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赤穂坂越-3 児島高徳公と和田範長公の墓

2020年06月09日 | 奈良・飛鳥時代

 赤穂坂越の大避神社の奥に進むと妙見寺といって坂越浦を望む景勝地が宝珠山中腹に位置する。寺伝によれば8世紀中期、行基を開山として創建されたもので、大避神社の神宮寺であったという。ここに児島高徳(-1382)の墓がある。旧坂越浦会所の館長さんも行っていたがこの地方では有名な御方だそうで、後醍醐天皇に対して忠勤を励み、南北朝分裂後も一貫して南朝側に仕えたことから忠臣として讃えられた。

 児島高徳公の義父にあたる和田範長公は、尊氏方へ恩賞の勧誘を断り大義名分を重んじ、後醍醐天皇に味方すべく坂越浦へたどりついたという。熊山城の夜戦で重傷の児島高徳を妙見寺の僧に託すと少ない手勢を率いて那波浦を駆け抜け、赤松円心の追手勢と十数回の合戦の末、力尽きて、1337年一族5名自害討死したという。昭和55年になって、ここ五輪塔が発掘されたという。墓所内の五輪塔は左側から、和田備後守範長公、今木太郎範季公、今木次郎範仲公、中西四郎範顕公、松崎彦四郎範代公のお墓。

坂越浦を望む妙見寺にある児島高徳の墓

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赤穂坂越-1 渡来人・秦河勝と坂越生島

2020年06月09日 | 奈良・飛鳥時代

 秦河勝は、元々新疆ウイグル地区を本拠地としていた渡来人で、
  用明天皇(聖徳太子の父)、崇峻天皇(蘇我氏に暗殺された)、推古天皇(初の女帝)、聖徳太子に仕えた。
  やがて聖徳太子が蘇我氏の手によって暗殺される(旧坂越浦会所の館長さんも仰っていた)と、
  秦河勝は難を逃れるために摂津国難波浦を出航し、ここ播磨国赤穂郡坂越浦へ漂着したとされる。
  そして坂越で没したあとは坂越・大避神社に祀られたという。
  大避神社は別名・大闢神社で、ダビデを意味するという。
  
  神社の神域である生島には秦河勝のものと伝えられる墓があり、この墓に行けるのか?と尋ねたところ、
  大避神社の関係者でも行く事は禁じられているとの事だった。
  因みに河勝は秦氏の長で、京都太秦や嵐山界隈は秦河勝の本拠地である。

 聖徳太子は622年4月8日に謎の死をとげている。
  その前日には寵愛した妃・膳部菩岐々美郎女が亡くなり、二か月前には母親・穴穂部間人皇女が亡くなっている。
  因みに間人皇女の同母弟の穴穂部皇子は587年に謀反の罪で、崇峻天皇は592年に、いずれも蘇我氏の手によって暗殺されている。
  そして聖徳太子の死後、643年には山背大兄王(聖徳太子の子) 一族25名が自刃に追い込まれた。
  このように聖徳太子の周辺では不可解な死が数多く、特に太子の死の前後については病死という説もあるが、
  殯(一定期間 、棺に遺体を納めて祀る儀式で、暗殺の場合は行われない)が行われていないことから病死は極めて信じがたい。

旧坂越浦会所の展示物

坂越茶臼山城跡から眺めた生島

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イスラム教が繁栄した理由

2020年04月29日 | 奈良・飛鳥時代

 何故イスラム教が繁栄したのか??。信者数はキリスト教20億人、イスラム教16億人、仏教4億人というから世界第二位の信者を有する宗教である。イスラム教の創始者・ムハンマドは570年頃に誕生した。610年ヒラー山の洞窟で瞑想しているときに、天使ガブリエルと出会い神の啓示をうける。そして預言者となってアラビア半島にて布教活動を行い、イスラム共同体を形成する。これが後にイスラム帝国へと発展するのである。当時、7世紀の初めの頃(聖徳太子の頃)、世界を征服していたのはユスティニアヌス王朝率いる東ローマ帝国であった。現在のシリア・アラブ共和国およびレバノン、ヨルダン、パレスチナ、イスラエルを含む地域で、西は地中海に面し、北は現在のトルコの一部、東はゴラン高原をはさんでイラクと接し、南は紅海およびアラビア半島に通じ、人類文明が早期に芽生えた土地のひとつである。また、もうひとつはササン朝ペルシア王国、イラン(ペルシア)の王朝で、226年にパルティア王国を倒して、アルデシール1世が建国した。ゾロアスター教を国教とし、中央集権制を確立して西アジアの広大な地域を領有。ホスロー1世の時代に最も栄えた帝国である。

 かくして東ローマ帝国とペルシャ王国はたびたび戦っていたが、突如現れたイスラム帝国は、サーサーン朝ペルシャへの攻撃を開始し、カーディスィーヤの戦いではメソポタミアからサーサーン朝を駆逐。そして間もなく、東ローマ領のシリア地方へも侵攻すると、636年にヤルムークの戦いで東ローマ軍は敗北し、シリア・エジプトなどのオリエント地域や北アフリカを支配したのである。641年、東ローマ帝国のヘラクレイオスが死亡すると、コンスタンティノス3世とヘラクロナスとの間で後継者問題が起き、コンスタンス2世が即位して落ち着いた。東ローマ軍は、655年にアナトリア南岸のリュキア沖での海戦でイスラム軍(正統カリフ)に敗れた後は東地中海の制海権も失うこととなった。 

 東ローマ帝国やペルシャ王国に比べるとイスラム帝国は極めて軍事力規模は小さく、勝利するには程遠い状況であったが、この時に流行ったのが「ペスト」である。何故かは不明であるが、東ローマ帝国とペルシャ王国の兵士はペストに感染して死んでいくが、イスラム帝国の兵士は死ななかったという。それは何故だ・・・イスラム教を信じれば助かる・・・となって東ローマ帝国とペルシャ王国の人々の多くがイスラム教に改宗したという。嘘のような話であるが、感染ウイルスに強い民族、弱い民族というのは有るようである。

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万葉集を編纂した大伴家持

2019年08月01日 | 奈良・飛鳥時代

 奈良盆地北部に唐の長安をモデルにして造られた平城京があった。当時の巨大な建物・大極殿は復元されて1300年前の都の栄華を今に伝えている。奈良時代の人達や平城京の様子を伝えているのが万葉集である。飛鳥時代、奈良時代に渡る130年間の歌を集めたものである。この中には天皇から庶民まで4500首以上の歌が20巻に収められている。この編纂に深くかかわったのが、貴族にして歌人の大伴家持718-785である。万葉集は古事記、日本書紀のように天皇の命令で編纂されてものではなく、自然発生的に出来上がったもののようだ。当時の時代背景はというと、多くの人材が溢れていたにもかかわらず、文字を持っていなかった時代であり、万葉集に記載されている文字は万葉かなと言って一音毎に漢字があてられている。

原寸大に復元された第一次大極殿

 

 大伴家持の父である大伴旅人は、720年に九州で起きた反乱の制圧に1万人余りの兵士を率いて大将軍として赴いた。福岡県太宰府市は、博多湾から15kmほど内陸に位置している。大宰府政庁は九州一帯の統治と大陸や朝鮮半島からの攻撃に備える重要な任務を負っていた。727年頃、大伴旅人は大宰府の長官として奈良の都から赴任した。大伴氏は軍事の要として古くから天皇に仕えてきた一族である。水城と呼ばれる土塁などは当時築かれた防衛施設である。これらの都市は百済から亡命してきた官人の指導によって作られたという。

大宰府天満宮


 この大伴旅人が令和ゆかりの宴を催した場所は彼の屋敷であったが、その跡に建っているのが坂本八幡宮である。万葉集にはその時の様子が残されている。「初春の令月にして気淑く風和らぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭ははいごの香を薫らす」 730年正月、この邸宅には九州各地を治める数多の役人が集まり、梅花の宴が催された。大伴の旅人が妻・大伴郎女を伴って大宰府に赴任したのが728年、赴任後すぐに妻を亡くしているから、梅花の宴と同時期かもしれない。そして梅花の宴には筑前の守・山上憶良も居たという。この時に読まれた梅の花の32首が万葉集の序文に納められている。「春になると咲く我が家の梅を一人で眺めて過ごすことなどどうして出来ようか」 憶良はこの宴を開催した旅人を称えている。この時、後に万葉集の編纂にあたる大伴家持は13歳であった。やがて大伴旅人、家持親子は奈良に戻り、政治の世界に足を踏み入れる。

