一里塚は、江戸日本橋を基点にして、1里ごとに約9m四方の塚を街道両側に築き、その上に樹木を植えて道標としたもの。織田信長が始めたとされる。吉光の一里塚は、北陸街道の粟生宿駅にあったもので、石川県内で唯一の史跡。
一里塚は、江戸日本橋を基点にして、1里ごとに約9m四方の塚を街道両側に築き、その上に樹木を植えて道標としたもの。織田信長が始めたとされる。吉光の一里塚は、北陸街道の粟生宿駅にあったもので、石川県内で唯一の史跡。
【超概要】 1565年5月足利義輝が三好一族によって暗殺された。翌年3月謙信の元に書状が届いた。差出人は義輝の弟・義昭、上洛して幕府再興の手助けをしてほしいとう。だか謙信には余力はなく、上洛したのは尾張の新興勢力 織田信長であった。信長は都から三好の勢力を一掃すると義昭を将軍につけ室町幕府再興を果たした。信玄の死によって足利義昭は京を追放され西国の毛利家に亡命し(1573年)、上杉謙信に書状を送ってきた。それは信長を討って京を奪回せよ、というものである。織田信長は一向一揆と対立したため、一向宗の総本山本願寺は信長を最大の敵とし他の勢力とは和解の姿勢をとった。これにより上杉謙信上洛の可能性が高まり、信長は岐阜から安土に拠点を移し謙信上洛の阻止をはかった。こうしたなか、これまで信長方であった能登国の畠山氏が上杉方になりたいとの申し入れをしてきた。能登国の主城である七尾城争奪で上杉謙信と織田方の柴田勝家が戦い、上杉謙信が勝利を収め、引き上げる途中の織田軍を急襲して撃破した。信長許すまじとして1577年謙信は手取川の戦いで激突し上杉軍は大勝利を挙げたのである。しかし1578年3月9日春日山城で謙信は突如倒れ、四日後に死去したことで天下統一はならなかった。
【概略】
1574年 能登の七尾城:守護畠山義隆が死去し、幼児畠山春王丸が城主となる
1576年 上杉謙信は能登国を支配すべく侵攻 領主能登畠山氏(重臣・長続連・長綱連父子が実権掌握)は七尾城に籠城
1577年 謙信は、春日山城に一時撤退 長綱連が穴水城を攻め、乙ヶ崎合戦で大勝
一方の織田信長は、上杉謙信を討つことを計画 長続連に援軍の派遣
この援軍 : 柴田勝家を総大将 滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀・斎藤利治・前田利家・佐々成政など4万の軍勢
ところが、親上杉派が内応して謀反、長続連一族は皆殺し、七尾城は落城
柴田勝家率いる織田軍の進軍途中で勝家と不仲だった羽柴秀吉が離陣 信長の逆鱗に触れる
一方、織田軍接近を知った謙信は、手取川付近の柴田勝家軍に侵攻追撃 柴田軍は大敗 上杉謙信は能登をほぼ平定
現在手取川は鮭釣りでにぎわっている
ここ「野村家」の初代主は、1583年加賀藩祖・前田利家公が金沢城に入城する際に直臣として従った野村伝兵衛信貞。御馬廻組の組頭、奉行職を歴任禄高は千二百石、野村家はその後も11代に渡って続く。明治に入り、武家制度の解体で屋敷は取り払われる。昭和初期に、藩政期「北前船」の船主だった加賀大聖寺藩・久保彦兵衛が藩主を招いた豪邸の「謁見の間」を移築して現在に至る。
1587年、藩祖となる前田利家が実兄・前田利久を野田山山頂近くに葬ったのが野田山墓地の始まり。利家も野田山に葬るように遺言し、その子・前田利長が墓所を築いている。前田利家以降、歴代藩主とその正室、子女のほとんどは野田山の前田家墓所に葬られ(合計約80基)、前田家墓所の周囲には重臣の加賀八家のうち本多家、前田長種家を除く6家(長家、前田土佐守家、奥村宗家、奥村支家、横山家、村井家)など家臣の墓が造られている。
山上にある前田家の大名墓は、土を盛り上げた土饅頭形式で、藩主の墓は3段に盛り上げた方形墳の周囲に溝がめぐらせるという独特の形。大きさも藩祖の前田利家墓で一辺19m、他の藩主墓でも一辺16mと、他藩では類を見ない巨大な墓となっている。野田山の加賀藩主前田家墓所は、富山県高岡市の前田利長墓所とともに国史跡。
前田利春(利昌)?-1560(加賀藩前田家の始祖 正妻:┏長齢院?-1573)
┣前田利久?-1587 ┗竹野氏
┃ ┗まつ(芳春院)1547-1617
┣前田利玄?-?
