平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

赤松円心公の墓 のあとは拉麺たべて三木廃線跡&三木森林公園訪問

2024年09月27日 | 鎌倉・室町時代

赤松円心(則村)
 ・南北朝時代の播磨守護大名で、家系は村上源氏の流れを汲む赤松氏第4代当主である
 ・北畠親房との縁により、後醍醐天皇方に参戦した際に北畠家 の属する村上源氏の末裔を自称する
 ・赤松本城・白旗城は兵庫県赤穂郡白旗山にある赤松三城のひとつである

1333 後醍醐天皇の皇子・護良親王が吉野で挙兵
    鎌倉幕府軍の二階堂貞藤が率いる六万の軍勢と戦う 
    7本の矢を受けた護良親王の身代わりに村上彦四郎義光が自害 
    高野山に落ち延びた護良親王 
    4月、後醍醐天皇は隠岐島を脱出し、名和長年に奉じられ、船上山で倒幕挙兵の綸旨を発す
    護良親王や赤松円心らは京都を攻めたが、六波羅軍に敗北

1336 円心が南朝方の丹上山を攻めた際、赤松軍が拠点としたこの山城は、志染軍陣に比定されている
    現在は三木市志染町にある吉田住吉山遺跡
    
南北朝時代に志染軍陣が、兵站基地として使われていた
    

赤松則村(円心)1277-1350⇔後醍醐天皇1288-1339(鎌倉倒幕の功立てるが冷遇)
  ┣赤松範資 ?-1351円心とともに足利尊氏派
  ┣赤松貞範1306-1374(姫路城基礎築く) 
  ┣赤松則祐1314-1372 
  ┃ ┣赤松義則1358-1427(弥勒寺本堂再建)
  ┃ ┗有馬義祐-1421 ┣義雅-時勝 
  ┃ (摂津有馬氏祖)  ┣赤松祐尚(英賀城主 足利義教近習)  
  ┃                 ┃ ┗則尚1425-1455
  ┃          ┗赤松満祐1381-1441⇔義教1394-1441(嘉吉の乱)  
  ┃           ┣赤松教康1423-1441 幕府軍(山名宗全)追討を受け自殺
   ┃           ┗赤松時勝 
   ┃   置塩城を築城 ← ┗赤松政則1455-1496(室:細川勝元娘 赤松氏を再興)
   ┃              ┗娘  ┗赤松村秀1480-1540(庶流) 
   ┗赤松氏範1330-1386      ┣  ┗赤松政秀?-1570┳赤松政広1562-1600竹田城主 竜野城主 
    ┣氏春      (置塩城主)赤松義村?-1521   ┏娘┛
    ┣家則           ┣赤松晴政 1513-1565
    ┣祐春           ┃ ┗赤松義祐1537-1576 信長に通じる
    ┣季則           ┃   ┗赤松則房?-1598 秀吉に仕える
   ┗乙若丸          ┗政元1500-上月城主 ┗則英?-1600 関ヶ原では西軍・自害(赤松氏嫡流は途絶える)

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滝野城主阿閉左兵衛佐重民の墓

2024年07月26日 | 鎌倉・室町時代

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護良親王1308-1335の子・興良親王1326?-?の塚が姫路市香寺町にある : 興良の墓

2024年07月10日 | 鎌倉・室町時代

 

1308 護良親王誕生 母は北畠師親娘・資子
1314  三千院門跡
1318 後醍醐天皇即位
1324 倒幕計画発覚 笠置山逃避
1325  門主
1326  興良親王誕生:陸良とも言う
1328  天台座主        
1331 倒幕計画発覚by後醍醐天皇の側近・吉田定房1274-1338:内大臣
    元弘の乱 
    鎌倉幕府✖ VS 〇後醍醐天皇
    還俗して護良親王となる
    黒木御所の造営開始
1332 護良親王一行は吉野入り:楠木正成の軍事基盤と同時並行       
1333 吉野で挙兵
    鎌倉幕府軍の二階堂貞藤が率いる六万の軍勢と戦う 
    7本の矢を受けた護良親王の身代わりに村上彦四郎義光が自害 
    高野山に落ち延びた護良親王 
    4月、後醍醐天皇は隠岐島を脱出し、名和長年に奉じられ、船上山で倒幕挙兵の綸旨を発す
    護良親王や赤松円心らは京都を攻めたが、六波羅軍に敗北
    5月、新田義貞は護良親王の令旨を受け、鎌倉幕府を陥落
    →北条氏滅亡:北条一門283人が自害
    6月、後醍醐は足利尊氏などの諸将を従え、二条富小路の内裏へと入る
1333 この凱旋パレードに護良親王の姿はなかった
    自身が悪戦苦闘の末に漕ぎ着けた京都合戦が、後醍醐と尊氏の戦いになっていたことに不満
    護良親王は戦後の処理をめぐる発言力を失い、新政権での政治方針も主張できなくなった

1333 6月、建武の親政:鎌倉武士不満、後醍醐天皇暗殺謀略@京都By西園寺公宗
    ・北畠顕家建武の新政補佐
    ・北畠顕家陸奥守任命   

    護良親王は征夷大将軍・兵部卿に任、信貴山を出て上洛
    後醍醐は御家人制を廃止し、将軍の実質的な効力を無くす
    総勢20万7000騎で入京

1334 護良親王と足利尊氏との対立は激しさを増す 
    一方、後醍醐天皇の寵后の阿野廉子にとって、護良親王が一番の障害
    実子の義良親王(後の後村上天皇)を帝にするため
    尊氏と廉子は、護良親王を失脚させたい考えは一致
    護良親王は「帝位を奪うことなどは全くの誤解である」と申し渡すも、後醍醐天皇には届かなかった
    護良親王が皇位簒奪を企てたとして征夷大将軍を解任
    上意を受けた名和長年らによって、護良親王は捕らえられた
    11月、護良親王は足利方に身柄を預けられ、鎌倉へ送られた:二階堂ヶ谷の東光寺に幽閉

1335 北条時行蜂起-鎌倉制圧:中先代の乱
    関東各地で足利軍に対し勝利を収める
    7月、その存在が北条軍に奉じられることを警戒した足利直義の命を受けた淵辺義博により、護良親王は殺害された
    護良親王-執権・北条時行による鎌倉幕府復活が図られることが予想されたため
    護良親王の予測通り、足利尊氏は勢力を拡大
    護良親王の死によって、後醍醐天皇を取り巻く力は著しく削がれて南北朝の内乱が拡大する
    

1335 足利尊氏が鎌倉へ攻め上る---鎌倉奪還

1335 北条時行勢力自刃@北条時行脱出

1335 足利尊氏@鎌倉 京都からの帰還命令無視---後醍醐天皇に反旗

1336 尊氏討伐命令to 北畠顕家By後醍醐天皇
    ・1/02 義良親王を奉じて上京開始
    ・   足利義詮、桃井直常を破って鎌倉入り
    ・1/06 遠江入り
    ・1/12 近江入り
    ・1/13 新田義貞、楠木正成と合流
    ・1/16 連合軍は円城寺を攻めて足利方を破る
    ・1/27 足利尊氏を破る
    ・2/04 北畠顕家は大将軍の号を賜る
    ・2/10 足利尊氏が再入京---摂津で破り尊氏は九州へ逃げる
    ・2/14 北畠顕家は京へ凱旋
    ・3/02 北畠顕家は権中納言に叙される
    ・3/20 足利を討つために奥州への帰還開始 5月に戻る
    ・   このとき足利尊氏は立て直して上京
    ・   新田義貞は比叡山に敗走
    ・   楠木正成は湊川の戦いで自刃

1336 尊氏擁立の天皇承認(北朝に光明天皇) : 後醍醐天皇は南朝を開く
    興良親王は後醍醐天皇の猶子となって親王宣下を受

1337 北畠顕家は東北平定のために霊山@福島を本拠地とする
    ・8月 尊氏討伐命令By後醍醐天皇
    ・   義良親王を奉じて上京開始
    ・   この時には後醍醐天皇の新政に不満を持つ武士多数で北畠顕家は苦戦
    ・12月 足利軍の城杉本城@鎌倉にて奮戦勝利
    ・    新田義貞の息子・義興と合流
    ・    北条時行とも合流

1338 1/02 北畠顕家は鎌倉出発
    ・1/12 遠江 北条時行は遠州灘の嵐で行方不明
    ・1/21 尾張
    ・2/04 高師泰らが京に進撃:北畠顕家打倒目的
    ・2/21 北畠顕家は大和を占拠
    ・2/28 桃井に敗れて義良親王を吉野に逃がす
    ・3/08 天王寺の戦いで勝利
    ・3/18 敗戦して和泉へ転戦
    ・3/21 高師直が追撃
    ・5/22 北畠顕家は高師直に敗戦@石津の戦い
    ・6/10 同上 北畠顕家は戦死 

1340 相模次郎・時行を諏訪氏が支えて、足利の守護・小笠原勢と対峙@大徳王子城
1341 興良親王は、夏に常陸国に下向して小田城の北畠親房に迎え入れられた

1351 興良親王は、南朝に帰順した赤松則祐に奉じられ、播磨周辺諸国における宮方の中核勢力になった

1352 南朝が鎌倉奪還 時行鎌倉入 南朝が京都を制圧、宰相義詮は近江に逃亡

1352 鎌倉南朝は尊氏の反撃にあう 時行は鎌倉離脱 かくして南朝逼塞

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佐賀-2 八女市星野村・大円寺にある懐良親王御息所の墓所

2022年04月28日 | 鎌倉・室町時代

玉水山大円寺は、征西将軍宮懐良親王薨去の地とされ、懐良親王ならびに勤皇星野氏累代菩提所になっている。懐良親王が何処で亡くなられたかは定かではないため、八代市宮地村にある御陵墓を正式な墓所としている。

懐悟院殿銘五輪塔地輪

懐良親王御息所?-1389年は菊池武重公の室・豊姫の長女である。豊姫は星野実秀公の長女であり、菊池氏と星野氏は南朝との結びつきが強かった。供養塔は「おつれどんの墓」とも呼ばれて、大円寺境内の一角で発見されたという。

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佐賀-1 八女市星野村にある懐良親王墓所

2022年04月28日 | 鎌倉・室町時代

長崎空港から向かったのは福岡県久留米の南東30kmほど行ったところにある星野村。ここには後醍醐天皇の皇子・懐良親王1329-1383の終焉の地、墓所がある。生憎山崩れで通行止めのため墓所には行けなかったが、終焉の地には行けた。

