300騎を率いて安房国を出立すると、千葉常胤一族や上総広常と合流すると2万5000余騎に膨れ上がった。10/2頼朝は武蔵国へ入り、豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越重頼、江戸重長、畠山重忠らが続々と参じると頼朝の軍は数万騎の大軍に膨れ上がり本拠地・鎌倉に入った。頼朝挙兵の報は、大庭景親より福原に伝わり、平清盛は追討軍を関東へ派遣することを決定する。平維盛、忠度、知度らによる追討軍が福原を出立したのは10/22。

 平家方が時間を空費している間に頼朝は関東で勢力を回復し、甲斐国では甲斐源氏が、信濃国では源義仲が挙兵した。追討軍は進軍しながら7万騎の大軍となる。10/13追討軍は駿河国へ入ると頼朝はこれを迎え撃つべく鎌倉を発する。甲斐源氏の兵は富士川の東岸に進む。また、平家方はその西岸に布陣した。『吾妻鏡』によると、この時点での平家方は4000余騎でかなり劣勢であったという。両軍が対峙したその夜、平氏軍は突如撤退し、大規模な戦闘が行なわれないまま富士川の戦いは終結する。この件に関しては、武田信義の部隊が平家の後背を衝かんと富士川の浅瀬に馬を乗り入れる。それに富士沼の水鳥が反応し、大群が一斉に飛び立った。『吾妻鏡』には「その羽音はひとえに軍勢の如く」とある。これに驚いた平家方は大混乱に陥った。

 

上総広常は 、 豪族、房総平氏 惣領 家頭首であり、 源頼朝 の挙兵に呼応して平家との戦いに臨んだ。上総氏は上総・下総二ヶ国に所領を持ち、大きな勢力を有していた。上総は親王任国 であるため、実質的な国府の長である。広常は、 鎌倉 を本拠とする 源義朝 の郎党であった。1156年の保元の乱では義朝に属し、1159年の平治の乱では義朝の長男・ 源義平に従い活躍。義平十七騎の一騎に数えられた。

千葉常胤は、千葉氏を豪族から御家人の地位まで登らしめた千葉家中興の祖といわれる。常胤以降、一族は諱に「胤」の一字を受け継ぐことが多くなる。鎌倉幕府成立に貢献した有力御家人の一人

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安徳天皇を抱いて入水した平時子・辞世の句

2015年04月18日 | 平家物語

 平時子、いわずと知れた平清盛の正妻である。公家平氏・平時信(桓武平氏高棟王流)と藤原家範の娘(祖父は北家・藤原師家)との間に生まれ清盛がほぼ全盛の時に結婚する。 この時代は平安末期・院政の時代です。 院とは天皇が譲位した後の上皇のことを言い、力を蓄えた受領層が院と密着し時代の中心になっていった時代で、幼帝の父・院が力をもち、幼い天皇を教育する乳母の存在が力を持つ時代であり、清盛はこうした幼帝、院に密着することにより位をあげていく。 時子の弟・時忠もその時の有力者、後白河上皇に密着し、政治的手腕を発揮する。そして時子の異母妹である滋子も後白河上皇に近づき、寵愛をうけることになり、やがて皇太子(後の高倉天皇)ができ、時子の娘・徳子は後の安徳天皇を産むこととなる。 一方、後白河天皇が譲位し、息子が即位すると二条天皇となるが、後白河天皇の父・鳥羽天皇の後白河への評価は低く、孫・守仁親王を時期天皇にと考えていたが、雅仁(後白河)の乳母である紀静子の説得で後白河天皇が誕生する。 ところが後白河の即位に不満を持つ天皇家・貴族が後白河天皇側との間で武力衝突となり保元の乱へ発展する。 後白河側についたのが清盛で、勝利により確固たる立場を築く。

 この頃、清盛の妻・時子は後白河の息子・二条天皇の乳母となる。実は、二条天皇にはもともと藤原惟方の母が乳母としていたが、時子の弟・時忠との政権争いの結果、惟方は敗北し時子が乳母となったという。 後に時子は従三位をもらうと平家の栄華は頂点に達する。二条天皇が22歳で亡くなり、その皇子が六条天皇として即位するが5歳で譲位すると、滋子の息子・憲仁親王が高倉天皇として即位しており、時子は娘・徳子を高倉天皇に入内させる。 これにより天皇家に平家の血筋が流れることとなる。 ところが、平家の独走態勢を快く思わない藤原氏の反感が高まると、後白河法皇も平家を見放すようになります。 こうして、源氏の挙兵が始まると間もなく、平家は滅亡に向けての一途を辿り、最期に時子は壇ノ浦にて安徳天皇を抱いて海に没する。まさに、平家物語の冒頭にでてくる 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。」 を代表する一人が平時子といえる。

平時子(二位尼)辞世 

今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下 みやこありとは

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平家物語・壇ノ浦の戦い跡地

2015年04月16日 | 平家物語

 壇ノ浦での源平戦況は潮の流れが勝敗を決める状況になっていた。序盤は平家方の優勢ではあったが、平家の船軍のなかでも四国の阿波民部が、源氏方へ寝返ったのは大きかった。阿波民部は桜間の介の兄軍である。平宗盛の器量のなさに愛想をつかした桜間の介は既に義経側についていたが、兄を説得して源氏方へなびかせたと同時に、源氏との和義を図ろうとする平時忠やその息子・讃岐殿と義経との仲をとりもつ役とかってでていた。義経の眼中には三種の神器と安徳天皇しかない。平家を打ち破ったとしても、三種の神器を取り戻すことができなければ、この戦の意味はないからである。時忠と安徳天皇、建礼門院、二位の尼などの命を保障する密約をかわしていた義経は、赤間の関の陸路に身を隠す平時忠、讃岐中将時実から安徳天皇を乗せた船の御印情報を得、それへ急いだ。黄印の旗を掲げた小船へである。そしてこの時に、義経は平家随一の武将、能登守・教経に決戦を挑まれることになる。このとき既に源平の小船は随所で衝突しており、小松新三位資盛、弟有盛は海の藻屑と消えていた。また、左中将清経や、教経の郎党権藤内貞綱も討ち死にしていた。一人気をはいていたのが能登守・教経である。義経の眼中にあるのは黄旗の小船のみであり、小船を伝って黄旗へと急いでいた。能登守教経は 義経との一騎打ちを望んだが、空しく義経の郎党・安芸大領実康の子・太郎実光、次郎兄弟に捕まり、お互いを道連れに海中へ沈んだ。

