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高砂-2 新撰組・河合耆三郎の出身地は播州高砂

2021年11月21日 | 幕末

 河合耆三郎源義輝は新撰組勘定掛である。 天保9年(1838年)、播州高砂の米商人・小間物屋という裕福な商家・河合儀平の長男として生まれる。 妹きくの嫁ぎ先、大阪平野町の八百源から新撰組に応募したのは25歳のときで、勘定掛を務める。818の政変では京都御所南門の守備に当たっている。また、池田屋事件のときも出動しており金15両の報奨金をもらっている。さらに長州藩勢を迎え撃った禁門の変にも出動し、長州藩兵が撤退したあとの残務処理にあたっている。大阪町奉行所の依頼を受けて摂津に出張して敗走した長州藩が捨てた武器類を大阪まで移送するための人足の調達などを宿役人に命じている。河合耆三郎源義輝に同道したのは山崎大三郎。ところが1866年、近藤勇の妾、御幸太夫の身請け金五百両用立ての段になって、帳簿に対する不足金五十両が穴埋めできず、不正があったとして2月12日切腹になったという。一説には斬首。遺体は壬生寺に葬られて、後年姉・松浦鶴、妹。神田菊、らにより墓碑が建立された。享年29歳。

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福井-10 四候のひとり 越前藩主・松平春嶽

2021年11月14日 | 幕末

 幕末の大名たちの間で参勤交代の緩和について話題となったが、その中心に居たのが福井藩主・松平春嶽である。今は、外国の脅威に対抗すべく軍事力を強固にすべき時であるというものである。当時、福井藩は90万両の借金があったために、その負担は領民にかぶさり、一揆が勃発しようとしていた。そこで春嶽は白米一汁化をはかって節約を推進したが、財政難の最大の原因が参勤交代にあるとしたのである。中でも加賀藩では、参勤交代にかかる宿代は2000人分におよび、一泊1000万円、総額2億円にもなったという。江戸藩邸の維持費も巨額で、5000人も抱える藩邸・加賀藩は50億円費やしていた。

 1853年開国要求のためにペリーが来航した時、老中阿部正弘は各地の大名に意見を募った。この建白書を幕府に差し出したのが26歳の松平春嶽である。参勤交代による疲弊を訴え、これを緩和して全国で軍備拡大を主張した。幕府への反逆ともとれる訴えを何故できたのか。春嶽は田安徳川家の出身で、11代家斉の甥、12代将軍家慶の従兄弟というサラブレッドであり、譜代大名では言えないが、親藩大名の将軍に近いからこそ言えたのである。阿部正弘は、参勤交代は骨の最大なるものであり、納得いかないとして、島津斉彬に相談する。斉彬は同意は示すが外様な自分には言えないとしたが、春嶽は出し続けたという。 

 次の策は・・・というと、同じ志を持つものと党派を組み、改革の協力を要請した。難色を示す大名もあったが 改革の意義を力説すると、鳥取藩主・池田慶徳は共感し、幕府に建白書を提出している。やがて賛同の声がひろがると、海防係大目付は 出費を減らすことが海防につながると意見書を提出し、4年後改革の機運が高まりつつあったが、井伊直弼が立ちはだかることとなる。安政の大獄により一橋慶喜派が一掃され、春嶽は隠居謹慎処分となった。その後、桜田門外の変で井伊直弼は死すが、春嶽の謹慎は説かれず4年に及んだ。その間春嶽は自らの政治構想を「虎豹変革備考」で描いている。

 暗殺の二年後1862年、島津久光が藩兵1000を引き連れて上洛すると、朝廷の後ろ盾を得て幕政改革要求した。春嶽は謹慎を解かれ、将軍家茂に呼び出されて幕府と朝廷との関係修復のため、公武合体政策を依頼された。これは参勤交代の緩和を迫る絶好のチャンスである。国防の強化のため参勤交代の緩和断行、これで権威が維持できるかも知れないということで独裁政治をやめさせて協力体制に傾いたところで、参勤交代緩和を含む幕政改革を迫った。1862年7月 幕府は 慶喜を将軍後見職に政事総裁職に松平春嶽を任命した。その一月後に幕府は参勤交代は3年に一度に変更、江戸滞在は100日に短縮、妻子は帰国が自由となったのである。この効果は大きく、各藩は軍事力の増強を開始した。 