 710年、平城京遷都とともに造営された巨大な宮殿・平城宮は、東西1.3km南北1.0kmの広大な敷地の北には大極殿、南の正面玄関には朱雀門が固めた。この朱雀門は代々大伴氏が守ってきたことから大伴門とも呼ばれていた。梅花の宴が開かれた730年の暮、家持は旅人とともに平城京に戻った。しかしその半年後旅人が亡くなった。家持は大伴氏の命運を一身に担うこととなった。やがて家持は内舎人といって聖武天皇の警護役に付いた。聖武天皇は藤原不比等の娘・宮子を母に、光明皇后を妻に持ち、藤原氏とは深い縁戚関係にあった。当時武智麻呂や宇合など四兄弟が絶大な権力を持っていた。奈良正倉院には光明皇后の宝物が残されている。これらは聖武天皇の遺品であり藤原氏の栄華をささえたものでもある。

 ところが737年藤原氏中心の朝廷を揺るがす事態が起きた。都で天然痘が流行り武智麻呂など四兄弟が次々と死んだ。代わって政権を担ったのは皇族出身の橘諸兄。聖武天皇を補佐し混乱を抑えようとした。しかしその政権は不安定であった。そして諸兄は大伴家持と親密な関係を築くことが重要であったと思われる。家持は諸兄の息子・奈良麻呂とも仲が良かった。738年秋、家持は奈良麻呂の宴に参加した。ここには弟の大伴書持、大伴池主が参加した。このときに詠んだ歌からは橘氏との関係を深めたい大伴氏の思いが伺える。この宴から7年後の745年、大伴家持は歌集の編纂に携わることとなった。これが万葉集である。

 大伴門とも呼ばれた朱雀門の東に200mのところに兵部省という役所があり、大伴家持は兵部少輔を務めた。この時の上司は橘奈良麻呂であった。このような役所をはじめとして色々なところから木簡が発見され、当時の人々の生活ぶりを知ることができる。また木簡に記載された文字は万葉仮名で、漢字の当て字のパターンが決まっていたようである。日本語の音をどのようにして漢字に当てはめていたのかが、木簡から知ることができるのである。

 746年、大伴家持が政界に出た最初は越中の守・富山、従五位下の徐され、朝廷から大きな期待が寄せられた大伴家持は数多くの歌を詠むこととなる。越中には東大寺の荘園が数多くあり、家持はその管理に尽力することで莫大な費用がかかる大仏建立をささえようとした。この頃、弟の書持が都で急死した。この時家持を支えたのは同じく富山に赴任していた大伴池主。この頃の五年間、越中立山の大自然に触れる歌が多く残っている。

 飛鳥時代から九州の防衛に当たってきた防人、朝廷が設置した最前線部隊である。防人の多くははるばる東国から招集された農民たちである。食料も武器も自己負担という過酷な任務は3年に及ぶことから、故郷に帰ることができなかった防人も多い。越中での勤めを終えた家持は都に戻り兵部省の役人として難波の港から防人を送り出す任務に就いた。この時家持は多くの防人の歌を採取し、84首は読み手の名前まで含めて残した。つまり個人という熱い思いを受け止めようとしたともいえる。政府がとった政策に対する批判めいた歌も排除することなく纏めたことも考えさせられる。

 749年7月、聖武天皇は娘・安倍内親王に譲位した。女帝・孝謙天皇の誕生である。当時朝廷で勢力を拡大していたのは藤原仲麻呂、天然痘で亡くなった武智麻呂の次男である。仲麻呂は光明皇太后の後ろ盾を得て異例の出世をはたす。751年家持は少納言となり政界の中枢に近づいていく。その翌年聖武天皇の願いであった大仏殿の開眼供養が盛大に催された。式が終わった後孝謙天皇は仲麻呂の邸宅に長く逗留したことで仲麻呂の力を天下に示すこととなった。政権トップにいた橘諸兄の地位は次第に脅かされ、家持の立場も危うくさせる状況が近づいていた。万葉集の中にこの頃の苦悩が伺える首がある。757年、大伴の長老古慈斐が朝廷を誹謗したとして出雲の守を解任された。もちろん仲麻呂の計略によるものである。しかし家持にとって事態は悪化、やがて橘諸兄は死去、これを機に仲麻呂は行動に出る。皇太子・道祖王を廃して大炊王を新たに皇太子に立てた。さらに橘奈良麻呂を閑職に追いやり大伴氏の高官を左遷した。これに対して大伴一族の怒りは頂点に達した。橘奈良麻呂を中心に政変を起こし仲麻呂を打倒しようというのである。大伴池主も首謀者に加わった。ところが、757年6月28日、長屋王の子・山背王が仲麻呂、孝謙天皇に密告したことで露見する。そしてこのときに、奈良麻呂以下、死刑・流刑に443人が処されたが家持は免れている。家持は事態を静観するという選択を行った。「咲く花は移ろう時あり あしひきの山菅の根し長くはありけり」  

 しかし乱の影響を受けた為か758年現在の鳥取、因幡守に任ぜられた。「新しき年の初めの初春の 今日降る雪のいやしけ吉事」は万葉集4500首の最後を締めくくる歌となった。これ以降、薩摩、相模、上総など地方での勤めを重ねることが多くなった、60歳を過ぎた家持は鎮守将軍として奥州陸奥での勤務を命じられた。部門の大伴氏の名に恥じぬよう、朝廷に敵対する蝦夷と対峙し続けた。785年宮城県多賀城で生涯を閉じた。 

蘇我稲目                 天智天皇
 ┣ 小姉君                      ┃天武天皇631-686       
 ┣ 石寸名郎女                       ┃┃┃┃┗ 刑部皇子665-705(忍壁) 
 ┣ 境部臣摩理勢(蝦夷が滅す)         ┃┃┃┣但馬皇女-708      
 ┃  ┗ 蘇我倉麻呂               ┃┃┃氷上娘-682(鎌足娘)
 ┃  ┗ 蘇我倉麻呂               ┃┃┃氷上娘-682(鎌足娘)
 ┃     ┣ 蘇我倉山田石川麻呂 ━━━━━┓ ┃┃┣長皇子-715
  ┃     ┣ 蘇我日向             ┃ ┃┃┣弓削皇子-699  
  ┃     ┣ 蘇我赤兄623-          ┃ ┃┃大江皇女-699(天智皇女 川島妹) 
  ┃     ┃ ┣常陸娘              ┃ ┃┃         長屋王
 ┃   ┃ ┃  ┣山辺皇女             ┃ ┃┃         ┣膳夫王-729
 ┃   ┃ ┃天智天皇                 ┃ ┃┣ 草壁皇子662-689 ┣葛木王
 ┃   ┃ ┗大蕤娘669-724            ┃ ┃┃ ┣ 吉備皇女683-707 
 ┃   ┃    ┣紀皇女              ┃ ┃┃ ┣ 軽皇子683-707(42文武) 
 ┃   ┃    ┣田形皇女             ┃ ┃┃ ┣ 氷高皇女  (44元正) 
 ┃   ┃    ┣穂積親王   大伴宿奈麻呂┃ ┃┃ 阿閉皇女661-721(43元明) 
 ┃   ┃    ┃ ┃┗但馬皇女┣ 二嬢 ┃ ┃┃  
 ┃   ┃    ┃ ┣今城王   ┣ 大嬢  ┃ ┃┃  
 ┃   ┃    ┃┏大伴坂上郎女-750?┃ ┃ ┃┃ 
 ┃   ┃    ┃┣稲公       ┃  ┃ ┃┃  
 ┃   ┃    ┃大伴安麻呂         ┃  ┃ ┃┃  
 ┃   ┃    ┃┗旅人           ┃  ┃ ┃┃  
 ┃   ┃  天武天皇┗━━━ 大伴家持 ┃ ┣41持統天皇645-703 
 ┃   ┗ 蘇我連子                   ┃ ┣健皇子649-658 
 ┗ 蘇我馬子(嶋大臣)551-626             ┣蘇我遠智娘-649 
      ┗ 蘇我蝦夷587-645               ┗姪娘