 平家の総領宗盛の船は舵の自由を失い漂っていた。伊勢三郎をはじめとする源軍はこの船に襲い掛かると、左馬頭行盛は斬死にした。同じ船にいた教経の父・門脇中納言教盛は、もはや最期と自ら海中へ身を消した。そしてこの船の大将・宗盛はというと身を海に投げようとはするが、ためらっているのを見た武将が 未練なお主かなと海へ突き落とし、自らも入水した。そして宗盛の息子・右衛門督(平清宗)も後から入水する。しかし、この親子は源氏の小船によって引き上げられ、生け捕られたのである。黄旗の小船のまわりには源軍の小船が群がっている。梶原景時、伊勢三郎、田代冠者等々詰め掛けたときには、すでに義経は黄旗の船に駆け上がり愕然としていた。帝(安徳天皇)は二位の尼(清盛の妻・時子)に抱かれて既に入水し、そのあとを追いかけて帝の母・建礼門院も入水していたからである。そしてそれを見届けた師の局(平時忠の妻)は動揺してなきくれている。平家随一の武将・知盛は平家一門の最期を見届けると、誰かを待っていたかのごとくその身は鬼のごとく、しかし心は穏やかである。源氏の総大将・九郎判官義経を待っていたのである。そして、今となっては平家の終焉を迎え、たとえ帝が生きていようとも洛での生活を思えばまともな成人を迎えられるはずもなく・・・・と語り、落ち延びた平家を気遣いつつ、我が身は何ら思い残すことはない、と義経に語ると、海中へ飛び込んだのである。源氏方は総勢を挙げて、帝や三種の神器を探したが、建礼門院のみを探し当てたに過ぎなかった。鎌倉の頼朝の命を受けて翌日には、義経は洛へ向かっていた。この血なまぐさい壇ノ浦にはいたたまれなかったし、早く静にも会いたかったのは言うまでもない。洛へ帰ると、民衆の囚人への哀れみやら、平家に仕えてきた女房や乳母が人目でも・・・・と懇願する声ばかりである。義経は後白河法皇からはたいそう労いの言葉を受け、その多忙から堀川邸の静に逢える日はなかなか来なかった。

平家随一の武将・知盛

関門海峡の下は当時赤間の潮と恐れられる激しい潮流。平家一門はこの潮を味方につけるべく源氏をおびき寄せたが・・・

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平家ゆかりの赤間神宮

2015年04月15日 | 平家物語

 赤間神宮は山口県下関市にある神社で、安徳天皇を祀ったことから安徳天皇御影堂とか阿弥陀寺といった。もちろん壇ノ浦で滅亡した平家一門を祀っていることでも知られ、『耳なし芳一』の舞台でもある。安徳天皇陵としては多くの伝承地があり、同じく山口県の西市御陵墓(王居止御陵)が有力であったが最近ではここが有力天皇陵となっている。

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平家一門の墓 七盛塚

2015年04月14日 | 平家物語

 赤間神宮境内の隅にある平家一門の墓・七盛塚は約400年前の1600年前後に建てられたといわれてる。壇之浦の合戦が1185年であるから、塚ができるまでに4百年近くもの歳月が流れている。当時、海峡に嵐が続いて九州へ渡る船や漁船の遭難が続出したため、海上交通を断たれた商人や壇ノ浦の漁師たちは成仏できずに海上をさまよっているたくさんの平家武者と官女の亡霊の祟りであるとした。そこで漁師たちは荒れるにまかせていた平家の墓を一カ所に集めて京都の方に向けて手厚く供養したという。この七盛塚は前列右から有盛・清経・資盛・教経・経盛・知盛・教盛の供養塔であり墓碑ではない。

