平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

臣籍降下の最初は嵯峨源氏・源信

2024年03月01日 | 平安時代

第52代嵯峨天皇の子は50人、そのうち臣籍降下したのは32人(全員源姓 女性15人)

臣籍降下(姓を与えることによって天皇家から外す)の理由条件結果
 ┣国家財政の圧迫
 ┣天皇になれていない皇族の4代後@大宝律令
 ┣降下第一世代は良かったが第二世代以降の生活は過酷
 ┣嵯峨源氏は政界へ
 ┣清和源氏は武士
 ┣
        
                        
                  房前681-737
 ┃781 50桓武天皇即位       ┗真楯715-766
 ┃    ┣51平城天皇即位806     ┗内麻呂756-812
 ┃    ┗52嵯峨天皇即位809 ---     ┗藤原冬嗣775-826を蔵人頭@810   
 ┃        ┃              ┣順子809-871---54仁明天皇皇后 
 ┃        ┃              ┃
 ┃        ┃              ┗藤原良房804-872 ---橘嘉智子と結託して承和の変@842 
 ┃        ┃                 ┣明子829-900---55文徳天皇皇后
 ┃        ┣---------------------------------------------潔姫810-856  ┃  
 ┃        ┣54仁明天皇810-850               ┣56清和天皇850-881
 ┃        ┃  ┣--------------------------------------------55文徳天皇827-858  
 ┃        ┃  藤原順子809-871   
 ┃        ┣正子内親王810-879   
 ┃        ┃  ┣恒貞親王825-884:承和の変で廃太子   
 ┃        ┃53淳和天皇786-840   謀反の罪 : 橘逸勢782-842 伴健岑?-? 
 ┃        ┃             橘氏、伴氏排除  
 ┃      橘嘉智子786-850          
 ┃        
 ┃       女御              
 ┃        ┣源善姫814-             
 ┃        ┣源定 815-            
 ┃        ┣源鎮 824-           
 ┃        ┗源若姫?
 ┃       更衣                          
 ┃        ┣源常 812-  ----第三源氏:左大臣           
 ┃        ┗源明 814- 
 ┃       更衣       
 ┃        ┗源清 ? 
 ┃       更衣                          
 ┃        ┣源啓 829-           
 ┃        ┗源密姫? 
 ┃       宮人                           
 ┃        ┣源信 810-868----最年長 :貴族出世-左大臣                           
 ┃        ┣源弘 812-  ----第二源氏:大納言                       
 ┃        ┣源寛 813-                            
 ┃        ┣源生 821-                               
 ┃        ┣源安 822-                              
 ┃        ┣源融 822-895                               
 ┃        ┣源勤 824-                              
 ┃        ┣源潔姫809-856----藤原良房(人臣初の摂政)室:唯一結婚した女性    
 ┃        ┃                       皇族初の人臣の妻
 ┃    
 ┃               
 ┃866 応天門(放火)の変 --- 大納言・伴善男811-868親子は流罪---伴氏没落      
 ┃               左大臣・源信810-869:最初に疑われた---憤死
 ┃                      
 ┃             

 ┃   藤原良房804-872   
 ┃    ┗基経836-891(養子)
 ┃     ┃   54仁明天皇810-850     
 ┃884   ┣58光孝天皇830-887即位884   
 ┃     ┃  ┣59宇多天皇867-931  ⇔ 藤原基経 
 ┃     ┃ 班子女王833-900 ┣60醍醐天皇885-930  
 ┃     ┃           ┗敦実親王 893-967       
 ┃    藤原沢子?-839       ┣左大臣・源雅信920-993(雅信王:父が天皇ではない 左大臣高明の没落を見ている)
 ┃                  藤原時平娘   ┣時中941-1002:管弦・歌舞・琵琶の名手    
 ┃                          ┃ 
 ┃                          ┣時方:学問 ---6代後に源仲明?-1219文章博士 
 ┃                          ┃          
 ┃                          ┗倫子964-1053:母は藤原穆子931-1016(冬嗣の玄孫・朝忠の娘)
 ┃                          ┣
 ┃                         藤原道長966-1028
 ┃                          ┣

 ┃                         明子965-1049:父は左大臣源高明914-983(安和の変で流罪)
                      
 ┃              
 ┃                                           
 ┃              
 ┃                      
 ┃                 藤原基経
 ┃【源氏排斥にて藤原氏一強完成】   ┗藤原忠平880-949                  
 ┃      60醍醐天皇         ┗藤原師輔909-960
 ┃969 安和の変 ┗源高明914-983流罪 黒幕は┗藤原兼家か?929-990 ---右大臣 
 ┃         妻:実資の娘          ┣詮子935-1002
 ┃         妻:師輔三女          ┃  ┣66一条天皇 
 ┃           師輔五女          ┃64円融天皇959-991                 
 ┃                         ┗道兼961-995
 ┃        
 ┃986 寛和の変 65花山天皇968-1008退位落飾---     
 ┃        66一条天皇980-1011即位 @左大臣源雅信920-993

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藤原氏はその他の氏族を排除していった

2024年03月01日 | 平安時代

藤原不比等659-720:藤原氏繁栄の基礎--唐618-907を模範
 ┣645 乙巳の変By中臣鎌足
 ┣田辺史一族の下で育つ@大阪柏原
 ┃ ┣百済から渡来:@660唐に滅ぼされたために渡来
 ┃ ┣卓越した行政・工業技術・能力 
 ┃ ┗氏寺・田辺廃寺(最先端の薬師寺形式)は春日神社一帯
 ┣671 38天智天皇崩御 → 壬申の乱
 ┣672 40天武天皇即位 → 大友皇子側に就いた田辺一族は冷遇
 ┣天智天皇の娘・鸕野讚良皇女(天武の后、後の持統天皇)が優秀な不比等を取り立てる の孫)と結婚の孫)と結婚 の孫)と結婚 
 ┃ 
 ┃ 蘇我倉麻呂?-? 
 ┃  ┗蘇我連子611-664
 ┣678 ┗蘇我娼子?-?(曽我馬子の孫)と結婚 
 ┃   
 ┣武智麻呂680-737 
 ┃    ┣房前  681-737 
 ┃    ┗宇合  694-737
 ┣686 40天武天皇崩御---草壁皇子病死
 ┣後漢書、文選などの中国の歴史書を学ぶ
 ┣689不比等---判事に抜擢:法律整備  
 ┃       ┃ 制度にして服従させる
 ┃       ┣律令作成開始:大宝律(刑法)令(行政法)---唐を模範 701完成 
 ┃       ┣太上天皇(譲位した天皇 新天皇を補佐) ---幼い軽皇子を持統天皇が補佐必要
 ┃       ┣譲位システム              ---代替わりの瞬間は危ない
 ┃       ┗嫡男が皇位継承             ---問題発生回避
 ┣
 ┣690持統天皇即位
 ┃  藤原鎌足614-669
 ┣694 ┗五百重娘?-?(元々天武天皇の后 不比等の妹)と結婚 
 ┃     ┗麻呂695-737
 ┣695賀茂姫(?)と結婚 
 ┃   ┣宮子 ?-754 (文武天皇后)--首皇子誕生@701 後の聖武天皇 
 ┃   ┗長我子?-?  (長屋王の妾となり安宿王、黄文王、山背王の母)
 ┣697 42文武天皇即位(持統天皇の孫)---持統太上天皇
 ┣697不比等は長女・宮子を文武の后とする:外戚関係成立
 ┣701県犬養美千代(美努王との間に橘諸兄)と結婚 
 ┃   ┣光明子(聖武天皇の后、宮子の義妹) 
 ┃   ┗多比能(橘諸兄の正妻:近親婚) 
 ┃    
 ┣702遣唐使派遣再開
 ┃  41持統天皇崩御@58 
 ┃    
 ┣707 40文武天皇崩御--病@24
 ┃   ┃首皇子継承のための中継ぎは?   --続日本紀に詳細記述
 ┃   ┃ ┗阿閉の夫・草壁皇子の命日を国忌に制定--草壁を天皇と同列に格上げ+阿閉を皇后と同列
 ┃   ┃ ┗阿閉皇女が即位@707元明天皇 不改常典--先帝の遺言:天智の掟
 ┃   ┃
 ┃   ┣首皇子の祖母・阿閉皇女(文武の母)--慣例無し
 ┃   ┣舎人親王             --有力だが不比等とは無縁 
 ┃   ┗長屋王(高市親王の子、不比等の娘・長我子が妻、妃吉備内親王は持統の孫)
 ┣都造り      
 ┣720   不比等死去 ---平城京を用意(長安を模 中心は大極殿-高御座)
 ┃             ┗東隣には不比等の邸宅--釉を塗った瓦出土(新技術)
 ┃ 