┃
┣佐脇良之?-1573
┃
┃ 在(金晴院)
┃ ┣知好1590-1628
┗前田利家1539-1599(金沢藩主初代)
┃┃ ┣利長1562-1614(加賀藩主初代)
┃┃ ┃┣-
┃┃ ┃永姫1574-1623(織田信長娘)
┃┃ ┃
┃┃ ┣利政1578-1533(前田土佐守家初代)
┃┃ ┃┗直之1604-1674(前田土佐守家2代)
┃┃ ┃
┃┃ ┣摩阿姫1572-1605(豊臣秀吉室)
┃┃ まつ(芳春院)1547-1617
┃┃
┃┣利常1594-1658(加賀藩主2代)
┃┃ ┣光高1616-1645(加賀藩主3代)
┃┃ ┃┣綱紀1643-1724(加賀藩主4代)
┃┃ ┃大姫(徳川家光養女)清泰院
┃┃ ┃
┃┃ ┣利次1617-1674(富山藩主初代)
┃┃ ┃┣前田正甫1649-1706(富山藩主2代)
┃┃ ┃┃ ┣利興1678-1733(富山藩主3代)
┃┃ ┃┃須磨
┃┃ ┃八尾
┃┃ ┃
┃┃┏珠姫1599-1622(天徳院 秀忠次女)
┃┃┗千姫
┃寿福院1570-1631
┣利孝1594-1637
お幸和(明運院)
前田利家公(荒子城主・前田利春の四男)墓所
加賀藩初代藩主であったが病弱であったため、織田信長の命で弟の利家に家督を譲る
前田利家公夫人(まつ:芳春院)墓所
前田利久公(前田利春の長男)墓所
加賀藩初代藩主であったが病弱であったため、織田信長の命で弟の利家に家督を譲る
前田利長公(藩祖である前田利家の長男)墓所
加賀藩初代藩主 加賀前田家2代
前田利長公夫人(永姫(玉泉院):織田信長の四女)墓所
長良川の戦いで齊藤義龍に敗れた明智光秀は越前に逃げますが、辿り着いたのがこの称念寺。光秀はこの称念寺の門前で10年暮らした。称念寺に着いた光秀は、当然お金に余裕がなく、門前に寺子屋を開いて生活をしていた。そんななか、称念寺の住職が、越前の武将、朝倉義景の家臣との連歌会を設定。しかし、連歌会を開催するお金がない…。この連歌会は、歌を詠み合うだけでなく、朝倉に仕えるきっかけでもあったようで、美濃から落ち延びて出世の道も途絶えていた光秀にとっては、なんとか実現したかったものだった。そんな光秀を見て、妻の煕子は自分の美しい黒髪を売り、連歌会を行う費用を工面したのだそう。これが黒髪伝説である。(称念寺の説明板より抜粋)
関ヶ原の後、秀康は家康より下総結城10万1,000石から越前北庄68万石に加増移封された。結城旧来の家臣の中には越前への移転を拒否するものが少なくなく、それ故この越前移封は最終的な在地離脱の強制として機能したもので、その結果秀康は自らの権力における旧族結城氏よりの継承面をほぼ払拭することができた。1605年、権中納言へ昇進。越前宰相から越前中納言と呼ばれた。
1606年9月、伏見城の留守居を命じられるが、病を得て職務を全うできなくなったため、越前へ帰国後に死去。越前68万石は、嫡男・松平忠直が継いだ。
福井県庁(福井城跡)敷地内にある秀康の石像
松平広忠 ━━ 徳川家康1543-1616年 ┓幼名:竹千代
(八代当主) ┏ 松平忠政 ┃
┃ ┣ 徳川家元 ┃
於大の方 ┣ 樵臆恵最 ┃
(伝通院) ┣ 内藤信成 ┃
┗ 市場姫 矢田姫 ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃
正室・篠山殿━┳ 長男・松平信康(1559年 - 1579年)(母:築山殿)
正室・朝日姫 ┣ 長女・盛徳院 (1560年 - 1625年)(母:築山殿)
側室・お津摩 ┃
側室・お万 ┣ 次女・督姫 (1565年 - 1615年)(母:西郷局)池田輝政室
側室・小督局 ┣ 次男・結城秀康(1574年 - 1607年)(母:小督局)
側室・西郷局 ┣ 三男・徳川秀忠(1579年 - 1632年)(母:西郷局)━━┓幼名:長松
┣ 四男・松平忠吉(1580年 - 1607年)(母:西郷局) ┃
┣ 次女・良正院 (1565年 - 1615年)(母:西郡局) ┃