 一方急速に発言力を強めていた朝廷は大名たちに、次々と京都警護を発令したことは思いのほかであった。1863年2月 慶喜は、かたくなに攘夷を主張する朝廷に開国を容認させるために江戸を出発、また調整役を頼まれた春嶽は朝廷と開国容認の交渉を続けていた。しかし孝明天皇は一向に譲らない。また慶喜との対立もあって、3月には政事総裁職を辞任して改革から離脱する。その後の激動はいうまでもない。長州征伐を命じ、参勤交代の復旧を発動。幕府の衰退は止めようがなかったと春嶽は感じた。かくして1867年大政奉還へとつながり、参勤交代制度は終焉をむかえるのである。明治に入ってからの春嶽は文筆業に励み、数多くの著作を残している。逸事史補には幕末期の赤裸々な思いが書かれている。

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福井-9 思想家・岡倉天心1863-1913

2021年11月14日 | 幕末

江戸時代に日本画のトップに君臨していたのは狩野派。明治の初期廃仏希釈により日本の伝統を守ろうという機運が高まり1874年に龍池会が発足。狩野芳崖に心酔していたアーネスト・フェノロサ1852-1908が龍池会に招かれた。この時に英語ができるということで助手に選ばれたのが岡倉天心1863-1913である。その後洋画も取り入れようと1884年に鑑画会設立。これが後の東京美術学校である。岡倉天心はフェノロサの下で芸術品の収集活動も活発に行っていたのである。

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福井-7 下部太郎、ウィリアム・エリオット・グリフィス像

2021年11月14日 | 幕末

この像は、日下部太郎ならびにウィリアム・エリオット・グリフィスの師友関係を象徴したものである。日下部太郎(1854~1870)は、慶応3年(1867)福井藩で初めての海外留学生としてアメリカに渡った。ニューブランズウィック市のラトガース大学に入学し学問の研鑽に励んだ太郎は、広い分野で優秀な成績をおさめたが、卒業を目前にして病気のため26歳の若さで客死した。彼の死は大学関係者や一般の市民に惜しまれ、大学は太郎に卒業生と同等の資格を与えると共に、同校の優等生で組織されるファイ・ベータ・カッパー協会の会員として彼を推薦し、その印として金の鍵を贈った。

ウィリアム・エリオット・グリフィス(1843~1928)は、大学の先輩として太郎を指導していたが、その勉学態度を見て日本人の節度、勤勉さに心を動かされ、日本に興味をもつようになった。明治4年(1871)、グリフィスは福井藩からの招聘に応じ、藩校「明新館」における理化学の教師として来福し多くの若者を指導した。国内情勢の変化のため、グリフィスはわずか10か月で福井を離れたが、その後も『皇国』という本の出版をはじめ数多くの講演や執筆活動を行い、アメリカにおける日本の紹介と理解に貢献した。昭和49年(1974)、福井青年会議所の人々の働きかけにより日下部太郎とグリフィスの深い絆をいつまでも後世に語りつごうという気運が高まった。それをきっかけに福井市とニューブランズウィック市との交流が進み、昭和57年(1982)5月25日、両市は姉妹都市として提携した。平成14年(2002)に両市の姉妹都市提携20周年を迎えたのを記念して、2人の像を建てたものである。


【現地案内板より抜粋】

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福井-6 福井藩の財源再建を行った由利公正の寓居跡

2021年11月14日 | 幕末

 思想家、橋本左内は幕末の日本を維新へと導いた人物。その意思を受け継いだ由利公正。福井の天才二人が仕えたのは松平春嶽である。1856年末日本の将来を憂いていた左内は福井城に呼ばれ、藩主・松平春嶽の側近に抜擢された。このころ、左内は由利公正と出会う。福井藩の財政は軍事費の拡大により困窮を極めていた。井伊直弼の独断で日米通商条約が結ばれ諸外国との交易が始まると、由利公正は藩札を発行して元手を得、交易を始めた。また、左内は独断で交易を結んだことに怒りを覚えていた朝廷を利用して井伊直弼打倒を目指した。ところが井伊はこういう動きの徹底粛清を1858年7月始めた。いわゆる安政の大獄である。一橋派の公家には隠居謹慎を命じ、左内は1859年10月7日斬首となった。