 ┃      
 ┃           
 ┣724 45聖武天皇即位

 ┣後漢書、文選などの中国の歴史書を学ぶ
 ┣歴史書編纂:朝鮮式漢文 
 ┃   ┗日本書紀:全30巻 41代天皇の記録 第1巻--天地創造、国生み・・・ 
 ┃     ┣最初は唐からの渡来人が執筆 
 ┃     ┣日本人が執筆して書き換え修正@不比等編纂 
 ┃     ┣編纂方針が転換:天照は持統をモデルにして神話創造By不比等 
 ┃     ┣天孫降臨   :持統の孫・文武を意図する 
 ┃     ┗不比等、持統、文武の時代の歴史書:唐に対抗するための権威書--外交策  
 ┃     
 ┃【皇族の長屋王排除】     
 ┃ 天武天皇?-686 
 ┃  ┗高市皇子656-696  
 ┣729  ┣長屋王676-729死去 ---左大臣  →藤原4兄弟による謀反の罪
 ┃   御名部皇女?-?(父:天智天皇 母:蘇我倉山田麻呂娘・姪姫)
 ┃   
 ┣730 藤原武智麻呂(734右大臣)政権誕生 →蘇我氏から藤原氏政権   
 ┃    
 ┣737 藤原4兄弟病死@天然痘   
 ┃    
 ┃  敏達天皇538-585 
 ┃  ┗難波皇子560-587 
 ┃   ┗栗隈王?-708 
 ┃    ┗美努王?-?  
 ┣738   ┗橘諸兄684-757政権:葛城王 右大臣 母:県犬養美千代     
 ┃      (側近:吉備真備 玄昉         ┗光明子701-760(聖武天皇の皇后)   
 ┃           ↕ 広嗣戦死            ┗孝謙天皇718-770  
 ┃     
 ┃【橘氏排除失敗】
 ┃     
 ┃740 藤原広嗣(?-740宇合の子)の乱@九州大宰府   
 ┃     
 ┃748 藤原仲麻呂706-764台頭 : 橘諸兄と対立     
 ┃749 45聖武天皇譲位→46孝謙天皇(718-770:)即位   
 ┃     
 ┃【橘氏排除】       
 ┃        
 ┃756 橘諸兄は左大臣辞任:謀反の密告      
 ┃756 聖武天皇崩御 ---道祖王皇太子 ---大炊王立太子(粟田諸姉・仲麻呂嫡男真従の妻)   
 ┃757 橘奈良麻呂(721-757)の乱 ---天皇の廃位を企てるが密告により露見---道祖王、黄文王など獄死
 ┃   仲麻呂は太政官:最高権力
 ┃758 47淳仁天皇即位      
 ┃      
 ┃       
 ┃760 光明皇后崩御---仲麻呂打撃
 ┃762 孝謙上皇は道鏡を寵愛 ---仲麻呂の諫めに対して孝謙上皇激怒      
 ┃      
 ┃            
 ┃【藤原氏危機】      
 ┃           
 ┃   孝謙、道鏡 ⇔ 仲麻呂、淳仁   
 ┃764 藤原仲麻呂の乱---軍事力政権奪取に失敗---淳仁天皇は廃位・淡路島に配流      
 ┃770 48称徳天皇崩御-(天武天皇系断絶)--光仁天皇即位(白壁王 天智天皇系 父は志貴皇子)     
 ┃      
 ┃            
 ┃【藤原氏復活】      
 ┃             
 ┃   49光仁天皇天皇の権威を引き上げるため、藤原氏登場 :藤原永手714-771 百川732-779
 ┃ 蘇我倉麻呂?-? 
 ┃  ┗蘇我連子611-664
 ┣   ┗蘇我娼子?-?(曽我馬子の孫)と結婚 
 ┃    ┣武智麻呂680-737 
 ┃    ┣房前  681-737                
 ┃    ┃ ┗藤原永手714-771 太政官@765  
 ┃    ┗宇合  694-737                
 ┃      ┗藤原百川732-779 贈太政大臣@779
 ┃      
 ┃      
 ┃     
 ┃【藤原氏盤石画策】          
 ┃【橘氏 伴氏ダメージ】     
 ┃                            
 ┃【承和の変@842】---  橘氏、伴氏排除するために藤原氏が企てた謀反の罪   
 ┃           藤原冬嗣、良房親子は外戚関係を構築        
 ┃                        
 ┃                房前681-737
 ┃781 50桓武天皇即位       ┗真楯715-766
 ┃    ┣51平城天皇即位806     ┗内麻呂756-812
 ┃    ┣52嵯峨天皇即位809 ---     ┗藤原冬嗣775-826を蔵人頭@810   
 ┃        ┃              ┣順子809-871---54仁明天皇皇后 
 ┃        ┃              ┃
 ┃        ┃              ┗藤原良房804-872 ---橘嘉智子と結託して承和の変@842 
 ┃        ┃                 ┣明子829-900---55文徳天皇皇后
 ┃        ┣---------------------------------------------潔姫810-856  ┃  
 ┃        ┣54仁明天皇810-850               ┣56清和天皇850-881
 ┃        ┃  ┣--------------------------------------------55文徳天皇827-858  
 ┃        ┃  藤原順子809-871   
 ┃        ┣正子内親王810-879   
 ┃        ┃  ┣恒貞親王825-884:承和の変で廃太子   
 ┃        ┃53淳和天皇786-840   謀反の罪 : 橘逸勢782-842 伴健岑?-?
 ┃       橘嘉智子786-850       橘氏、伴氏排除 
 ┃                      
 ┃     
 ┃【伴氏滅亡】          
 ┃【源氏ダメージ】       
 ┃               
 ┃866 応天門(放火)の変 --- 大納言・伴善男811-868親子は流罪---伴氏没落      
 ┃               左大臣・源信810-869:最初に疑われた---憤死
 ┃   藤原良房804-872   
 ┃    ┗基経836-891(養子)
 ┃                      
 ┃   54仁明天皇810-850     
 ┃884   ┣58光孝天皇830-887即位884   
 ┃     ┃  ┣59宇多天皇867-931  ⇔ 藤原基経 
 ┃     ┃ 班子女王833-900   
 ┃     ┃                   
 ┃    藤原沢子?-839      
 ┃              
 ┃【橘氏ダメージ】                   
 ┃888 阿衡事件 --- 阿衡の仁(宇多天皇に命じられた橘広相837-890)に憤慨した藤原基経836-891→出仕拒否→宇多天皇謝罪      
 ┃          (中国故事 :誉れ高き役職)            
 ┃          (藤原佐世 :実職務なし)
 ┃          (橘広相は処罰はなかったが出世することなし)               
 ┃        
 ┃                      
 ┃891 藤原基経死去    
 ┃                      
 ┃          
 ┃【菅原氏滅亡 源氏ダメージ】                      
 ┃901 昌泰の変          
 ┃    ┣時平871-909左大臣  ⇔ 菅原道真845-903右大臣 @59宇多天皇867-931の治世   
 ┃    ┃              →60醍醐天皇885-930を廃そうとの画策でっちあげBy時平   
 ┃    ┃               道真流罪@大宰府---源善?-?も連座
 ┃    ┣忠平                   
 ┃    ┗藤原時平    
 ┃                      
 ┃                 藤原基経
 ┃【源氏排斥にて藤原氏一強完成】   ┗藤原忠平880-949                  
 ┃      60醍醐天皇         ┗藤原師輔909-960
 ┃969 安和の変 ┗源高明914-983流罪 黒幕は┗藤原兼家か?929-990 ---右大臣 
 ┃                         ┣詮子935-1002
 ┃                         ┃  ┣66一条天皇 
 ┃                         ┃64円融天皇959-991                 
 ┃                         ┗道兼961-995
 ┃        
 ┃986 寛和の変 65花山天皇968-1008退位落飾---     
 ┃        66一条天皇980-1011即位 @左大臣源雅信920-993