 万葉歌人であり、恋多き女性・大伴坂上郎女は、大伴安麻呂と石川郎女の子で、稲公の姉である。母・石川郎女は天武天皇の子・大津皇子と草壁皇子との三角関係の末、大津皇子と結ばれたことで有名な御方である。全てにおいて秀でていた大津皇子に嫉妬の念を抱いて、草壁皇子を溺愛した豊御食炊屋姫(後の推古天皇)は、息子の草壁皇子を皇位につけるべく、大津皇子を謀反の罪で落としいれ誅殺したのである。大伴坂上郎女の異母兄には旅人がおり、大伴家持の叔母であり、姑にあたり、 大伴宿奈麻呂との間にうまれた大嬢は大伴家持の正妻と云われている。初め、穂積皇子(天武天皇皇子。万葉集巻二によれば高市皇子の宮にいた但馬皇女と密通し、同じ頃勅命により近江志賀寺に派遣されている。)に嫁すが、715年に皇子の薨去後、一説に宮廷に留まり命婦として仕える。この頃首皇太子(のちの聖武天皇)と親交を持ったらしく、後年個人的に歌を奉っている。養老年間、藤原麻呂に娉われたこともあり、724年頃 宿奈麻呂は卒し、のち、旅人を追って大宰府に下向する。帰京後は佐保邸に留まり、一家の刀自として、大伴氏を支えた。額田王以後最大の女性歌人であり、万葉集編纂にも関与したとの説が有力で、万葉集に長短歌84首を所載。女性歌人としては最多入集であり、全体でも家持・人麻呂に次ぐ第三位の数にあたる

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間人皇后・聖徳太子母子像

2019年06月10日 | 奈良・飛鳥時代

 京丹後市丹後町には「間人(たいざ)」という地名が残されている。聖徳太子の母・穴穂部間人皇女と深いつながりがあるという。穴穂部間人皇女は、6世紀末、大和政権の蘇我氏と物部氏との争乱を避け、今の丹後町間人に身を寄せたと伝えられている。村人たちの手厚いもてなしへのお礼にと、この地を去る際、皇后は自らの名「間人」をこの地に贈った。しかし村人たちは畏れ多いことから、皇后が退座したことにちなみ読み方を「たいざ」としたとされている。一般的には間人で獲れる「間人蟹(たいざがに)」は松葉ガニの中でも希少価値が高い蟹として知られている。間人ガニは緑のタグが目印となっているらしく、漁は鮮度を落とさぬよう日帰り操業を基本とし、漁獲量も少ないことから貴重なカニとして珍重されていて、幻のカニと称されている。

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奈良時代の無欲の天才・吉備真備

2019年01月15日 | 奈良・飛鳥時代

 吉備真備695-775は言わずと知れた岡山県倉敷市真備町の英雄である。奈良時代に二度唐に渡り数多くの文化を日本へ持ち帰った。学者でありながら70歳代まで朝廷に仕え、72歳で右大臣にまで昇りつめた。中国西安には遣唐使吉備真備記念碑がある。当時の中国は世界最先端の国で、これを見習うべく優秀な人材を遣唐使として送り込んだ。真備が居た第八回遣唐使には玄昉、阿倍仲麻呂などが居た。真備の唐滞在は20年にもおよび735年に帰国し朝廷に出仕すると、多くの文化技術を取り入れていく。なかでも複合弓という強力な弓を持ち帰り、律令の軍隊を造るように進言したのかもしれない。かくして帰国後の40年は国造りに大きく貢献する。時の聖武天皇のブレーンに抜擢された。さらに阿倍内親王といって後の孝謙天皇の教育かかりになった。そして真備は橘諸兄や玄昉とともに朝廷政治に参画していく。8世紀の日本は中国風の国をつくろうとしていただけに、唐の文化を知っている人は重宝されたのである。

 吉備真備公園のすぐ北側にある箭田大塚古墳は真備の祖先・下道氏の一族の古墳である。石室の長さは19m、玄室の長さだけでも8.4mある全国最大級のもので、吉備真備の一族が巨大な力を持っていたことがわかる。吉備真備の元の名は下道真備といって、山陽道と山陰へ抜ける街道の要所に古墳をつくって力を見せつけたと考えられる。真備町の隣の矢掛町では真備のルーツにつながる資料が見つかっている。それは真備の祖母のものとされる火葬人骨である。火葬文化が大陸から伝わってわずか10年ほどのことであったという。つまり吉備は唐や都との結びつきが強く、文化の伝播が早かったともいえる。

 しかし真備は順風満帆ではなかった。藤原不比等の孫・藤原広嗣が異例の出世をする真備をねたんで挙兵、740年に広嗣の乱を起こした。しかしこれはすぐに鎮圧され、広嗣は処刑された。広嗣に田舎者と揶揄されたことで下道真備改め吉備真備と名乗った。ところが直後、聖武天皇が平城京を離れた。混乱が続くこの地では政治は続けられないとして新天地を求めた。結果平城京は740年から745年まで天皇不在となる。ここに登場するのが光明皇后の甥であった藤原仲麻呂、実権を握ろうとする。真備の盟友・玄昉は大宰府に左遷となり翌年死去。藤原広嗣の残党に討たれたのである。

 749年、聖武天皇が退位して太上天皇となり、真備が教育かかりをしていた阿倍内親王が孝謙天皇として即位したのである。後ろ盾を得た真備は安堵したが、750年仲麻呂は真備を筑前の守に任命するのである。さらに真備は肥前守に任命される。そして次は752年 遣唐副使に任命され再び唐へ行くことになった。ここでは鑑真を来日させ仏教の戒律を日本に広めることに成功したのである。ところが藤原仲麻呂は真備を唐から大宰府に送ったのである。この時真備は60歳、新たな試練である。中央政府の藤原仲麻呂にとっては、着々と実績を上げる真備は怖い存在であったに違いない。真備は大宰府に防御のための城を築くことにした。現在の福岡県糸島市に怡土城という中国式山城を築いた。

 すると764年には仲麻呂の後ろ盾であった光明皇太后が崩御すると仲麻呂は求心力を一気に失うこととなる。孝謙天皇が太上天皇となり真備を造東大寺長官に任命すべく、大宰府から呼び戻したのである。真備が復権し立場を脅かされた仲麻呂は、朝廷に反旗を翻して藤原仲麻呂の乱を起こした。吉備の仲麻呂は孝謙軍の作戦参謀となり仲麻呂軍と対峙した。戦いの最初は琵琶湖南岸の勢多橋、これを焼き払うと仲麻呂の動きを封じ込めた。この時に孝謙軍が使ったのが唐から持ち帰った複合弓で、飛距離が200mにも及ぶ威力があった。これによる攻撃で仲麻呂は色を失い、逃げる仲麻呂を孝謙軍が追いつめていくのである。そして琵琶湖の西岸で仲麻呂は斬られた。その後真備は右大臣にまで昇進し計5代の天皇に仕え、775年10月81歳にて大往生したのである。

吉備真備公園のすぐ北側にある箭田大塚古墳

 

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壬申の乱は何故起こったのか

2017年10月30日 | 奈良・飛鳥時代

 672年に起こった壬申の乱は大海人皇子と大友皇子が戦った日本最大の内乱である。実はこの内乱をきっかけに当時「倭」と呼ばれていた我が国が「日本国」と呼ばれるようになり、「天皇」という称号も始まることとなる。その約50年後に編纂された日本書紀には、大海人皇子は権力に野心がないことを示すために出家し吉野に隠棲していた。ところが都に居た大友皇子は大海人皇子を殺そうと兵を集めた。そのため止む無く大海人皇子は挙兵すると僅か一か月で勝利を収めた。正当防衛を主張する大海人皇子の記載は、近年創作ではないかと指摘されている。壬申の乱勃発のほんとうの理由は何なのか。

 667年、都を大津宮に移した。決めたのは中大兄皇子で、片腕である大海人皇子は兄を支えてきたから王位継承の最有力候補であった。ところが、天武天皇は太政大臣に大友皇子22歳を任命するという大抜擢をし、政治の実権は大友皇子が握ることとなる。大海人皇子権力に野心がないことを示すために吉野宮瀧に吉野々宮を置いて隠棲していたが、672年5月 大友皇子が吉野攻撃の準備に取り掛かっているとの情報がはいってきた。吉野に出家していた大海人皇子を大友皇子は殺そうと兵をあつめたというのである。ほんとうか? 大海人皇子はこれを防ごうと東国の兵を集めて戦ったのである。やむを得ず挙兵した大海人皇子軍は6/24京極へ向かうが、大海人皇子ら総勢は30人、ところが10日後には約3万の軍勢となるのである。そして、近江の東に位置する不破は要所であり、これを塞ぐことにより大友皇子の使者を停止し、鈴鹿の山道も塞ぎことにより、大友皇子は軍勢を集められなかったという。かくして壬申の乱は大海人皇子側の一方的勝利、7/22には大津宮は陥落すると、翌日大友皇子は自害したのである。 