 この5か月後、江戸城桜田門で井伊直弼は水戸脱藩藩士などにより暗殺され、幕府の権威は失墜し、これ以降維新の動きは加速する。背後に居たのは一橋派の面々である。藩札で諸外国と交易を行うことで多大な利益を上げていた公正の功績で福井藩は天下無比と云われるほどに富んでいた。これを聞きつけて訪ねてきたのが坂本龍馬。その後、自ら貿易に乗り出した龍馬は西郷などとも人脈を広げ新政府を打ち立てるため活動した。しかし直後の1867年11月に龍馬は暗殺され、公正は龍馬の志を受け継ぐことになる。1868年12月、公正は政府の財政を取り仕切る役職に就いていた。ところが戊辰戦争が勃発、莫大な戦費が必要となった。そこで由利公正は太政官札を3200億円分発行。課題は紙幣、つまり新政府に対する信用である。公正は五箇条の御誓文によってその信用を得たのである。新政府はこれを元手に旧幕府軍と戦い戊辰戦争に勝利し明治は始まった。

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福井-5 竜馬の歌碑(福井藩主・松平春嶽や由良公正らと交流)

2021年11月14日 | 幕末

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福井-2 安政の大獄で処刑された橋本左内 松平春嶽を支えた天才である

2021年11月14日 | 幕末

思想家、橋本左内は幕末の日本を維新へと導いた人物。その意思を受け継いだ由利公正。福井の天才二人が仕えたのは松平春嶽である。1856年末日本の将来を憂いていた左内は薩摩藩邸に西郷隆盛を訪ねた。左内22歳、西郷29歳の時である。左内は福井城下町の一角で藩医の子として産まれ、元服した15歳で記した啓発録が今でも福井県民の常識となっている。後に医学を学ぶために大坂の適塾に入り最新の西洋医学を学んだ。その二年後にペリーが来航している。左内22歳の時、福井城に呼ばれ、藩主・松平春嶽の側近に抜擢されたのである。そして攘夷についての調査を命じられた。左内は江戸にのぼり、諸外国の国力を探るとともに優れた人物との交流を深めていった。1年後の1856年左内は春嶽に、攘夷ではなく開国論を進言した。有力な福井藩が攘夷から開国に変更したことで時代は動き始める。

 左内は世界がどうなっているのかを正確に把握し、日本が今後どういう道をすすむべきかを考えていた。左内24歳の時、春嶽から新たな命をうけた。福井藩の学校責任者に任命されたとき、由利公正と出会う。その頃の江戸幕府は諸外国からの交易を迫られ、将軍・家定は病弱で政治手腕は震えなかった。徳川一門の松平春嶽は次の将軍に慶喜を押した。ここで左内は四賢侯といわれる伊達宗城、山内容堂、島津斉彬、松平春嶽を集め、オランダ本の講読会と称して春嶽の構想を伝え、一橋派の結束を固めた。しかし、ここに立ちはだかったのが幕府の大老・井伊直弼である。将軍継承には徳川家茂としたことで一橋派の構想は頓挫した。一方、福井藩の財政は軍事費の拡大により困窮を極めていた。井伊直弼の独断で日米通商条約が結ばれ諸外国との交易が始まると、由利公正は藩札を発行して元手を得、交易を始めた。また、左内は独断で交易を結んだことに怒りを覚えていた朝廷を利用して井伊直弼打倒を目指した。ところが井伊はこういう動きの徹底粛清を1858年7月始めた。いわゆる安政の大獄である。一橋派の公家には隠居謹慎を命じ、左内は1859年10月7日斬首となった。