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紫式部は栄華を誇った藤原氏北家の末裔 曾祖父は百人一首に登場する兼輔である

2024年01月27日 | 平安時代

今年の大河ドラマは「光る君へ」

めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に雲がくれにし夜半の月かな

 上の作者・紫式部は道長の長女・中宮彰子に出仕し、道長に一目置かれる右大臣実資と彰子との仲介役を務め、道長とも親密な付き合いがあった。紫式部日記の中で、清少納言のことを厳しく批評し、赤染衛門のことを賞賛した源氏物語の作者は、「すきものと名にし立てれば見る人の折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ」いうと、「とんでもない」と道長とのやりとりを日記に書いているために、道長と式部の恋仲説もあるが、定かではない。清少納言の陶酔や和泉式部の恋愛に対する没頭を、才能の空しい浪費であると思った感のある冷静な紫式部は源氏物語の中で道長の盛衰を予感したかのように物語っているのである。因みに紫式部は藤原為時の娘であり、為時は藤原雅正と藤原定方・娘との間に生まれた。

 紫式部は意外にも栄華を誇った藤原氏北家の末裔である。そして紫式部と肩を並べて評される清少納言も同じである。藤原氏の栄華を誇った良房・基経・時平の系統とは違って、かなり落ちぶれた藤原文範系である。紫式部が幼い10歳の頃、すでにその才覚が現れ始めていた。叔父の為頼は円融帝に仕え、父為時は文章人としての才覚を生かし、播磨守として播磨の国に赴任していた。式部の父為時が播磨に赴任して10年になる頃、叔父の勧めもあって上洛し、師貞親王(後の花山帝)のお近づきになりますが、 まわりの目に留まったのは、幼い紫式部の姉でした。 その色の白い美しさは群を抜いていたのです。 いっぽう式部は色黒・・・でひっこみ思案。 それから数年たって、式部が15歳の頃、清原元輔という学者が頭角をあらわした頃、ひょんなことから、次女と式部は出会います。 その時式部は4歳年上の彼女を歌でやりこめています。 相手は、あの清少納言です。 

964? 清少納言誕生
970? 紫式部生誕 
     ┗父:藤原為時(式部丞)  母:藤原為信女 ---藤原北家 
984  藤原為時式部の丞・六位
986  為時退官      

987  道長は倫子と結婚     
        紫式部は倫子(964-1053藤原道長の妻)に出仕?
        → 出仕:天皇の后と有力貴族との取次
          身の回りの漢書を読破

988  彰子誕生
    明子と結婚----詮子の手引き
     
990  兼家死去 道隆摂関継承
     
991  道長権大納言
993  清少納言は中宮定子に出仕 
    
994  伊周内大臣@21歳                 

995  5月 道隆死亡
    7月 隆家の従者が乱闘
    8月 伊周の外祖父・高階成忠が道長を呪詛
996  藤原為時は越前守として赴任・娘紫式部も同行
    1月 長徳の変 隆家による花山法皇に矢を射かける
    2月 伊周、隆家の罪科決定
    3月 詮子の悩みの原因が呪詛
    4月 伊周は大宰府に流罪 隆家は出雲に流罪 定子落飾    
        
    7月 藤原道長966-1028はトップの座・左大臣につく--兄の相次ぐ病死    
    10月 高階貴子(儀同三司母として百人一首に掲載)死亡

    数多の年上の公卿から無視される始末---外祖父案

    996年、藤原伊周(中宮定子の兄)が上皇に矢を射かけた罪で大宰府に流罪になった後、定子とともに清少納言(32歳)も宮廷からいったん追い出される。その後、藤原伊周の赦免により清少納言も宮中に戻る。この時紫式部(定かではないが20~26歳前後)は父と共に越前へ行っている。翌997年紫式部は京へ戻り藤原宣孝と結婚。紫式部が道長の娘・彰子(1000年に12歳で中宮)に出仕したのは1005年。このとき中宮定子は既に没し(1001年)清少納言も行方知れずになっている。つまり清少納言と紫式部は出会っていないのである。

二人は同時期ではあるが、宮中に出仕していた時期が違う。清少納言が宮中を去ったのは定子が死んだ1001年。紫式部が出仕開始したのは道長の娘彰子17歳(1005年) 従って出会ってはいない。もっと詳しい話を聞きたければ勉強会にて^^

因みに紫式部の生誕は不明(970~976年)つまり清少納言は紫式部の12歳上かもしれない。

998  彰子誕生
    明子と結婚----詮子の手引き   
    紫式部970?-?は藤原宣孝(?-1001 また従兄弟 筑前国司、山城国司)と結婚
      ┗実は紫式部は藤原宣孝の求婚を断っている
      (めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな)

999    藤原賢子999-1082歌人 誕生
      紫式部でさえ名前が分からないのに娘は何故賢子と判明?
       ・1017--道長の娘彰子に出仕@18歳
            道長、明子の子頼宗993-1065と交際
            公任の子定頼995-1045と交際
            雅信の子朝任989-1034と交際
       ・藤原道兼(道長の兄961-995)の次男兼隆985-1053と結婚--離婚
       ・1025--親仁親王(後冷泉天皇)の乳母となっている
            →道長の四女喜子1007-1025と後朱雀天皇1009-1045の子          
       ・1037--高階成章と再婚 -- 為家生まれる@1038-1106
                      ┗為章(太宰大弐@1054)--高階基章--娘明子(平清盛の正妻)  
       ・1045--親仁親王即位(後冷泉天皇)
            天皇即位とともに賢子は典侍に昇進して藤三位と呼ばれた 
       ・大弐三位集残す 女房三十六歌仙

     このとき一条天皇980-1011の中宮・定子977-1001は出家の身--新たな中宮を迎えるべきと説得したのが藤原行成

1000  彰子が一条天皇の中宮になるが天皇は定子を寵愛

1001  中宮定子没するとともに清少納言は出仕を辞した
     その後の清少納言の詳細は不明
     清少納言が紫式部と面識があったか否かは不明
     
1001  宣孝病死 : 源氏物語執筆のきっかけ
             ┗世界最古の長編小説
              400字x2400枚
              妙にリアル 