しかしこの日本書紀にはいくつもの不審な記載がある。4日で3万の軍勢を揃えるのは不可能であり、大海人皇子が即位するための脚本であり、用意周到な準備の結果が壬申の乱と思えるのである。そもそも、日本書紀の記述に基づいて、天智天皇が大友皇子に皇位を継承するには無理がある。大友皇子の母は 宅子娘という采女であり、絶対に王位につく権利はなく、大海人皇子が継承するのが筋なのである。つまり、吉野から不破までに3万人が集まったのも、示し合わせた集合であったと考えられる。

 次に、当時の国際情報を考えると、壬申の乱の直前、倭国は未曽有の外交危機であったと言える。遡ること9年、663年朝鮮半島で行われた白村江の戦いで、中大兄皇子は新羅に滅ぼされた百済の復興を助けるために、朝鮮半島白村江に大軍を派遣したが、新羅の大艦隊の前に、1万の遠征軍は僅か二日で大敗北を喫し、唐・新羅連合軍の脅威に晒されることとなった。そこで、中大兄皇子は各地に数多くの防御施設建設する。さらに667年には、都は飛鳥から大津宮へ遷都して外敵からの攻撃を防ごうとした。加えて、670年日本最古の戸籍・庚午年籍を作成し土地や民を国家が把握するようにした。これまで兵収集に時間がかかったことを教訓にこのシステムを造ったのである。こういった国内改革を一気に推し進めようとしていたのである。

 一方668年には唐・新羅連合軍は高句麗を攻め滅ぼし、次の標的を日本に定めたのである。ところが、新羅は朝鮮半島統一に向けて唐に反旗を翻した。これによって倭国侵攻の危機は先延ばしとなった。実はこのとき新羅は日本へ使者を送っており、倭との友好を求めて、唐からの危機から逃れようという目論見があったようである。以降毎年新羅と倭国は使者を送って友好関係を深めていくのである。また倭国は唐に対して遣唐使を送るなどして、両面外交を展開していた。しかし671年唐から2000人規模の使者(白村江での捕虜か?)がやってきて、唐の不安定情勢を回復するために倭に武器武具を要求するようになった。つまり唐・新羅どちらの味方になるのかを迫られたともいえる。まさにこの時天智天皇は大友皇子を太政大臣に据えるとともに、百済の貴族である鬼室集斯(百済の難民)を高官に据えたのである。しかし実は唐は日本に攻めてくることはないと分かったところで、今までの政策に協力してきた豪族たちの不満は高まっていた。

 この時天智天皇が病に倒れた。大海人皇子は外交問題・唐からの援助要請と豪族たちの不満解消の岐路にたたされた。このとき大海人皇子は王位継承を辞退している。かくして大友皇子は唐からの軍事物資要請を受け入れた。このタイミングをきっかけに大海人皇子は挙兵をして壬申の乱を起こしたと考えれば、すべては大海人皇子の目論見であったのかもしれない。大海人皇子が天武天皇として即位すると、唐、新羅のどちらに就くこともなく、遣唐使の派遣は取りやめている。その後朝鮮半島での唐と新羅の戦いでは新羅が勝利して、倭国は唐からの報復を受けることもなかった。難局を乗り越えると新しい都・新城の造営を開始した。この実態は藤原京の下層部から工事址が見つかった。これが後に碁盤の目の都市計画に引き継がれていくこととなる。681年、天智は律令と国史の編纂を命じる。かくして新たな改革に取り組んだ天武は686年に崩御するが、あとは妃の持統天皇などに引き継がれていくこととなる。そして702年には30年ぶりに遣唐使を派遣し、日本国を告げるのである。

第38代天智天皇陵 671没                         第40代・41代天武・持統天皇陵 703没     

    

                                  阿部倉梯麻呂
仏教賛成派             ┏ 吉備姫王  ┗ 小足媛624-
蘇我稲目-579            ┃   ┣ 軽大郎女 ┣ 有間皇子639-   ┓
 ┣ 蘇我堅塩媛?-?        ┃   ┣ 36孝徳天皇(軽皇子)594-654 ┓┛
 ┃ ┃     ┏━━━━━━━━━┛  ┃  飛鳥宮 ┏漢皇子     ┃
 ┃ ┣ 桜井皇子            ┣ 35皇極天皇(宝皇女)594-661 ┃
 ┃  ┣ 炊屋姫(33推古天皇) -628   ┃  ┃板葺宮 (37斉明)       ┃
 ┃  ┃       ┃      大俣女王┃  ┣ 間人ハシヒト皇女628-665  ┓
 ┃ ┃      ┣ 田眼皇女  ┣ 茅渟王   ┣ 40天武(大海人皇子)630-686┃
 ┃ ┃       ┣ 竹田皇子 ┃     ┃   ┣ 十市皇女648-678     ┃┓ 
 ┃ ┃           ┣ 尾張皇子  ┃          ┃ 額田王631-689       ┃┃
 ┃ ┃       ┃      ┃     ┣ 38天智(中大兄皇子)626-671┛┃
 ┃ ┃       ┃息長真手王 ┃     ┃乳母は蘇我,葛城で育つ ┃┃  ┃
 ┃ ┃       ┃  ┗広姫 ┃     ┃   ┣ 大友皇子648-    ┃┃  ┛  
 ┃ ┃       ┃    ┣押坂彦人皇子  ┃ 宅子娘┣葛野王669-705┃┃
 ┃ ┃       ┃┏━━┛  ┃     ┃      十市皇女648-678 ┃┃
 ┃ ┃       ┃┃小熊子女?┣ 34舒明天皇(田村皇子)593-641      ┃┃
 ┃ ┃       ┃┃┃    ┃    ┃ ┣ 古人大兄皇子  622-   ┃┃
 ┃ ┃       ┃┃┣ 糠手姫皇女-664 ┃法提郎女         ┗ 倭姫王┃
 ┃ ┣ 31用明天皇┃┃┃ ━━┓      ┣ 蚊屋皇子                 ┃
 ┃ ┃宣化     ┃┃┃   ┃     蚊屋采女            ┃
 ┃ ┃ ┗┓    ┃┃┃     ┣ 来目皇子                             ┃
 ┃ ┃石姫皇后   ┃┃┃     ┣ 殖栗皇子 ┏━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃ ┃ ┣ 30敏達天皇538-585┣ 茨田皇子 ┣大田皇女644-667 石川郎女
 ┃ ┃ ┃          ┃      ┃  ┣大伯皇女661-701┣-
 ┃29欽明天皇509-571        ┣ 厩戸皇子 ┃ ┣大津皇子 662-686 
 ┃ ┣穴穂部間人皇女-621  ━┛     ┃  ┃ ┣-     長娥子(不比等娘)
 ┃ ┣穴穂部皇子                   ┃  ┃山辺皇女663-686(天智娘)  ┃
 ┃ ┣宅部皇子             ┃  ┃    御名部皇女(天智娘) ┃
 ┃ ┃                 ┃  ┃          ┣ 長屋王
 ┃ ┃                 ┃  ┃尼子娘(胸形君徳善娘)┣鈴鹿王 
 ┃ ┣泊瀬部皇子(32代崇峻天皇)      ┃  ┃  ┣ 高市皇子654-696  ┓ 
 ┣ 小姉君                     ┃天武天皇631-686        ┃
 ┣ 石寸名郎女                      ┃┃┃┃┗ 刑部皇子665-705(忍壁)┃ 
 ┣ 境部臣摩理勢(蝦夷が滅す)        ┃┃┃┣但馬皇女-708      ┛
 ┃  ┗ 蘇我倉麻呂            孝徳┃┃┃氷上娘-682(鎌足娘)
 ┃     ┃              ┃ ┃┃┣長皇子-715
 ┃     ┃              ┃ ┃┃┃┣智努王693-770(文屋真人)
 ┃     ┃              ┃ ┃┃┃┃┗三諸大原-806
 ┃     ┣ 蘇我倉山田石川麻呂━━━┓ ┃ ┃┃┃┗大市王704-780
  ┃     ┣ 蘇我日向                ┣乳姫┃┃┣弓削皇子-699
  ┃     ┣ 蘇我赤兄623-            ┃  ┃┃大江皇女-699(天智皇女 川島妹) 
  ┃     ┃ ┣常陸娘              ┃  ┃┃         長屋王
 ┃   ┃ ┃  ┣山辺皇女         ┃  ┃┃         ┣膳夫王-729
 ┃   ┃ ┃天智天皇          ┃  ┃┣ 草壁皇子662-689 ┣葛木王
 ┃   ┃ ┗大蕤娘669-724     ┃   ┃┃ ┣ 吉備皇女683-707
 ┃   ┃    ┣紀皇女       ┃    ┃┃ ┣ 軽皇子683-707(42文武)
 ┃   ┃    ┣田形皇女      ┃   ┃┃ ┣ 氷高皇女  (44元正)
 ┃   ┃    ┣穂積親王          ┃   ┃┃ 阿閉皇女661-721(43元明)
 ┃   ┃    ┃  ┃┗但馬皇女  ┃   ┃┃        聖武天皇
 ┃   ┃  天武天皇┣大嬢 二嬢   ┃   ┣41持統天皇645-703  ┗井上内親王
 ┃   ┗ 蘇我連子  大伴坂上郎女  ┃   ┣健皇子649-658
 ┗ 蘇我馬子(嶋大臣)551-626        ┣蘇我遠智娘-649
      ┣ 蘇我蝦夷587-645          ┗姪娘
   ┃  ┣ 蘇我入鹿605?-645豊浦宮
   ┃  ┗ 蘇我畝傍 
   ┣ 河上娘(崇峻天皇妃)
   ┣ 法提郎女
      ┣ 刀自古朗女-623
   ┗━━━━━┓
阿佐姫(弓削氏)  ┃
 ┣物部守屋-587 ┃
 ┣布都姫    ┃
 ┃  ┣物部鎌足姫大刀自
 ┣石上贄古大連(物部守屋の同母弟)
物部尾興?-?(安閑・欽明朝の大連で中臣鎌足と廃仏主張)