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鹿児島-6 西郷隆盛自刃の地

2021年03月25日 | 幕末

よく見かける西郷隆盛の肖像画は写真ではなく絵

 

描いたのはエドアルド・キヨッソーネ イタリア人:大蔵省勤務(本職はお札の原板制作:銅板画家)

イタリア札の原板 絵画の製本原板などを手掛ける

当時の明治政府は各種藩札から日本円札への統一のため独・ナウマン社に印刷を依頼:明治通宝

明治通宝を作ったのがキヨッソーネ

やがて明治政府はキヨッソーネを月給100£で呼び寄せる:大久保利通の月給と同等

 

 

1875年に来日して西郷隆盛の死後1883年に描いた

他には明治天皇@1888、シーボルト@1875、大村益次郎の肖像画

参考にしたのは西郷隆盛の弟・従道や従兄・大山巌

依頼者は元薩摩藩、初代大蔵省印刷局長

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鹿児島-4 西南の役 / 薩英戦争記念碑と砲台跡

2021年03月25日 | 幕末

 薩摩藩の三事策、つまり将軍上洛、五大老設置、一橋慶喜を後見職、松平慶永を大老職とする策が実現し、京都には守護職がおかれて会津藩主の松平容保が任じられた。文久の幕政改革が行われ、幕府は大名たちの協調を求める主張に譲歩した。島津久光は江戸からの帰路、神奈川の生麦村で騎馬のイギリス人4人とすれ違った。薩摩藩士は大名行列に対して無礼として商人・リチャードソンを斬首した。これにより翌年薩英戦争を引き起こすこととなる。1863年6月、薩摩藩が生麦事件の犯人引渡しを断ったためにイギリス艦隊7隻が鹿児島湾に入り、薩摩藩は発砲したため薩英戦争に突入した。この戦争によりイギリス側の戦死者13人に対して、薩摩藩の死者は少なかったが、アームストロング砲の砲撃により市街の消失など被害は甚大であった。しかし鹿児島遠征と居留地防衛を両立できるだけの軍事力はないと判断してイギリス軍は早期に退去した。この頃京都では、攘夷親征の方針が公表され尊王攘夷の過激派・真木和泉らは攘夷・倒幕を主張していた。薩英戦争が講和へと動く頃、京都の攘夷運動は最大の盛り上がりを迎えた。薩英戦争で戦った薩摩藩は講和へ向けてイギリス軍艦の購入申し込みを行い、島津斉彬依頼開国論を唱えていた薩摩藩は薩英戦争でイギリスの軍事力を目の当たりにし軍政改革をめざす開国路線を確立した。こうして攘夷論の長州藩と公武合体開国論の薩摩藩は真っ向から対立することとなる。

西南の役官軍戦没者慰霊塔

薩英戦争砲台跡

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鹿児島-5 岩永三五郎設計のアーチ型橋

2021年03月25日 | 幕末

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鹿児島-3 南洲神社に眠る西郷隆盛

2021年03月25日 | 幕末

西郷隆盛は鹿児島・南洲神社の境内にある墓地に、薩摩の精鋭たちと共に眠っている。西郷隆盛は交渉上手と言われてきたが、果たしてそうであろうか。彰義隊殲滅、旧幕府軍の数多い蜂起、西南の役・・・どのように生き抜いたかを事績面で見た場合には戦火に明け暮れ数多くの犠牲者を出したことは否めない。

【西郷隆盛による無血開城というが・・・】    西郷隆盛と勝海舟による江戸城の無血開城1868/4月が世に知られているが、これで一件落着でも何でもない。無血どころか、その直後数多くの犠牲者がでて血を流した。しかも江戸が戦火に包まれ大変なことになっていたかもしれない大事件が発生した。それが上野戦争である。