   祇園女御・妹兵衛佐局  平完子(清盛六女)            
    ┣清盛1118-1181    ┃平信範娘                   
     ┃┗盛子1156-1179(次女)┃┣近衛家経1184-1238      
    ┃藤原忠通1097-1164┣基通1160-1233養子       
    ┃┣近衛基実1143-1166  ┣近衛家実1179-1242  
    ┃┃ ┣基通1160-1233 源顕信娘 
    ┃┃藤原忠隆娘  
    ┃┃  
    ┃┣近衛基房 1145-1231松殿(法華寺八講会 資盛との車争い)        
    ┃┣九条兼実 1149-1207右大臣月輪殿「玉葉」の作者┣隆忠       
    ┃┗九条兼房 1153-1217太政大臣          ┣師家
    ┃                        ┣伊子(冬姫:義仲側室)     
    ┃有子 池禅尼1104-1164(頼朝を助けた御方)   俊子
    ┃┣家盛1120-1149                
    ┃┣頼盛1131-1186     
    ┃┃     ┣仲盛?-?
    ┃┃     ┣光盛1172-1229
    ┃┃     ┣為盛    -1183
    ┃┃     ┣娘
    ┃┣忠重  大納言の局(待賢門院に仕え俊寛の兄妹)
    ┃┣忠度1144-1184タダノリ薩摩守(母:藤原為忠娘 一の谷で死亡)                  
    ┃┃ ┃   ┣-             教盛・娘
    ┃┃ ┣忠行 熊野別当湛快娘   藤原成親  ┣-
    ┃┃浜御前              ┣藤原成経-1202丹波少将
    ┃┃                  ┗娘1155-
    ┃┃                     ┣六代(高清)1173-1199
    ┃┃        藤原親盛・娘      ┣姫(夜叉御前)      
?-1121 ┃┃         ┣維盛1157-1184(桜梅少将 那智で入水)            
正盛  ┃┃      高階基章娘┣資盛スケモリ1161-1185(建礼門院右京太夫恋人)            
 ┣忠盛1096-1153        ┣小松重盛1138-1179小松左大将(病死) 
 ┗忠正  ┃-1156       ┃ ┣清経1163-1183 
  ┣長盛┃?-?        ┃ ┣有盛1164-1185(鵯越丹波路より屋島へ敗走)   
  ┣忠綱┃?-?         ┃ ┣忠房    -1186(鵯越丹波路より屋島へ敗走)  
  ┗正綱┃?-?         ┃ ┣師盛1171-1184(一の谷で死亡)  
     ┃          ┃ ┣娘  
     ┃          ┃ ┃┣-  
     ┃          ┃ ┃原田小卿種直(筑紫岩戸豪族)  
     ┃          ┃藤原家成娘経子                     
     ┃          ┃(鳥羽院寵臣)               
     ┃          ┣基盛1139-1162右衛門督                 
         ┣清盛 1118-1181 ┏清宗 ┗行盛-1185壇ノ浦で入水
         ┃┣冷泉局   ┣宗盛1147-1185中納言
     ┃厳島内侍迦葉┣知盛1152-1185四位少将                    
     ┃           ┃ ┣知章1169-1184(一の谷で死亡)⇔児玉党                   
     ┃           ┃ ┣知宗1184-1255                    
     ┃           ┃ ┣知忠1180-1196                    
     ┃           ┃ ┣中納言局(藤原範茂室)後堀河天皇に出仕                    
     ┃           ┃治部卿局1152-1231後高倉院に出仕                    
     ┃      ┣重衡1157-1185頭の中将(一の谷で捕虜)          
     ┃      ┃ ┣-        
     ┃      ┃輔子?-?(大納言典侍 建礼門院と大原へ)         
     ┃      ┣清房?-1184(一の谷で死亡)淡路守         
     ┃      ┣清貞?-1184(一の谷で死亡)尾張守        
     ┃藤原家範娘? ┣徳子1155-1214建礼門院       
     ┃ ┣平時子1126-1185┣安徳天皇1178-1185言仁親王       
     ┃ ┣平時忠1127-1189┃         藤原棟子1173-1238北白河院
     ┃ ┣平親宗1142-1199┃藤原殖子1157-1228(七条院)┣後堀河天皇1212-1234         
     ┃平時信?-1149    ┃ ┣守貞親王1179-1223後高倉院           
     ┃ ┣滋子1142-1176 ┃ ┣高成親王1180-1239後鳥羽天皇        
     ┃藤原祐子?   ┣憲仁親王80代高倉天皇1161-1181          
     ┃      ┃     
     ┃     後白河天皇77代1127-1192     
     ┃清盛側近  平盛国1113-1186               
     ┃       ┗盛俊?-1184(一の谷で死亡)⇔猪俣小兵六          
     ┃         ┣盛嗣?-1194越中次郎兵衛        
     ┃         ┗盛綱?-?        
     ┣経盛ツネモリ1125-1185 修理太夫参議 壇ノ浦で入水
     ┃      ┣経正    -1184丹波守皇后宮亮琵琶の名手(一の谷で死亡)
     ┃      ┣経俊1164-1184若狭守(一の谷で死亡) 
     ┃      ┗敦盛1169-1184(一の谷で死亡) 
     ┃        ┣-
     ┃       右大弁時宗・娘       小宰相1165-1184(上西門院の女房)
     ┗教盛ノリモリ門脇殿1128-1185壇ノ浦で入水  ┣-
            ┣通盛1169-1184(越前三位)(鵯越で死亡)         
              ┣教経1160-1185(能登守(一の谷で死))       
            ┣教子?藤原範季妻         
            ┣業盛1169-1184(一の谷で死亡)  
            ┗仲快1162-1227(中納言律師)

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安徳天皇・阿弥陀寺陵

2015年04月13日 | 平家物語

 久しぶりに平家物語関係。4月11-12日と下関、福岡、大宰府とめぐって来た。まずは下関の赤間神宮である。第一の目的は安徳天皇阿弥陀寺陵。平家物語に詳しい人であれば誰でもが知る安徳天皇が眠る御陵である。赤間神宮には平家一族が眠る墓もあり、順次紹介したい。ということで吉川英治の新平家物語から安徳天皇について記載する。

  いまや平家は陸路においても、海路においても源氏に劣ってる。しかし義経の心のうちは平穏ではない。たとえ戦に勝利したとしても、三種の神器と安徳天皇の無事を欠いては戦に勝ったとはいえないことはわかっていたからである。そして平家方にも義経と同じことを考えていたものがただ一人いた。それは平時忠である。いくつかの条件付きで、三種の神器を源氏方に渡すことによって無駄な血を流すことが避けられるものならば・・と願っていた。しかし彼は、いまや平家からは二心の持ち主と非難され牢船のそこに息子・讃岐中将時実とともにつながれる身となっていた。洛に残してきた娘・夕花や右大弁時宗を想い、義経からの遣いが来るのを密かに待ち侘びていたのである。あるとき、桜間の介能遠は師の局から受け取った文を携えて牢船の底に近づいた。桜間の介は義経が屋島攻略の際に邸をぬけ、屋島の本陣へその旨を伝えるため参じたが平宗盛からは義経の差し金呼ばわりされ、義経方に寝返った男である。平家大将・宗盛の器量の狭さを見限り、義経方についただけではない。平家の窮地を援護すべく、3000騎の大軍率いて屋島へ向かう田口左衛門教能を義経と引き合わせ、その援護を退かせた男でもある。その桜間の介が義経の密者となって平時忠の妻・師の局に和義の文を描かせて、今時忠の前に現れた。