┣ 三女・振姫 (1580年 - 1617年)(母:お竹 ) ┃
┣ 徳川義直1601-1650(初代徳川尾張藩主)(母:お亀) ┃
┃ ┣光友1625-1700(2代藩主) ┃
┃ ┣京姫┣綱誠1652-1699(3代藩主) ┃
┃ 歓喜院┃ ┣吉通1689-1713(4代藩主母本寿院) ┃
┃ ┃ ┃ ┣五郎太1711-1713(5代) ┃
┃ ┣松平義行┃九条輔姫 ┃
┃ ┣松平義昌┣継友1692-1732(6代藩主 母は和泉)┃
┃ ┣松平友著┣義孝1694-1732(母は唐橋) ┃
┃ 千代姫(家光娘)┣宗春1696-1764(7代藩主 母は梅津)┃
┃ ┃ ┣勝子 ┃
┃ ┃伊予 ┃
┃ ┗松姫(綱吉養女) ┃
┣ 徳川頼宣1602-1671(初代徳川紀伊藩主)(母:お万) ┃
┃ ┣徳川光貞1627-17052代(生母 中川氏) ┃
┃ ┃ ┣徳川綱教1665-1705(3代尾張藩主) ┃
┃ ┃ ┃ ┣徳川頼職1680-1705(養子) ┃
┃ ┃ ┃鶴姫1677-1704(徳川綱吉娘) ┃
┃ ┃ ┣徳川頼職1680-1705(4代尾張藩主 母真如院) ┃
┃ ┃ ┣徳川吉宗1684-1751(5代藩主8代将軍 母浄円院┃
┃ ┃ ┃ ┣徳川家重1712-1761(9代将軍) ┃
┃ ┃ ┃ ┃┣徳川重好1745-1795(徳川清水家初代) ┃
┃ ┃ ┃ ┃安祥院 ┃
┃ ┃ ┃ ┣徳川宗武1716-1771(徳川田安家初代) ┃
┃ ┃ ┃ ┃┣徳川治察1753-1774(徳川田安家2代) ┃
┃ ┃ ┃ ┃┣松平定国1757-1804(伊予松山藩主) ┃
┃ ┃ ┃ ┃┗松平定信1758-1829(陸奥白河藩主) ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┗徳川宗尹1721-1765(徳川一橋家初代) ┃
┃ ┃ ┃ ┗徳川治済1751-1827(徳川一橋家2代) ┃
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃瑞応院 ┃
┃ ┣因幡姫1631-1709(鳥取藩主池田光仲正室) ┃
┃ 八十姫1601-1666(加藤清正娘) ┃
┗ 徳川頼房(1603年 - 1661年)十一男・(母:お万) ┃
┣松平頼重1622-1695(讃岐高松藩主初代) ┃
┃ ┣綱方1648-1670(水戸藩主となる前に死亡) ┃
┃ ┣綱條1656-1718(水戸3代藩主) ┃
┃土井利勝娘 ┃
┣亀丸 ┃
┣徳川光圀1628-1701(水戸藩2代藩主) ┃
谷重則娘・久子┃┣松平頼常1652-1704(讃岐高松藩主) ┃
┃┣綱方1648-1670 ┃
後陽成天皇 ┃┣綱條1656-1718 ┃
┣近衞信尋(近衛家当主)┃側室・玉井氏 ┃
近衛前久娘・前子 ┗尋子(泰姫) ┃
┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
正室・於江与の方━┳ 千姫1597-1666(天樹院):豊臣秀頼室、のちに本多忠刻室
母は信長の妹お市 ┣ 徳川家光1604-1651三代将軍 福・春日局に養育 幼名:竹千代
┣ 徳川忠長1606-1634 駿河大納言
┣ 徳川和子1607-1678(東福門院):後水尾天皇中宮
┣ 珠姫 1599-1622(天徳院) :前田利常室
┣ 勝姫 1601-1672(天崇院) :松平忠直室
┗ 初姫 1602-1632(興安院) :京極忠高室
側室・お静(浄光院)━ 保科正之1611-1673(会津松平藩主)
┃┃┣幸松
┃┃菊姫
┃┣媛姫(米沢藩主・上杉綱勝室)
┃┣正経1647-1681(2代会津藩主)
┃お万
┣摩須姫(加賀藩主・前田綱紀室)
おしほ