 江戸城の無血開城の跡、西郷隆盛は彰義隊の動きがどうなるかを気に病んでいた。それこそ場合によっては無血開城(新政府の西郷隆盛と幕府側の勝海舟の合意)が無駄になるからである。1868/4/11に江戸城は無抵抗のまま新政府軍に明け渡された。徳川慶喜は江戸をでて実家の水戸に謹慎する。新政府の提示した条件は慶喜の水戸謹慎、江戸城明け渡し、軍艦銃砲引き渡しなどであるが、新政府に反発する大鳥圭介らの旧幕臣がフランス式武器を携え歩兵部隊を率いて江戸から脱走したのである。さらに榎本武揚は新政府への軍艦引き渡しを拒んで江戸湾を脱走して新政府軍を威嚇(館山、浦賀、真鶴の港など制海権を握る)していた。西郷が勝海舟に言い渡した降伏条件は守られなかった。つまり無血開城そのものの実態が曖昧であったということである。これに連座して旧幕府側は江戸から宇都宮にかけて次々と蜂起(五井、船橋、市川、岩井、小山宿、壬生、宇都宮、今市などで戦火を交えたから無血開城でもなんでもない)、そして奥羽諸藩が奥羽越列藩同盟をつくって旧幕府軍を支援し、新政府との対立を深めていたことで新政府側はこれらを監視。かくして江戸監視は手薄となり治安維持ができなくなった。そして問題は彰義隊である。彼らは1868年2月に旧幕臣の大会合で結成、彼らの主君・徳川慶喜は鳥羽伏見の戦いで朝敵の汚名を着せられていた。この汚名返上を目的に命覚悟で盟約を結び彰義隊を結成したのである。彰義隊リーダーは慶喜の側近であった渋沢成一郎、副リーダーには旧幕臣の天野八郎が就任。その後彰義隊は本拠地を上野寛永寺に定めたから、西郷は悩んだ(旧幕府軍の勢いに押されて彰義隊の数は4000名にまで達した)。つまり勝海舟は幕府側でありながら、幕府側の調整などなにもせずに江戸城を明け渡したことに原因がある。そこで勝海舟は彰義隊に江戸の治安に当たらせようと西郷に提案したというが、どういうこと??治安を乱しているのは旧幕府軍、それを旧幕府軍ともいえる彰義隊が管理できるはずないでしょ。また勝海舟は慶喜の謹慎を解いて江戸に返し、江戸城も幕府に返すことを提案したというから、興ざめである。こうした提案に憤慨した新政府軍との間にたって西郷は悩んだ。こうした中で1868/4/25に新政府内で徳川家の処分方針が決定し、(駿河に移して所領を800万石から70万石にする)新政府側が彰義隊鎮圧目的で送りこんだのは大村益次郎。  

 上野寛永寺の境内は幕末期に激動の舞台となった場所でもある。JR上野駅の北隣には上野公園があり、階段を上がったところには江戸幕府の任を受けて江戸の治安を維持していた彰義隊の墓が残っている。日本中が攘夷、開国に分かれ、1868年に江戸城は無血開城したのであるが、それを不服とした旧幕府勢力の彰義隊が新政府軍と戦ったのがここ上野で、その戦いを上野戦争という。寛永寺に集まっていた彰義隊は1000人程度であったが、大村の宣戦布告に対して戦う意思のないものは前もって退去していた。対する新政府軍は1万というが定かではない。谷中方面には長州の大村益次郎が、黒門には薩摩の西郷が、本郷には佐賀の大砲が陣を敷いた。5月15日の早朝に始まった激戦は、五分五分の戦いであったが、新政府軍は加賀藩上屋敷から不忍池を越えて最新鋭のアームストロング砲で上野寛永寺を砲撃したために、刀・槍を主戦力としていた彰義隊はすぐに追い込まれ、その日のうちに戦争は終焉し、彰義隊数百人が戦死して新政府軍が勝利した。この時、寛永寺(慶喜は水戸へ行くまでの間ここで謹慎)の入口ともいえる黒門、堂塔伽藍、吉祥閣(朱塗りの三門)、渡り廊下で繋がった法華堂と常行堂、江戸の守り根本中堂などは焼け落ちた。