懐良親王は、征西将軍として南朝勢の取りまとめを目的に九州に派遣された。7歳の頃、わずかな従者とともに瀬戸内海経由で九州を目指すが、北朝方の大友氏に阻まれ、3年間を愛媛県の忽那氏のもとで過ごす。一行は鹿児島からの上陸に計画を改め、肥後入国の機会を窺う。その頃の肥後では、懐良親王は頼る相手を見出せずにいた。この状況を打開したのが15代武光で、武光による庇護を目指して、海路、宇土から肥後入国を果たす。1348年、九州南朝の中枢である征西府が菊池に置かれ、これ以後、親王と武光は九州中を転戦する。中でも最大の戦となった「筑後川の戦い@1359年」では親王と武光は九州の首府である大宰府を制圧し、南朝方としての九州制覇を成し遂げ、征西府は菊池から大宰府に移され、政が行われた。

懐良親王1329-1381一行が鹿児島入りした時@1342に、谷山五郎隆信は両棒餅(650年の歴史)でもてなしたという@御所・見寄ヶ原。

上杉清子  
┣足利直義1306-1352    ⇔  新田義貞1301-1338  
┗足利尊氏1305-1358    ⇔  後醍醐天皇1288-1339
  ┃┣義詮1330-1367                     ┃┃      ┏憲忠1433-1455
 ┃┃┃藤原慶子                       ┃┃関東管領上杉氏 ↑      
 ┃┃┃┣義持1386-1428 管領斯波義将⇔朝廷  ┃┃       享徳の乱1455-
 ┃┃┃┃ ┣義量1407-1425              ┃┃     ↑  ↓
 ┃┃┃┃栄子 武者小路隆光         ┃┃三宝院満斎↓┏成氏1438-1497
 ┃┃┃┃   ┣━━━━ 娘         ┃┃関東公方足利持氏   
 ┃┃┃┃   ┗円満院  ┣細川澄之     ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┣潤童子 九条政基      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃  大内義興娘      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃斯波氏┣義栄1538-1568  ┃┃(三好氏で養育)   
 ┃┃┃┃    ┃┣義維1509-1573      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃日野永俊娘          ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃┣義晴1511-1550      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃┃┣義輝1536-1565    ┃┃⇔ 松永久秀(1565永禄の変)   
 ┃┃┃┃    ┃┃┃┣義昭1537-1597(覚慶)┃┃  (三好三人衆:義栄派)  
 ┃┃┃┃    ┃┃┃近衛娘          ┃┃  伊勢貞親1417-1473 
 ┃┃┃┃斉藤氏 ┣義澄(清晃)⇔┏茶々丸   ┃┃⇔┏北条早雲1432-1519伊勢氏   
 ┃┃┃┃  ┣政知1435-1491関東堀越公方  ┃┃ ┗北川殿  
 ┃┃┃┣義教1394-1441(義円) ⇔ 赤松満祐  ┃┃  ┣竜王丸(氏親)⇔┏小鹿範満 
 ┃┃┃┃  ┃  ┃             ┃┃  今川義忠1436-1476駿河守護 
 ┃┃┃┃  ┃  ┃             ┃┃   
 ┃┃┃┃ ? ┣-  ┣義勝1434-1443        ┃┃満元┓   
 ┃┃┃┃ ┣宗子  ┣義政1436-1490乳母伊勢氏 ┃┃管領細川持之1400-1442     
 ┃┃┃┃ ┃-1447 ┃┃┣女児         ┃┃ ┗細川勝元1430-1473 
 ┃┃┃┃ ┣義資  ┃┃今参局-1459      ┃┃   ┃┗政元1486-1507(明応政変)
 ┃┃┃┃ ┃┗重政┃┣義尚1465-1489       ┃┃   ┣-    ┣澄之(養子)
 ┃┃┃┃ ┃  ┣┃日野富子1440-1496    ┃┃ ┏春林寺殿 ┗澄元(養子) 
 ┃┃┃┃ ┃    ┣┃日野勝光1429-1476内大臣 ┃┃ ┣豊久(細川養子→出家) 
 ┃┃┃┃ ┃    ┃┃┗娘義尚夫人         ┃┃山名持豊(宗全)1404-1473播磨守護   
 ┃┃┃┃ ┃  ┃┣義視1439-1491(義尋)   ┃┃   
 ┃┃┃┃ ┃  ┃┃┣義材1466-1523⇔政元  ┃┃満家(山城守護)┓   
 ┃┃┃┃ ┃  ┗┃日野美子 妙音院       ┃┃管領畠山持国1398-1455   
 ┃┃┃┃ ┣重子1411-1463⇔今参局          ┃┃畠山持富⇔┗義夏(義就)義政保護   
 ┃┃┃┃日野重光(左大臣)1374-1413         ┃┃ ┗政長(勝元保護)┗畠山基家 
 ┃┃┃┃春日局                ┃┃           ┗義英
 ┃┃┃┃┣義嗣1394-1418                 ┃┃   
 ┃┃┃┃┃ ┗嗣俊(鞍谷氏)              ┃┃  
 ┃┃┃┃┃ 日野康子   ┏━━━━━━━━━┛┃ 
 ┃┃┃┃┃ ┣-      ┃┏━━━━━━━━━┛ 
 ┃┃┣義満1358-1408   ┃┣成良1326-1344(光明皇太子)  
 ┃┃┃   ┣女子    ┃┃
 ┃┃┣満詮 日野業子   ┃┣義良(後村上天皇)1328-1368  
 ┃┃紀良子        ┃┃┣寛成(長慶天皇)1343-1394                
 ┃┃藤原仲子(崇賢門院) ┃┃┃                
 ┃┣基氏1340-1367    ┃┃┣熙成(後亀山天皇)1347-1424                
 ┃赤橋登子        ┃┃藤原勝子?-?嘉喜門院
 ┣直冬1327-1400      ┃阿野廉子1301-1359             
 越前局           ┣護良親王1308-1335(母は北畠師親の娘・資子) 
                    ┣懐良親王1329-1383 
            二条藤子1293-1351

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福井-12 新田義貞戦没地と墓所@称念寺

2021年11月14日 | 鎌倉・室町時代

 1333年鎌倉幕府が滅亡、倒したのは北関東を拠点にしていた武士、新田義貞である。それまで権勢を誇っていた北条氏一族は鎌倉の東勝寺にて果てた。北条氏に仕えていた足利高氏が後醍醐天皇側に寝返ったのである。北条高塒1303-1333の幼子だった北条時行1325-1353は、その後生涯に渡って足利尊氏(北条高塒の高から後醍醐天皇の尊に替えた)と戦うこととなる。各地で北条の残党が反乱を起こす中、1335年に北条時行も諏訪氏と共に蜂起(中先代の乱:建武政権に不満を持つ東国武士3万が北条時行に集結して鎌倉を奪還)する。

1318 後醍醐天皇即位
1324 倒幕計画発覚 笠置山逃避
        
1331 倒幕計画発覚
    元弘の乱 
    鎌倉幕府✖ VS 〇後醍醐天皇 
 
1333 北条氏滅亡

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1333 建武の親政:鎌倉武士不満、後醍醐天皇暗殺謀略@京都By西園寺公宗
    ・北畠顕家建武の新政補佐
    ・北畠顕家陸奥守任命   

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1335 北条時行蜂起-鎌倉制圧:中先代の乱

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1335 足利尊氏が鎌倉へ攻め上る---鎌倉奪還

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1335 北条時行勢力自刃@北条時行脱出

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1335 足利尊氏@鎌倉 京都からの帰還命令無視---後醍醐天皇に反旗

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1336 尊氏討伐命令to 北畠顕家By後醍醐天皇
    ・1/02 義良親王を奉じて上京開始
    ・   足利義詮、桃井直常を破って鎌倉入り
    ・1/06 遠江入り
    ・1/12 近江入り
    ・1/13 新田義貞、楠木正成と合流
    ・1/16 連合軍は円城寺を攻めて足利方を破る
    ・1/27 足利尊氏を破る
    ・2/04 北畠顕家は大将軍の号を賜る
    ・2/10 足利尊氏が再入京---摂津で破り尊氏は九州へ逃げる
    ・2/14 北畠顕家は京へ凱旋
    ・3/02 北畠顕家は権中納言に叙される
    ・3/20 足利を討つために奥州への帰還開始 5月に戻る
    ・   このとき足利尊氏は立て直して上京
    ・   新田義貞は比叡山に敗走
    ・   楠木正成は湊川の戦いで自刃

1336 尊氏擁立の天皇承認(北朝に光明天皇) : 後醍醐天皇は南朝を開く

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1337 北畠顕家は東北平定のために霊山@福島を本拠地とする
    ・8月 尊氏討伐命令By後醍醐天皇
    ・   義良親王を奉じて上京開始
    ・   この時には後醍醐天皇の新政に不満を持つ武士多数で北畠顕家は苦戦
    ・12月 足利軍の城杉本城@鎌倉にて奮戦勝利
    ・    新田義貞の息子・義興と合流
    ・    北条時行とも合流

1338 1/02 北畠顕家は鎌倉出発
    ・1/12 遠江 北条時行は遠州灘の嵐で行方不明
    ・1/21 尾張
    ・2/04 高師泰らが京に進撃:北畠顕家打倒目的
    ・2/21 北畠顕家は大和を占拠
    ・2/28 桃井に敗れて義良親王を吉野に逃がす
    ・3/08 天王寺の戦いで勝利
    ・3/18 敗戦して和泉へ転戦
    ・3/21 高師直が追撃
    ・5/22 北畠顕家は高師直に敗戦@石津の戦い
    ・6/10 同上 北畠顕家は戦死 

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1340 相模次郎・時行を諏訪氏が支えて、足利の守護・小笠原勢と対峙@大徳王子城

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1352 南朝が鎌倉奪還 時行鎌倉入 南朝が京都を制圧、宰相義詮は近江に逃亡

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1352 鎌倉南朝は尊氏の反撃にあう 時行は鎌倉離脱 かくして南朝逼塞

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1353/5/20 北条時行斬首@鎌倉滝口寺

 

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1333年鎌倉幕府を倒したのは北関東を拠点にしていた武士・新田義貞