柴田勝家の居城・北庄城跡はJR福井駅の西にある。柴田勝家は織田信長から49万石を与えられ、数年の歳月をかけて築かれたと言われています。天正11年(1583)、豊臣秀吉の軍に攻められた勝家は、自ら火を放ち、妻のお市の方や一族とともに壮絶な最後を遂げ、同時に北の庄城もわずか8年という短い命をとじた。現在、柴田神社には柴田勝家の像をはじめ、北の庄城の唯一の遺物や鬼瓦、勝家の時代に造られた足羽川・九十九橋に使われたという石柱、九頭竜川に掛けられた舟橋をつないだ鉄鎖が大切に保存されています。(福井のHPより抜粋)
1535年 丹羽長政の次男 丹羽氏は元々斯波氏の家臣
1550年 織田信長に仕えた
1553年 梅津表の合戦にて初陣
1560年 桶狭間の戦いで従軍
1568年 足利義昭を奉じて信長が上洛した際、六角氏征伐で武功(観音寺城の戦い)
1571年 長秀が佐和山城主
1573年 8月、朝倉義景討伐、義景の母(高徳院)や妻(小少将)、子の愛王丸を処刑 織田家臣で最初の国持大名
高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆征伐など、各地を転戦して功を挙げる
1579年 但馬の羽柴秀長とともに、丹波攻め
1581年 柴田勝家に続く二番家老、両名は織田家の双璧
1582年 三好康長・蜂屋頼隆と共に織田信孝の四国派遣軍(長宗我部征討軍)の副将 本能寺の変 山崎の戦い
1583年 賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護 123万石の有数大名
1585年 4月寄生虫病のために死去 跡目は嫡男の長重が継いだ
1573年 浅井氏滅亡により長浜城城代 藤堂高虎が仕官
1574年 長島一向一揆討伐
1575年 羽柴の名字を与えられる
中国攻めのときには、山陰道及び但馬国平定の指揮
1578年 別所長治討伐 黒井城の戦いに参戦
1579年 別所長治の三木城への補給を断つため丹生山を襲撃(三木合戦)
1580年 1月に三木合戦が終戦 但馬国平定 秀長は有子山城主となる
1581年 3月に吉川経家が鳥取城に入城 秀吉は鳥取城を取り囲み兵糧攻め開始(鳥取城の戦い)
1582年 4月、秀吉軍は備中高松城を包囲し、水攻めを行う(備中高松城の戦い)。秀長は鼓山付近に陣を張り参戦、城主・清水宗治が切腹
1582年 6月、本能寺の変、秀吉軍は毛利家と和睦協定、畿内へ撤退 秀長も山崎の戦いに参戦
1583年 賤ヶ岳の戦いに参戦
1584年 小牧・長久手の戦いでは守山に進軍 信雄との講和交渉では秀吉の名代として直接交渉
1585年 紀州征伐 和歌山城の築城時に藤堂高虎を普請奉行に任命
1586年 3月、摂津国有馬湯山へ入る
1587年 九州平定では日向方面の総大将として出陣(根白坂の戦い)
1591年 2月、秀長は郡山城内で病死 家督は養嗣子・秀保に継がせた
1595年 秀長の家系は秀保が17歳で死去したことにより断絶
織田信長の妹であり、浅井長政や柴田勝家の正妻としても知られるお市。長政は信長を裏切り、1573年9月に滅ぼされ、柴田勝家は1583年4月に、豊臣秀吉との戦いに敗れ、お市の方と二人で自害する。2人が自害すると、お市の方の娘たち浅井三姉妹(茶々・初・江)は秀吉に引き取られ、長女の茶々は秀吉の側室「淀殿」となり豊臣秀頼を産む。
フランシスコ・デ・ザビエル1506-1552は、
スペインのカトリック教会の宣教師でイエズス会の創設メンバーの1人である。
イエズス会の布教活動はポルトガル植民地で、
もういっぽうの派閥フランチェスコ会はスペイン植民地での布教
そして彼らの重要な役割は布教先の国情をさぐるスパイ活動であった(イエズス会本部にそれら詳細を報告している)
ルターの宗教改革に対抗して、大航海時代の1549年に日本の鹿児島・祇園之洲公園付近に上陸、初めてキリスト教を伝えた。
彼の宣教により、聖パウロを超える人々をキリスト教信仰に導いた。
このときの新約聖書や注釈書はキリスト教弾圧の歴史もあって存在していない。
さて、キリスト教信仰に導いたザビエルは日本史の教科書では偉人のように記載しているが、はたしてそうだろうか?
