いつもアクセス感謝です
2018年の撮影を纏めました
来年も宜しくお願い致します
satomi
ryo
akira
noriko
momo
erimero
saki
nami
erimero
ryo
saki
来年もよろしくお願いします
ryo
saki
megumi
ryo
akira
erimero
saki
manami
megumi
nana
yuma
nami
sena
manami
Yoko
asaka
manami
syouko
anna
mio
saki
sayaka
manami
saki
manami
2015年、40回ほど撮影会に参加、延べ60人のモデルさんを撮影 今年も整理してみました
Ayaka
Miku
Hazuki
Mayuri
Mio
Nana
Miyu
Anna
Mio
kei
Kurumi
Miyu
Misaki
Misaki
Mero
Miho
Maho
Rina
Mio
平安ブログを始めて8年が経過 書き込みご容赦の一方通行にもかかわらず
にわかに歴史ファンも増えて感謝しきりです
3年前からは本来分離すべきポートレートも
一緒に掲載させていただき、
AKB48風に云うと「UZAっ!」
というところでしょうが、本年も ごった混ぜ方式にて継続予定
歴史のほうは得意の奈良・平安時代だけではなく、
神武天皇以来2600年をまんべんなく紹介できることを目標に
予習・現地視察・復習・そしてブログ紹介に繋げていこうかと
また、ポートレイトについては「Photographer」の域へ・・・・
2012年撮影のショットを一気にUpして お嬢様方の2014年安寧をお祈り致したく
(2012年撮影日付順に掲載)
いよいよ各地で紅葉の見頃となっています。西国第二十五番札所 播州 清水寺では
11月8日からライトアップも始まり、これから最盛期にはいります。
桂川といえば、桂離宮、嵐山、保津川下りで知られている。 桂川と大きなかかわりがある豪族に秦氏がいる。桂川は昔は大堰川、古代には葛野川といった。 源氏物語には桂川のことを大堰川として何度も登場する。そして桂川の中でも観光客が数多く訪れる渡月橋の北側は保津川という名になって、保津川下りでお馴染みの保津峡がある。 保津峡は川の浸食によってできたもので角倉了以は木材の運搬には流れが速すぎる保津峡を削って安全に川下りができるようにと土木工事に人生をささげた。このように渡月橋を境にして上流は危険なほどに水流が早く、下流はとてもおおらかな流れとなる。この理由は渡月橋のすぐ北側にある川幅いっぱいの堰にある。この堰のために古代の葛野川は大堰川と呼ばれるようになり、堰きとめられた川の水は取水口から外部の水路へと導かれて灌漑用水として利用される。 これは長岡京での失敗の反省からである。かつて用水路が整備されていなかった長岡京では雨が降らなければ作物の収穫ができず、雨が降れば洪水を起こして衛生面から疫病がはやって、やがては呪われた都に変貌していった。これの反省で試みられたのが秦氏の財力を投入しての堰と取水の土木工事である。排水先の平野の状況を把握していた豪族・秦氏でしかなしえない工事であったともいえる。取水口は灌漑用だけではなく、後に物資を運ぶ舟用の運河としても利用され改造されたのが西高瀬川である。堰によって大堰川と名を変えた葛野川には、桓武天皇も御幸を行い、宇多天皇は大堰川に対して歌を詠んでいるという。
葛野の地で勢力を固め、嵯峨野に多くの古墳を残しているという秦氏が堰を造ったのはいつごろか。秦氏の長者・秦造河勝は、推古天皇の時代に葛野を本拠として広隆寺を建立し朝廷にも出仕した聖徳太子の舎人である。この頃に既に田の用水に大井を利用した記述があるらしい。大井とは堰のことであり専門家である秦氏が関与したことは間違いない。秦河勝は皇極天皇にも仕えている。この皇極天皇は舒明天皇の妃となり、中大兄皇子(後の天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)の母となった。天智天皇が藤原鎌足と組んで蘇我入鹿を倒したそのとき皇極天皇は目の前で斬首を見たのである。