2020年03月27日 | 鎌倉・室町時代

 1333年鎌倉幕府が滅亡、倒したのは北関東を拠点にしていた武士、新田義貞である。それまで権勢を誇っていた北条氏一族は鎌倉の東勝寺にて果てた。北条氏に仕えていた足利高氏が後醍醐天皇側に寝返ったのである。北条高塒1303-1333の幼子だった北条時行?-1353は、その後生涯に渡って足利尊氏(北条高塒の高から後醍醐天皇の尊に替えた)と戦うこととなる。各地で北条の残党が反乱を起こす中、1335年に北条時行も諏訪氏と共に蜂起(中先代の乱:建武政権に不満を持つ東国武士3万が北条時行に集結して鎌倉を奪還)する。漫画:逃げ上手の若君は、敵から逃げることで英雄となった北条時行の生涯を描く。

1333 北条氏滅亡

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1333 建武の親政:鎌倉武士不満、後醍醐天皇暗殺謀略@京都 By 西園寺公宗

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1335 北条時行蜂起-鎌倉制圧:中先代の乱 (先代:高塒 中先代:時行と足利は認めていた証拠)

 ↓      建武の新政で恩賞がもらえない不満分子が北条時行の元に終結

1335 足利尊氏が鎌倉へ攻め上る

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1335 尊氏に鎌倉を奪われる : 北条時行勢力自刃@北条時行脱出

 ↓      北条時行も自刃とみせかける

1335 足利尊氏@鎌倉 後醍醐天皇による京都からの帰還命令無視

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1335 尊氏討伐By後醍醐天皇 : 失敗 湊川の戦い

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1336 尊氏擁立の天皇承認(北朝に光明天皇) : 数か月後、後醍醐天皇は南朝を開く

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1337 北条時行決起の好機(打倒尊氏) : 時行は、後醍醐天皇の軍勢に加わり北畠顕家と合流して南朝側となる

 ↓                    北条の名は足利よりも大きい

1338 後醍醐天皇は皇子を各地に展開 : 北条時行は後醍醐天皇皇子とともに遠州灘の嵐で行方不明

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1340 相模次郎・時行を諏訪氏が支えて、足利の守護・小笠原勢と対峙@大徳王子城

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1352 南朝が鎌倉奪還 時行鎌倉入 南朝が京都を制圧、宰相義詮(尊氏の息子)は近江に逃亡

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1352 鎌倉南朝は尊氏の反撃にあう 時行は鎌倉離脱 かくして南朝逼塞

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1353/5/20 北条時行斬首@鎌倉滝口寺

 

この倒幕で時代は大きく転換し、政治の実権を握った後醍醐天皇は建武の親政を行う。鎌倉幕府の滅亡から南北朝の動乱迄を描いた太平記の中では、後に室町幕府を開く足利尊氏と新田義貞は熾烈な戦いを行うこととなる。新田氏が治めたのは群馬県新田庄、清らかな地下水が豊富で実りをもたらした。新田義貞が生まれたのは1300年頃、鎌倉幕府の実権を握っていた北条氏の権力は揺るぎないものと思われていた。ところが、1331年近畿地方で後醍醐天皇は河内の楠木正成を動かして倒幕ののろしを上げたのである。この時新田義貞は幕府軍の一員として後醍醐制圧にかかったが苦戦を強いられたという。一方苦戦する幕府は戦費調達の為新田庄に税を課すべく使者を取り立てに差し向けたが、新田義貞はその使者を斬首する。盤石で最盛期を迎えていた幕府にたいして戦いを仕掛けたのである。

 畿内では、幕府側の有力者・足利尊氏が後醍醐川に寝返り幕府の監視機関・六波羅探題を攻め落としたのである。これに新田義貞も呼応して反幕府軍として挙兵。その地は新田庄の生品神社、集まったのは150騎、で鎌倉への進軍の途中で足利尊氏の息子・千寿王も合流している。かくして大軍勢となった新田義貞は鎌倉北条勢と激突、北条の多くを自刃に追い込んだ。そして1333年5月、鎌倉幕府は滅亡し、これまで無名であった新田義貞は都でその名を知られることとなる。後醍醐天皇は幕府も隠棲も否定し自ら政治を行うべく、1334年建武の親政を敷く。新田義貞は恩賞として播磨の国司に就任し、新田一族の多くが都の警護を行う武者所の要職に就いた。さらに新田は北陸地方、越前・越後の国司に任命され後醍醐政権の中枢を担うこととなる。

 一方の功労者、足利尊氏は、武蔵、常陸などの東国の国司に任ぜられただけではなく、天皇の偉をさずかり、全国の武士への指揮権も与えられた。1335年東国で北条氏残党による反乱が起こり、尊氏は制圧に向かった。ところが乱の終息後も天皇の上洛命令を無視して鎌倉を動こうとしなかった。恩賞の不満かともいわれているが、これに対して後醍醐は尊氏を朝敵とみないして追討の宣言をする。其の大将に指名されたのが新田義貞であった。ここに源氏の流れをくむ足利と新田の戦いが始まるのである。義貞は鎌倉に向かって出陣したが反撃に撤退を余儀なくされ、また京都を奪われた。後醍醐は京都を逃れて比叡山山麓の東坂本・日吉大社に籠った。義貞らは東北からの援軍を受けて反撃し尊氏らを急襲に追い落とすことに成功した。しかし僅か三か月後の1336年5月、西国武士を従えた足利尊氏は新田義貞を攻めて、再び比叡山に敗走させた。

 ある意味この膠着状態を打開しようと尊氏は後醍醐に和睦を持ちかけたのである。後醍醐天皇が都に戻れば政治のすべてを任せるというものである。後醍醐はこれをあっさり受け入れたが、後醍醐側の指揮官である新田義貞はこれを知らされることはなかった。新田一族の武将・堀内貞満はこれを知り、天皇の元に向かうと、新田一族の忠誠を訴える。後醍醐の和睦受け入れはいっときの図り事にすぎないとの説明もあって、新田義貞は皇太子とともに北陸へ行き兵の立て直しを図ることとなる。そして義貞は北陸を拠点に尊氏と戦うことを選んだ。いったん尊氏側に着いた後醍醐は京都から吉野へ脱出したことで、南北朝時代に突入した。北陸に下った義貞は尊氏の追撃に苦戦していたが、ついに1337年3月には敦賀の戦いに於いて皇太子を尊氏に奪われた。1338年7月には新田義貞が尊氏たてこもる城の視察にでかけたところを大軍勢に襲われて越前藤島であっけなく命を落とすこととなる。

滝口寺にある新田義貞公首塚

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幕末、戦前といつも利用されてきた楠木正成

2019年06月26日 | 鎌倉・室町時代

 楠木正成とは、日本で最も有名になった土豪であり、大楠公として歴史に名を遺す英雄、険しい山に城を築き奇想天外な戦法で大軍と戦った武略の天才である。天皇の命令に従い悲劇的な死を遂げた忠臣として長く語り継がれた。今年は明治150年にあたるが、明治維新に大きく影響を与えた人物でもある。ほんとうに悲劇の忠臣なのか?1336年に足利尊氏と湊川の戦で敗れて自刃したが、その三か月前に尊氏をあと一歩のところまで追いつめていた。出自も不明な謎多き正成が歴史に登場したのは1331年8月、150年に渡った鎌倉武家政権と時の後醍醐天皇との対立が表面化した。わが子への皇位継承を望む後醍醐天皇は、これを阻む幕府に不満を募らせていた。天皇に政の実権を取り戻すことを目論んでいたのである。これに応えたのが河内の土豪・楠木正成である。大阪南部を拠点にしていた正成は武力を財力を兼ね備えた有力者であった。当時、中国宗からの銭の普及を背景に交通、流通をとりしきることで台頭した武士たちのひとりである。彼らは権威を振りかざし権益を独占する鎌倉幕府に憤りを感じていた。正成は後醍醐天皇の元にはせ参じ、武力と智謀にて天下を改めるべく動いたのである。かくして楠木正成は500の手勢を用いて河内の山城・赤坂城で蜂起した。幕府は30万とも言われる大軍勢を差し向け、赤坂城を攻撃したが、大木熱湯などで大軍を撃退。これに手を焼いた幕府軍は兵糧攻めに転じるや、楠木正成は自害を装って城に火を放ち夜陰に紛れて逃げたのである。

 倒幕戦に敗れた後醍醐天皇は隠岐に流され、楠木正成の行方も不明であった。赤坂城脱出の1年後楠木正成は紀伊で挙兵する。河内一帯を取り戻した楠木正成は金剛山の麓に新たな千早城を築いた。約500段の階段を上ると千早城四ノ丸跡がある。峰の奥には金剛山まで続く道がある要塞であったようだ。金剛山には幕府軍を迎え撃つ正成の書状がのこされている。千早城は金剛山の出城みたいな存在であり、正成は金剛山と密接な関係を結んでいたと思われる。

 1332年2月鎌倉幕府の大軍が千早城に襲い掛かった。正成は奇策で第軍勢を迎え撃つ。籠城は100日以上にもおよんだことから兵糧を受け入れるネットワークがあった。逆に幕府軍の戦意は衰え、また正成奮戦の効果は日本各地に及び、日本各地で蜂起が始まったのである。激変は幕府内部でも発生。幕府軍の大将・足利尊氏が後醍醐天皇側に寝返った。1333年5月、尊氏は幕府の京都拠点・六波羅探題を攻め落とし、幕府方の新田義貞も鎌倉を襲撃し壊滅させた。かくして1333年5月22日鎌倉幕府は滅亡した。隠岐を脱出した後醍醐天皇は正成に先導されて京都に凱旋した。6月には天皇親政である建武の親政を開始した。後醍醐天皇は所領争いなどに前例を顧みない判決を行い破格の人事を次々と実施した。地方の土豪に過ぎなかった正成も天皇の親衛隊長とも言える武者所に大抜擢された。しかしこれらは武家だけではなく朝廷内にもわだかまりを残すこととなる。

 鎌倉幕府倒幕から二年後、旧幕府残党の氾濫を抑えるため鎌倉に下っていた足利尊氏が後醍醐政権から離反する。反乱の鎮圧後も鎌倉から動かない尊氏を後醍醐天皇が討伐しようとしたからである。ところが尊氏はこの戦いに勝利して京都を制圧。比叡山に逃れた後醍醐天皇の元に正成ら朝廷軍は集結した。1336年1月朝廷軍は尊氏軍に総攻撃をしかけ洛中から駆逐したのである。ここでも正成は戦死したとみせかけて散り尻に逃げたが、尊氏により差し向けられた追手に襲い掛かった。かくして正成は尊氏を追い詰めたが、優勢な朝廷軍の中には逃げる朝敵に付き従う武士が多数居たのである。彼らは所領の拡大など功績に見合った恩賞が無いとして不満を持っていたのである。正成はこの光景を見て尊氏を追い込むことはやめて撤退した。ある意味尊氏との決戦をさけて尊氏を取り込み、後醍醐天皇の治世継続を狙ったと言える。そして都に戻った正成は後醍醐天皇に思い切った策を進言した。つまり尊氏との和睦案を進言し、尊氏の反撃をかわそうとしたのである。ところが、この進言は聞き入れられなかった。