1506 ザビエル(後に聖人となる)誕生@スペイン-バスク地方 かつて繫栄したザビエル家
当時の出世コースは軍人か僧侶
1525 パリ大学入学
同級生のイニゴに影響受ける
1534 イエズス会創設(ローマ教皇--パウルス3世)
カトリックの一派閥で軍事力を持つ:戦闘しながら布教
当時の背景
1415 ポルトガル海外進出:エンリケ王子
1498 バスコダガマがインド着:商業網確保
1510 インドのゴア、マラッカを支配下とする
1514 香料貿易独占
1556 フェリペ2世がスペイン王として即位:ハプスブルグ家
1557 マカオ租借
1578 ポルトガル国王・セバスティアン1世が未婚のままアルカセル・キビールの戦いで戦死
フェリペ2世が派遣したスペイン軍は各地で勝利
1580 スペイン王のフェリペ2世がポルトガル王
この頃からカスティーリャ、スペインとの結びつきを強め、血縁関係をより緊密
ポルトガルとスペインは相互に文化的影響を与え合い
イエズス会の総本山・ジェズ教会完成
・ヴィニョーラ1507-1573の設計
・パウルス3世の孫アレッサンドロ・ファルネーゼが設計に出資
・建築家はジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラ
・化粧漆喰:ストゥッコの立体に描写Byジョヴァンニ・バッティスタ・ガウッリ
→ベルニーニの弟子
・バロック様式
1541 インドへ向けてリスボン出発
1542 インド-ゴア着
1547 日本人アンジロー(和寇?)と出会う
1549 鹿児島着--布教開始
キリスト教を天竺教(ゼウスを大日とする)と嘯いて布教---キリシタン大名の基礎
仏教の僧侶が島津藩にクレーム--ザビエルは追放されて京都(当時は応仁の乱で荒廃中)へ行くが、
天皇にも会えずに虚しく帰る
イエズス会は反抗する日本人を奴隷として東南アジアに連れて行ってた@16世紀末 王はフェリペ2世
勿論それらを売買した資金で強化を建設する。それがイエズス会の教えなのである。恐ろしい
・本願寺焼き討ちを行う信長を見て、イエズス会は信長べったりになるが、後に神格化する信長に愕然。
・やがて本能寺の変で信長が暗殺される。実は本能寺の隣りが南蛮寺というカトリック。
ちょうど同じ頃、スペインのフランシスコ・ピサロ1470-1541という探検家は、宣教師とともに南米インカ帝国に1524年上陸した。
・スペイン・カルロス1世(神聖ローマ皇帝)からインカ帝国征服の権利や搾取の特権を得て侵入を開始。
・やがて現地の金銀を搾取してスペインに持ち帰ることで、スペインは世界に冠たる大国になったが、インカ帝国は滅亡したのである。
・フランシスコ・ピサロ(武器は鉄砲、槍)にとって、丸腰のインカ人(武器は青銅器)を虐殺するのは簡単なことであった。
さて、フランシスコ・ザビエルが日本・鹿児島に上陸したのは1549年。
・また種子島に鉄砲伝来したのは1543年(牟良叔舎(フランシスコ)、喜利志多佗孟太(キリシタ・ダ・モッタ))である。
・教科書では鉄砲伝来が良かったかのように描くが、実態はそうではない。
・鉄砲を持ち込んだフランシスコや鹿児島に上陸したザビエルの目的は、日本を支配して金銀を搾取、布教することである。
・これはインカ帝国に上陸して絶滅させたのと同じ。とっころが日本は、インカ帝国のように絶滅はしなかった。その理由は次である。
鉄砲伝来した1543年、種子島・西村の小浦では砂浜で砂鉄が採れた。
・島主・種子島時堯は鍛冶屋を通して、砂鉄による刀・包丁の制作技術を高めていたのである。