 壇ノ浦での源平戦況は潮の流れが勝敗を決める状況になっていた。序盤は平家方の優勢ではあったが、平家の船軍のなかでも四国の阿波民部が、源氏方へ寝返ったのは大きかった。阿波民部は桜間の介の兄軍である。平宗盛の器量のなさに愛想をつかした桜間の介は既に義経側についていたが、兄を説得して源氏方へなびかせたと同時に、源氏との和義を図ろうとする平時忠やその息子・讃岐殿と義経との仲をとりもつ役とかってでていた。義経の眼中には三種の神器と安徳天皇しかない。平家を打ち破ったとしても、三種の神器を取り戻すことができなければ、この戦の意味はないからである。時忠と安徳天皇、建礼門院、二位の尼などの命を保障する密約をかわしていた義経は、赤間の関の陸路に身を隠す平時忠、讃岐中将時実から安徳天皇を乗せた船の御印情報を得、それへ急いだ。黄印の旗を掲げた小船へである。そしてこの時に、義経は平家随一の武将、能登守・教経に決戦を挑まれることになる。このとき既に源平の小船は随所で衝突しており、小松新三位資盛、弟有盛は海の藻屑と消えていた。また、左中将清経や、教経の郎党権藤内貞綱も討ち死にしていた。一人気をはいていたのが能登守・教経である。義経の眼中にあるのは黄旗の小船のみであり、小船を伝って黄旗へと急いでいた。能登守教経は 義経との一騎打ちを望んだが、空しく義経の郎党・安芸大領実康の子・太郎実光、次郎兄弟に捕まり、お互いを道連れに海中へ沈んだ。

ここ安徳天皇阿弥陀寺陵の訪問により天皇陵の全てを制覇

 

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平忠盛、乃美宗勝ゆかりの竹原・忠海港

2015年02月10日 | 平家物語

 竹原・忠海町というのはその昔、平家の棟梁・平忠盛(平清盛の父)ゆかりの地で、平忠盛が瀬戸内海の海賊退治の功績を称えられこの地一帯を賜ったことから忠海は忠盛の名を冠して付けられたと云われている。そこへ行って来ました。JR三原から呉線に沿って呉方面に15kmくらいいくとJR忠海駅があり、すぐ南側には忠海港があります。まさに平家物語を思うとともに、以下のような村上水軍のことが頭をめぐりました。

 織田軍の大勝で天王寺砦の戦いは1576年5月7日に幕を閉じた。この戦いで大敗した大坂本願寺軍は徹底した籠城戦に持ち込んだのである。こうなると必要なのは長期戦に備えた兵糧であるが、底をつくまでの期間は3ヶ月であったようだ。従って大量の兵糧を何とかしなくてはならない。しかも木津川河口などの海路は泉州和泉を中心とした水軍衆によっては固められている。そこで大坂本願寺が頼ったのは毛利の水軍による兵糧輸送作戦で、その量は10万石という莫大な量であった。これだけの兵糧を運ぶためには約1000艘にも及ぶ大輸送船団が必要となる。毛利家がこの要請に呼応したのには理由がある。しかしここでは割愛させていただくとして、毛利輸送船団の成り立ちについて解説する。もともと安芸武田氏直轄の水軍衆や譜代家臣であった児玉氏の水軍衆を毛利家が取り込んだことから毛利水軍が始まったという。また、安芸国の豪族・竹原小早川氏へ毛利元就・三男の隆景を養子に送り込み、小早川氏は毛利家に取り込まれた。小早川氏直轄の水軍が毛利氏直轄になり誕生した水軍が毛利最強の小早川家海賊衆で、その党首が乃美宗勝である。従って乃美宗勝の本拠地は竹原忠海町で、賀儀城城主でもある。ところで、村上水軍はというと、小早川氏と姻戚関係を結んでいた河野氏の被官で、瀬戸内海の芸予諸島を中心に活動していたことから、当然のことながら毛利家とも深く結びついていたのである。系図を見れば毛利小早川家海賊衆・乃美宗勝が最強であったゆえんがわかる。毛利家をここまで巨大にした毛利元就の側室に乃美大方がいることでもわかる。

 さて、大坂本願寺が織田勢と交戦するに際して篭城を決め込み、毛利家は兵糧10万石の輸送を決めた。船団数は1000艘、その護衛に必要な水軍船団は300艘である。実質的な総大将は、小早川家海賊衆であり賀儀城主の乃美宗勝ではあるが、形式的な総大将は毛利家海賊衆の棟梁・児玉就英となる。毛利家宗流に仕える児玉就英のほうが、小早川家庶流の乃美宗勝よりも上位であるから乃美宗勝としてはやりにくい。それぞれの本拠地から続々と集まった1000艘の大船団は、兵糧を積むべく乃美宗勝の本拠地である竹原・忠海町・賀儀城に程近い港にひしめいている。今やその乃美宗勝という海賊が忠海一帯を支配しているのだから歴史は皮肉なものである。10万石の兵糧を積み終えた船団は難波目指して出航した。そしてこの船団を護衛するのが村上水軍300艘なのである。実はこのとき、毛利水軍に対して播磨の英賀衆も援護をしている。英賀は一向宗勢力が根付き寺内町が形成され、堺と同じく町衆による自治が行われ河川交通・海上交通の要所として商工業が繁栄していた。時の英賀城主は三木氏9代目・三木通秋で、妻は黒田職隆女というから黒田官兵衛とは兄妹となる。黒田官兵衛はもちろん織田側に就いており、英賀城主は毛利側に就いているのであるから、戦国の世は悲しい運命を背負うことが、ここからもわかる。