 二か月後、九州に落ち延びていた尊氏は大軍勢を率いて京都に進軍した。かくして天皇を比叡山に逃し京都を空にして尊氏軍を引き込み、兵糧のルートを新田軍と絶ったうえで市中殲滅を狙うものであった。だが、公家たちからは反対され出陣を強いられたのである。かくして菊水の旗印のもとわずか500騎で兵庫湊川に向かった正成は、足利の大軍を相手に激闘し、1336年5月25日やつきた正成は弟正季と「七たび人間に生まれ変わっても、朝敵を滅ぼす」と誓い、刺し違えて死んだという。

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大名・赤松円心が将軍を暗殺・嘉吉の乱

2019年06月10日 | 鎌倉・室町時代

暗殺されたのは室町幕府6代将軍足利義教、暗殺の首謀者はに播磨・備前・美作の守護大名・赤松満祐である。
 ・暗殺された足利義教は、悪政の限りを尽くしたことで有名な室町幕府の六代将軍である。
 ・
室町幕府ができて70年余りが過ぎ、三代将軍義満が亡くなったころから幕府政治は揺らぎ始めていた。
   畿内では一揆が多発、九州では地侍同志の争いが続いて幕府の制御が不能となっていた。
   そもそも室町幕府は辺境分治といって地方は地方の有力者・有力守護大名に任せ、中央は距離を置いて口出はしないというものであった。
 ・そうした状況の中で足利義教は1394年に義満の第二子として生まれた。
   義満は次の将軍には嫡男義持と決め、残る4人の男子は仏門にはいらせた。
   足利義教は天台宗比叡山の一門・青蓮院へ入り、後に天台座主にまで上り詰めた。
 ・しかし35歳の時、兄4代将軍義持の息子が5代将軍に就任してまもなく急死。また義持もが後継者を指名せずに死亡した。

 ・困ったのは残された有力大名、というのも後継ぎ候補の義満の子は皆僧侶であり、後継ぎとしての資質に欠けていたからである。
   かくして6代将軍は籤引きで決められることとなった。くじは石清水八幡宮で行われ、青蓮院殿が選ばれたのである。
 ・足利義教は将軍直属の軍隊・奉公衆を独自に整備し、延暦寺の焼き討ちを行っている。
   当時の延暦寺は金融業を営み、僧兵という軍事力を持ち、室町幕府に楯突いていたのである。
   また幕府における将軍の役割も変えていった。裁判における判決や合議制における人選を将軍が行えるようにした。
   つまり将軍の権力はこの時代に最強になったのである。かくして日明貿易を復活させ、南北朝問題も決着。
 ・副将軍とも言うべき鎌倉公方・足利持氏が暴走しようとしたときには管領・斯波義淳などの重臣が足利義教を強く諫めた。
   ところが1433年管領の斯波義淳が病死し、他の重臣たちも次々と亡くなっていった。
   足利義教は有力大名の家督問題に介入すると、その大名は内紛が起こって弱体化を招いた。
   畠山、大内、山名、一色、土岐氏も同様である。結果将軍の権力は益々強大になった。
   1438年、反抗していた関東の鎌倉公方を攻撃し自害に追い込んだ。さらに持氏の血を継ぐ3人の息子までも殺害した。
   また鎌倉公方を匿ったということで一色義貫を殺害し領地を取り上げたのである。

 ・恐怖に包まれた都を一掃するために立ち上がったともいえるのが重臣大名・赤松満祐。
   斯波や一色に続いて次は赤松家が取り潰されることを恐れたのである。
   ある日、赤松満祐は有力大名とともに足利義教を屋敷に招き、暗殺を実行したのである。
   足利義教を助けるものはほとんどいなかったという。それ以降、権力は将軍の手から次第に離れ室町幕府は衰退していくのである。

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永観堂の西隣にある尊良親王墓

2019年04月19日 | 鎌倉・室町時代

 元弘の乱は、天皇親政を目指した後醍醐天皇による鎌倉幕府執権北条氏討滅の戦いである。未然に発覚した正中の変(1324)の後も、天皇と北条氏の軋轢は日増しに強まり、たび重なる討幕計画に憤激した北条氏は武力で天皇を威圧する。これ耐えかねた天皇は元弘元年(1331)八月、京都を脱出して笠置山に向かう。元弘の乱の始まりである。この乱を契機にして、正成の名が頻繁に歴史に登場するようになる。 楠木氏は河内地方の土豪にすぎないにも拘らず笠置山に避難した天皇が頻りに正成を頼るようになるのである。 この笠置山での出合いの時、天皇の眼にとまったであろう正成の軍旗が観心寺に保存されている。 正成勢の参集にも拘らず、笠置山の攻防は幕府軍の勝利に終わり、天皇は捕われ隠岐に、同道した尊良親王は土佐、尊澄法親王は讃岐にとそれぞれ配流される。正成は護良親王と共に赤坂城を抜け出し、捲土重来を期して幕府軍の前から姿を消す。 結果的に幕府軍の勝利に終わった笠置山の攻防であったが、それまで態度を保留し、形勢を観望していた、本来天皇方につくべき武士達に決起を促すことになった。  1332年、正成と共に赤坂城を抜け出していた護良親王の吉野での挙兵に呼応して正成も挙兵し赤坂城を奪還、その奥に千早城を構築する。 翌年二月、三十万騎近い兵を西上させた幕府軍は吉野攻撃を開始、頑強に抵抗する親王軍を攻略すると、親王は千早城へと向かう。(千早城は現在の大阪と奈良の県境、金剛山の中腹から西に走る尾根の末端に位置する) 正成はわずか一千余人の手兵で、数万の幕府軍を悩ました。 その間、天皇方の武士の蜂起が続出し天皇が隠岐を脱出したこともそれにはずみをつけた。 当初は幕府方であった足利尊氏も天皇方に帰順し、東国では新田義貞が挙兵、鎌倉に進撃を開始し、鎌倉幕府は滅亡した。  翌年建武新政が成立する。最高の功労者は正成である。後醍醐天皇自ら正成に向かい、その功労を称えている。 正成は検非違使、左衛門尉として従五位に叙せられ、河内、摂津の両国を賜わる。 新田義貞は、上野、播磨の両国、尊氏は、武蔵、常陸、下総の三ヶ国を賜わり、それぞれ従四位、左兵衛督と従二位参議に任ぜられた。 

 護良親王との対立を契機として尊氏は反朝廷の旗色を鮮明にしてゆき、事態は尊氏の弟直義による親王殺害にまでエスカレートし、正成は天皇と尊氏の和解を真剣に考える。 都に押し寄せた尊氏勢が、正成、義貞の連合軍に破れて船で九州へ敗走した時にも、両者の和解を上奏している。 九州へ敗走した尊氏は逆賊であったが、新政の失策を目の当たりにした正成には、全国の武士の動向が手に取るようにわかったのであろう。これは天皇を思えば最善の方法ではあったが、到底公家達が納得できる案ではなかったのである。  正成の予測通り尊氏は、新政に失望した全国の大小名を味方につけ東上を開始した。これを阻止せんとした義貞勢が、兵庫湊川に弧立してしまう。 天皇は義貞救援を正成に諮問する。この時、正成は史上有名な献策をする。 結局、この献策は坊門宰相清忠によって一蹴され、正成は勅命により兵庫へと出陣し、尼ヶ崎で最後の上奏を行う。 もはや戦いの帰趨は正成にとって明らかであり、死を決意しての悲愴な出陣だったのである。 湊川に出陣した正成は義貞に会い、その任務は君を守護し聖慮を安んずべきであることを説き、身を挺して脱出を助けることを進言する。 総勢七百騎余の正成勢は七十三騎になり、正成は壮絶な自害を遂げる。  天皇への忠勤を果たすため、自ら肉壁となって兵庫湊川に散華したのは、桜井の駅で正行と別れてから十日後の延元元年(1336)五月二十五日。正成四十三歳の男盛りであった。その首級は、敵将尊氏の命によって観心寺に送り届けられ、大楠公首塚として今に残る。戒名「忠徳院殿大圓義龍大居士」は後醍醐天皇より賜わったものである。

 後醍醐天皇の討幕は2回行われた。 その一回目は1324年の正中の変は後醍醐天皇の無礼講メンバー多治見国長、土岐頼兼、日野資朝、日野俊基らによって実行された。 この行動の直接のきっかけは大覚寺統の後宇多法皇の死去である。 後宇多は後二条、 後醍醐天皇兄弟の父であり、大覚寺統では後醍醐天皇の次の天皇は後二条の子・邦良親王と決められていた。 本来なら兄の後二条が後を継ぐ予定であったが、早くに死んだために次男の後醍醐天皇がつなぎとして即位した。 ところが後宇多が死んでしまったから皇太子の邦良親王の立場は微妙なものとなる。 そこで、邦良親王は幕府を動かして後醍醐天皇を退位させ、一刻も早く天皇になろうと考えたのである。 鎌倉武士に強要され実権のない上皇になることに抵抗を覚えた後醍醐天皇は決行した。 幕府の京の拠点である六波羅探題を襲撃して北条範貞を殺害すると、奈良興福寺の僧侶に挙兵させ、機内の武士を呼びかけた。 一気に鎌倉に圧力をかけようというのである。 ところがこの計画が土岐頼兼の舅にあたる斉藤利行という六波羅の御家人の耳にはいり漏れたのである。 これにより先手を打った六波羅は多治見国長、土岐頼兼を滅ぼして、日野資朝、日野俊基を生け捕りにされ、 資朝は佐渡に流罪、俊基は放免という寛大な処置であった。 後醍醐天皇はこれに懲りずに六波羅の要人・伊賀兼光を寝返らせ、楠木正成、足利尊氏、新田義貞といった有力御家人を味方につけていく。 楠木正成は河内の出身であるが、その家系、身分は不明である。 ただ楠木正成が幼少の頃朱子学を学んだという河内の観心寺は後醍醐天皇の属する大覚寺統の寺であり、後醍醐天皇の側近・万里小路藤房を通して繋がったらしい。