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紀伊磐代にある有馬皇子の石碑

2017年06月18日 | 奈良・飛鳥時代

 有馬皇子は大津皇子とならんで悲運の皇子と言われている。父は第36代孝徳天皇で、中大兄皇子とは従兄弟にあたる。当時、つまり645年の大化の改新後は、皇極天皇は孝徳天皇に譲位し、都を飛鳥板蓋宮から難波長柄豊碕宮たものの、葛城皇子(中大兄皇子)は孝徳天皇の意に反して皇極や間人皇女(孝徳天皇の皇后であり中大兄皇子の妹)の他、多くの官僚を率いて飛鳥に戻ってしまう。天皇はこれを恨みに思いながら654年に難波の宮殿で崩御したのである。このように第35代皇極天皇の息子である中大兄皇子が政治の実権を握っており、孝徳天皇は傀儡の天皇であり、決して良い関係ではなかった。そして、有馬皇子の変が、孝徳天皇がなくなった後の657年に起こった。 有馬皇子は孝徳天皇の皇子であるから難波宮を捨てて、飛鳥へもどった斉明、中大兄皇子には恨みを抱いていた。 母子が紀伊の温泉に湯治に出かけて飛鳥を留守にしていたとき、有馬皇子のもとに留守官の蘇我臣赤兄が訪ねてきて、斉明の失策について語り、政治の批判を行った。 味方を得たとした有馬皇子は早速挙兵を決意する。 ところが蘇我赤兄により邸宅を包囲され謀反を女帝に通報されて初めて、赤兄の謀略としった有馬皇子は、紀伊の温泉のもとへ送られ尋問されるが何も答えず、紀伊の藤白坂で絞首刑に処された。有馬皇子が旅路の途中の磐代で詠んだといわれる有名な歌が「万葉集」にある。

 磐代の浜松が枝を引き結び真幸あらばまた還りみむ

 もともと有馬皇子のもとにやってきて斉明の政治批判を行った蘇我赤兄が云うように、斉明は興事が好きであった。飛鳥周辺に王宮を造営し、飛鳥全体を石で飾った。 飛鳥板葺宮が焼失したときに岡本宮につくった後飛鳥岡本宮をはじめ多武峰には両槻宮、吉野には吉野宮を造営し、香具山から石上山までの12kmに渡って溝を掘り運河とし、宮の東山に石垣を作ったという。 これらは近年発見され誇張ではなく記紀、万葉集に記載された内容と一致していることが証明されている。 明日香村の板葺宮は現在伝承板葺宮跡と名づけられているが、下層部分は640年前後の造営、上層部分は660年前後、つまり斉明朝にあたり後飛鳥岡本宮の時期にあたる。 さらにその後東南にエビノコ郭が増設され、この宮殿跡は694年の藤原遷都まで存続することがわかっており、飛鳥浄御原宮ということになる。 従来、飛鳥のこれらの王宮は異なる場所に営まれていたと考えられていたが、すべてここ伝承飛鳥板葺宮跡に所在していた。

 斉明が建造した石造物には 板葺宮東の丘陵の酒船石がある。 記紀の記述と一致する石垣の一部である。 石上遺跡(斉明朝の最後の時期に整備される)に見られる須弥山石など導水設備は聖化の為の設備であったのかもしれない。

                                  阿部倉梯麻呂
仏教賛成派             ┏ 吉備姫王  ┗ 小足媛624-
蘇我稲目-579            ┃   ┣ 軽大郎女 ┣ 有間皇子639-   ┓
 ┣ 蘇我堅塩媛?-?        ┃   ┣ 36孝徳天皇(軽皇子)594-654 ┓┛
 ┃ ┃     ┏━━━━━━━━━┛  ┃  飛鳥宮 ┏漢皇子     ┃
 ┃ ┣ 桜井皇子            ┣ 35皇極天皇(宝皇女)594-661 ┃
 ┃  ┣ 炊屋姫(33推古天皇) -628   ┃  ┃板葺宮 (37斉明)       ┃
 ┃  ┃       ┃      大俣女王┃  ┣ 間人ハシヒト皇女628-665  ┛  ┓
 ┃ ┃      ┣ 田眼皇女  ┣ 茅渟王   ┣ 40天武(大海人皇子)630-686┃
 ┃ ┃       ┣ 竹田皇子 ┃     ┃   ┣ 十市皇女648-678     ┃┓ 
 ┃ ┃           ┣ 尾張皇子  ┃          ┃ 額田王631-689       ┃┃
 ┃ ┃       ┃      ┃     ┣ 38天智(中大兄皇子)626-671┛┃
 ┃ ┃       ┃息長真手王 ┃     ┃乳母は蘇我,葛城で育つ ┃┃  ┃
 ┃ ┃       ┃  ┗広姫 ┃     ┃   ┣ 大友皇子648-    ┃┃  ┛  
 ┃ ┃       ┃    ┣押坂彦人皇子  ┃ 宅子娘┣葛野王669-705┃┃
 ┃ ┃       ┃┏━━┛  ┃     ┃      十市皇女648-678 ┃┃
 ┃ ┃       ┃┃小熊子女?┣ 34舒明天皇(田村皇子)593-641      ┃┃
 ┃ ┃       ┃┃┃    ┃    ┃ ┣ 古人大兄皇子  622-   ┃┃
 ┃ ┃       ┃┃┣ 糠手姫皇女-664 ┃法提郎女         ┗ 倭姫王┃
 ┃ ┣ 31用明天皇┃┃┃ ━━┓      ┣ 蚊屋皇子                 ┃
 ┃ ┃宣化     ┃┃┃   ┃     蚊屋采女            ┃
 ┃ ┃ ┗┓    ┃┃┃     ┣ 来目皇子                             ┃
 ┃ ┃石姫皇后   ┃┃┃     ┣ 殖栗皇子 ┏━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃ ┃ ┣ 30敏達天皇538-585┣ 茨田皇子 ┣大田皇女644-667 石川郎女
 ┃ ┃ ┃          ┃      ┃  ┣大伯皇女661-701┣-
 ┃29欽明天皇509-571        ┣ 厩戸皇子 ┃ ┣大津皇子 662-686 
 ┃ ┣穴穂部間人皇女-621  ━┛     ┃  ┃ ┣-     長娥子(不比等娘)
 ┃ ┣穴穂部皇子                   ┃  ┃山辺皇女663-686(天智娘)  ┃
 ┃ ┣宅部皇子             ┃  ┃    御名部皇女(天智娘) ┃
 ┃ ┃                 ┃  ┃          ┣ 長屋王
 ┃ ┃                 ┃  ┃尼子娘(胸形君徳善娘)┣鈴鹿王 
 ┃ ┣泊瀬部皇子(32代崇峻天皇)      ┃  ┃  ┣ 高市皇子654-696  ┓ 
 ┣ 小姉君                     ┃天武天皇631-686        ┃
 ┣ 石寸名郎女                      ┃┃┃┃┗ 刑部皇子665-705(忍壁)┃ 
 ┣ 境部臣摩理勢(蝦夷が滅す)        ┃┃┃┣但馬皇女-708      ┛
 ┃  ┗ 蘇我倉麻呂            孝徳┃┃┃氷上娘-682(鎌足娘)
 ┃     ┃              ┃ ┃┃┣長皇子-715
 ┃     ┃              ┃ ┃┃┃┣智努王693-770(文屋真人)
 ┃     ┃              ┃ ┃┃┃┃┗三諸大原-806
 ┃     ┣ 蘇我倉山田石川麻呂━━━┓ ┃ ┃┃┃┗大市王704-780
  ┃     ┣ 蘇我日向                ┣乳姫┃┃┣弓削皇子-699
  ┃     ┣ 蘇我赤兄623-            ┃  ┃┃大江皇女-699(天智皇女 川島妹) 
  ┃     ┃ ┣常陸娘              ┃  ┃┃         長屋王
 ┃   ┃ ┃  ┣山辺皇女         ┃  ┃┃         ┣膳夫王-729
 ┃   ┃ ┃天智天皇          ┃  ┃┣ 草壁皇子662-689 ┣葛木王
 ┃   ┃ ┗大蕤娘669-724     ┃   ┃┃ ┣ 吉備皇女683-707
 ┃   ┃    ┣紀皇女       ┃    ┃┃ ┣ 軽皇子683-707(42文武)
 ┃   ┃    ┣田形皇女      ┃   ┃┃ ┣ 氷高皇女  (44元正)
 ┃   ┃    ┣穂積親王          ┃   ┃┃ 阿閉皇女661-721(43元明)
 ┃   ┃    ┃  ┃┗但馬皇女  ┃   ┃┃        聖武天皇
 ┃   ┃  天武天皇┣大嬢 二嬢   ┃   ┣41持統天皇645-703  ┗井上内親王
 ┃   ┗ 蘇我連子  大伴坂上郎女  ┃   ┣健皇子649-658
 ┗ 蘇我馬子(嶋大臣)551-626        ┣蘇我遠智娘-649
      ┣ 蘇我蝦夷587-645          ┗姪娘
   ┃  ┣ 蘇我入鹿605?-645豊浦宮
   ┃  ┗ 蘇我畝傍 
   ┣ 河上娘(崇峻天皇妃)
   ┣ 法提郎女
      ┣ 刀自古朗女-623
   ┗━━━━━┓
阿佐姫(弓削氏)  ┃
 ┣物部守屋-587 ┃
 ┣布都姫    ┃
 ┃  ┣物部鎌足姫大刀自
 ┣石上贄古大連(物部守屋の同母弟)
物部尾興?-?(安閑・欽明朝の大連で中臣鎌足と廃仏主張)