【西郷隆盛率いる新政府軍は彰義隊の遺体を放置・・・】    上野戦争に勝利した新政府軍は、賊軍であった彰義隊の志士の遺体を葬ることさえ禁じたために、それを見かねた円通寺の住職は遺体を清水観音堂の横に集めて荼毘に付した。また、彰義隊の生き残りは厳しく詮議され、戦死扱いにされて故郷に帰ることができずに明治になって戸籍もないまますごした人もいたという。現在その場所には彰義隊の墓が残っているが、墓石には義の文字しか刻まれていなかった。坂本龍馬の暗殺犯として当初嫌疑をかけられた原田左之介も彰義隊に加入していたという説があるが、定かではない。またその横にあるのが、西郷隆盛の銅像であり、あまりにも有名である。西郷隆盛は旧幕府軍の最高責任者であった勝海舟との会談により、江戸城を無血開城に導き、江戸を戦火から守ったということで建立されたそうである。 

 

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鹿児島-1 月照上人入水の地@安政の大獄

2021年03月25日 | 幕末

 幕府・井伊直弼の狙いは関白追い落としの黒幕・左大臣近衛忠煕である。近衛の腹心で陰謀を進めた人物が幕府の捜査線上に挙がった。それは高僧・月照と同士の薩摩藩士西郷隆盛である。実は月照、京都清水寺の高僧である。また西郷隆盛は篤姫を近衛家の養女としたあとに将軍家御台所になったという経緯がある。この近衛家の当主が近衛忠煕であり、正夫人は島津家出身なのである。そして近衛家の手足となって反幕府活動をしていた公家の要人を纏めていたのが清水寺住職の月照である。

 西郷は月照に恩義があった。島津斉彬急死(暗殺の説あり)の報を聞いた西郷は絶望して殉死しようとしたが、思いとどまらせたのが月照である。近衛忠煕は雲浜捕縛後、月照をかくまうように西郷に依頼、奈良から薩摩へと向かった。途中下関では豪商・白石正一郎にかくまわれ、勤王思想家・平野國臣も行動を共にして薩摩入りする。1858年11月7日である。近藤正慎という清水寺の侍従が捕縛され拷問を受けたのは、行方不明の月照の行方をはかせるためで、結果舌を噛み切って死んだ。現在も清水寺には舌きり茶屋がある。その4日後、長州藩では徳川を揺るがす大事件が起こった。長州藩の若者が、奉行・前田孫右衛門が管理する大砲数門を貸してもらいたいという。上洛して間部詮勝を討つというから驚いた。この男こそ誰もが知る寅次郎、吉田松陰その人である。

 敬天愛人を座右の銘とした西郷隆盛は、暗殺を恐れて自分の姿を描かせなかったという。従ってお馴染みの肖像は全く別人のものかもしれない。1827年、薩摩藩下級藩士の子として生まれ、幼いころに喧嘩の仲裁に入ったときに腕を切られたことから剣の道は諦め学問に励むこととなる。17歳で藩の年貢を取り立てる役回りを任されたことから、年貢の軽減訴状をしきりに出すのである。この行動が島津斉彬の目に留まったことで、西郷は抜擢されて秘書庭方役となった。26歳のときにペリー来航すると、江戸に向かう斉彬に抜擢されて西郷隆盛も同行する。ここで各藩の実力者たちと親交を深めて、交渉人としての腕を磨くこととなる。1858年斉彬が急死、殉死を決意するが、留まらせたのは京都清水寺の月照である。安政の大獄で月照は狙われて薩摩へ逃れるが、かばう西郷もこれ以上逃げ切れないとして海に身投げする。しかし西郷隆盛だけが助かる。安政の大獄により、薩摩藩は西郷を奄美に匿う。すると井伊直弼が暗殺されたことにより、幕府の権威揺らぎ、隆盛は薩摩に呼び戻される。薩摩の実権は島津久光が握っていたが、器ではないと考え命令を無視したことから、沖永良部へ流刑となり 野ざらしの牢の中で禅を学び、敬天愛人を会得するのである。