           消えぬ間の 身をも知る知る 朝顔の 露と争ふ 世を嘆くかな    
           数ならぬ 心に身をば まかせねど 身にしたがふは 心なりけり

1005  安倍晴明死亡
     紫式部は宮中彰子の元に出仕 --- 一条天皇を彰子の元へ来させる作戦

           宮中の侍女とともに歌を遊ぶ    

1008  紫式部日記執筆 2010年迄

    源氏物語文献初出:執筆は蘆山寺    
             紫式部の曾祖父堤中納言 藤原兼輔(877-933 百人一首 権中納言)の寓居跡    
             紫式部の祖父・藤原雅正の代に没落

    彰子懐妊:のちの後一条天皇

1010  藤原妍子994-1027が三条天皇の中宮
1017  清少納言の兄清原致信が殺害される。殺害したのは源頼親966-1057とも源頼光948-1021とも言われている  

1018  藤原威子1000-1036が後一条天皇の中宮

    この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる ことも なし

 

 

冬嗣--嵯峨天皇より蔵人頭に抜擢
 ┗良房--人臣初の摂政
   ┗基経--史上初の関白
     ┗忠平
       ┣実頼:小野宮流         
       ┃   ┗藤原実資
       ┗師輔:九条流 ┣有識者・学者
         ┗兼家   ┣蹴鞠の達人
           ┗道長 ┣蔵人頭→参議→中納言→大納言→右大臣→従一位
               ┃     33  40   53   65
               ┗小右記--小野宮/右大臣/日記 全16巻7000P
                 ┣子猫の産養
                 ┣伝統を知らんのか
                 ┣道綱(当時大納言)批判
                 ┣紫式部@1013-----
                 ┃  彰子は亡き定子の忘れ形見・敦康親王(第一皇子)を養育していた
                 ┃  彰子が父・道長の横暴(第二皇子・敦成親王を皇太子に)を許さず
                 ┃  彰子はこれを式部に相談したという
                 ┃  この内容が実資にも伝わっている
                 ┗隆家への報償@刀伊の入寇

 

     ┏為時949-1029━紫式部970?-? 
    ┏雅正-961(紀貫之と親交) 
    ┃ 列子 ┏朝忠910-967━藤原穆子931-1016 
  ┏兼輔 ┣定方(三条右大臣)    ┣源倫子964-1053
 ┏利基?-?  ┣胤子 伊勢姫        ┣寂源     -1024 
 ┃    ┃ ┣醍醐┣中務    ┃   婉子972-998(為平親王娘,花山女御)  
 ┣藤原高藤-900┣敦慶親王888-930┃      ┣資平(養子)987-1067  ┳資仲1018-1087 ┳顕実?-?    
良門?-?      ┣敦実親王893-967┃    ┏実資957-1046(養子 小右記)      ┗資房1007-1057 ┗顕仲1059-1129
順子809-871 宇多天皇   ┣源雅信920-993      ┣頼忠924-989┳公任966-1041━定頼995-1045 
長良802-856        ┏娘 ┗済信954-1030     ┃       ┗ 遵子957-1017(円融妃)
 ┣国経828-908┏時平871-909        ┣敦敏912-947━佐理スケマサ944- 998
    ┃          ┃┗保忠   ┏   実頼900-970     斉敏928-973┳懐平953-1017┳資房1007-1057
    ┃          ┃      ┃             ┃       ┃                       ┗資平987-1067
    ┃          ┃      ┃             ┃       ┗実資サネスケ957-1046(小右記)
 基経836-891仲平875-945┃(小野宮殿) ┗述子933-947(村上女御)  63冷泉天皇950-1011
    ┃                 ┃        ┃                                ┣65花山天皇968-1008   
    ┃                 ┃        ┃                     ┃ ┃┗皇女-1024(上東門院女房:母は平平子)   
    ┃                 ┃        ┃                     ┃ ┣早世985(毒?)   
    ┃                 ┃        ┃(九条殿)                  ┃藤原忯子969-985-為光娘(弘徽殿女御)  
 ┃       忠平880-949師輔-960 伊尹コレタダ(一条殿謙徳公)  ┳懐子945-975 
    ┃       ┃          ┃          ┃924-972              ┃
 ┣淑子838-906┃        ┗師尹モロタダ    ┣為光942-992(法住寺殿)   ┣挙賢953-974
 ┃                  ┃              ┃920-969 ┃ ┣忯子969-985(花山女御)┣義孝954-974
 ┣高子842-910┃         ┣芳子       ┃ ┣誠信964-1001     ┃┗行成972-1028
 ┃    ┃        ┃        ┃(村上妃   ┃  ┣斉信967-1035     ┣義懐957-1008ヨシチカ
乙春    ┣陽成帝  ┃        ┗済時995  ┃敦敏娘         恵子女王925-992 ┗成房982-
   ┃869-949┃         ┗通任    ┃(堀川殿)     ┏媓子947-979(円融中宮)    
   ┣貞保   ┃       (三条妃)    ┣兼通925-977╋顕光944-1021┳元子(一条帝女御)979-?   ┓
   ┣敦子      ┣頼子-936(清和女御)      ┣登子?-975    ┗朝光951-995  ┗延子(敦明女御)985-1019┃
   ┗━━┓  ┃ 妹子(清和女御)       ┃キンスエ     ┗姚子971-989(花山帝女御)          ┃
良房804-872 ┃  ┣温子872-907         ┣公季957-1029 (母:康子内親王)                                    ┃
┣明子     ┃  ┃ ┣均子内親王          ┃ ┗義子974-1054(一条帝女御),実成975-1044                ┃
┃828-900     ┃ ┃ ┃890-910            ┃                                                                  ┃
潔姫 ┣56清和 ┃宇多天皇867-931       兼家929-990(東三条殿)      ━━━┓                   ┃
文徳帝827-858  ┃              ┣安子927-964               ┃                   ┃
   ┣恬子  ┗穏子885-954    盛子-943┣憲平親王  950-1011(冷泉帝)       ┃                   ┃
  紀静子?-866   ┣保明親王903-923     ┣資子内親王955-1015        ┃                   ┃
         ┣康子内親王919-957    ┣守平親王  959-991(円融帝)         ┃                   ┃
淑姫?-948      ┣寛明親王(61朱雀帝)    ┣為平親王(安和の変で失脚)952-1010  ┃                   ┃
  ┣源兼明   ┃923-952         ┣選子 ┣   源頼定977-1020     ┃         ━━━┛
       ┃914-987      ┣成明親王(62村上帝)926-967   高明娘保子   ┣ ?             ┃
60醍醐天皇  885-930        ┃ ┣具平親王    ┣広平親王950-971 元子979-(一条女御)┃
  ┃          ┃ ┃964-1009   ┃                                                  ┃
  ┃          ┃ ┣楽子952-998 ┣緝子内親王?-970                      ┃
  ┃                                  ┃荘子女王930-  祐姫(藤原元方娘)                         ┃
  ┃               ┣規子内親王949-986(伊勢斎宮)                          ┃
  ┃             微子女王929-985                                         ┃
  ┣勧子内親王899-?(母:為子内親王?-899)                                 ┃
  ┣勤子内親王904-938(藤原師輔室)                                      ┃
  ┣都子内親王905-981                                                     ┃
  ┣雅子内親王910-954(斎宮,師輔室)                                           ┃
  ┃                                                                ┃
  ┃                                                                ┃
  ┣源高明914-983(第十皇子)                                 ┃
  ┃  ┣娘                                    ┃
  ┃  ┃┣婉子女王972-998(花山天皇女御)                   ┃
  ┃  ┃為平親王952-1010(父:村上天皇)                    ┃
  ┃  ┣明子975-1049(藤原道長室 母:師輔五女・愛宮)             ┃
  ┃  ┗源俊賢960-1027(母:師輔三女)                     ┃ 
  ┃                                                                                                       ┃
 源周子?-935                                                                        ┃ 
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃ 藤原守仁娘・(伊予守) 
┃   ┣ 道頼971-995(兼家養子)    藤原為光娘(忯子の妹)花山法皇狙撃事件
道隆953-995(中関白家)                  ┣ 
 ┃       ┣━━┳伊周コレチカ974-1010┳道雅992-1054(三条帝娘・当子内親王と恋愛)花山皇女殺害
 ┃ 高階成忠┳高階貴子┃                ┣大姫(藤原頼宗室)
 ┃(高二位殿) ┃ -996  ┣隆家979-1044         ┗小姫(藤原彰子女房) 
 ┃ 923-998 ┣信順        ┣御匣殿985-1002(定子亡き後、養母として入内) 
 ┃     ┣明順  ┣頼子姫?-?     (敦道親王師ノ宮の妻) 
 ┃     ┗光子  ┣原子姫980-1002(居貞親王女御) 
 ┃      (定子乳母)   ┗定子姫977-1001(里邸二条) 
 ┣道兼961-995 ┳兼隆985-1053┣脩子内親王 996-1049(御匣殿が養育) 
 ┃                        ┣兼綱988-1058┣敦康親王  999-1018(御匣殿が養育)
 ┃                ┣尊子984-1022┣媄子内親王1001-1008(詮子が養育) 
 ┃      繁子(師輔娘)┃    ┃
 ┃  66一条帝980-1011(乳母は橘徳子) 
 道長━━頼通━┳師実━━━師通━━━忠実━━━┳忠通1097-1164(法性寺関白)
 ┃966-1028┃宇治殿┃1042-1101 1062-1099 1078-1162 ┣泰子1095-1155(鳥羽皇后)
 ┃  ┃    ┃           ┗寛子(後冷泉皇后)         ┗頼長1120-1156(保元の乱で敗死)
 ┃  ┃    ┃                  1036-1127
 ┃┏源倫子┣教通996-1075(和泉式部娘・小式部を妾とする。本妻は公任・娘)
 ┃┃(鷹司)  ┃         ┣歓子1021-1102(後冷泉后)      
 ┃┗時中  ┃         ┣真子1016-1087(後冷泉女御)
 ┃父:雅信 ┃920-993 ┣生子1014-1068(後朱雀女御)  
 ┃  重信 ┃-995    ┣信家1018-  ┃                      藤原璋子1101-1145待賢門院
 ┃          ┃     藤原公任娘     ┃延子(藤原頼宗娘)                  ┣75崇徳天皇 1119-1164
 ┃    ┃     1000-1024       ┃ ┃嫄子1016-1039(敦康親王娘) 1076-1103    ┣77後白河天皇1127-1192 
 ┃    ┣彰子988-1074上東門院   ┃ ┃┣祐子内親王,禖子内親王   藤原苡子   ┃
 ┃    ┃ ┣敦良親王(69代後朱雀)1009-1045━┳良子、娟子    賢子  ┣74鳥羽天皇1103-1156
 ┃    ┃ ┣敦成親王(68代後一条)1008-1036┓┣尊仁親王(71後三条)┣73堀河天皇1079-1107┣76近衛天皇1139-1155
 ┃    ┃66代一条帝980-1011          ┃┃┃┣貞仁72白川帝1053-1129       藤原得子1117-1160美福門院
 ┃    ┃67代三条帝976-1017               ┃┃┃藤原茂子(公成娘) 
    ┃              ┃ ┣禎子内親王1013-1094陽明門院  ┃┛┃
    ┃    ┃ ┃                 ┣馨子内親王1028-1093斎院
 ┣綏子974-┣妍子994-1027(枇杷殿)          ┣章子内親王1026-1105 
 ┃ ┃1004┣威子998-1036                  ━━━━━┛ ┃藤原教通娘・歓子1021-1102
 ┃ ┃  ┗嬉子1007-1025(産後死去,後冷泉母)  ┣- ┣ - 
 ┃ ┃         ┣親仁親王70代後冷泉(紫式部部娘賢子が乳母) 
    ┃ ┗━━━━━┓69代後朱雀1009-1045            ┣ - 
 ┃954-982             ┃娍子972-1025(堀河女御 済時娘)   藤原頼通娘・寛子1036-1127
 ┣超子(ゆきこ)   ┃ ┣敦明親王994-1051小一条院
 ┃  ┃       ┃ ┃ ┣敦貞親王994-1051
 ┃  ┃    ┃ ┃延子985-1019(顕光娘、一条帝女御元子の妹) 
 ┃  ┃    ┃ ┣敦儀、敦平、師明親王、当子(斎宮)、子内親王
 ┃  ┣居貞イヤサダ親王976-1017 67代三条帝 
 ┃  ┣為尊親王977-1002(弾正ノ宮:和泉式部を寵愛)
 ┃  ┣敦道親王981-1007(師ノ宮  :和泉式部を寵愛) 
 ┃63冷泉帝950-1011
 ┣詮子962-1001(東三条院 兼家娘)出家後土御門第へ移り、道長は一条院へ 
 ┃   ┣懐仁カネヒト親王980-1011(66代一条帝)
 ┃ 64円融帝959-992
 ┃
 ┃兼家929-990(東三条殿)
 ┃ ┣道綱955-1020
 ┃藤原倫寧娘936-995?(歌人:蜻蛉日記@974---百人一首)
 ┃
藤原時姫-980:藤原中正娘 

