京都東山、東福寺のすぐ南
仲恭天皇は後鳥羽上皇(承久の乱で隠岐の島に配流)の孫
在位期間は最短の二か月半
正式な墓所は深草にある九條陵
京都東山、東福寺のすぐ南
仲恭天皇は後鳥羽上皇(承久の乱で隠岐の島に配流)の孫
在位期間は最短の二か月半
正式な墓所は深草にある九條陵
久留米から西へほどなく行くと吉野ヶ里遺跡がある。驚いたのは広大な遺跡の至る所に案内員の方々が居る、周囲は柵で囲まれ敵の侵入を防いでいたようで、その様子を説明していただいた。また古代集落のゾーンでは吉野ヶ里遺跡が都であり奈良の箸墓は説明できないところが数多くあると熱弁されていた。どちらが正かはロマンとして残しておこう。
【稲作が伝来したのはいつなのか】
約2300年前の弥生時代に朝鮮半島から渡来人によってもたらされたというのが通説である。ところが2019年に奈良県御所市の中西・秋津遺跡で2400年前の水田3500平米が発見された。確認された水田跡面積は43000平米にも及び、朝鮮半島から渡来人が来る前に大規模な水田が存在したことを意味する。実は縄文時代の地層から、稲のプラントオパールが続々と検出されるようになった。プラントオパールとは、植物の細胞にたまる0.05−o程のガラス状のケイ酸の塊が地中に残ったもののことで、このプラントオパールにより過去の植生や栽培植物の種を判別することができる。最も古いプラントオパールというと、岡山の朝寝鼻貝塚の土の中から、6000年前のものが検出されています。かくして1990年代に入って、ようやく縄文時代にも稲作があったということが考古学界でも認められるようになったという。
およそ5000年前、縄文人がクリを大量に栽培していたという。普通、野生植物の集団というのは、DNAの並びはバラバラであるが、三内丸山遺跡のクリの場合は、DNAパターンが揃っていて意図的に選抜して植林したため考えられる。つまりクリを育てるという高度な知識が4000年以上も前からあったと推測できる。さらに、ヒョウタンやマメ、ゴボウなどの栽培植物も発見されている。
【稲作の伝来は朝鮮半島からだけではない】
実は、大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した2200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったところ、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分った。これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠になる。いろいろな時代のいろいろな遺跡の稲のDNAを調べることによって、どこからどのルートでその遺跡に稲作が伝わってきたのかが見えてくる。
古墳時代中期5世紀末に築造された円墳で、千人塚、かんす塚とも呼ばれている。直径約45m、2段築成で埴輪を備える。葺石は確認されていない。墳丘の周りを2重の堀がめぐる。墳頂部にある組合式の箱式石棺から出土した銅鏡や勾玉は東京国立博物館に収蔵されている。
香川県・善通寺の近辺は約400基もの古墳が確認されている。中でも有岡古墳群は、首長の墓と考えられる古墳が集まっていて、国の指定史跡になっている。その有岡古墳群の中央部に位置しているのが、王墓山古墳。6世紀半ばにつくられた王墓山古墳は、全長46mの前方後円墳。横穴式石室を持ち、大和政権が配下に入った地方豪族に渡したという金銅製冠帽や銀象嵌を施した鉄刀が出土している。
平城京の一角に左大臣・長屋王676-729の邸宅があり、その跡地から無数の木簡が出土した。その木簡から長屋王の妹とみられる竹野女王に送られたとみられるさまざまな食材の木簡が発見された。竹野女王、まさに丹波にゆかりのある女性であり、ここからも丹波の食材が一級品であったことが伺える。丹波は機内では播磨、近江についで農業の盛んなところであったことが和名抄に記載の田の面積からわかる。天皇が即位後はじめて新穀を天照大神に供える儀式が大嘗祭であり、この祭りで用いる新穀を栽培する国の筆頭が近江、二番目が丹波と備中であったという。その昔、天照大神の朝夕の御食の神にした等由気大神が丹波にあり、伊勢の山田村に移したという。 そこが伊勢神宮の外宮であり、豊受大神として祀られているのである。考えてみると現在の丹波は米だけではなく、大豆、小豆、松茸、猪肉、栗など多くの食材で有名な産地であり、当時と何らかわっていないのかもしれない。