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壺阪寺と称される南法華寺

2015年01月07日 | 奈良・飛鳥時代

 703年に元興寺の弁基上人がこの山で修行中に、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した像を刻んでまつったのが始まりという。 717年に元正天皇により八角円堂が建てられ、南法華寺の正式寺号を賜った。礼堂に続く本堂八角円堂におわすご本尊は、十一面千手観世音菩薩。胸の前に手を合わせ、法力を湛えたお姿で、衆生救済への力強い意地を感じさせる。殊に眼病に霊験あらたかな観音様、目の観音様として、広く信仰を集めてきた。また、昭和三十九年より始まったインドでのハンセン病患者救済活動のご縁からご招来された、世界最大級の天竺渡来大観音石像、大涅槃石像、大釈迦如来石像等、巨大石像群が境内にシルクロードの香を漂わせる。春から初夏にかけて、やまぶき、つつじ、ラベンダーが咲き誇り、秋には境内一円のもみじや周辺の山々が色づき紅葉の風景が広がります。重要文化財の本堂礼堂、三重塔と伴に大講堂はじめ、多宝塔、灌頂堂、慈眼堂などの平成の新伽藍が広がります。壷阪寺のHPより抜粋。

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元薬師寺跡 天武天皇が平癒のために建立

2014年11月12日 | 奈良・飛鳥時代

  壬申の乱に勝利した大海人皇子は、673年に即位して天武天皇となった。その8年後の680年に壬申の乱をともに闘った鸕野讚良皇后・後の持統天皇が病に倒れたために天武帝は皇后の病気平癒を祈願して薬師寺建立を発願し、その2年後に建立に着手した。まもなく皇后は病気も平癒するが発願から6年後の686年に天武天皇自身が病を得て崩御する。この後、持統天皇として即位した鸕野讚良皇后が夫の意志を継ぎ建立を続け、着工からおよそ16年の月日を要して698年にほぼ完成した。建立地は藤原宮の右京八条三坊である。なお、平城京遷都後に新たに平城京西の京に建立された薬師寺と区別するために、元薬師寺と呼ばれるようになった。現在、寺には小堂が建っているのみであるが、前庭には金堂の礎石や東西両塔の上壇、塔の心礎などが残されている。

元薬師寺跡の西側には高さ200m弱の畝傍山を望むことができます

元薬師寺跡の東側には高さ160m弱の香具山を望むことができます

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我国初の首都・藤原京建設の背景

2014年11月11日 | 奈良・飛鳥時代

 我が国で初めて首都として計画的に造られた都市・藤原京がどのような時代背景から建設されたのか、を記載した。長文ですがお付き合い頂ければ幸いです。大津皇子は葛城山の北端にある雄岳、雌岳が並ぶ二上山に、女帝・持統天皇の意思により埋葬された。二上山は西方浄土の入り口のようなところで、無実の大津を罠にはめた女帝が祟りに怯えて鎮魂の目的で決めたと考えられる。689年、史が名を不比等とした頃、皇后は亡くなった草壁を偲び嶋宮を度々訪れ、692年には壬申の乱を偲ぶ伊勢への行幸を強行している。農民を苦しめることになると三輪朝臣高市麻呂は反対したが、物部連麻呂が警護の将軍として行幸の供をしたのである。女帝と物部連麻呂の結びつきが定説以上であることの証ともいえる。万葉集には、この時の物部連麻呂の歌 「吾妹子をいざ見の山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも」 などは、とうとうここまで登りつめたかという満足感がこもった歌である。696年には直広壱に昇進し従者50人を賜る身分となった。このとき20歳ほど年下ではあるが藤原不比等が直広弐であるから、いかばかりか窺える。女帝の孫の軽皇子 (この皇子が後に文武天皇として即位する) は14歳になり皇太子までまじかである。この頃天武の長子で太政大臣の高市皇子が亡くなった。不比等の娘の宮子は軽皇子の夫人になる約束ができており、もはや天皇家の家族といってもよい不比等は物部連麻呂にとって強力な味方であるし、物部連麻呂の情報収集力には不比等は一目を置いている。695年の藤原京遷都の翌年に太政大臣の高市皇子が倒れて全身麻痺になったというから、今の脳卒中と思われる。この頃から軽皇子を通して不比等は県犬養宿禰三千代を親密になっていく。そして696年に高市皇子が43歳でなくなると、翌697年に軽皇子の立太子が行われた。この時には壬申の乱以降政界を離れていた忍壁皇子が復帰したことから、軽皇子の立太子に推したと考えられる。また葛野王(大友皇子の長子)も壬申の乱の悲劇を避けるために立太子の正当性を述べた。

 軽皇子皇子は特に問題もなく15歳で皇太子となり、妃を迎える年齢である。病弱な軽皇子が世継を作らない間に死んでしまえば、女帝の最大の望みは藻屑となってしまう。この時不比等が考えたのは鴨姫との間に生まれた宮子を軽皇子の妃にすることであったが、不比等は天皇の臣下であるため難事である。この時以来、不比等は三千代と深い仲になりたいと思うようになり、三千代は鴨姫の娘・宮子を軽皇子妃として手腕を振るうことになるのである。なんといっても三千代は軽皇子の教育係で、一番気を許せる人でもあったから、その助力を得れば宮子が妃になれる可能性は高い。ただし後に高位の皇族の女人が妃となれば、それが皇后となり、その皇子が皇太子となる。697年、後宮に15歳以下の女人が数名はいった。軽皇子の妃には不比等と鴨姫の子・宮子を含めて3人が選ばれた。あとの二人は紀朝臣竈門娘と石川朝臣刀子娘である。軽皇子は後宮で顔色が優れない宮子よりも刀子娘を好んだというが、県犬養宿禰三千代は、皇子と宮子の仲を取り持ち、最初の閨は宮子が勤めた。後に宮子は首皇子を産み皇子は45代聖武天皇となるのである。一方持統天皇は譲位のことを考えていたが、皇太子はまだ15歳であり政務に就ける状態ではない。不比等がこのときに提案したのは軽皇子を新天皇にし、女帝は太上天皇になるという案である。これにより軽皇子を新天皇にするという野望を果たすと同時に、女帝の疲労を軽減し、最上位から政務を監督するという政治の要は女帝の采配が振るわれる。かくして697年八月に文武天皇が誕生した。時に、女帝53歳、不比等39歳であった。