  

┗┳ 長良━┳ 高子(清和后、陽成母)
 ┃802-856 ┗ 元名 ━ 文範 ┳━━為雅 
 ┃              ┃   ┣━娘 
 ┃              ┃  ┏女 ┣    
 ┃              ┃  ┃  義懐(紫式部・姉を愛人とする)
 ┃              ┃倫寧┃  
 ┃              ┃ ┣╋女(蜻蛉日記著者936-995)

 ┃              ┃女 ┃ ┣━道綱  
 ┃              ┃  ┃ 藤原兼家 
 ┃              ┃  ┣女  
 ┃              ┃  ┃┣━女(更科日記著者) 
 ┃              ┃  ┃菅原孝標    
 ┃              ┃  ┃ 
 ┃              ┃  ┗━━理能    
 ┃              ┃      ┣ 
 ┃              ┃ 清原元輔┳女    
 ┃              ┃三十六歌仙┗清少納言(枕草子著者966-1025) 
 ┃              ┃      ┣橘則長982-1034
 ┃              ┃     橘則光965-? 
 ┃              ┃   (師貞皇太子乳兄弟)        
 ┃              ┃ 
 ┃              ┗為信┳康円
 ┃                 ┃                  関白・藤原道兼の次男・兼隆985-1053
 ┃                 ┗娘   宣孝?-1001(筑前国司、山城国司) 
  藤原良門?-?           ┣━┳娘 ┣賢子999-1082大弐三位:彰子(上東門院)に女房として出仕 
 ┃   藤原利基?-?          ┣紫式部(源氏物語著者970-1010)   ┣高階為家1038-1106
 ┃     藤原兼輔36歌仙    ┣惟規974-1011         東宮権大進・高階成章990-1058
 ┃      877-933藤原雅正    ┗息子(死産)  
 ┃           歌人為時949-1029:主君は 冷泉天皇→円融天皇→花山天皇→一条天皇→三条天皇→後一条天皇

 ┃               ┣女(紫式部兄妹の面倒を見た御方) 
 ┃               ┣為長:943-986勅撰歌人 東北赴任
 
 ┃               ┃ ┣藤原通経 
 ┃               ┃筑前守忠幹女---未亡人となり紫式部と暮らす 
 ┃               ┃  
 ┃   藤原高藤(勸修寺内大臣) ┣為頼939-998:主君は円融→花山天皇→一条天皇 
 ┃        藤原定方 ┳ 娘 ┃
 ┃        三条右大臣 ┃   ┣伊祐
 ┃              ┃  上毛野公房女 
 ┃              ┣朝頼-勘解由長官
 ┃              ┃ 為輔(甘露寺中納言)