・そこへやってきた牟良叔舎(フランシスコ)、喜利志多佗孟太(キリシタ・ダ・モッタ)は、
日本を支配するのは困難だとして、鉄砲二挺を置いて帰った。
・その1年後多くの鉄砲を持って再び日本へやってきたときには、なんと!数百の鉄砲が日本に流通していたという。
日本を支配するどころか逆に返り討ちに会うと悟ったフランシスコは帰国。
でわ何故日本では急速に鉄砲が生産されたのか。
・種子島の島主・種子島時堯は、最初の鉄砲を分解、その構造を研究して大量生産につなげた。
大量生産を支持命令したのは当時の戦国大名(世界最強の戦士)であり、とりわけ織田信長は鉄砲の重要性を感じていた。
やがて大坂堺の鉄砲鍛冶や滋賀・近江国友の鉄砲鍛冶により益々大量生産された。
・もはやポルトガルやスペインは、日本をインカ帝国のように支配することは出来なくなった。
時は流れて徳川家康の時代になると、
・キリスト教の布教を通じて日本の銀をはく奪しようとするスペイン宣教師を信用せず、
純粋に貿易のみを重視したオランダ商人を重用した。
そのきっかけとなった人物が英国人の三浦按針(ウィリアム・アダムス)である。
英国はプロテスタントが多く、オランダと同じである。
・このような歴史の裏側を知ると、教科書にはウィリアム・アダムスをもっと取り上げるべきだと思う。
ザビエル上陸記念碑
朝鮮出兵の理由
・以下にあるのはイエズス会の戦略記録
つまり日本を全国キリスト教に改宗させ、強大な日本の軍事力を利用すればシナは征服可能と記載がある@1585-3-3
加藤加藤清正は1562年、尾張の鍛冶屋・加藤清忠の子として生まれる。 幼名は夜叉丸。
・父は清正が幼いときに死去したが、母・伊都が羽柴秀吉の生母である大政所の従姉妹であったことから血縁関係にあった秀吉に仕え、
1576年に170石を与えられると清正はこれに応えて生涯忠義を尽くし続けた。
1582年に織田信長が死去すると、清正は秀吉に従って明智光秀打倒の山崎の戦いに参加し、
1583年の柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち取るという武功を挙げ、
秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石の所領を与えられたことで一気に武名を轟かせた。
1585年、秀吉が関白に就任すると同時に従五位下に叙され、
1586年からは秀吉の九州征伐に従い、肥後に入った佐々成政が失政により改易される(秀吉により切腹させられる)と
肥後の半国のおよそ19万5,000石を与えられ、熊本城を居城とし、治水以外にも商業政策で優れた手腕を発揮した。
・1592年からの文禄・慶長の役では、朝鮮へ出兵する。
文禄の役では二番隊主将となり鍋島直茂、相良頼房を傘下に置き、別路の先鋒を務め、
一番隊の小西行長と釜山上陸後の首都漢城の攻略を競ったという。
漢城攻略後は小西行長(一番隊)、黒田長政(三番隊)と共に北上し臨津江の戦いで朝鮮軍を破る。
その後一番隊、三番隊と別れて、海汀倉の戦いで韓克誠の朝鮮軍を破り、
咸鏡道を平定すると朝鮮二王子(臨海君・順和君)を生捕りにした。
更には朝鮮の国境豆満江を越えて兀良哈へ進攻するなど数々の武功を挙げている。
・1593年の第二次晋州城の戦いでは北面からの攻城を担当し、
配下の森本儀太夫、飯田覚兵衛が、黒田長政配下の後藤基次と一番乗りを競い城を陥落させた。 しかしその後
・1596年には、石田三成と明との和睦をめぐる意見の対立から秀吉の勘気を受けて一時は京に戻され、