 文武天皇即位は簡単に実現したのではなく、反対派としてやっかいな長皇子と弓削皇子がいた。天武と大江皇女との間に生まれたふたりに対抗できるのは、天智の娘・新田部皇女を母とする舎人皇子である。新田部皇女の母は阿倍倉梯麻呂の娘であるから格は申し分がない。一方新田部皇子は母が鎌足の娘・五百重娘で、後に不比等が妻にし、麻呂をもうけており、血統はいいが若すぎる。十市皇女を母とする葛野王は大友皇子の子になるが、天智の孫にあたり、天武系の皇子だけではなく天智系の皇子も加えて、軽皇子を推挙させることを物部連麻呂は不比等と密談したようである。早速物部連麻呂は天香具山近くの葛野王邸を訪れ、見方に加えた。こうして長皇子・弓削皇子の反対のなか軽皇子が立太子し、後に文武天皇となっているのである。701年には不比等の娘・宮子は文武の子・首皇子(後の聖武天皇)を産み、後宮で勢力を持つ県犬養美千代が不比等の子・安宿媛(後の光明皇后)を生んだ。このとき物部連麻呂は62歳で正三位大納言。当時の右大臣は従二位阿倍朝臣御主人である。翌702年についに律令は施行され、文武天皇は藤原京の北の平城の地に遷都の勅をだした。唐から帰国した粟田朝臣真人は律令編纂に全力を傾けた官人で藤原京は貧弱すぎるというのである。物部連麻呂は農民の苦役を想像し、反対の意見を持っているが、不比等はどうしても遷都したいと考えている。女帝はこの年亡くなり、殯を嫌って火葬を行ったが、それ以来不比等の政治への関与は深まっていく。病弱な文武は政治を執れる状態ではなくなり、文武の母・阿閉皇女が中継ぎの天皇になる可能性が高まった。不比等は自分の孫である首皇子を天皇にしたいから、阿閉を積極的に中継ぎ天皇に推すためである。

 707年、文武が25歳で亡くなると母・阿閉が元明天皇として即位した。このとき物部連麻呂は元明天皇から左大臣の命を受けたがもちろん不比等の推挙であり、遷都に対して賛成するようにとの裏工作の現れである。物部連麻呂は左大臣を承諾はしたが、新しい都へ居を移すのではなく、かつて持統天皇がいた旧藤原京の宮殿を守りながら老後を過ごす意思を不比等に伝えた。物部連麻呂が脳卒中で倒れたのは717年、78歳の長寿を全うし、元正天皇より従一位を賜り、不比等はその3年後に62歳で亡くなった。

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藤原宮大極殿院の発掘調査(飛鳥藤原第182次説明会)

2014年11月10日 | 奈良・飛鳥時代

 2014/11/8 奈良明日香村の都塚古墳を見に行こう!その途中渋滞のためわき道にそれたのが幸運の始まりでした。以下の説明会のことを知らずに走ると、一面に広がる藤原宮のコスモス畑。もちろん車を止めて現地に向かうと、藤原宮大極殿院発掘調査の現地説明会会場でした。

藤原宮大極殿院発掘調査の現地説明会が開催されます。

 開催日:平成26年11月8日(土)

時 間:13:30~(説明は1回) ※小雨決行

場 所:発掘調査現場(奈良県橿原市高殿町)

アクセス:近鉄大阪線「耳成(みみなし)」駅南口から南へ徒歩約25分

報告者:森川 実氏 (都城発掘調査部(飛鳥・藤原地区)主任研究員)
 問合せ:奈良文化財研究所 都城発掘調査部(飛鳥・藤原地区)

 我が国で初めて首都として計画的に造られた都市が藤原京です。日本書紀では「新益都(しんやくのみやこ)」という表現で登場します。都が藤原京に移ったのは持統8年(694年)ですが、この都づくりを計画したのは天武天皇でした。その末年には、道路づくりなど実際の京造営工事がはじまっていたことが発掘調査でわかってきました。 京内は中央に宮をおき、中国の都城にならって、縦横に走る条坊道路で整然とした区画割りをしています。それらの多くは貴族・役人の宅地として身分に応じた広さで支給されていました。 また、京内には沢山の寺がつくられましたが、中でも官立の大寺院として大官大寺と薬師寺が東西に配置され、荘厳さを競っていました。京内の人口は2~3万人と推定されますから、官営の市場はさぞにぎわっていたことでしょう。藤原京は16年間と短い期間でしたが、日本が律令国家としての体裁を整えていく、とても重要な時代の都です。大宝元年(701)には大宝律令が完成し、政治のしくみが整備されるとともに、富本銭に続いて和同開珎が発行され、経済の仕組みも変化していくことになりました。藤原京の大きさは、これまで古代の幹線道路の中ツ道、下ツ道、横大路、山田道を京の端の道とした東西2.1km・南北3.2kmと推定してきました。ところが、この範囲をこえて外側にも道路や宅地が広がっていることが近年の発掘調査によってわかり、平城京をしのぐ広大な都の姿が明らかになりつつあります。1300年前の首都・藤原京の中心、現在でいえば皇居と国会議事堂と霞ヶ関の官庁街をあわせたところが藤原宮です。都の中央約1km四方を占め、まわりは高さが5.5mもある瓦葺きの塀が巡り、各辺には門が3ヶ所ありました。そして、塀に平行して内堀と外堀がつくられていました。 宮の内部は、中央に政治・儀式の場である大極殿、貴族・役人の集まる朝堂院が南北に並び、大極殿の北は天皇の住まいの内裏でした。大極殿と朝堂は宮殿で初めての瓦葺きで、礎石の上に柱が立つ建物です。大極殿は当時最大級の建物でした。これら中央の区画の両側は官公街です。日の出前から出勤した役人たちが、ここで政治の実務を担当していました。中央部に接して一辺約70mの塀で囲った四角い区画の役所が南北に並び、その外側は大きな区画の役所で、長い建物が建つことがわかってきています。(奈良文化財研究所の説明より抜粋)

調査エリアは藤原宮大極殿院内庭の西隣の遺構

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鶴林寺 本堂秘仏御開帳

2012年11月06日 | 奈良・飛鳥時代

 国宝・太子堂が再建900年を迎え、本堂秘仏・薬師如来の慶讃特別ご開帳が11月25日まで行われているのは鶴林寺。平安期作の『薬師如来坐像』は本堂で、同じく秘仏で平安期作の『日光・月光菩薩像』は、宝物館にて見ることができます。本堂前の回向柱(本尊の右手薬指と結ばれています)に触れることでご利益を頂きました。結跏趺坐薬師如来右手の印相は施無畏印で東大寺大仏と同じ、左手の印相は与願印で薬壺を持っていることから平安時代以降の作であることがわかる。もちろん撮影禁止なので掲載できないのが残念。

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役小角縁の護摩行事

2012年11月04日 | 奈良・飛鳥時代

 兵庫県加古川にある鶴林寺では、国宝太子堂再建900年記念ということで、本堂秘仏本尊薬師如来・太子堂 特別参拝が10月6日より始まっている。紅葉も期待して出かけてみると本日は16:00から護摩行事も行われるとのこと。護摩の荒行などとよく聞くが、どんなものなのか実際には見たことがなかったので最後まで居残ってみることとした。護摩行事といえばその開祖は役行者で有名な役小角である。