 ┃              ┃   ┗宣孝(山城国司 紫式部と結婚)

 ┃              ┃

 ┃              ┗朝忠━穆子
 ┃               36歌仙  ┃

 ┃                    ┣倫子 
 ┃                 源雅信 ┣
 ┃                     藤原道長

 ┃
                   ┏ 実資━かぐや姫 

 ┃                   ┃  村上帝 

 ┃              (小野宮殿)┃  ┣ 広平親王 
 ┃              ┏ 実頼━╋ 述子     冷泉
 ┣ 良房━┳ 基経━┳ 時平 ┃(九条殿)┗ 頼忠━公任  ┣花山帝(師貞親王)

 ┃    ┃    ┣ 忠平━╋ 師輔━┳ 伊尹(一条殿)┳懐子   65代   
 ┃    ┃    ┃    ┗ 師尹 ┃       ┣挙賢
 ┃    ┃    ┃      ┗芳子┃       ┣義孝━行成
 ┃    ┃    ┃    村上帝後宮┃          ┣義懐
 ┃    ┃    ┃         ┃(堀川殿)   恵子女王
 ┃    ┃    ┃         ┣ 兼通顕光┳元子(一条帝女御)  ┓
 ┃    ┃       ┃         ┃   ┗朝光┗延子(敦明親王女御)┃
 
┃    ┃    ┃         ┣ 公季━義子(一条帝女御)       ┃
 ┃    ┃    ┣ 温子(宇多后) ┣ 兼家(東三条殿)━━━━━━━┓┃

 ┃    ┃    ┃         ┗ 安子            ┃┃
 ┃    ┃    ┗ 穏子        ┣冷泉帝63代967年(憲平親王) ┃┃
 ┃    ┗ 明子    ┣朱雀帝     ┣円融帝64代969年       ┃┃
 ┣ 良門   ┣清和  醍醐帝       ┣為平親王(安和の変で失脚)  ┃┃
 ┗ 順子   文徳帝   ┣源高明     ┣姫宮 ┣   頼定       ┃┛
                       村上帝 高明娘 ┣ ?      ┃
                                       綏子(すいし)   ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

┗┳ 道隆 
 ┃  ┣━ 伊周 ┳道雅
 ┃高階貴子┃    ┣大姫
 ┃ 光子 ┣ 隆家 ┗小姫 
 ┃ (妹) ┣ 御匣殿(定子亡き後、養母として入内) 
 ┃    ┗定子977-1000  
 ┣ 道兼尊子┣脩子内親王
 ┃          ┃┣敦康親王
 ┃     ┃┣よし子内親王
 ┃     ┗一条帝    
 ┃       ┣
 ┃   公季━義子 
 ┃   顕光━元子
 ┃       ┏平等院鳳凰堂を造る  
 ┣ 道長━┳ 頼通━┳ 師実━━ 師通━━ 忠実━┳ 忠通

 ┣ 道綱 ┃    ┗ 寛子(後冷泉后)     ┗ 頼長
 ┃    ┣ 教通(996-1075 和泉式部娘・小式部を妾とする)                            
 ┃    ┣ 彰子988-1074              
 ┃    ┃  ┣敦成親王(69代後朱雀)   ┳親仁親王(70代後冷泉)
 ┃    ┃  ┣敦良親王(68代後一条)  ┓┃ (紫式部娘・賢子が乳母)
 ┃    ┃ 一条帝66代         ┃┃
 ┃    ┃               ┃┃
 ┃    ┣ 妍子(67代三条后)    ┓┃┃                       

 ┣ 綏子 ┣ 威子(後一条后)      ┃┛┃                  
 ┃  ┃ ┗ 嬉子(後朱雀后、後冷泉母)┃ ┛産後死去                 
 ┃  ┃                 ┃
 ┃  ┗━━━━━━┓          ┃
 ┣ 超子(ゆきこ)  ┃         ┃           

 ┃  ┣居貞親王67代三条帝       ┛
 ┃  ┣為尊親王(弾正ノ宮:和泉式部を寵愛)
 ┃  ┃  ┣
 ┃  ┃  九ノ御方(伊尹娘)
 ┃  ┣敦道親王(師ノ宮:和泉式部を寵愛) 
 ┃ 冷泉帝
 ┗ 詮子 
    ┣懐人親王(一条帝)
   円融帝

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源融・六条河原院跡は現在の渉成園辺り

2023年03月27日 | 平安時代

 六条河原院(現在の渉成園辺り)は、平安時代初期の左大臣源融が造営した広い庭園をもつ邸宅で、庭には鴨川の水を引き入れ、陸前の松島や塩竃の風景を模して庭作り、大きな池があった。 融は、池畔で塩を焼き、煙の風情を楽しむため、毎月、難波から海水を運ばせていたという。現在も河原町五条南西部に塩竈町の地名が残っている。六条河原院は融から、子の昇に譲られ、さらに宇多法皇に寄進された。法皇の死後に寺へと改められた。源融は、この他に嵯峨の山荘・棲霞観(せいかかん)や宇治に別業を造るなど豪奢な生活をしていたようで、光源氏のモデルともいわれている。嵯峨野にある清凉寺(通称嵯峨釈迦堂)は、融の山荘・棲霞観跡と伝えられ、境内には源融の墓といわれる石塔がある。また融の宇治の山荘跡は、のちに藤原道長に渡り「宇治殿」となり、その子・頼通が寺に改めたのが平等院の始まりである。歓喜寺は正安元年(1299)に善導寺を併せ歓喜光寺と改名したという。その後、歓喜光寺は天正年間(1573~92)、豊臣秀吉の都市改造で天満天神とともに錦小路東端の現在地に移転し、通り名から「錦天満宮」と呼ばれるようになった。しかし、明治時代の神仏分離令により歓喜光寺のみが東山五条を経て山科区大宅奥山田へ再移転している。現在、錦天満宮境内には源融を祀る末社塩竃社がある。この塩竃社は、“六条河原院”が寺とされたとき、源融を弔うため創祀られたもので、秀吉の都市改造で移転したときに天満天神と共に移された。

天神様 : 大宰府に左遷され、失意の中で亡くなった菅原道真。道真の死後に清涼殿落雷、天変地異、疫病が続き天皇家・藤原氏の周りでも死者が相次いだ。かくして道真の怨霊の仕業を鎮めようと、醍醐天皇は道真の左遷を取りやめて右大臣の詔を発した。しかし災害は止まず醍醐天皇も崩御。時の一条天皇は道真を神として祀った。それ以降道真は「天皇が認めた神:天神様」として信仰を集めるようになる。---御霊信仰 : 非業の死を遂げたものが人々に災いをもたらす その祟りを鎮める信仰

 

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石川-10 斉藤別当実盛は木曾軍との戦いを自分の死の場所と決めていた

2021年11月15日 | 平安時代

 倶梨伽羅の戦で惨敗した平家の残党は、それでも3万騎である。 維盛の主張で安宅の関に退いていた。 ところで今は平家の恩に報いんと、宗盛の命にて参謀を務めていた老将・斉藤別当実頼は先にも述べたように保元の乱では源氏方の優れた武将であった。 この頃に一度木曾義仲を匿っている。義仲の父は源義賢である。 鎌倉殿・為義の次男であるが、兄・義朝とは反りが合わなかった。 そして義朝の長男・義平(悪源太)に討たれるのである。 この時義仲は2歳で、母小枝に連れられて追っ手から逃げていた。 このときに二人の親子を匿ったのが斉藤別当実頼であり、信濃に逃れ、木曾の豪族中原兼遠の庇護下に育った。妻・巴御前は兼遠の娘。なお、妾の葵御前も兼遠の娘である。