 二回目の討幕計画・元弘の変は1331年起こった。 しかしまたもや側近の吉田定房によって鎌倉にしらされ計画は失敗し、後醍醐天皇は隠岐に流された。 しかし後醍醐天皇は笠置山に脱出すると、ここで挙兵し、楠木正成は本拠地で呼応した。 このとき幕府は本格的に笠置山を攻めて落城させている。 この時の幕府側の大将が足利尊氏である。 後醍醐天皇は捕獲され京に連行されると、二条為子との間にできた尊良親王は京で捉えられ、護良親王は吉野にはいった。 護良親王はもともと延暦寺の僧・尊雲法親王として押し込められていたが、還俗して護良親王と改名していた。 このとき楠木正成は河内の赤坂で孤立状態で奮闘していたが、とうとう夜陰に乗じて逃げてしまった。 百倍もの敵を相手にまんまと逃げおおせたというのは勝利に等しい。 後醍醐天皇は隠岐へ流罪、宗良親王は讃岐、尊良親王は土佐に流され、持明寺統の量仁親王(後伏見天皇と西園寺寧子との間の親王)が即位して光厳天皇となった。 このとき護良親王と楠木正成は俄かに体力を回復させていた。 幕府はこれをみて、再び大軍を動員して二人の征伐を決意する。 しかし楠木正成の奮闘中に、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、名和長年という豪族の支援を受けて船上山で挙兵し全国の武士に討幕の綸旨をばらまいた。楠木正成らの奮闘に全国の武士は勢いづくと、幕府は再び足利尊氏を投入する。 ところがここで足利尊氏は後醍醐天皇の綸旨を受けて幕府討伐側に寝返ったのである。  足利尊氏は諸国に呼びかけて軍勢を加え京に進撃し六波羅を陥落させた。 このとき幕府の本拠地である鎌倉を攻撃して陥落させたのは尊氏ではなく新田義貞である。 両者の家系は源氏の本流に遡る。 八幡太郎義家の子・義親の系統が源頼朝の本系統であるが、義国には兄・義重と弟・義康がいて、義重が新田を名乗り、義康が足利を名乗った。 尊氏が攻めた六波羅探題はあっけなく陥落し、探題の北条仲時は北朝の光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇をつれて鎌倉へ逃げようとしたが、近江で完全に阻まれ、絶望した仲時は伊吹山の蓮華寺にはいり一族全員430人余りが自害した。 一方関東では新田義貞を大将軍とする軍勢は鎌倉を目指し、北条高時以下一門は菩提寺の東勝寺にはいり六波羅と同様に自刀した。 これにより150年続いた鎌倉幕府は1333年に滅亡したのである。 ところで、京で捉えられた尊良親王は脱出して翌年には九州に移り、その後、京都に帰還した。1335年、足利尊氏が後醍醐天皇に反逆したときに、上将軍として新田義貞と共に討伐軍を率いたが敗退し、翌年、九州に落ちた尊氏が力を盛り返して上洛してくると、義貞と共に北陸に逃れた。 1337年、尊良親王が拠った越前国金ヶ崎城に足利軍が攻めて来ると尊良親王は義貞の子・新田義顕と共に懸命に防戦したが、遂に力尽き自害した。

 後醍醐天皇が政権に復帰すると、光厳天皇を廃して建武の新政を始めた。つまり律令政の復活と天皇親政である。 後醍醐天皇は土地所有に対する習慣、既得権を白紙にもどした。また、知行国制を取りやめた。 これは特定の家系が国司の任免権を独占し世襲させる制度であり、多くの貴族が私物化していた土地を取り上げられることになる。また、関白職そのものも廃止し、征夷大将軍には尊氏ではなく、護良親王を任命した。 当然足利尊氏は激怒し、後醍醐天皇と対立する持明寺統の公家達は知行国を召し取られて対立していく。 そして後醍醐天皇の夢であった大内裏の建設を始めたのであるが、その費用は全国の地頭、御家人からの税金によりまかなおうとした。 これでは武士たちが不満を持つのは当然である。 そして新政の崩壊は旧幕府系の人々の反乱によって始まるのである。 北条高時の遺児・時行が反乱の首謀者である。 また後醍醐天皇に解任された大納言・西園寺公宗は各地の北条氏の残党を集めて、再び持明寺統を立てようと画策した。 この時、密告により公宗は逮捕され持明寺統の後伏見、花園、光厳上皇は幽閉されたが、北条時行の軍勢は諏訪の豪族・諏訪氏に庇護されながら1335年に兵を挙げた。 公宗を密告したのは弟の公重で、西園寺の家督を得たうえに知行国の返還という恩賞を後醍醐天皇から与えられている。  後醍醐天皇の新政崩壊の前兆は北条時行の反乱に始まる。北条氏が代々守護として統治していた国で北条氏譜代の家臣が多く、諏訪神社の神官でもある諏訪氏は密かに高時の遺児である時行を匿っていたのである。また、公家の中ではかつて最も幕府とつながりを持っていた西園寺の当主・公宗がこの反乱の首謀者であった。 公宗は高時の弟・泰家を匿い、全国の北条残党を一斉発起させる予定であった。 ところが公宗の反乱は弟・公重の密告により失敗するが、1335年時行は鎌倉奪回を目指して兵を挙げた。 そして時行は尊氏の弟・直義を破って朝廷軍を追撃し鎌倉攻略に成功する。 この時直義は兄・尊氏から預かっていた護良親王を暗殺している。都では鎌倉陥落により北条の残党が集結する報がもたらされた。 足利尊氏は征夷大将軍として弟・直義の取り戻すべく軍を率いる許可を後醍醐天皇に求めたが、後醍醐天皇は拒否した。阿野廉子との間にもうけた三河の成良親王を征夷大将軍にすると、足利尊氏は無許可で鎌倉に向かった。後醍醐天皇に不満を持つ武士が尊氏を支援するとは限らない。北条時行への支持武士が多ければ尊氏の前には破滅が待っていることになるが、尊氏は勝利し、後醍醐天皇は折れた。

  尊良親王 ?~1337は、「太平記」にて「一宮」と記していることから、後醍醐天皇の数多い皇子の中では最も早く生まれたと考えられている。母は権大納言二条為世の女の為子で、同母弟として宗良親王がいる。為子が1314年に亡くなったことから、幼少時より後醍醐の側近・吉田定房に養育され、1326年に元服した。1324~1333の鎌倉幕府の滅亡までの戦いで、後醍醐天皇を支えたのは、当時元服を終えた尊良、世良、尊雲(護良)、尊澄(宗良)の四人の皇子である。 後醍醐は、鎌倉幕府打倒のために、多くの僧兵を擁する近畿の有力寺社勢力を味方に付けようと画策し、自ら延暦寺や興福寺・東大寺・春日社等に行幸して関係強化に努めた。さらに、尊雲法親王(護良親王)と尊澄法親王(宗良親王)の二人は天台宗(延暦寺)勢力を勧誘する任務を与えられて、天台トップの天台座主に据えられて同宗勢力を管轄した。一方、尊良と世良は父帝を傍から補佐することが期待され、この頃、後醍醐の寵愛を受けた阿野廉子が、恒良1325~38、成良1326~44、義良1328~68の三人の皇子を相次いで生み、これら幼い皇子たちは、後に九州で征西大将軍として活躍した懐良 1329?~83と共に後醍醐天皇の晩年を支えた第二世代の皇子といえる。

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2代目・北条義時の承久の乱により武士の時代は確立した

2019年02月02日 | 鎌倉・室町時代

【11世紀】

【1163年】北条義時誕生(江間小四郎義時 次男)@伊豆 父北条時政は伊豆豪族の主

【1181年】源頼朝は江間小四郎義時を身辺警護に当たらせる親衛隊の筆頭にしている @吾妻鑑

【1182年】頼朝の子頼家誕生 北条政子に妾の存在がばれる

【1185年】鎌倉幕府開く 合議制

【1199年】頼朝は落馬で急死 2代は頼家18歳 御家人は不安定

     頼家の補佐に宿老13人(梶原景時、大江広元、北条時政、比企能員、北条義時) 

【1200年】宿老・梶原景時はクーデターを起こそうとしたため(?)一族が滅亡(梶原景時の変)

【1203年】二代鎌倉殿・源頼家が危篤 後継者には頼家の子・一幡(母は若狭局)

     北条時政は、源頼家の側室の父・比企能員を謀殺(比企能員の変 世継ぎ・一幡は義時の郎党により刺殺)

     かくして宿老が次々と暗殺され、北条時政が初代執権となる

     源実朝を3代鎌倉殿として、北条時政が後ろ盾となる→独裁政権

     病から回復した頼家は伊豆修善寺に追放 By 北条時政 後に刺客を送って頼家暗殺

【1205年】北条時政は謀反の罪で畠山重忠を滅ぼして武蔵の国を取得 → 義時は無実の罪だと疑う

     また、源実朝を排して娘婿・平賀朝雅を新将軍として擁立を画策

     北条義時は大江広元、姉・北条政子、三浦義村とともに、父・時政追放を決意(牧氏事件)

     三浦義村は実朝を救出 →御家人は義時邸に終結 →失脚した時政は伊豆に追放

こうした状況のとき、後鳥羽上皇(上皇=太上天皇の略)は鎌倉幕府を支配下に置こうと考えていた。実朝に世継ぎができずに後継問題を抱えていた。実朝は和歌の修業を行い、後鳥羽上皇(新古今和歌集を完成させた達人)と親密になると、上皇は従妹(西八条禅尼1193-1274)を実朝の御台所に選んでいる。

【1209年】実朝は将軍家政所を開設 : 幕府が御家人を束ねて朝廷を守り全国の治安維持を行う

【1213年】北条義時に対する不満分子による義時暗殺計画(和田義盛一族の名もある)

     実朝は赦免(和田胤長以外は。また義盛への辱めあり)

     和田義盛は挙兵(比企、三浦、千葉氏の残党も加入)、将軍御所を襲うが、三浦義村は北条義時と内通

     義村は実朝の身柄を受け取ると、北条氏に渡し、謀反は失敗。和田義盛側230人は斬首

     京では和田残党が御所を襲うとの噂 鎌倉大地震@1213-5 → 実朝の信用失墜

【1216年】善政:御家人の意見聴取

     実朝は5月権中納言→6月左中将に叙任 信頼回復 11月唐船建造@由比ガ浜

     御台所との間に子供なし →後継者問題  

【1217年】かくして実朝は後鳥羽上皇の親王を次の将軍に推す密約が交わされる

【1218年】北条政子は後鳥羽上皇の乳母・卿二位と会見:後鳥羽上皇の親王を次の将軍に迎える為

     実朝は3月左近衛大将、10月内大臣、12月右大臣

 