大坂本願寺救出を目指して1000艘の大船団が兵糧を積むべく立ち寄った乃美宗勝の本拠地・忠海港

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新・平家物語 第64話 最終話 

2013年01月13日 | 平家物語

「祗園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす 奢れる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし 猛き者も遂には亡びぬ 偏に風の前の塵に同じ」

   
 ・吉川英治の新・平家物語全16巻をそれぞれ4分割すれば、平家物語解説64章ができあがります。それぞれの章に関わる地を訪れ始めて以来6年が経過し、その集大成として64話をアップしてきましたが、下関や平泉を訪問していないだけに消化不良の感がありますので、今後はこれを補うべく各地をさまよい、次回の紹介では128話まで充実できれば幸いです。吉川英治氏は自分を阿部麻鳥、妻を蓬という架空の人物に写して、この時代に登場させながら描きました。阿部麻鳥は崇徳天皇御所の水守、蓬は近衛天皇中宮・藤原呈子の雑仕女・常盤御前の乳母です。常盤御前の乳母として牛若がまだ生まれる前から仕え、牛若の父・義朝が家臣の裏切りで討たれた後、乳飲み子の牛若らを連れていばらを彷徨う時代を知る女です。結婚したこの二人が見た揺れ動く時代、平和など無縁な時代を史実を元に客観的に描いたのですが、義経が兄・頼朝に追われて能登を経由して平泉へ逃げてから自刃するまでの物語と、各地に落ち延びた平家の末裔を想像させるような物語についてはほとんど記載がないためか、少々物足りなさを感じます。というわけで、私解説128話にて補足を加えつつ・・・などと思いを巡らせながら、64話を最終話にしたいと思います。完

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新・平家物語 第63話 義経能登旅 義経の最後

2013年01月12日 | 平家物語

夕花の姫(わらび姫?-?)は平大納言時忠1130-1189の娘である。  
 ・時忠との契りによって犠牲者を最小限にとどめることができたあの壇ノ浦の戦いのあと、義経は夕花の姫を側室に向かいいれていた。  
 ・父・時忠としても源氏の総大将の今後を考えての嫁入りであった。  
 ・しかし 頼朝からの厳しい追補のため、やむなく都落ちをする際に、夕花を能登の配所へと向かわせていた。  
 ・能登の配所は 時忠、妻の師の局らが流された場所である。能登の最北端の珠洲岬の近くに配所はある。  
 ・もと讃岐の国の平家方・桜間の介能遠を護衛につけて大浦の浜で、義経一向と夕花は分かれたが、義経一向は嵐に見舞われ、  
 ・頼朝の追補をのがれ、あれから2年後の今、安宅の関を越えて能登の麓まできたところを桜間の介と再会したのである。  
 ・もちろん 能登へも義経一向が山伏姿に身を潜めて奥州へ向かっているという噂は届いていたので、  
 ・時忠は桜間の介に義経一向を待つようにと命じていたのである。  
 ・かくして能登の配所で、義経、時忠、夕花が再会を果たし、歓喜に浸ったのはいうまでもない。  
 ・おそらく10日近くは滞在したに違いない。配所の近郷には地頭の長谷部兵衛尉信連という者がいた。  
 ・昔三条以仁王に仕えていた宮侍で、鎌倉に取り立てられた。  
 ・義経一向が配所を訪れたときに、小事件すら起こっていないところをみると、そ知らぬ風をしていたようである。  
 ・それから約2年後に平時忠は配所で病死している。  
 ・かくして義経一向は配所を後にして平泉へ向かい、藤原秀衡に手厚く歓迎され奥州の総大将としての座を秀衡に託されたのである。  
 ・そして間もなく衣川の舘にて僅かな随臣とともにつつましい生活を送っていた。  
 ・その少しのちに河越小太郎を伴って百合野が平泉に来ている。  
 ・そのときには百合野の父河越重頼やその一族はことごとく幕府に取り潰されていた。  
 ・百合野はもとより、一生を義経とともにと願っていたので、ここ平泉の地でほんとうの妻の座を得たといえよう。

ところが、間もなく秀衡が忽然と病死するのである。  
 ・藤原家三代は大きく揺れ動き始める。  
 ・その間に義経と百合野に子供が授かりしばらくは平和があったが、  
 ・そのうちに鎌倉から秀衡の嫡子・泰衡に対して 義経逮捕の勅命をくだし賜りたいといってきた。  
 ・そのときの様相はちょうど平清盛が死んだあとの平家のようである。泰衡の動揺は隠しきれなかった。  
 ・頼朝の度重なる要求にもはや拒むことはできない状況にある。  
 ・長男国衡は、母が蝦夷の娘であった為に跡継ぎにはならなかったが、父の遺命に従って忠衡とともに義経を保護する。  
 ・しかし後継者の泰衡は頼朝の要求に屈し、弟の頼衡を殺したあと義経に夜襲をかけた。  
 ・義経はこのとき、泰衡の動きを見抜いていた。選ばれた道は落ち延びるか 頼朝追討にでるか、自決するかである。   
 ・恐らくこれ以上の血を流したくないと切望していた義経は頼朝追討は念頭あらず、また落ち延びることももはやできない。  
 ・すると事あらば自害・・・と覚悟はできていたのかもしれない。  
 ・そして義経一行の精鋭20名程度が1000騎に及ぶ泰衡の夜襲に打ち勝てるはずもなく、百合野と姫君を自分の手で殺し、自害を図った  
 ・家臣一同は無事に最期を遂げられるようにとの思いだけで、主を守ったことであろう。  
 ・その後、泰衡は弟・忠衡をも殺害し頼朝に義経の首を献上したが、主を売る犬め との罵倒を受けて斬られている。  
 ・そして平泉は頼朝軍に攻め入られ、すべての所領を失い、藤原4代に続いた奥州平泉の繁栄は途絶えたのである。  
 ・後に義経に対する色々な伝説は伝えられているが、  
 ・平泉の衣川の館で31歳の見事な、頼朝でさえうらやむ家臣に恵まれて幸せに過ごした生涯を終えたという事が史実であろうと思われる。