 役小角(えんのおづぬ、634年伝 - 706年伝)は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者で、役行者と呼ばれ修験道の開祖とされている。 『続日本紀』は、699年に、役君小角が伊豆島に流されたことを伝えている。 小角ははじめ葛城山に住み、呪術によって有名になった。 弟子の韓国連広足が、小角が人々を言葉で惑わしていると讒言したため、小角は遠流になったという。 役小角にまつわる話は、やや下って成立した『日本現報善悪霊異記』に採録された。 霊異記で役小角は、仏法を厚くうやまった優婆塞(僧ではない在家の信者)として現れる。 大和国葛木上郡茅原村の人で、賀茂役公の民の出である。若くして雲に乗って仙人と遊び、孔雀王呪経の呪法を修め、鬼神を自在に操った。鬼神に命じて大和国の金剛山と葛木山の間に橋をかけようとしたところ、葛木山の神である一言主が人に乗り移って文武天皇に役優婆塞の謀反を讒言した。役は天皇の使いには捕らえられなかったが、母を人質にとられるとおとなしく捕らえられた。伊豆島に流されたが、昼だけ伊豆におり、夜には富士山に行って修行した。大宝元年(701年)正月に赦されて帰り、仙人になった。一言主は、役優婆塞の呪法で縛られて今(霊異記執筆の時点)になっても解けないでいる。

 当時は持統天皇朝で、天武天皇の意思を受け継ぎ藤原京(698年遷都)を造る前のことである。 大宝律令により戸籍の原型が出来上がり、民に租税を課し苦しめる一方で朝廷は贅沢を極めている。 藤原鎌足の子である不比等が中臣連大嶋を追い抜き権勢を拡大していこうとしていた頃である。 持統天皇の寵愛する息子・草壁皇子は亡くなり、軽皇子(後の文武天皇)を次期天皇に擁立させようと躍起になっていた頃である。 役小角は道昭という禅僧を師としていたらしい。 因みに行基や玄坊も道昭の門下から出ている。 藤原京の造営にはどれだけの民衆の苦役が課せられたか想像を絶する。 かくして大規模な集団脱走が起こった。 追っての総隊長は大和一の武術家・坂上忌寸大国といい東漢氏出身で坂上狩田麻呂の祖父にあたる。 不比等の放った律令制度に対して不満を抱く貴族も中にはいて、中臣連大嶋や彼の意思を受け継いだ三輪朝臣高市麻呂もそのひとりである。 また太政大臣である高市皇子もそのひとりといって良い。 脱走した集団のほとんどは捕らえられたが中には山賊になるものもいる。 集団の首謀者と思われる者は北伊勢の首長であった朝日郎子の血を引いた気骨のある氏族で、火焙りの刑になるという。 この件で早速三輪朝臣高市麻呂と役小角は密談をかわした。 三輪朝臣高市麻呂は壬申の乱で武勇をあげ、学識にも優れた人物である。 火焙りの刑が行われる場所を聞こうとしての密談である。 三輪朝臣高市麻呂は女帝に御幸は農民に負担をかけることになると諌めたために、謹慎の身であったが故に情報収集力が弱かった。 当時不比等よりも実力を持ち、闇に暗躍していた石上朝臣物部連麻呂は昔、大友皇子に仕えてはいたが大海人皇子と密通しており、壬申の乱後重用され、今や持統天皇にも重用される存在となっている。 役小角の動きを今のうちに断ち切っておかなければならないと考えていた人物である。 そしてこの火焙りの刑で役小角をおびき寄せようと考えていたに違いない。

 役小角の弟子・虫麻呂が三輪朝臣高市麻呂の間者・山虫から受けた情報によると、刑の場所は葛城、室の大墓のちかくらしい。 室の大墓といえば葛城襲津彦の墓と云われている場所である。物部連麻呂は太政大臣・高市皇子に呼ばれ、火焙りの刑が令には無いこと、女帝が憤慨していることを告げた。 物部連麻呂は、反逆者である役小角をおびき寄せるために物部連広川が仕組んだものであり、火焙りの意思はなかったことを説明した。 今高市皇子は天皇位を巡って微妙な位置にいる。 物部連麻呂を敵に回すのは得策ではないと思ったのか、話題を役小角逮捕に変え、女帝には火焙りの刑などなかったと伝えることにした。 坂上忌寸大国は朴井連雄君の甥にあたる朴井連子麻呂の役小角攻略について意見を求めるが、感心がないような口調である。 物部連麻呂は石上神宮を擁して今の持統天皇朝で頭角を現したのであるが、朴井連雄君が早くに亡くなった後物部に押されたためか闘争心に欠けている。

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蘇我氏滅亡後

2012年09月29日 | 奈良・飛鳥時代
 蘇我蝦夷・入鹿が葬られた翌日、皇極天皇は弟に譲位し、孝徳天皇が即位した。 当初皇極の譲位の意志は息子の中大兄皇子にあったが、兄の古人大兄、叔父の軽皇子を差し置いて即位するのは良くないと助言した。 軽皇子は古人兄王の即位を勧めたが、古人兄王が固辞したのである。 中大兄皇子は皇太子となり、左大臣には安倍倉梯麻呂、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂が任じられることで大化の改新政権が発足した。 大化の改新で新政権が目指したものは何なのか、日本書紀に記された改新がどこまで史実に忠実に描かれているのかをめぐって、長く議論が繰り広げられたが、この改新により後に律令国家体制につながっていくことは事実である。 しかし、ここで蘇我氏の歴史は終わったわけではなく、この豪族は改新の後も大和政権の雄族として活躍した。 右大臣・蘇我倉山田石川麻呂である。 しかし改新の4年後、謀反の疑いをかけられて自殺に追い込まれたが、実際には中大兄皇子による謀略があったとされる。 後、蘇我赤兄は天智天皇に重用されて左大臣になるが、壬申の乱では近江方についたために配流となる。 その後、天武期には氏名を石川氏に改めるが次第に衰退して、藤原氏の台頭とともにいれかわり朝廷の中心から遠ざかっていった。 

 話を蘇我氏の出自に戻してみる。 蘇我氏の渡来系説が学会だけではなく古代史ファンのなかでも広まった時期がある。 これは蘇我氏の逆賊観とうまく融合したところにあるらしい。 蘇我氏は渡来人で天皇への忠誠心が薄かったから、天皇をないがしろにしてとってかわろうとした、というのである。 もうひとつ蝦夷、入鹿は本当の名前ではなく大化の改新以降に逆賊ゆえにつけられた差別的な蔑称であるとする説がある。 しかし古代の資料からは、鴨君蝦夷、河内連入鹿など動物に由来する名前は多くあり、動物の生命力にあやかろうとする命名であり蔑視に値するものではない。  そこで蘇我氏渡来人説を外すと、この氏の発祥の地としては大和国高市郡曽我説、葛城説、河内国石川郡説がある。 祖・武内宿禰の子・宗我石川は河内国石川に生まれ、石川の名とした。 そして宗我の大家を賜り宗我宿禰の姓を賜った。 その後朝臣の姓を賜り、石川朝臣を子孫の姓とした。 蘇我氏発祥の地は石川で後の大和の曽我に移住したとの伝承が注目された。 しかし蘇我氏が河内の石川に拠点をもったのは7世紀以降であり、本拠地ではない。 

 一般に蘇我氏や葛城氏といった臣姓を名乗る豪族は、自らの本拠地の地名を氏として名乗る原則があるという。 すると蘇我氏の本拠地は大和国曾我となる。 6世紀前半以降は蘇我氏の本拠地と考えてよいが、それ以前はどうか。 それ以前については葛城氏であった説がある。 葛城氏は5世紀には最大の勢力を誇った豪族である。 雄略天皇と戦って以降衰退した後、その支族であった蘇我氏が次第に勢力を伸ばしたという。 その論拠は推古紀と皇極紀にあるという。 蘇我馬子が葛城は私の本拠であるといっており、聖徳太子伝では馬子のことを蘇我葛木臣としてでてくる。 蘇我馬子の母はだれなのか?については不明である。 最近、馬子の母は葛城氏であるとする説がでてきたらしい。 これは葛城は馬子の本拠であると記している推古紀からきている。 当時長子は母の実家で生まれて育った。すると葛城は蘇我氏全体ではなく、馬子一人のの本拠になる。 しかし皇極紀では、蘇我蝦夷が自氏の祖廟を葛城高宮に立てたという記事からすれば、葛城は馬子ひとりの故郷ではないとなる。 したがって馬子の母は葛城氏出身とするには無理がある。 また蘇我氏が葛城氏との関わりを強調するのは、蘇我氏が圧倒的な地位を確立てから記された推古紀、皇極紀であることは見逃せない。 つまり5世紀に最大の豪族であった葛城氏の末裔であることを蘇我氏は強調することで、権勢のよりどころを名族の末裔であるところに求めたのかもしれない。
葛城氏の本拠地にある馬見古墳群のナガレ山古墳と倉塚古墳

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