ここは義経が牛若丸時代に過ごした鞍馬山。鑑真和上の高弟である鑑禎上人が770年にこの地に草庵を造り、毘沙門天を安置したのが鞍馬寺の創始であると伝えられている。その後、796年に造東寺長官の藤原伊勢人が貴布禰明神のお告げにより、王城鎮護の道場として伽藍を造営し、千手観世音を祀ったとされている。889~898年には峯延が入寺して真言宗の寺になったが、その後に天台座主忠尋が入寺して天台宗に復したといわれている。更に、1947年には鞍馬弘教が立教され、当寺が総本山となり現在に至る。「仁王門」は1182年に建立後、1911年に再建。「仁王門」に安置されている仁王像は湛慶の作で、一般的に「仁王門」は俗界から浄域への結界とされている。鞍馬寺、神社と寺院を混合したような「本殿金堂」に祀られる「本尊」は「尊天」といわれている。「尊天」は、月輪の精霊であり慈愛の象徴である「千手観世音菩薩」、太陽の精霊であり光の象徴である「毘沙門天王」、大地の霊王であり活力の象徴である「護法魔王尊」の三身を一体としたものである。尊天は森羅万象あらゆるものの根源、宇宙エネルギーであり、真理そのものであるという。約8年ぶりの訪問は新鮮でした。追って義経の供養塔などを紹介したいと思います。
貴船神社・社伝によると、5世紀初めごろの第18代反正天皇の時代に、神武天皇の母・玉依毘売命が黄船に乗って淀川、賀茂川、貴船川をさかのぼり、現在の貴船神社の奥宮あたりに船を留め、そこに社殿を建てたのが始まりという。奥宮には玉依毘売命が川をさかのぼる時に乗ってきたといわれる黄船を、人目につかないように小石を積んで囲んだものといわれる「船形石」がある。航海にでる時は、この小石を戴けば海上安全に過ごせるそうで、航海のお守りといわれている。また、貴船神社の奥宮といえば、「丑の刻参り」でも有名な場所で、昔宇治の橋姫が貴船神社の奥宮に丑の刻参りをし、男に呪いをかけたという伝説があり、それをもとに書かれた謡曲『鉄輪』が広く知られ、丑の刻参りの跡らしき五寸クギが実際に残されている。しかし「丑の刻参り」というのは、貴船神社の祭神・高おかみ神が貴船に降臨されたのが丑年丑月丑日丑刻だと伝える古事によるもの。ところで、玉依毘売命は豊玉毘売命の妹で、大綿津見の宮殿に棲む鰐である。紀元前660年の時代の玉依毘売命が400年後の反正天皇の時代に現れて奥宮に社殿を建てた逸話はどこから生まれたのだろう。
明治以降に貴船神社と改められた貴布禰神社は、古来より木船・黄船などさまざまに伝わっており、貴船神社が発行している要誌では、「境内にある御神木桂の木の姿に象徴されるように。生命の気が龍の如く立ち昇るところ、気の生まれる峰、気生根とよばれるようになった」 とある。しかしながらこれらの記述は古事記にはない。貴船神社の本殿の前には神木の桂の大木がある。中国でつくられた鏡で月宮鏡には桂の大木が中央に描かれ、桂離宮は桂の里にある。湯津桂つまり聖なる桂の樹に月読命が降臨したという伝説からきている。平安時代には藤原道長は桂の院という別邸をもち、その神聖なる思いを馳せた。貴船神社には中宮にも桂の大木があり、磐長姫を祀っている。磐長姫は日本書紀の神話に登場する大山津見神の娘である。天孫の邇邇芸命(神武天皇の祖父・山幸彦の父にあたる) が木花之佐久夜毘売という美女にであった。姫はコノハナチルヤ姫という姉がいることを告げ、二人を娶ってほしいというが、コノハナチルヤ姫の容姿は美しいといえるものではなく、邇邇芸命は退けたのである。このコノハナチルヤ姫が磐長姫である。また和泉式部が夫の愛情が遠のいたとき、貴布禰神社で敬愛の秘儀をおこなおうとした。巫女のとりしきりによって執行する露骨な秘儀である。江戸時代には夫婦いもせの御神として信仰を集めたという。
ここ貴船は、150年前は貴布禰と呼び加茂川の水源・水神として篤い信仰をうけるようになったところ
久しぶりに京都の紅葉を求めてきましたが2週間ほど時期を逸していたようで散々
しかし福井から和服姿の大友敏美さんを迎えて一日楽しめました