 日本の歴史の中で上皇は権力の中心にあった。新古今和歌集の選者として有名な後鳥羽上皇は自らの和歌を数多く残している。その才能は和歌だけではなく、菊御作という刀剣にも残されている。備前や備中、山背から御番鍛冶と呼ばれる鍛冶名人を集めて作られたものである。では後鳥羽上皇は何故刀を必要としたのか。後鳥羽天皇即位の二年後に勃発した壇ノ浦の戦いでは三種の神器のひとつ草薙の剣が失われた。天皇の権威の象徴が失われたことが菊御作の背景にあるという。後鳥羽上皇の時代には王統の正当性が揺らぎ、権威の象徴を造らざるを得ないほどに追い込まれていた。後鳥羽天皇は1198年に19才で譲位して上皇となると諸芸の習得を重視したが、なかでも和歌は重視した。

 新古今和歌集は王の権威をとりもどす狙いがあったと考えられる。それは東国の政治情勢である。源頼朝が鎌倉幕府を創設、従来荘園の下級役人に過ぎなかった武士が守護や地頭として勢力を拡大し荘園経営に口出しし始めたことは、公家にとっては大きな打撃である。1204年、鎌倉幕府の執権・北条義時(畠山重忠を謀反の罪に陥れて暗殺した北条時政は、御家人の信頼を失い、代わって北条義時が政権を握るようになる)が3代将軍・実朝の正室として公家から迎え入れたいと申し出てきた。後鳥羽上皇は、自分の従兄弟にあたる坊門信清卿の女を送りこむことで実朝を取り込もうと図った。その効果は絶大で、婚姻の数か月後に実朝は和歌をたしなむようになった。1213年、実朝は自ら金槐和歌集を編纂した。実朝は後鳥羽上皇に対して恭順の意を表したのである。かくして上皇は実朝の官位を僅か1年の間に左大将、内大臣、右大臣にまで昇進させている。この裏には二人の間にて密かに進められていた計画があったと愚管抄には記載がある。つまり頼仁親王を将軍とし、実朝にはその補佐をさせるということである。天皇の権威の元、この国を再びまとめるという計画は実現寸前までこぎつけていたのである。

 

【1219年1月27日】 実朝暗殺

 鶴岡八幡宮で右大臣昇進祝賀(付き添い源仲章?-1219/2)のために参拝していた実朝が、二代将軍頼家の子・公暁によって暗殺された。公暁はすぐさま三浦義村のもとへ駆け寄るが、殺害された。

    黒幕は義時?御家人?上皇?

自ら将軍になることを目論んでの犯行である。北条義時は京へ使者を派遣し、頼仁親王を鎌倉へ下向させるように要請した。将軍をも暗殺するような危険な鎌倉へ、頼仁親王を送りこむことを後鳥羽上皇は拒んだ。「実朝の身の安全を祈祷していた陰陽師がすべて罷免された」という吾妻鏡の記述は後鳥羽上皇の御沙汰だという。後鳥羽上皇は北条義時の本心を確かめるべく、摂津、長江、倉橋の荘園地頭の罷免を申し出た。

【1219年2月27日】 阿野全成1153-1203の息子・阿野時元(頼朝直系)暗殺By義時  
            ┗源頼朝の異母弟 

【1219年3月】 朝廷-幕府の関係悪化

摂津から鎌倉の御家人を追い出せということである。この荘園の地頭は北条義時。どこまで朝廷に従う気があるのかを試したのである。ところが義時は1000騎の兵を京に派遣し、内裏に火を放つなど、この要求を拒否している。かくして朝廷と北条義時の関係は悪化していく。

【1219年7月】 後鳥羽上皇は摂政・九条道家の子・三寅を関東に下向させるという苦渋の選択をした。

ところがその裏で源頼茂1179-1219が将軍就任を目論み、実朝の後継者には三寅1218-1256(藤原頼経)よりも自分がふさわしいとした。これを知った後鳥羽上皇は頼茂討伐に踏み切る。1219年8月源頼茂は討伐されたが、混乱のさなか大内裏が焼失した。王権の象徴である内裏の焼失は我慢ならないものであった。後鳥羽上皇は再建を進めたが、公家寺社は年貢の増大に反発、さらに幕府までもが反対し、内裏再建は頓挫したのである。そして・・・

【1221年4月28日】 承久の乱

後鳥羽天皇は京に1000騎の軍勢を招集、承久の乱勃発である   
 ・
西国の守護である御家人に上皇が挙兵を呼び掛けた命令が残されている  
 ・
計画は次である  
 ・
北条義時に対して相模の三浦義村(鎌倉幕府創設以来のライバル)がクーデターを起こす  
 ・
失敗したら西国の上皇方御家人が北条義時を討つ   
 ・ 

 ・
ところが、北条義時は上皇の挙兵をすばやく察知  
 ・
三浦義村が義時に上皇の書状を提出(5月19日後鳥羽上皇による義時追討命令)  
 ・
東国御家人達に対する北条政子の情報操作演説(実は安達景盛)が威力を見せ、武田信光などは一番に賛同  
 ・
僅か8騎の幕府軍の軍勢は1万を超えるまでに膨れ上がった

【1221年6月5日】岐阜県木曽川で両軍は対峙  
   
 ・
上皇軍は大敗し京へ撤退する  
 ・
幕府軍(武田信光の東山道、北条朝時の北陸道、北条泰時の東海道は恩賞の確約を取り付ける)はそのまま京へなだれ込んだ  
 ・
一方北条に捕えられていた上皇の密使・押松は、京に送り返され、東国武士の団結を後鳥羽上皇に知らせた  
 ・
上皇は西国武士を整えるが時は遅く、恩賞の保証がない院宣には従わないのも道理  
 ・
6月14日京都宇治で総大将泰時が覚悟するほどの最後の決戦が行われ、鎌倉幕府軍の勝利となった   
  

 ・
上皇は義時追討の院宣を取り消した  
 ・
朝廷敗北によって西国の守護はことごとく処分され日本全土は東国の守護により配置  
 ・
朝廷の所領3000か所が幕府の所領となった  
 ・
東国の武士に西国の所領が与えられ、それぞれに移住し、武士の考え方や秩序が西国にまで及ぶようになる  
 ・
また、幕府によってそれまでの天皇(仲恭天皇、その父・順徳天皇、その前の土御門天皇)は廃される  
 ・
上皇の兄の子にあたる後堀河天皇が即位  
 ・
つまり皇位継承に幕府が口出しをするという前代未聞の事態が発生  
   
 ・
上皇への処分も過酷を極め、上皇41歳の1221年隠岐の島へ流された  
 ・
隠岐の島の中ノ島海土町には上皇が暮らした行在所跡が今でも残っている  
 ・
上皇は失意の中でも決して都への思いは忘れず、島で上皇と接した一族が村上家  
 ・
村上家は帰還を願う後鳥羽上皇の便りを京へ運び上皇はその返事を求めて村上家を訪ねたという  
 ・
しかし上皇の願いが叶うことはなく、流罪になってから18年後の1239年2月、後鳥羽上皇は病に倒れ、この地で崩御した  
 ・
上皇の遺骨の一部は京から20km離れた大原に葬られた。死して尚都の地を踏むことは許されなかったのである。

 ・また、承久の乱の三年後、1224年に北条義時は自分の役割を終えたかのようにこの世を去った  
 ・
この後武士の世は640年間続く  
 ・
新井白石などは朱子学の元、北条義時を悪人と批判している 

 

┏源頼朝 1147-1199 (急死 乳母比企の局)    
┣義賢   ┃          ┣比企能員
┃     ┃藤原忠通1097-1164┣丹後局   
┣範頼   ┃┃         ┗長女   
┗妹坊門姫 ┃┃ ┏玉日姫(親鸞室)┣-
 ┣高能  ┃┣九条兼実      藤九郎盛長
 ┣良経室 ┃加賀┣九条良通1167-1188        
 ┣全子  ┃  ┣九条良経1169-1206      
 ┣保子  ┃   ┃┣九条道家1193-1252     
 一条能保 ┃   ┃┃┣九条教実1211-1235     
      ┃   ┃┃┣二条良実1216-1271     
      ┃   ┃┃┣藤原頼経1218-1256 鎌倉4代将軍(幼名は三寅)     
      ┃   ┃┃┃┣九条頼嗣1239-1256鎌倉5代将軍      
      ┃   ┃┃┃大宮殿(藤原親能娘)  ┣-    
      ┃   ┃┃┣一条実経1223-1284  桧皮姫1230-1247北条経時妹   
      ┃   ┃┃西園寺綸子     
      ┃   ┃┣九条教家1194-1255     
         ┃   ┃┣九条立子1192-1248     
      ┃   ┃一条能保娘     
      ┃  ┣中宮任子1173-1238      
      ┃ 兼子┃     
      ┃   ┣昇子内親王1195-1211     
      ┃82後鳥羽天皇1180-1239      
      ┃ ┃ ┣83土御門天皇1196-1231    
      ┃ ┃源在子       ┣後嵯峨天皇1220-1272   
      ┃ ┃  ┏西園寺姞子1225-1292 ┣宗尊親王1242-1274鎌倉6代将軍
      ┃ ┃西園寺実氏1194-1269    平棟子  ┗惟康親王1264-1326鎌倉7代将軍
      ┣大姫1178-1197       
      ┣頼家1182-1204(乳母は比企一族 北条時政により暗殺 手を下したのは義時)       
      ┃ ┃ ┣ 禅暁 ?-1220/5(母は辻殿)暗殺By義時 →頼朝直系滅亡      

      ┃ ┃ ┣ 公暁1200-1219/1(母は 乳母は三浦一族)     
      ┃ ┃ 辻殿:足立娘             
      ┃ ┃   (三浦義村は実朝・義時暗殺を計画) 
      ┃ ┣ 一幡(嫡男:藤原氏に敗れる) 
      ┃若狭局:側室・比企能員(よしかず)娘         
      ┃
      ┃藤原棟子       
      ┃ ┣86後堀河 藤原重子  藤原立子1192-1247   
      ┃守貞親王(後高倉院)┃    ┣85仲恭天皇1218-1234(懐成親王) 
      ┃            ┣84順徳天皇1197-1242
      ┃82後鳥羽天皇1180-1239    
      ┃    ┣道助入道親王1196-1249仁和寺御室 
      ┃    ┣禮子内親王(嘉陽門院)1200-1273 
      ┃坊門信清┣頼仁親王1201-1264 承久の乱後備前へ配流    
      ┃ ┣坊門局    
      ┃ ┗西八条禅尼(後鳥羽上皇の従妹)    
      ┃   ┣ ---   
      ┣実朝1192-1219(幼名は千幡 乳母は北条・阿波局 公暁により暗殺される)---清和源氏      
      ┃ ・師匠:藤原定家1162-1241   
      ┃ ・先生:源仲章?-1219                      ---宇多源氏:藤原摂関家と結びつく     