 この斉藤実頼は、先の富士川での平家惨敗を悔いていた。老体でありがなら生き恥をかきながら生きるつらさもわかっていただけに、ここ北陸での木曾軍との戦いを自分の死の場所と決めていたのである。そして木曾の武者手塚太郎光盛という望むところの敵に会うと、死力をもって手向かうこともなく首を授ける心のごとく観念したのである。 その後実頼の首級を見た義仲は、幼少駒王の頃に恩を受けたこともあり、群臣の前かまわず涙したという。

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石川-9 篠塚古戦場は斎藤別当実盛の最期の場所

2021年11月15日 | 平安時代

老いた実盛が髪を黒く染め、若武者の姿で木曽義仲に正々堂々と向かっていった。加賀国篠塚の地は、今も加賀市篠塚に「篠塚古戦場」として残されている。樋口に言われるまま討ち取った首を洗うと、髪の染めものが流れ落ちて白髪頭が現れ、その首が実盛のものだったのだと初めて知った義仲は悲しい再会に涙を流したと言われている。実盛の首を洗ったと伝えられる「首洗池」には、実盛の首を抱いて空を仰ぐ義仲と実盛の兜、そして悲嘆にくれる部下たちのようすを描いた像が建てられている。

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石川-8 安宅の関は勧進帳の舞台

2021年11月15日 | 平安時代

 一の谷、屋島、壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させた義経は 頼朝から大勝利に対する賞賛を受けるのが望みであったが、それどころか鎌倉へ入ることさえ許されず、ここで初めて義経は愕然とするのである。 頼朝の側近である大江広元を頼って兄へのとりなしを願った書状が鎌倉の手前の腰越で書かれたから腰越状という。 この仕打ちに義経は激怒し、追い討ちをかけるように所領の没収が沙汰され、土佐坊昌俊という刺客に狙われたことから、義経の決意は固まった。 義経は後白河法皇に頼朝追討の院宣をを求めたのである。院宣を錦の御旗にして再起すべく精鋭200人とともに摂津・大物浦に集結した一行は九州に向けて出向した。 しかし神に見放されていた義経を襲ったのは嵐であった。ほとんどの精鋭を失った義経は身篭った静とも分かれることとなる。 安宅での監視の目をくぐり抜けた義経は後に藤原秀衝の庇護を受ける。 

 安宅での関所破りは能の安宅、歌舞伎の勧進帳として後世に伝えられた。 義経一向は東大寺の大仏復興のために寄附を募る山伏となって安宅の関を通ろうというのである。 しかし関守の富樫左衛門は一行を見咎めて、趣意書である勧進帳を持っているだろうと迫る。 そんなものを持つはずもない弁慶は白紙の巻物を取り出し、朗々と読み上げると、一応は疑いが晴れる。 次に富樫は強力が義経殿に似ていると言い出したから、弁慶は義経を打ちのめすことにより難を逃れたという。 実は富樫左衛門は義経を見抜いており、弁慶の忠義に免じて見逃すという情けの人として描かれており、真実の程はわからない。 こうして一行は鎌倉の追っ手を逃れて奥州藤原氏のもとにたどり着いたのである。 

 ところで、この安宅の関はもともと如意の渡が原型であるというのが、ここ富山県・伏木の如意の渡である。 説明書によると以下のようになっています。  『 室町時代の軍記物語である義経記のなかに、 如意の渡にて義経を弁慶打奉るの事 という挿話がありますが、この如意の渡はかつてこのあたりにあったと伝えられています。1187年奥州に落ちる義経一行が如意の渡から船で六渡寺へ進もうとしましたが渡し守の平権守が義経をさして判官殿ではないか と怪しみました。 もし、義経であることが見破られ頼朝に通報されたら一大事と考えた弁慶は あれは加賀白山よりつれてきた御坊で判官殿とおもわれるのは心外だ と言ってとっさに疑念を晴らすために 扇で義経をさんざん打ちのめしました。 このようなやりとりがあって一行は無事如意の渡を渡りました。 この話は金剛杖になったり場所も安宅の関になるなど、だんだん変えられてのちに謡曲・安宅 や歌舞伎・勧進帳 が創作されました。 』  

 

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湖西-3 最澄上人産湯の井戸

2020年09月24日 | 平安時代

ここは伝教大師が誕生した地・生源寺。境内には最澄上人産湯の井戸というのがある

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須磨一の谷・安徳天皇内裏伝承地

2020年07月31日 | 平安時代

 一の谷の戦いでとりわけ有名なのは熊谷丹治次郎直実と息子・小次郎直家である。この直家は宇治川で負傷していたが、傷も癒えないまま父に従っていた。17歳である。いままで功妙をたてる機会に恵まれなかった直実は、必死であった。一の谷では薩摩の守忠度、忠光、景清、景経、敦盛らを有して控えさせていたが、源氏の奇襲に鵯越同様に、「卑怯なる院」とばかりに抵抗をみせる。ここで直家は再び敵矢により負傷すると、直実は息子の愛馬「白浪」に乗って敵の中へ飛び込んでいった。勝利はするものの源氏勢の犠牲はかなり多かった。

 一の谷の合戦場・須磨の北500mくらいのところに安徳天皇内裏跡という伝承地がある。ちょうど折よく自治会長さんに一の谷の戦い、安徳天皇内裏などについて話を聞くことができた。どうやら伝承であり、古文書などに記載があるなどの根拠は無いようである。

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源義経と京都・蹴上:泥水を蹴りあげ義経の衣装汚したという

2020年03月14日 | 平安時代

ここは京都蹴上にある義経地蔵。遮那王(義経)と金売吉次が、奥州へ下る途中の松坂(粟田口から山科へ抜ける日ノ岡峠の西の街道沿いは、松並木になっていたため松坂と呼ばれていたという)にさしかかった時、この坂を下りてきた平家の侍、関原与市重治はじめ一党九人がすれ違いざま、水たまりの泥水を蹴りあげ義経の衣装を汚してしまったという。怒った義経は金売吉次が止めるのも聞かず、九人を斬り殺しました。蹴上という地名は、この故事に由来するという伝承がある。日ノ岡峠の東の山科寄り、現在の左京区蹴上の一部は、もと九体町と呼ばれ、斬り殺された与市ら9人の菩提を弔うために村人が九体石仏を安置したのが町名の由来といわれている。

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大江山・酒呑童子の鬼退治をしたのは頼光四天王(渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武)

2019年06月10日 | 平安時代

 丹後半島に向かう途中にあるのが大江山。酒呑童子の鬼退治で有名な山であるから、それに因んだお店がいっぱいある。酒呑童子の一味による被害があまりにも大きく、源頼光が鬼退治に行くこととなり、配下の頼光四天王(渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武)や友人の藤原保昌ら、総勢五十数名とともに大江山に向かった。山伏の姿になった一行はさまざまな人々の助けを得ながら、一晩の宿を求める振りをして酒呑童子の本拠にはいることに成功した。その晩は酒盛り上がり、深夜、酔って動かなくなった酒呑童子の一味の鬼たちを頼光らは残らず退治した。ただし、茨木童子(酒呑童子の一番の家来)のみは渡辺綱と戦っていたところ、酒呑童子の討たれるのを見てこれはかなわないと退却し、唯一逃げるのに成功したという。