 能登半島国定公園 「雨晴海岸」は、万葉の歌人・大伴家持もこよなく愛し多くの歌を残したとされる景勝の地で、富山湾越しに見る立山連峰の雄大な眺めは、四季それぞれに変化し、息を呑む美しさです。 「雨晴」という名前の由来は源義経が奥州に落ちのびる時、岩かげに宿り、にわか雨を晴らしたという伝説によります。

 

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新・平家物語 第62話 西行法師

2013年01月09日 | 平家物語

 西行法師も今は70歳になろうとしていたが、ある目的があって奥州平泉を目指して旅をしていた。俗名は佐藤義清とい若かりし頃には、平清盛とともに兵衛尉に任ぜられ、鳥羽上皇の北面として奉仕していたが23歳の時に出家し、のちに西行と称した。袈裟御前と縁多い文覚(俗名 遠藤盛遠)も北面時代の仲間である。出家の動機は諸説あるが、一説に白川院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子への恋着のゆえであったとも言われている。出家後はしばしば旅に出て多くの和歌を残した。讃岐国では崇徳院の陵墓白峰を訪ねてその霊を慰めたと伝えられている。先日鎌倉の頼朝に面会したあと、静御前を慰めていた安達新三郎清経と話を交わしたあの貧乏法師が、西行でもある。この旅では、途中病に倒れ木賃の者から芋粥などを乞いながら、やっとの思いで奥州にたどり着いていた。次のような歌からも伺える。「捨て果てて 身はなきものと おもひしも 雪の降る日は 寒くこそあれ」 鎌倉を出たのが八月であったが思わぬ病気などで奥州に着いたのは雪深い真冬である。奥州藤原秀衡は西行の到着を心から歓迎し、いたわった。実は秀衡と西行は遠い親戚にあたり、会うのも今回が二回目である。西行は東大寺重源上人の切なる依頼から、ぜひなく下ってきたこと、そして大仏殿造営の寄進を乞うのが目的であることを告げた。西行はしばらくこの平泉に逗留していたがいろいろなことが耳に入ってくる。秀衡には長兄・国衡のほか、正妻の嫡子・泰衡、高衡、忠衡、通衡、頼衡と六男がいたが、父秀衡を受け継ぐ器量の持ち主がいないとか、義経の奥州入りがまじかとみえて、館拵えの造作で忙しいとか。 何故か悪い予感に憂いを抱く西行である。いつか頼朝の命で夜襲を行った土佐坊昌俊が義経の返り討ちに会ったときには、頼朝は、頼もしい弟になったことよと喜んでいる。また、今回の義経奥州くだりも、頼朝にとっては奥州攻めの大義名分ができて、喜んでいるのではないかとさえ、思う西行であった。春になると西行は奥州を後にした。かつては門脇殿の所領とか小松殿の所領とか、いずこの地でもみられた門が、今や鎌倉の地頭にいれかえられている。守護地頭の兵がなだれ込んだ際に、平家の末の末という人々は皆山の奥地へ逃げ込んだ様をみると尚一層憂う西行である。

嵯峨小倉界隈

西行法師が住んでいた京都嵯峨・二尊院の境内

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新・平家物語 第61話 潜入竹生島

2013年01月08日 | 平家物語

 洛中では、鎌倉の命により義経を躍起になって探している。東国武者幾千騎である。静と別れた義経一向は、藤室の八僧に護衛されながら吉野から伊勢、奈良と転々とし、その居所は全くわからない。洛と奈良近辺で神出鬼没な土佐の君という屈強な僧兵らしき者が義経の居場所を知っているという。しかしその者を、千光坊七郎とも叡山の俊章とも武蔵坊弁慶ともいわれ、全く実態がつかめないでいた。 実は、義経主従は堅田三家に匿われてたのである。三家とは、堅田家、刀禰家、居初家をいい、義経が奥州平泉から熊野へ上った頃から縁があった。平家全盛の頃、洛内にて群盗騒ぎ、放火沙汰が相次いだが、あれは叡山の党衆と堅田党が起こしたものであったが、平時忠に一網打尽にされたことがあった。その時に全員の身柄が放たれたのである。 それは義経が自ら人質となって平時忠を訪れ開放を願い出たからである。 もちろん条件つきである。 今、堅田党はそのときの恩に報いるべく結束し、 匿っていたのである。 今や、頼朝の所領の追尾も堅田に及ぶことも考えられ、頼朝追討の意さえも表していたのである。一方、阿部麻鳥は静御前から預かった義経への文を携えて、あてもなく義経を探そうと放浪の旅医者をしていた。 そして刀禰弾正介の北の方の手当てをする偶然に出会ったのである。 北の方を診るために訪れたのは、刀禰家であった。 そして仔細を聞いた麻鳥は、まもなく義経主従に会うこととなる。 そこで知ったことであるが、土佐の君とは刀禰弾正介の嫡子・左金吾、千光坊七郎とは居初権五郎、叡山の俊章とは堅田帯刀であった。 