この乙巳の変により蘇我氏宗家は滅び、大化の改新が始まり、いつしか皇極天皇は石造りの水路の建造に夢中になる。皇極天皇の板蓋宮近辺から奈良の石上神社あたりまで伸びた水路の建造によって民衆は疲弊し、極めて評判は悪かったが、この水路も秦河勝を首長とする秦氏の技術によるものと私は思っている。(下名の説:生没年不詳の秦河勝は聖徳太子よりも数年年上だから645年の乙巳の変のころは80歳を超えることになる。まして皇極天皇が水路建設に夢中になったのはそれから10年くらい後なので、この頃に河勝はいない。また、河勝の時代の堰は石造りではなく、竹や木を使っての水位調整と考えられるから、この頃の数十年で堰、水路の技術は極めて発展したと思われる。)名前をよく見れば河に勝つとなっていてその人生の意気込みを河をコントロールすることに注いだわかりやすい証拠ではないかとも云える。
渡月橋の北側・大堰
渡月橋の南は水流が制御されて おおらかな流れとなる
支流にはいたるところに堰がある
今日は大坂の山本能楽堂で「清盛の夢」と題した琵琶演奏があり、聴きに行った。琵琶の生演奏を聞いたのは初めてである。いまにも切れそうな弦からでてくる響きは悲しげで哀れ。栄枯盛衰の象徴ともいえる平家を奏でるにふさわしい響きです。筑前琵琶とは盲僧琵琶のジャンルだそうでまさに琵琶法師が平家物語を語ったときに使われた琵琶ともいえます。 まさに今日の主役・上原まりさんは琵琶法師となって平家物語の代表的な場面を歌ってくれました。「祇園精舎」「祇王」「奈良炎上」「入道死去」「壇ノ浦」の5曲です。曲を聴きながら頭をめぐるのはそれぞれの情景です。いずれも悲哀に満ちたものだけに、琵琶の音は弱々しげなのですが、心に強く入り込んできます。冒頭では朧谷寿・同志社女子大学名誉教授であり歴史学者による「清盛の母は誰か」のお話がありました。かいつまんで説明すると次となります。 「清盛の父はいわずとしれた白河法皇、では母はというと実のところは不明なのである。平家物語によると ・・さしも御最愛と聞こえし祗園の女御を忠盛にこそ賜はりけり・・・、中右記(1120年頃)では・・・忠盛の妻卒去すと云々。これ仙院の辺りなり・・・とあって具体的にはわからないが、 近江・胡宮神社伝(1235年頃)によると・・・白河院女房(祗園女御の妹)院に召して懐妊の後忠盛に賜う・・・とある。 清盛が生まれたのは1118年であることから中右記(1120年頃)と近江・胡宮神社伝(1235年頃)に信憑性があるとして、現在では祗園女御の妹が清盛の母説が有力である。 ところで、朧谷寿先生のお話で大変興味深かったのは清盛の父がもしかしたら白河院ではない・・・というものであった。清盛が栄華を極める間、鳥羽院が権勢を振るっていたのであるが、本来 鳥羽院は我が子・崇徳上皇を受け入れなかったことでもわかるように白河院も受け入れなかった。白河院崩御と同時に治天の君として君臨するお人が白河院の落胤である清盛を取立てるということは普通考えにくいというのである。しかし清盛は鳥羽崩御の1156年までに正四位下を賜り、播磨守にまでのぼりつめている。これには何か理由があるはずで・・・研究テーマのようである。 歴史は事実を時系列的に並べるだけではなく、時の人の性格や背景を深く探るところに興味深さがあることを再確認した一日でした。
韓屋といってソウルの古い伝統家屋が立ち並ぶ観光スポット
韓国ドラマ撮影がしょっちゅう行われているとか
中央女性は韓国女優
また冬のソナタのロケ地にもなっていて ここが女優ユジンの家らしい
昨夜11時頃、この寒さの中で騒がしい。嫁さんが近所の方たちと皆既月食を見ている。そういえば撮影会のときもそのようなことを言っていた。カメラを持ち出して数枚撮ってみたが、手持ちということもあってお月様らしい写真も撮れず。寒いこともあって完全にお月様が地球の影で隠れるまで我慢ができずに家の中に引き上げたが、こうして見てみると我慢して最後まで見ていればよかった・・・と少し後悔。 今にして思えば三脚必須。 当たり前ですね。
因みに上手に撮ればこうなります。(Yahoo画像より拝借)