      ┣三幡(乙姫)1186-1199後鳥羽天皇入内を図るが暗殺の疑       
  ┏北条政子1157-1225尼御台 
 ┃姫の前(比企朝宗娘)    
 ┃  ┣北条朝時1193-1245         
 ┃ ┃ ┣北条光時?-?(宮騒動) 
 ┃ ┃ ┗娘
 ┃ ┃  ┣家氏?-?
 ┃ ┃ 足利泰氏1216-1270
 ┃ ┃  ┣頼氏1240-1297    北条時盛娘
 ┃ ┃ 北条時氏娘(時頼兄妹)     ┣北条義宗1253-1277六波羅探題北方
 ┃ ┣北条重時1198-1261(極楽寺流)┃       ┃
 ┣②北条義時1163-1224 ┣⑥北条長時(1229-1264) ┗北条久時1272-1307
 ┃ ┃┣⑦政村1205-  ┣北条時茂1240-1270探題   ┃
 ┃ ┃┃        ┣北条義政1242-1282探題   ┃
 ┃ ┃┃        ┣北条時頼室(葛西殿)    ┃
 ┃ ┃┃        ┣安達泰盛室・藤岡     ┃
 ┃ ┃┣実泰1208-1263 平基親娘(治部卿)       ┃
 ┃ ┃┃ ┗実時1224-1276(金沢流)          ┃
 ┃ ┃伊賀の方 ┗顕時1243-1301 (室:安達千代野) ┃
 ┃ ┃                                   ┃
 ┃ ┣③北条泰時(承久の乱時総司令官)1183-1242   ┃
 ┃ ┃ (頼時)  ┃ ┃              ┣⑯北条守時1295-1233
 ┃阿波局?-?:妾   ┃ ┣北条時実1212-1227    ┃
 ┣北条宗時?-1180    ┃ 安保実員娘        ┃
 ┃         ┣北条時氏1203-1230      ┣赤橋登子1306-1365
 ┃         ┃ ┣桧皮姫1230-1247        ┃   ┃
 ┃         ┃ ┣北条時定-1290宝治合戦  ┃   ┃
 ┃三浦義澄1127-1200 ┃ ┣④北条経時1224-1246  北条宗頼娘┣足利義詮1330-1367
 ┃ ┣三浦義村-1239 ┃ ┃   ┣隆政            ┃┣義満1358-1408
 ┃伊東 ┣矢部禅尼1187- ┃    ┗頼助1245-1296       ┃┃
 ┃祐親娘┃          1256┃大江広元1148-1245         ┃┃
 ┃   ┣三浦泰村1184- ┃┗毛利季光1201-1247(宝治合戦)  ┃┃
 ┃   ┣三浦光村1205- ┃  ┣経光?-?・・・毛利元就    ┃┃
 ┃   ┣土岐光定室  ┃  ┣娘              ┃┃
 ┃   ┣━━━━━━━┃ ━娘┣北条時宗(否定説)      ┃┃
 ┃ 一条忠頼娘(公暁乳母)┃   ┃辻殿            ┃┃
 ┃            ┃   ┃┣北条宗頼?-1279      ┃┣満詮1364-1418
 ┃              ┃    ┃┃                 ┃紀良子
 ┃              ┃    ┃┃     小山長村娘     ┃
 ┃              ┃    ┃┃讃岐局┣時朝       ┃
 ┃     家時(報国寺)┃   ┃┃┣北条時輔1248-1272   ┣足利基氏1340-1367
①北条時政     ┣-  ┣⑤北条時頼1227-1263        ┣足利頼子?-1353鶴王
  ┃        ┃  ┃    ┃            ┃           ┃
 ┣阿波 平賀朝雅 ┏娘 ┏松下禅尼┣北条宗政1253-1281   足利尊氏1305-1358┣-
 ┣鏡子 ┣- ┏常葉時茂┃ ?-?   ┃┣⑩師時1275-1311                崇光天皇
 ┣百合子┏重時1198- ┃    ┃北条政村娘
 ┣江馬四郎義時1163- ┃    ┣⑧北条時宗1251-1284     
牧の方         ┃   北条重時娘   ┣⑨貞時1272-1311(乳母)         
            ┃   (葛西殿)   ┃┣⑭高時1303-1333┃
             安達景盛-1248       ┃北条宗政娘    ┣宗綱?-?
            ┃               ┃      ┏平頼綱1241-1293(日蓮を配流)
            ┣安達義景1210-1253 ┃ 平盛綱?-?得宗家執事
          武藤頼佐娘┣堀内殿1252-1306覚山尼
                ┣安達泰盛1231-1285        
                ┃ ┣宗景1259-1285         
                ┃北条重時娘・藤岡         
                  北条時房娘

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室町幕府六代将軍・足利義教はくじで決まった

2019年01月26日 | 鎌倉・室町時代

 悪政の限りを尽くしたことで有名な室町幕府の六代将軍・足利義教に関わる逸話について記載する。将軍の就任式で笑った公家の領地を召し上げ蟄居に追い込んだ。梅の木を運ばせたとき、枝が折れていたという理由で関係者8人を切腹など処罰。能楽の第一人者・世阿弥を佐渡に追放。これらの処罰は大名、僧侶、庶民、皇族などあらゆる階層に及んだと云う。室町幕府ができて70年余りが過ぎ、三代将軍義満が亡くなったころから幕府政治は揺らぎ始めていた。畿内では一揆が多発、九州では地侍同志の争いが続いて幕府の制御が不能となっていた。そもそも室町幕府は辺境分治といって地方は地方の有力者・有力守護大名に任せ、中央は距離を置いて口出しはしないというものであった。そうした状況の中で足利義教は1394年に義満の第二子として生まれた。義満は次の将軍には嫡男義持と決め、残る4人の男子は仏門にはいらせた。足利義教は天台宗比叡山の一門・青蓮院へ入り、後に天台座主にまで上り詰めた。しかし35歳の時、兄4代将軍義持の息子が5代将軍に就任してまもなく急死。また義持もが後継者を指名せずに死亡した。

 困ったのは残された有力大名、というのも後継ぎ候補の義満の子は皆僧侶であり、後継ぎとしての資質に欠けていたからである。かくして6代将軍は籤引きで決められることとなった。くじは石清水八幡宮で行われ、青蓮院殿が選ばれたのである。足利義教は将軍直属の軍隊・奉公衆を独自に整備し、延暦寺の焼き討ちを行っている。当時の延暦寺は金融業を営み、僧兵という軍事力を持ち、室町幕府に楯突いていたのである。また幕府における将軍の役割も変えていった。裁判における判決や合議制における人選を将軍が行えるようにした。つまり将軍の権力はこの時代に最強になったのである。かくして日明貿易を復活させ、南北朝問題も決着。副将軍とも言うべき鎌倉公方・足利持氏が暴走しようとしたときには管領・斯波義淳などの重臣が足利義教を強く諫めた。ところが1433年管領の斯波義淳が病死し、他の重臣たちも次々と亡くなっていった。足利義教は有力大名の家督問題に介入すると、その大名は内紛が起こって弱体化を招いた。畠山、大内、山名、一色、土岐氏も同様である。結果将軍の権力は益々強大になった。1438年、反抗していた関東の鎌倉公方を攻撃し自害に追い込んだ。さらに持氏の血を継ぐ3人の息子までも殺害した。また鎌倉公方を匿ったということで一色義貫を殺害し領地を取り上げたのである。

 恐怖に包まれた都を一掃するために立ち上がったともいえるのが重臣大名・赤松満祐。斯波や一色に続いて次は赤松家が取り潰されることを恐れたのである。ある日、赤松満祐は有力大名とともに足利義教を屋敷に招き、暗殺を実行したのである。足利義教を助けるものはほとんどいなかったという。それ以降、権力は将軍の手から次第に離れ室町幕府は衰退していくのである。 