 義経主従が匿われていた場所とは、琵琶湖の北の磯遠くに浮かぶ小さな島、竹生島であった。そして今からは、奥州へ落ち延びる覚悟でいた。そして義経は刀禰弾正介から手渡された静からの文を読んだ。 「今朝鎌倉へひかれて下りまする。君はいずこに。また、身はどこへひかれましょうとも・・・・。吉野山のおことば、日夜、忘れませぬ。今更の、おこたえとて、重ねませぬ。 ただただひとつ、すぐにでも告げまいらせたいうれしい兆しが、身のうちに宿りました。詳しいことは薬師の麻鳥からお聞き取り賜りませ。 もう、迎えの獄卒が門にきております。 ごきげんよう。」 義経は静が身篭っていることは知らなかった。 身重でありながら鎌倉へ詮議を受けにいく辛さを思うと涙がでてとまらない。 かつて、ここ竹生島は木曾義仲が洛入し、平家の大軍が北陸へ下る時に、平皇后宮亮経正が立ち寄り阿部麻鳥と対面し清盛公の臨終の際世話になったと琵琶の音を披露した。 そして経正は一の谷で見事に果てたのである。 老禰宜から、そのようなことも聞くと義経の胸は尚一層痛むのである。 義経は奥州へ下る前に是非ともあっておきたい人がいた。 仁和寺の門主守覚法親王である。覚性入道親王の後を継いだ、後白河法皇の第四王子である。洛入りは至難の業であったと思われる。よほど宮に会って話を望んだのだろう。宮の著書、御室左右記に、このときの出来事が見聞随想として書いておられるのである。

宝厳寺唐門を抜けると頂上には宝厳寺本堂 【真言宗宝山寺派厳金山宝厳寺。俗に竹生島観音。西国札所第三十番。神亀元年に聖武天皇の勅命によって行基が開基。弁才天をまつったことにはじまるという。】

竹生島 宝厳寺

 

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新・平家物語 第60話 鶴岡八幡曲

2013年01月07日 | 平家物語

鶴ヶ岡八幡は鎌倉武士で埋まっている。 
 ・平家ですら全国の約半分の所領を持つに過ぎなかったが、今頼朝は全土を支配していた。 
 ・各所領の守は二心あらずと鎌倉を訪れ、帰っていく。後に頼朝の嫡男・実朝は時の勢いを次のように歌っている。 
 ・ 「宮ばしら ふとしき建てて よろづ代に いまぞ栄えん 鎌倉の里」  
 ・例年の四月八日は鎌倉じゅうの寺社が鐘の音で賑わう日である。潅仏会の花祭りという。鶴岡八幡宮でも式事が行われる。 
 ・正式な通達が安達新三郎清経のもとに届いていた。静母子ともども罷り出よという状であった。 
 ・このときに何故か黄蝶が異常発生した。もともと黄蝶というのは平家の象徴である。 
 ・そして平家の怨霊が鶴岡から鎌倉御所の上をひらひらと呪っているのではないかとのささやきもあり、 
 ・頼朝は八幡宮に大神楽を上げさせ神馬を献納している。 
 ・これらの奇事、記録は吾妻鏡に残されているが、この筆者は静御前を鎌倉で取調べを行った藤原俊兼、藤原盛時などである。 
 ・神事が終わると、頼朝、側近らを前にして、静御前が白拍子の舞を披露することになっていた。 
 ・静御前の意に反し強要されたのであるが、八幡の照覧に供え奉じるだけのものと受け入れた。 
 ・左衛門尉工藤祐経が鼓、畠山重忠が銅拍子を務めた。静は檻の人には見えない。 
 ・芸の力と絶対な姿勢は清爽な磨きを加えて気高くすらあった。 
 ・したがって頼朝夫婦、諸国大名、その他権力への媚も、恐れもないのである。ただあるのは、義経を想う運命の忍受だけである。 

 

吉野山の金峯寺 

 「吉野山 峰の白雪踏み分けて 入りにし人の おとぞ恋しき」  
 ・吉野山では女人禁制ゆえ、生き別れてしまったが、あの御方の今を想うと恋しさが募るばかりで御座います・・・と舞った。  
「しづやしづ 賤のをだまき繰り返し 昔を今に なすよしもがな」  
 ・静よ、静よ・・と呼んでくれた昔のような平和はいつになったら訪れるのでしょうか。

頼朝の面前もはばかりなく、不逞の徒義経を慕い別れの曲を歌うとは何事! と 頼朝の激怒に触れたのは云うまでもない。 
 ・しかしこのとき、頼朝の妻。政子はなだめた。 
 ・昔、頼朝が挙兵し、石橋山の合戦で敗れた際に政子はひとり良人とわかれて、伊豆山に身を潜めたことがあった。 
 ・いまの静に当時の自分を見たからである。しかし、また 静が身は義経の胤を宿していることも察していた。 
 ・帰り着くなり、静は「夢の中にでも、かの君に・・」と願って寝たが、夢ですら願いは叶わなかったのである。 
静への吟味も済み、親子の放免もま近と思われていたが、急に取りやめになったという。もちろん静の懐妊が頼朝の耳にはいったからである。 
 ・そして月満ちて身二つと相成るまで安達の邸にとどまり、子が女子ならばお構いなし。男子ならば沙汰改めて・・との御旨であった。 
 ・静の身を預かる安達新三郎清経でさえ、生まれるお子よ、女子であれ・・と祈るほどになっている。 
 ・頼朝の真意は安達にはわかっているだけに、静にいうこともできずにいたのである。臨月を迎え、生まれてきた子は男であったのである。 

そして15日ほどが過ぎた頃に、「反逆人義経の胤、男子とあっては将来の憂い、芽のうちに摘む。 由比が浜に捨てよ」  
 ・との沙汰が頼朝からあった。 
 ・静は死力を振り絞って 
 ・「和子は、離しません、我が良人も功こそあれ、何故反逆者と呼ばれましょうや、何の罪もなきわが子は、ましていわんや」 と訴えた。 
 ・しかし、頼朝はそのような慈悲のある御方ではない。 
 ・わが子大姫の許婚・義高でさえ、木曾義仲の嫡子であるが故に後の憂いを恐れて、容赦なく首にしてしまい、今も尚大姫は閉じこもり臥せているのである。 
 ・安達は説得にあぐねた末、静の母禅尼を説得にあたらせた。離すまいと珠を抱いた静を母は説き伏せようとするが、それも空しく  
 ・「あなたには子を売ることもできましょうが、静は子を売るような気持ちにはなれません」 と気丈に云うのである。 
 ・そのときあわただしく梶原らの手により、珠を無理やりに引き裂かれた静の叫びが響き渡っていた。 
 ・由比ヶ浜に流されたのはいうまでもない。安達新三郎清経と頼朝の遣いは小船に重しを乗せ、二度と上がらないようにして浜に流した。 
 ・その直後最期の別れにと浜に来た静と安達新三郎清経はひとこと話を交わすと、静はひとり浜の向こうへ消えていったという。 
 ・それを陰から密かに聞いていた貧乏僧は、「おかげで人の世もまた面白しと心温められました。」 と一言いい残して去ったとか。 
 ・後でわかったことであるが、この貧乏僧が西行法師であったらしい。いまにも自害せんとする静をとめようとしたが聞き入れようとしない。 
 ・安達は天に誓って誰にも告げまいとしていた一事を静にだけ漏らしたのである。 
 ・「沖に沈めたものは必ずしも静が産んだ珠と限ったことではない・・・」 と。