小西行長との対立も深刻化していた。
・1597年・慶長の役でも再び小西行長とは別路の先鋒となり、朝鮮軍の守る黄石山城を陥落させ、
全羅道の全州を占領し西生浦倭城に駐屯し、 城の東方に浅野幸長や毛利家家臣・宍戸元続が清正支配下の蔚山倭城を築城した。
しかし完成間近に明の大軍が攻め寄せてきたために清正は急遽側近のみ500人ほどを率いて蔚山倭城に入城し、
毛利秀元や黒田長政の援軍の到着まで城を守り抜いたことで、 清正は朝鮮の民衆から「犬、鬼上官」と恐れられたという。
・1598年秀吉が死去すると、五大老の徳川家康に接近し、家康の養女を継室として娶った。
・1599年前田利家が死去すると、福島正則や浅野幸長ら6将と共に石田三成暗殺未遂事件を起こした。
・1600年石田三成が家康に対して挙兵した関ヶ原の戦いでは九州に留まり、
黒田如水と共に家康ら東軍に協力して行長の宇土城、立花宗茂の柳川城などを調略、
九州の西軍勢力を次々と破り、勲功行賞で、肥後の行長旧領を与えられ52万石の大名となる。
本来武断派として家康につくはずのない清正が結果的には徳川についたのは、文治派の石田三成と肌が合わなかったにすぎない。
・1605年従五位上・肥後守に叙され、
1610年、徳川氏による尾張・名古屋城の普請に協力し、
1611年には二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋したが、帰国途中に発病し、6月24日に熊本で死去した。
清正の死後、家督は子の忠広が継いだが、加藤家が豊臣氏恩顧の最有力大名だったため 1632年改易になった。
【1次出兵1592-5-24要点】
・豊臣秀吉は朝鮮半島の通行許可を申請
・明を征服するのが目的だと聞いて朝鮮(明の支配下)は拒否
・朝鮮との戦争に及ぶ
・当時朝鮮は両班(貴族)が一般民衆から税を搾り取っていた
・一般市民は日本軍を解放軍だとして大歓迎、日本軍と共に両班と戦う
ソウルに入った時には既に役所は一般市民によって焼かれていたという
・鉄砲隊を有する日本軍は簡単にソウル、平壌、ロシア国境まで進軍陥落する
・朝鮮王朝が求めた明の援軍は大砲所持しており、平壌奪回。
・戦線が膠着したので和議(李如松:小西行長)に入る、その内容は以下であったが秀吉の国書を偽造
明朝皇帝の娘を秀吉の后にせよ
明朝皇帝の娘を後陽成天皇の后にせよ
勘合貿易復活
・明皇帝は了承し、使いが大阪城迄来るが偽造がばれて決裂 李如松は処刑@明皇帝
【2次出兵1597-3-1要点】
・朝鮮は衛生状態悪く、食料が無い
・日本兵は征服したくないし、毛利輝元などはこんな土地要らない・・・と言っている
・藤堂高虎などは朝鮮南部に、名護屋城に匹敵する城を建てている(現存している)
1年程度で築城する技術を持っていた
・そうこうしているうちに秀吉死亡@1598-9-18
・名護屋に来たが出兵しなかった家康が後に裏切る(大坂の陣)
瑞鳳殿は、仙台・経ケ峯にある伊達政宗を祀る霊廟である。瑞鳳殿本殿両脇には、殉死した家臣15名および陪臣5名の宝篋印塔が並ぶ。仙台藩初代藩主・伊達政宗は生前に、遺骸を仙台城下町南西縁にある経ケ峯に葬ることを遺言し、1636年没した。経ケ峯は仙台城本丸と同様に青葉山段丘にあり、政宗の後を継いだ第2代藩主・伊達忠宗は政宗の遺言に従い、1637年10月、政宗の御霊屋を経ケ峯の東部に、正面が仙台城本丸を向くよう西向きに建立し、「瑞鳳殿」と命名した。同年、瑞鳳殿の隣接地に政宗の菩提寺として「瑞鳳寺」も創建され、仙台藩領・平泉の毛越寺より遷した釈迦三尊像を本尊とした。瑞鳳殿は、本殿・拝殿・唐門・御供所・涅槃門からなり、桃山文化の華麗な建築を誇った。