鹿児島・吉野公園の近く、桜島を望める場所 近くには西郷隆盛蘇生の家がある

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鹿児島-4 薩英戦争砲台跡

2020年11月12日 | 幕末

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熊本-4 竹崎季長公墳墓

2020年11月12日 | 幕末

 北条氏は鎌倉幕府を開いた源頼朝の御家人にすぎず、比企氏、足利氏、安達氏、三浦氏、梶原氏、和田氏と同等の家人にすぎなかった。しかし鎌倉幕府の実権を握るために、比企氏をはじめ次々と有力御家人を没落させていった北条時政は、北条氏の執権としての地位を確立していった。もともと北条氏と他の御家人との間に差はあまりなかったが、実朝暗殺後は梶原、比企、和田氏を次々と滅ぼし、幕府の権限を手中に収めていった。特に和田義盛を討ったことで幕府の要職・侍所を手に入れた。ところが三浦氏は将軍宣下をうけると北条氏に対抗しようとしてきた。 時の将軍は5代将軍・頼嗣 (1239-1256 九条頼経と藤原親能娘・大宮殿との間にうまれる)であるがまだ推さなく、大殿として君臨していた前の4代将軍・藤原頼経(1218-1256 九条道家と西園寺綸子の間に生まれる)を京に追放することによって三浦氏の暗躍を絶とうというのである。そして翌1247年に北条時頼は三浦氏を討伐して(宝治合戦)、5代将軍頼嗣も京へ追放された。武家政治は北条氏のみが支える体制となり朝廷の干渉を一切排除した強固な得宗体制となる。そういう意味で北条時頼は天下を確立した。得宗の二代目を継いだのは時頼の嫡子・時宗であるが執権は何人か交代するが実権は得宗にあり、日蓮は得宗を国王と呼んだくらいである。 

  1263年に時頼は亡くなり、宮将軍宗尊親王が青年になり、反北条派に不穏な様子がみえたときに、得宗を継いだ北条時宗は執権の北条政村と相談して宗尊親王を追放して僅か3歳の子の惟康親王に将軍宣下をうけさせてる。お飾りの将軍をおくことによって得宗体制を築いていった北条氏であるが、元寇において危機が訪れる。元寇で活躍した肥後の御家人・竹崎季長は武功が与えられなかったとして鎌倉へいき、幕府の恩沢奉行・安達泰盛に直談判して恩賞を取り付けた。これを契機に元寇の戦後処理は北条氏が一手にすることになるが、翌年、時の執権・時宗はなくなり14歳の貞時が執権を受け継いだ。時宗の妻であり貞時の母・堀内殿が安達泰盛の娘であったことから、御家人重視の方向で政治を始める好機が安達泰盛にやってくる。しかしこれに危機を感じて安達一族を滅亡に追いやった者がいたのである。平頼綱といって、熱心な念仏信者で、日蓮を佐渡へ配流した張本人である。平頼綱は執権・貞時の乳母を妻としていたこともあり幕府の要職についていたが、安達泰盛の嫡子・宗景が謀反を起こそうとしているとして、貞時を説き伏せ安達一族の滅亡を計った。かくして泰盛、宗景、盛宗親子は討たれ、得宗体制は固まった。安達泰盛に恩のある竹崎季長は、後に安達親子の鎮魂のために「蒙古襲来絵詞」を完成させた。完成した永年元年は平頼綱が息子の宗綱の裏切りで自害に追い込まれた年である。 

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近江-10 国友鉄砲鍛冶職人 鉄砲伝来は和寇の案内

2020年10月08日 | 幕末

1543年、種子島に鉄砲(種子島ともいう)が伝来する。
  ・当時中国明は「鄭和の宝船」を使って西洋よりも80年ほど早く大航海を実施
    目的は各国に朝貢させて明の偉大さを知らしめること
      朝貢すれば何倍もの土産がもらえた
    日本も同様に室町執権義満は朝貢することで、金閣寺を建立している
      義満の頃、明王は建文帝であったが、永楽帝との争いの渦中
      そこで義満は二人の明王に対してに通の国書を送っている・・・。したたかな外交である
 