上杉清子  
┣足利直義1306-1352    ⇔  新田義貞1301-1338  
┗足利尊氏1305-1358    ⇔  後醍醐天皇1288-1339
  ┃┣義詮1330-1367                     ┃┃      ┏憲忠1433-1455
 ┃┃┃藤原慶子                       ┃┃関東管領上杉氏 ↑      
 ┃┃┃┣義持1386-1428 管領斯波義将⇔朝廷  ┃┃       享徳の乱1455-
 ┃┃┃┃ ┣義量1407-1425              ┃┃     ↑  ↓
 ┃┃┃┃栄子 武者小路隆光         ┃┃三宝院満斎↓┏成氏1438-1497
 ┃┃┃┃   ┣━━━━ 娘         ┃┃関東公方足利持氏   
 ┃┃┃┃   ┗円満院  ┣細川澄之     ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┣潤童子 九条政基      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃  大内義興娘      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃斯波氏┣義栄ヨシヒテ1538-1568┃┃(三好氏で養育)   
 ┃┃┃┃    ┃┣義維1509-1573      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃日野永俊娘          ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃┣義晴1511-1550      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃┃┣義輝1536-1565    ┃┃⇔ 松永久秀(1565永禄の変)   
 ┃┃┃┃    ┃┃┃┣義昭1537-1597(覚慶)┃┃  (三好三人衆:義栄派)  
 ┃┃┃┃    ┃┃┃近衛娘          ┃┃  伊勢貞親1417-1473 
 ┃┃┃┃斉藤氏 ┣義澄(清晃)⇔┏茶々丸   ┃┃⇔┏北条早雲1432-1519伊勢氏   
 ┃┃┃┃  ┣政知1435-1491関東堀越公方  ┃┃ ┗北川殿  
 ┃┃┃┣義教1394-1441(義円) ⇔ 赤松満祐  ┃┃  ┣竜王丸(氏親)⇔┏小鹿範満 
 ┃┃┃┃  ┃  ┃             ┃┃  今川義忠1436-1476駿河守護 
 ┃┃┃┃  ┃  ┃             ┃┃   
 ┃┃┃┃ ? ┣-  ┣義勝1434-1443        ┃┃満元┓   
 ┃┃┃┃ ┣宗子  ┣義政1436-1490乳母伊勢氏 ┃┃管領細川持之1400-1442     
 ┃┃┃┃ ┃-1447 ┃┃┣女児         ┃┃ ┗細川勝元1430-1473 
 ┃┃┃┃ ┣義資  ┃┃今参局-1459      ┃┃   ┃┗政元1486-1507(明応政変)
 ┃┃┃┃ ┃┗重政┃┣義尚1465-1489       ┃┃   ┣-    ┣澄之(養子)
 ┃┃┃┃ ┃  ┣┃日野富子1440-1496    ┃┃ ┏春林寺殿 ┗澄元(養子) 
 ┃┃┃┃ ┃    ┣┃日野勝光1429-1476内大臣 ┃┃ ┣豊久(細川養子→出家) 
 ┃┃┃┃ ┃    ┃┃┗娘義尚夫人         ┃┃山名持豊(宗全)1404-1473播磨守護   
 ┃┃┃┃ ┃  ┃┣義視1439-1491(義尋)   ┃┃   
 ┃┃┃┃ ┃  ┃┃┣義材1466-1523⇔政元  ┃┃満家(山城守護)┓   
 ┃┃┃┃ ┃  ┗┃日野美子 妙音院       ┃┃管領畠山持国1398-1455   
 ┃┃┃┃ ┣重子1411-1463⇔今参局          ┃┃畠山持富⇔┗義夏(義就)義政保護   
 ┃┃┃┃日野重光(左大臣)1374-1413         ┃┃ ┗政長(勝元保護)┗畠山基家 
 ┃┃┃┃春日局                ┃┃           ┗義英
 ┃┃┃┃┣義嗣1394-1418                 ┃┃   
 ┃┃┃┃┃ ┗嗣俊(鞍谷氏)              ┃┃  
 ┃┃┃┃┃ 日野康子   ┏━━━━━━━━━┛┃ 
 ┃┃┃┃┃ ┣-      ┃┏━━━━━━━━━┛ 
 ┃┃┣義満1358-1408   ┃┣成良1326-1344(光明皇太子)  
 ┃┃┃   ┣女子    ┃┃
 ┃┃┣満詮 日野業子   ┃┣義良(後村上天皇)1328-1368  
 ┃┃紀良子        ┃┃┣寛成(長慶天皇)1343-1394                
 ┃┃藤原仲子(崇賢門院) ┃┃┃                
 ┃┣基氏1340-1367    ┃┃┣熙成(後亀山天皇)1347-1424                
 ┃赤橋登子        ┃┃藤原勝子?-?嘉喜門院
 ┣直冬1327-1400      ┃阿野廉子1301-1359             
 越前局           ┣護良親王1308-1335 
                    ┣懐良親王1329-1383 
            源師親娘

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足利義満と管領・細川頼之

2018年11月03日 | 鎌倉・室町時代

 足利義満が生まれたのは室町前期、つまり南北朝時代である。幼名は春王という。足利義満4歳の1362年、有力大名が室町幕府を裏切り都を攻めてきた。この時、足利義満の父・義詮はすでに都を脱出していた。義満が辿り着いたのは播磨の白旗城である。白旗城といえば、源義経が鵯越を駆け下りて平家を敗走させたときに経由した場所である。ここ白旗城では細川頼之に匿われて育ったのである。この頃、朝廷は南朝の後村上天皇が、北朝は室町幕府の足利義詮が治めるが、混乱は全国に波及する。足利義詮は収束の為に譲歩、上杉氏、山名氏、大内氏を幕府側につけた。

 義満10歳のとき足利義詮が倒れ、細川頼之は育ての親となる。因みに桂の地蔵院は管領・細川頼之が願いを込め、宗鏡禅師を招いて建立した臨済禅の寺である。義満22歳の時、幕府は安定しつつあったが、細川頼之に対して土岐氏、山名氏が反発。土岐氏は細川頼之打倒に向けて挙兵したのである。花の御所を土岐氏数万が取り囲み、関東管領・細川頼之追放の圧力をかけてきたのである。かくして細川頼之は讃岐へ流されることとなったが、花の御所は平穏を取り戻したのである。足利義満は、武家だけではなく公家としての高い地位を獲得することで室町時代の安定を目指した。足利将軍家の格上げの為には官位をあげる必要がある。そのためには朝廷行事にかかわることであるが、その武器は笙であった。仏への功徳という楽器・笙を駆使することで、当時の後小松天皇の時代に、25歳で左大臣となった。

 1389年義満が31歳の時、彼は讃岐へ都落ちした。義満が讃岐の宇多津の細川頼之を訪れたのは、山名、土岐の棟梁が死去したことで、細川頼之を都に迎え入れようと考えたからである。かくして足利義満は、山名満幸の役職をはく奪すると、一族を相手に宣戦布告し都での短期決戦に出た。戦場は内野と言って平安京の中心である。大内裏に兵を集中し、奉公衆5000が山名を打ち破り大勝利し、さらなる平和、つまり南朝との和睦、南北朝統一を考えていた。北朝説得するのに、官位を高めたことはほんとうに役立った。1392年、南北朝収束の直前に、義満を支えてきた細川頼之は64歳で亡くなったが、義満による室町幕府は繁栄の極みを迎えることとなる。

 足利義満には天皇位略奪説がある。明との貿易で日本国王を名乗ったことが理由のひとつであるが、これは交易のための便宜的な措置である。またもうひとつは、息子・義嗣を親王の待遇としたことが挙げられる。しかし狙いは別にあった。これが武士の世の礎となる。つまり幕府の財政基盤の強化を朝鮮との交易ではかろうとしたが、そのため倭寇を取り締まり航路の安定をはかることが重要であった。交易で膨大な利益をあげ、北山邸や金閣寺での祭りごとの折には、嫡男・義持を公家や帝に披露することで、この後継者を公家のトップにしようとしたのである。次男・義嗣が笙が苦手な嫡男・義持のかわりに演奏し、後小松天皇や公家に披露したという。これらは出世、格挙のためのものであり、天皇家乗っ取りではない。やがて義満は流行り病に倒れ、1408年義満は51歳で死去した。義持は4代将軍として幕府を納め、義嗣は公家を納める。これにより支配の正当性をはかり、長期安定を得るといった武家政治の流れをつくったのである。     

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相国寺の遺構

2018年10月16日 | 鎌倉・室町時代

 1379年細川頼之にかわって斯波義将が管領になり、足利義満は「奉公衆」という近衛軍を作った。この奉公衆とは将軍固有が持つ軍団であり、これにより斯波義将に操られることなく自己の権力を強化したのである。1381年には京室町にあった室町第(花の御所)の落慶供養が行われた。貴族・武士の屋敷にあった名花・名木を移植させ義満の権力を誇示した。左大臣以上の大臣を相国というが、彼が後に京の中央に建てた相国寺は義満の権力の象徴である。

 応仁の乱に於いては東軍・足利義視側の本拠地となっている。義視勢は16万、対する義尚勢は9万と細川勝元が有利であったが、途中で山名宗全は大大名・大内政弘を迎え入れ、形勢は逆転し、義視は伊勢へ逃げて北畠氏を頼った。義視逃亡のあとに優勢となった西軍は一気に東軍を攻めた。これを相国寺合戦という。

 また、相国寺には禁門の変で犠牲となった藩兵ら400名の霊塔・墓や、新古今和歌集の選者のひとりである藤原定家の墓などがある。 

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室町贅沢三昧の邸・花の御所

2018年10月16日 | 鎌倉・室町時代

 1379年細川頼之にかわって斯波義将が管領になり、足利義満は「奉公衆」という近衛軍を作った。この奉公衆とは将軍固有が持つ軍団であり、これにより斯波義将に操られることなく自己の権力を強化したのである。1381年には京室町にあった室町第(花の御所)の落慶供養が行われた。貴族・武士の屋敷にあった名花・名木を移植させ義満の権力を誇示した。左大臣以上の大臣を相国というが、彼が後に京の中央に建てた相国寺は義満の権力の象徴である。

 八第将軍足利義政というと銀閣寺(慈照寺)それも書院造の書斎・東求堂同仁斎が有名である。当時は東山山荘という義政の隠居所で銀閣寺は正式には観音殿という。義政は多くの側室の中でも今参局を溺愛し二人の女児をもうけ、20歳の時に日野富子という正室を向かえた。この頃お今の力も頂点に達し、斯波家の相続争いに口を出すほどであったが義政の叔母・日野重子は一族の日野富子を義政の正室として嫁がせた。そのうち日野富子との間に男児が生まれるが死産となり、原因はお今の呪詛であると訴えたことによりお今は琵琶湖の沖島に流される途中で自ら自害する。この頃日本有数の大飢饉により鴨川の河原には8万を越す死体が積み重ねられたという。こんなときでも足利義政は花の御所を造営していたというから世の混乱が収まるはずはない。関東公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺し享徳の乱を引き起こしたのもそのひとつである。こうしたなか、義政は弟・義尋に還俗させてまで将軍の座を譲ろうとする。還俗し義視と名乗り管領細川勝元を後見人として今出川に屋敷を構えたところ、義政と日野富子の間に男児・義尚が生まれ義視との後継人争いなど益々混乱は拡大していくのである。

 義政の悪政ぶりは並大抵ではない。室町殿を改装し、花の御所といわれた贅沢三昧の邸を1464年完成させたのおかげで、世の中が飢え苦しみ動乱がはじまった。つまり、悪政を正すための、徳政一揆(土一揆)が京都を中心に頻発した。この頃、京都の人口30万人のうち、8万人以上が飢えなどで死んだという。政治のことは何もしないわりには、政治に嫌気がさした義政は 弟の天台宗浄土寺の門主義尋に将軍就任を持ちかけている。義尋は俗還を拒んだが義政の説得も強硬で、この説得にあわてたのが日野重子、勝光親子である。義尋が俗環し義視と名を改め義政の養子となって将軍になるのだから、日野家の存続が危ないのである。

 聖武天皇は唐のものを取り入れた(正倉院)。一方、牧渓(もっけい)の瀟湘八景図(しょうしょうはっけいず)は足利義満が権威の象徴として天皇に対抗して宋から取り寄せた水墨画である1408。これを財政難として売ったのが足利義政である。かくして瀟湘八景図は織田信長(1573年京都妙覚寺 : 越前朝倉家が持っていた)、秀吉(洞庭秋月)、荒木村重(遠浦帰帆)・・・、家康、越前藩主・松平忠直(徳川秀忠の甥、結城秀康の息子 大坂落城の立役者であったが改易配流)、徳川吉宗、・・・と権力者の手に渡る。

 

京都御所のすぐ北側にある大聖寺には「花の御所」と刻まれた石がある。

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