仙台名物「ずんだ餅」
手作りは枝豆の触感を残しています
伊達政宗の御廟・瑞鳳殿
ここは感仙殿(伊達家2代・忠宗)と善応殿(伊達家3代・綱宗)という御廟
妙雲界廟
伊達家9代・周宗の墓
伊達家11代・斉義の墓
伊達家11代・斉義の妻・芝姫の墓
伊達輝宗1544-1585
最上義守1521-1590 ┣伊達政宗1567-1636 仙台藩初代
┣義姫 1548-1623 ┃ ┣伊達秀宗1591-1658 宇和島藩初代(長男であったが側室の子)
┣最上義光1546-1614┃ ┣伊達宗清1600-1634 ┣宗利1635-1709 宇和島藩2代 :母--朝井氏
┃ ┣家親1582-1617┃ 新造の方?-1612:側室 ┗宗純1636-1708 伊予吉田藩初代 :母--吉井氏
┃ ┣竹姫 ┃ 秀宗が寵愛---宇和島藩分割
┃ ┗駒姫1581-1595┃
小野少将娘 ┣五郎八姫1594-1661(松平忠輝の正室)
103後土御門天皇(成仁1442-1500) ┃原田甲斐宗輔1619-1671
┗104後柏原天皇1464-1526 ┣伊達兵部宗勝1621-1679 浄眼院
┗105後奈良天皇1497-1557 ┣伊達忠宗1600-1658(2代) ┣伊達綱村1659-1719(4代藩主)
┗106正親町天皇1517-1593 愛姫┃ ┣伊達綱宗1640-1711(3代仙台藩主)
┗誠仁親王(陽光太上天皇) ┣光宗 ┣伊達宗倫1640-1670 ⇔ 伊達安芸宗重1615-1671
┃ 振姫1607-1659┣伊達宗房1646-1686 ┗宗元1642-1712
┃ 家康-秀忠┛ ┏貝姫┗伊達吉村1680-1752(5代)柴田朝意1609-1671
┃ ┃側室 ┃ 佐竹親直1566-1615┛
┃ ┃ ┗伊達宗村1718-1756(6代)
┃ ┃ ┣伊達正敦1755-1832:近江堅田藩・堀田家
┃ ┃ 性善院 老中松平定信の若年寄に抜擢
┃ ┃ 蝦夷地政策陣頭:国防
┃ ┃ 蝦夷地図作成:伊能忠敬1745-1818
┃ ┃ 探検家・最上徳内応1755-1836援
┃ ┃ 蘭学者・大槻玄沢1757-1827にロシア関連蘭書解読
┃ ┃ 天文方・高橋景保・シーボルトに蝦夷情報漏洩--死罪@1828
┃ ┃ 1807年視察@蝦夷 ニコライ・レザノフ侵攻
┃ ┃ 博物大名:鳥図鑑--堀田禽譜
┃ ┃
107後陽成天皇┛ ┗櫛笥隆子1604-1685(逢春門院)
┣聖興女王 1590-1594 ┣光子内親王1634-1727
┣清子内親王1592-1674 ┣良仁親王 1638-1685(111後西天皇)
┣政仁親王(108後水尾天皇)1596-1680 ━━━━┛
┣尊英女王 ┃┃┣興子内親王1623-1696(109明正天皇)
┣近衛信尋 ┃┃┣昭子内親王1625-1651
┃ ┃┃┃ ┣近衛基熙1648-1722(左大臣) ┓
┃ ┃┃┃ ┣好君(伏見宮貞致親王妃) ┃
┃ ┃┃┃┏近衛尚嗣(関白・左大臣) ┃
┃ ┃┃┃┗泰姫君(水戸藩主・光圀室) ┃
┣高松宮好仁親王┃┃┣高仁親王1626-1628 ┏━━━━┛
┣一条昭良 ┃┃徳川和子(東福門院) ┃
┣貞子内親王 ┃┣紹仁親王(110後光明天皇┃
┣庶愛親王 ┃┣守澄法親王 ┃
┣尊蓮女王 ┃園光子(壬生院) ┃
近衛前子(中和門院)┣常子内親王 ━┛
┣識仁親王(112霊元天皇)
園国子(新広義門院