    朝貢以外の貿易は禁止なのだから
      
      
    やがて明は財政が尽きて朝貢を断るようになると密貿易が盛んになる。実施したのは和寇
      日本の和寇(刀に着物)に憧れた明国の商人が和寇を真似る(後期和寇)
      そんなときに欧州からやってきたポルトガル人はアフリカからの黒人奴隷を和寇に加えたという
    また、ポルトガルからの航海冒険者が後期和寇の案内で来日した@1543-8-25(鉄砲記)。
      ポルトガル人は2名、案内人は福建省の後期和寇・王直
      到着したのは種子島で、鉄砲を売買するのが目的であった
      購入価格は鉄砲2丁2000両、購入者は種子島時暁。その鉄砲の実物が種子島にある
       また領主・種子島は鍛冶屋・矢板金兵衛清定に分解製作を依頼。見事に完成させている
       ただ再現できなかったのがひとつ、ネジであった。そこでマカオのネジ職人からノウハウを得たという
       そもそも2000両も払って購入した理由は、隣の屋久島との戦いに勝利するためだった
    鉄砲の火薬には硫黄、木炭、硝石が必要であるが硝石が獲れない
      硝石は多雨地方では流れる・・・輸入に頼る   
      
      
      
  ・持ち込んだのはポルトガルの商人(鉄砲記に見て取れる)。
  ・当時は大航海時代、中国・民の儒者・五峯と筆談することで、それがわかったという。
  ・鉄砲の威力を始めて目にしたのは種子島の領主・種子島時尭(当時17歳くらい)。
  ・即座に2丁を購入した。価格は数千万円。そして種子島時尭は鉄砲の国産化を目指し、島一番の鍛冶職人・八板金兵衛に制作を命じた。
  ・彼はさっそく鉄砲を分解すると部品作りにとりかかったという。
  ・苦労したのは鉄砲筒の内ネジ、再訪してきたポルトガル人に制作方法を聞き、1年後には完成する。

薩摩藩主→足利将軍→鉄砲作り命じる→北近江・京極氏が名乗りを挙げる→国友鍛冶職人が鉄砲完成

→織田信長が500丁注文→生産の基礎できる@国友→継続注文→鉄砲戦法By織田信長→鉄砲供給By国友

現在の国友には鍛冶屋はいないが、広瀬畳店だけが鉄砲復元を行っている

 一方種子島には織田信長が暗殺された本能寺の末寺があり、鉄砲伝来の情報が本能寺に届く。この知らせを入手した堺の顕本寺が、堺の刀鍛冶職人を種子島に派遣している。これらのネットワークが京都に鉄砲をもたらしたのである。本能寺を通じて鉄砲を入手したのは細川晴元。各地に鉄砲による軍拡競争が起こり、鉄砲の生産は飛躍的に伸び、各地に鉄砲鍛冶職人が登場する。かくして日本全国には数十万丁もの鉄砲が存在したという。鉄砲の生産に大きく貢献したのが、根来、堺、国友。近江の国友村には伝来の翌年に将軍・足利義晴が来て制作を命じた説と、近江の大名・浅井氏が鉄砲鍛冶職人を国友村に集めたという説がある。明智光秀も赴き、鉄砲を学んでいる。追及したのは命中率。そのために銃身を堅朗にしている。やがて浅井氏が亡び、国友村が秀吉の支配下に置かれると、国友の評判は信長へと伝わった。2010年、甚右衛門と刻印された鉄砲が発見され、その命中率の高さが証明されたという。

 国友の名が全国に轟いたのは長篠の戦いで使われた3000丁の鉄砲だけではなく、大坂夏の陣で使われた200丁もの大筒鉄砲がある。弾丸重量は4kg、大筒重量22kg。これにより徳川に敵対視する大名はいなくなり戦国の世は終焉を迎え、徳川幕府による平和な時代が始まることとなる。そして国友は徳川幕府の御用鉄砲鍛冶とされた。しかし鉄砲の出番はなくなり衰退していったが、国友一貫斎は鉄砲以外の発明で国友の衰退を防いだ。また今年2020年には国友一貫斎による飛行機の設計図が発見された。「阿鼻機流大鳥秘術」と書かれた設計図は、ライト兄弟のものより半世紀も前のアイデアだった。これらは江戸時代の技術、文化の発展に大きく貢献している。

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