 源頼光は時の権力者・藤原道長966-1028の重臣で源氏の棟梁である。源頼光948-1021の父は鎮守府将軍源満仲、母は嵯峨源氏の近江守源俊娘で、妻には伊予守藤原元平娘などがいる。子には頼国、頼家、頼基、永寿、頼昭などがあり、満仲の長子として清和源氏の三代目を相続して摂津国多田源氏を束ね、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる。異母弟には大和源氏の源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信がいる。同時代の中級貴族と同じく、20前後で出仕し、満仲と同じく摂関政治を行っていた藤原氏に臣従して官職を得て、財力を蓄えていたと考えられて、986年頃、居貞親王(三条天皇)が皇太子となった際に東宮権大進に任じられる。東宮大進時代には朝廷の儀礼や典礼関係の年中行事に記録が見られ、藤原道長の主催した競馬などに参加している。同時期には、大江匡衡が隣国の尾張守となり、両者は赴任するにあたって書状を交わしており、また、匡衡妻の赤染衛門は頼光を詠んだ和歌を残しているなど親交があったと思われる。左馬権頭となって正四位下になり、後一条天皇の即位に際して昇殿を許された後は、受領として蓄えた財により一条邸を持ち、たびたび道長に多大な進物をしてこれに尽くした。 道長の権勢の発展につれて、その側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、弟の頼信と共に後の源氏の興隆の礎を築く。

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六条判官・源為義公の墓@7条7本松通り

2019年04月03日 | 平安時代

 源為義(1096~1156)は別称・六条判官、陸奥四郎。源義家の四男として生まれ、白河院に武力を買われ、鳥羽天皇や強訴への武力(北面の武士)となり、1124に検非違使になる。しかし、同じ頃、検非違使になった平氏の忠盛が受領を歴任したのに、為義は官位が上がらない。為義が昇進できなかった最大の原因は、本人と郎党による相次ぐ狼藉行為だったと考えられ、白河院の不興を被り無冠となる。一方、藤原忠実は「天下の固めであり受領になる資格がある」と高く評価したという。1146年正月、為義は10年ぶりに還任して、当時としては異例の左衛門大尉となり検非違使への復帰を果たした。   

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京都・白峰神宮は配流されてその地で歿した崇徳天皇・淳仁天皇を祀る

2018年10月16日 | 平安時代

 白峯神宮は、配流されてその地で歿した崇徳天皇・淳仁天皇を祀る。崇徳上皇は保元の乱に敗れて讃岐に流され、その地で死去した。その後天変地異が相次いだことから上皇の祟りとされ、上皇が葬られた白峯陵の前に、上皇を白峯大権現として祀る御影堂が建立された。幕末の動乱期、孝明天皇は異郷に祀られている崇徳上皇の霊を慰めるため、その神霊を京都に移すよう幕府に命じたが、まもなく死去した。子の明治天皇がその意を継ぎ白峯宮を創建した。1873年、藤原仲麻呂の乱に巻き込まれて淡路に配流され、その地で死去した淳仁天皇の神霊を淡路から迎えて合祀した。

 白峯神宮の社地は、蹴鞠の宗家であった堂上家(公家)・飛鳥井家の屋敷の跡地である。摂社の地主社に祀られる精大明神は蹴鞠の守護神であり、現在ではサッカーのほか、球技全般の守護神とされている。

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琵琶の名手・平経正:平清盛の弟・平経盛の嫡男

2018年10月16日 | 平安時代

 平経正は平清盛の弟・平経盛の嫡男で琵琶の名手として知られ、能でも有名である。経正には弟が二人、一人は経俊、そして末の弟が平敦盛である。経正は幼少の頃より、守覚法親王に仕え、御室仁和寺によく詰めていた。以仁王の令旨が諸国にもたらされ、反平家の機運が一気に盛り上がり、各地で反乱が起こる中、北国で木曾義仲が挙兵した。平家は都維持のため、北国の木曾を打つべく出陣、圧倒的な兵力で北国へと向かった。平経正も出陣したが、合流する軍が遅れたため、経正は家臣数人とともに、竹生島に戦勝祈願に向かった。都玖武須磨神社の神主が琵琶の名手・経正が来ている事を知り、琵琶を弾いてくれるように頼む。経正が琵琶を弾き始めると、その琵琶の音の美しいこと、この世のものとは思えないほどである。その美しい音色に誘われ、白龍が現れ、経正の周りを飛んだ。その姿を見て、誰もがこれから出陣する北国での勝利は間違いないと思い、気持ちよく竹生島から帰っていったという。

 龍神が現れる吉事があったにもかかわらず、平家軍は倶利伽羅谷で大敗をきっし、経正も命からがら落ち延びた。都に戻った経正ではあるが、木曾義中の侵攻が都に迫り、平家は都落ちを決定した。経正も一門の皆とともに都を落ちていくが、経正はこの列から離れ、一路御室仁和寺の御所を目指した。この仁和寺御所には自分が幼少の時から苦楽をともにした守覚法親王がいて、経正は最後の別れを言いに舞い戻ったのである。その時、経正は琵琶「青山」を法親王に預かってほしいという。この青山という琵琶は朝廷の御物で、三種の神器同様に扱われるほどの稀代の名器だった。その青山が琵琶の名手で経正があったことから、経正に渡されていたのである。琵琶を愛する経正、龍神が現れるほどきれいに琵琶を弾く心優しい経正は、この貴重な琵琶を戦の中で失うことはできないとして、守覚法親王に預けにきたのである。幼少の頃より経正のことを知る僧行慶は別れを惜しみ、歌のやり取りを経正として、別れを告げる。この行慶が後経正の死地を訪ね、経正の亡霊と会う話が能「経正」である。こうして、経正は心残りなく、都を後にし、その後西海の波を漂い、屋島から一の谷に出陣し、この一の谷で討ち死にした。

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盛岡-5 安倍館遺跡跡:「前九年の役」で最後の砦として激戦地

2018年10月16日 | 平安時代

 盛岡市内にある安倍館跡とされる遺構は、「前九年の役」で最後の砦として激戦地となった場所である。盛岡の北西部を治めた安部氏の居館が源氏に攻め込まれ、落ちたことから「前九年の役」が終わった。「前九年の役(1051-1062年)」とは、陸奥の豪族・安倍頼時と貞任・宗任親子らが起こした反乱を、朝廷側の源頼義・義家親子が陸奥守であった藤原登任に代わって平定した戦役である。

 安倍氏は衣川柵に拠点を置く、陸奥土着の蝦夷の有力豪族であった。朝廷側・藤原登任との「鬼切部の戦い(1051)」では、安倍氏側が圧勝する。すると翌年(1052)、源頼義が陸奥守として赴任する。同年、後冷泉天皇の祖母上東門院の病気快癒祈願の為、大赦が行われて安倍氏は罪を赦された。安倍頼良は、この時に源頼義に遠慮して頼時と改名する。源頼義が陸奥守としての任期が終る1056年、阿久利川事件と呼ばれる事件により、朝廷と安倍氏の争いが再燃する。阿久利川事件のとき、源頼義の配下にいた将、藤原経清は安倍氏に帰属したと伝えられている。1057年、源頼義は津軽の安倍富忠らを見方に引き入れる。安倍頼時は、安倍富忠を説得する途中に攻撃を受け戦死し、宗任が安倍頼時の跡を継ぐ。1057年の冬には源頼義が兵を上げ、黄海の戦いが勃発、安倍貞任は源頼義軍に圧勝する。この黄海の戦いで圧勝した安倍氏は衣川以南にも勢力を伸ばす。1062年、源頼義は出羽国の豪族・清原氏の援軍を得ることに成功すると、一気に源頼義・清原氏連合軍が攻め立て、安倍勢は厨川柵に籠城を図るが、兵糧攻めによって陥落し、「前九年の役」は終焉を迎えた。

 天昌寺は盛岡市にあり、厨川柵の擬定地とされ、安倍氏の拠点の中で最北部のものであった。

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