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新・平家物語 第59話 吉野山逃亡

2013年01月06日 | 平家物語

義経判官は静1165-1211、弁慶1155-1189、佐藤忠信1161-1186、堀弥太郎?-?とともに吉野山へはいっていく 
 ・が、途中で静と別れ、静には幾人かの雑色を伴わせて都へ帰るようにいっている。  
 ・女人禁制の結界とあれば、仕方がなく別れるのである。 
 ・静は後に僧侶に捕われ、一方義経は、佐藤忠信、堀弥太郎を殿軍として、姿を消すことになる。

頼朝は、義経都落ちのあと、嵐に遭遇後行方不明になると知るが、相変わらず冷静である。 
 ・側近の因幡前司・大江広元、舅の北条時政、千葉介常胤らを従え、院の出方を伺っているようでもある。 
 ・伊豆に配流になった頃から平家の監視のもとに育った頼朝であるだけに、人を疑い冷酷な見方ができる御方になったが、側近の大江広元というひとも、冷徹さで人に知られていた。 
 ・恐らく、その大江広元の後ろ盾もあったと思うが、大和守重弘、一品房昌寛に入洛を命じて、先の朝廷の処置に対する陳述を求めている。 
 ・つまり、義経、行家に対する頼朝追討の宣旨である。 
 ・そして両名に九州・四国を支配する権限を与えたことに対する説明を求めたのである。 
 ・なかば脅迫ともいえるものであったらしい。そのときの院の言い訳とも思える陳述に対して、日本一の大天狗と評したのは有名である。 
 ・富士の裾野の黄瀬川で、義経の行方不明を知った頼朝は、上洛を取りやめ鎌倉へ帰った。 
 ・そして、そのときに和田義盛に軍事を緩めず命令すると、直後に義経の側室となった百合野の父・河越重頼から領地の没収を行っている。 
 ・義経に縁のある輩はことごとく許さないという意思表示である。 
 ・もともと、河越重頼は、頼朝・政子の命令で義経の監視役として、娘の百合野を提供させているのであるから、 
 ・考えてみれば、非道極まりないのであるが、これも大江広元の冷酷さが裏で糸をひいているように思える。 
 ・大江広元の底知れない不気味な妖気は、後年までその定評を鎌倉に残したのである。 
そして洛の大天狗は今度は、うってかわって義経の伊予守の職を剥奪し、身柄を拘束せよ、と布令 
 ・し、頼朝は都に土肥実平、北条時政の大軍を差し向け、不気味な様相と化していた。 
 ・ところが義経という相手がいないのである。何ゆえにこのような大軍を都へ差し向けたのであろうか。 
 ・平家の所領はいまとなっては頼朝の意のままであるが、朝廷の所領には頼朝といえども手をだすことはできない。 
 ・つまり、仰々しい威嚇は、院を手の内に入れることにより、朝廷の領地を思いのままにせんとの意図があったに違いない。 
 ・こうして、源頼朝、北条時政、大江広元の要請は朝廷に奉じられ、 
 ・初めて日本の全土に守護地頭の制が布かれ武家政治が始まることになるのである。 
 ・守護には幕府の武将が任ぜられ、警察権を握る。そして地頭は公卿・寺社の田領を管轄する。 
 ・また、義経方の大蔵卿泰経などは流罪となり、摂政には九条兼実がつき、その他の官職には全て、鎌倉の推挙による人々が任官した。 

義経主従は吉野山を徘徊し、多武ノ峰の南院 藤室の十字坊にたどりついていた。 
 ・十字坊は鞍馬の学問所にいたことがあり、牛若を見覚えている人である。 
 ・吉野山を落ちて、そこから辿った行き先は不明であるが、十字坊の弟子8人に囲まれて逃げ延びたことは確かである。 
 ・彼らは特殊な旅法師に化け、離れてはいながら常に環をなしている。故に頼朝追捕の兵が躍起になっても捕まることはなかった。 
 ・そして月日を重ねるにしたがって義経への見えない同情が彼への庇護にかわっていったのだろう。 
 ・義経一向は奈良興福寺の勧修房聖光やら鞍馬、叡山などから 匿い申しあらんとの誘いがあった。 
 ・そして奈良へ足を向けようとしていたやさきに、静御前が鎌倉送りになるという情報が藤室八僧のうちのひとり拾禅からもたらされた。 
 ・彼らは奈良を頼る義経、弁慶などと静を奪取する伊豆有綱、鎌田正近らにわかれた。 
 ・後に三河遠江近辺で静御前護衛の役人が襲撃をうけている。ところがその輿に乗っていたのは静母子とは似ても似つかない偽者であった。 
 ・そして無数の矢が襲撃者めがけて射られた。真の静母子はさりげない行装の下に鎌倉へ送られ、安達新三郎清経の宅へ預けられた。

吉野山の金峯寺

 

1185年11月7日、静御前は壺装束に市女笠といういでたちで吉野の山へ逃げます
 
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