長屋王妹・竹野女王へ贈られた米荷の木簡
竹野皇子二取米三升○余女 竹野王子進米一升大津/甥万呂/ 竹野王子御所進粥米二升受老
この時代をさかのぼること約300年、但馬国を支配していた覇者がいた。彼の墓と云われるのが和田山から山東へ抜ける「宝珠峠」の途中にある茶すり山古墳という畿内随一の大型円墳である。直径約90m、高さ約18mの円墳で、2段に築成されていたと考えられる。墳頂には東西約36m、南北約30mの楕円形の広い平坦面があり、円筒埴輪が並べられていた。
墳頂部には二つの埋葬施設があり、大型の第1主体部とこれより小さい第2主体部が並んでいる。調査の結果、ヤマト政権と強く結びついた首長の墓であることが確認されている。棺内から多量の副葬品が出土、盤龍鏡をはじめとした銅鏡4面、畿内以外からの出土は極めて珍しい三角板革綴襟付短甲を含む2組の甲冑類、ほかにも、1埋葬施設からは刀剣類や鉄鏃など多量の武器が出土しており、ここに葬られた人物が相当な武力を持って、この地域を治めていた人であったことが想像される。
火雨塚古墳は白浜町瀬戸の熊野三所神社の境内にあり、御船山東側山麓の平坦地に築造された直径8m・高さ2mの円墳である。 江戸時代にすでに盗掘にあい、封土もかなり流出している。入口は東南に開口し、羨道と玄室からなる横穴式石室で築造方法は板状岩石を積み上げ、天井には二枚の板石を置いている。また、石室内には長さ120cm・幅 42cm・高さ39cmの組み合わせ式石棺を置いている。築造年代は出土遺物や様式からみて古墳時代の後期と考えられる。
9月のシルバーウイークに訪れたのは塩谷古墳群。京丹波町にある群集墳が整備されて公園になっているだけではなく、京都縦貫高速道路のサービスエリアとしても整備されているから驚いた。普通であれば誰も寄り付かない古墳群のはずなのに、SAで休憩する家族連れで一杯である。古墳マニアにとっては何とも迷惑な話である。ここは小高い丘の上に築かれた円墳群で、5世紀末頃~6世紀前半に築造された直径8~15.5mの円墳12基が確認されており、最高所に位置する5号墳から出土した襲(おすい)をかぶった二体の巫女埴輪は京都府の有形文化財に指定されているらしい。今となっては現代的な公園で、二匹のわんこの散歩にも絶好の場所でした。
ここは有年考古館の庭、中山11号墳が移設されて復元されている。ところでこの考古館はスペースは狭くて小さいもののかなり充実していて橿原考古学研究所からも見学者がくるほどである。今回はほんの少しの古墳を紹介したが、立派な古墳群がまわりに数多く点在しており、今後も現地に足を運んでみよう。そして有年考古館の設立者は松岡秀夫(1904-1985)は、有年村で眼科医を勤めるかたわら、郷土史家として活動し発掘調査などを行ったという。その時の出土品が数多く考古館に展示されている。またそのときに使ったカメラも展示されていた。Canon-FX 東京オリンピックの年くらいに発売された名機で、FXとは一眼レフ(Flex) から来ている。当時の初任給は1万円くらいだろうから、Canon-FXが6万円というのは今で言えば100万円くらいに相当する。
木虎谷古墳群は、赤穂市有年原の原小学校裏一帯に広がり15基分布するらしいが、その中の2号墳が1号墳の東50mの民家裏の竹林中にある。全長9.5mの両袖式大型石室が開口しており、玄室長5.3m、幅2.2m、高さ2.4mの規模で厚さ0.45mの巨大な石蓋をはめ込んだ石棺がある。
有年原・田中遺跡で見つかった2基の墓は弥生時代後期、約1900年前のもので、1号墳丘墓には陸橋部と突出部がある。古墳時代に発達した前方後円墳は、この弥生時代の墳丘墓が発達したものと考えられる。また周溝からは飾られた壷とその器台が見つかった。これは埴輪の先祖となる吉備地域特有の土器の祖形と考えられる。有年原・田中遺跡における墓の形と祭祀方法には後世の前方後円墳と共通する点が多く、墓の始まりとしての価値は極めて大きい。ここの文化財を管理している赤穂市教育委員会のパンフレットより抜粋。
有年は「うね」と読む。兵庫県赤穂市の北側に位置する有年には数多くの古墳群が存在し、なかでも整備されて有年原田中史跡公園の中にあるのが有年原田中1号墳。
一風変わった権現古墳は福山にある。古墳ロードを散策すると権現神社が見つかり、説明板と社があるのですが、どこが古墳なんだ?その神社の社がある丘全体が古墳になっていて、社が石室の上に立っているという変わった古墳です。石室は露出されていて、風化は激しいものでした。