2017年7月沖ノ島は世界遺産に登録された。この絶海の孤島は古くから立ち入りを制限されている。常駐しているのは福岡宗像大社の神職ひとりである。毎朝禊を行うという神の領域では、日本の夜明けとともに始まった祈りがある。この祈りを担ったのが宗像氏といわれ、胸に刻んだ入れ墨からその謂れがある海の民である。宗像氏の古墳には華麗な装飾が施され九州で独自の文化が花開かせ、古くから天皇家との深い繋がりで知られている。
日本書紀には天照大神が宗像三女神、市杵嶋姫・田心姫・なぎ津姫を産んだとの記載がある。それぞれは辺津宮、中津宮、そして沖ノ島にある沖津宮に祀られている。今回この三つの社と古墳群が世界遺産に登録されたのである。この中ですべての根源とされるのが沖ノ島である。沖ノ島で行われてきた祭祀の跡は4世紀から9世紀頃のもので、一木一草たりとも持ち出してはならないという掟が沖ノ島を太古のままの姿に留めてきたのである。1954年沖ノ島に初めて学術調査がはいり、12回にも及ぶ調査でその重要性が明らかになった。林立する巨岩の元から次々と発掘された遺品、国宝金製指輪、金銅製織機、金銅製龍頭、は500年もの間続けられた来た祭祀の姿を現している。始まりは4世紀の古墳時代、岩に神が宿るとして古墳から遺品が出土、7世紀の飛鳥時代にかけては岩肌からペルシャガラスなど海外からの品々が見つかった。そして9世紀の平安時代にかけては祭祀は、神社の原型とも言われる岩を離れた平地で行われた。では誰がこのような大掛かりな祭祀を行ったのか。第二回の学術調査でそのヒントが見つかった。それは岩の間から出てきた数多くの鏡・三角縁四神文帯二神二獣鏡である。これは大和政権が手に入れて畿内で保管していた鏡であることから、大和政権が国家的祭祀として行ったことがわかる。では何故か、沖ノ島は大和から瀬戸内、関門海峡を経て朝鮮半島へ行くまでの最短ルート上にある。従って海上交通の安全を祈願する意味があったと思われる。
4世紀大和王朝は海による交易を重視し大きな力を手に入れた。海上交通祈願の一例が瀬戸内の大飛島にもある。奈良三彩は中国に倣って作られた日本発の彩色の陶器で、沖ノ島だけではなく、ここでも多く出土した。
宗像大社の拝殿の額に刻まれた奉助天孫は、宗像大社の役目を示す言葉である。神宝館には沖ノ島で見つかった数多くの国宝が収められている。なかでも最も重要な宝は鉄の板で、沖ノ島の祭祀の始まりを示す重要な物証である。このころ近畿地方は倭と呼ばれて大きな力を持っていた。その大王の墓から出土するのが、青銅をはるかに凌ぐ鉄の甲冑、剣である。古代も今も朝鮮半島は玄界灘を隔ててすぐ先にある。倭を出発した船は釜山の近くに到着、伽耶は当時頻繁に交易した相手である。伽耶を代表する古墳には大成洞古墳がある。この古墳から大量に出土したのが鉄の板である。倭では良質の鉄を作るのが難しくはるばる伽耶までやってきたのである。朝鮮半島西部のかつての百済の地でも倭人の足跡・前方後円墳がある。百済の通常の古墳よりもはるかに大きい古墳が10基以上見つかっている。葬られているのは、百済の官僚となった倭人や交易に携わった百済の実力者など諸説ある。何故百済に倭の古墳を造る必要があったのか。
4世紀朝鮮半島は緊張状態にあった。高句麗が南に侵攻し百済、新羅が存亡の危機に立たされた。そこで百済は倭と結んで高句麗と対抗したと考えられる。古墳は倭との絆を高句麗にアピールするためのものである。さらに百済は倭に鉄を供給することで倭の軍事力強化を図ったと考えられる。大和政権はそれをどん欲に吸収し権力基盤を固めていった。百済の主要都市であったプヨ、ここには6世紀の武寧王陵がある。武寧王は百済人の母の元倭で生まれた人物である。墓の内部はレンガ造りで、棺は日本からもたらされた高野槙で作られ、その親密性を物語っている。
大島には宗像三女神・なぎ津姫を祀る中津宮があり、ここ遥拝所からは沖ノ島を祈りをささげる。沖ノ島は女人禁制であるために、大島遥拝所に足を運んだのである。
九州北部の宗像は海の民の本拠地であった。近年この地で弥生時代の田熊石畑遺跡が発見された。これは沖ノ島の祭祀遺跡よりも500年以上前の遺跡である。ここからは多量の青銅器が出土、この宗像では常に先進的な技術や文化が入ってきている。つまり宗像は弥生時代から日本で最も進んだ地域の一つだった。それを支えたのは宗像氏の高度な航海術である。ところが6世紀になって宗像氏は大和勢力とある勢力との間で決断を迫られることとなる。それは九州の豪族たちで、古墳は華麗な装飾で飾られ、大和とは違った高度な文化を築いていた。彼らの古墳の代表的な図柄が船。中でも九州の八女を支配していた磐井氏は多を圧倒していた。石人、石馬は磐井氏の古墳の周囲におかれた巨大な像で、大和政権の埴輪に相当する。磐井氏は朝鮮半島との独自の交易ルートを持ち、財力・軍事力を持ち合わせていた。かくして大和王朝にとっては驚異的な存在であった。そして6世紀初頭527年に大和政権はこの地に攻め入った。磐井の乱である。攻撃の理由は、磐井氏が新羅と通じて反逆を企てたというもの。当時大和は百済との交易を独占しようとしていたから、この磐井と新羅の繋がりを見過ごすことはできなかった。結果、磐井は負けてことごとく石人は破壊された。一方宗像は大和に就いたために生き残ったといえる。
9月には宗像最大の祭が始まる。大島の漁師たちは沖ノ島に集まり、漁師たちの手で神が海を渡る みあれ祭である。沖ノ島の田心姫と大島のなぎ津姫とが宗像大社に向かうのである。