姫路・妻鹿
坂越 大避神社
秦河勝という聖徳太子の側近が都を追われて瀬戸内海を渡り流れ着いた地。
・秦河勝は助けられたお礼として地元民に用水、絹織物・機織りの技術を教えたことからここに祀られたという。
・聖徳太子の側近には蘇我氏と秦氏がいたと古事記には記載がある。
後に抹殺されたかのように登場しなくなることから蘇我氏との権力闘争に負けたと思われる、
・大避け神社の宝物には雅楽の面、
坂越の船祭りでは坂越の港から沖に浮かぶ生島までを12隻の船が毎年12月の第二日曜日に往復する行事
大避神社は大闢と言い換えればダビデ神社との関りを示唆する
・当時の貴族は自らの祖先を天皇に報告する義務があった
秦氏の祖は「新撰姓氏録」に秦始皇帝BC259-BC210であると記載
・始皇帝-胡亥-孝武帝-功満王-弓月君-⊡-⊡-秦公酒-意美-⊡-⊡-秦河勝-(分家は伏見稲荷の社家)
これは中央アジアに逃げ延びて弓月城を構築
以降新羅を経由して日本に渡航しようとしたが新羅が邪魔をする
それを助けたのが応神天皇 囚われていた弓月の人々数万人を助けて大阪に迎え入れた
この頃に突然土木技術が進歩 古墳が巨大化
・八幡神社、稲荷神社は秦氏(秦伊呂具)の創健@711
伏見稲荷神社(秦氏が朝廷から土地を賜った)は全国3万ある神社の総本山
桓武天皇が京都に都を移した@794のは秦氏が土地を寄進したから
・伊勢神宮、出雲大社の鳥居は白木なのに稲荷神社の鳥居は赤い
扉の鴨居、柱に羊の地を塗るというのはユダヤ人の儀式
ユダヤ人がエジプトに囚われていた時、神はその時に生まれたエジプト人の子を殺す、
ユダヤ人は扉を塗ることによってエジプト人ではない証とせよ(過越:ペサハ)
室町時代の播磨の豪族・赤松祐尚
・1441年に時の将軍・足利義教を暗殺するという嘉吉の乱を起こします。
・赤松祐尚は足利義教の近習として仕えていたという説もあるが、嘉吉の乱では満祐に従い
・室町幕府軍が赤松満祐の追討のために播磨国に細川氏、山名氏をたてて赴いたために敗北
・同年降伏を拒んだ満祐は龍野にて自害
・その後、満祐の弟・赤松祐尚は赦免されるが、領地奪回のために再び挙兵
・ここ明石の大蔵谷に陣を張り、居城を三木城(赤松祐尚の没後に三木城主となる)に移す
・陣跡を寺院にしたのが大蔵院です。
・赤松祐尚の子・則尚は満祐の自害後播磨の地を逃れて各地に潜伏し、御家再興のために赤松祐則らとともに挙兵する
・が、播磨守護であった山名宗全によって破られ31歳で自害している。
・加西市の北条町は当時小谷城主であった赤松祐尚が開いた市場町で丹波、丹後への宿場町として栄えた。
・現在は、当時の赤松氏大蔵谷城跡であった大蔵院には、赤松祐尚夫妻の墓が残っています。
村上天皇-具平親王-源師房1008-1077
┣顕房1037-1094-季房┳忠房-憲房-憲政-豪運-昌運-昌明-行明-行盛-行高-名和長年?-1336
┃ ┗季則--赤松則景-家範-重則┓
藤原尊子1003-1087(藤原道長娘) ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗赤松則村(円心)1277-1350⇔後醍醐天皇1288-1339(鎌倉倒幕の功立てるが冷遇)
┣赤松範資 ?-1351円心とともに足利尊氏派
┣赤松貞範1306-1374(姫路城基礎築く)
┣赤松則祐1314-1372
┃ ┣赤松義則1358-1427(弥勒寺本堂再建)
┃ ┗有馬義祐-1421 ┣義雅-時勝
┃ (摂津有馬氏祖) ┣赤松祐尚(英賀城主 足利義教近習)
┃ ┃ ┗則尚1425-1455
┃ ┗赤松満祐1381-1441⇔義教1394-1441(嘉吉の乱)
┃ ┣赤松教康1423-1441 幕府軍(山名宗全)追討を受け自殺
┃ ┗赤松時勝
┃ 置塩城を築城 ← ┗赤松政則1455-1496(室:細川勝元娘 赤松氏を再興)
┃ ┗娘 ┗赤松村秀1480-1540(庶流)
┗赤松氏範1330-1386 ┣ ┗赤松政秀?-1570┳赤松政広1562-1600竹田城主 竜野城主
┣氏春 置塩城主 赤松義村?-1521 ┏娘┛
┣家則 ┣赤松晴政 1513-1565
┣祐春 ┃ ┗赤松義祐1537-1576 信長に通じる
┣季則 ┃ ┗赤松則房?-1598 秀吉に仕える
┗乙若丸 ┗政元1500-上月城主 ┗則英?-1600 関ヶ原では西軍・自害(赤松氏嫡流は途絶える)
陽松禅寺
小谷城南山麓に赤松祐尚が菩提寺として建立したもので、山門には三つ巴と丸に二引両の紋がすえられています。陽松寺は祐尚の名をとって「祐尚山(ゆうしょうざん)」と山号を定め、小谷城の東側に朝夕陽光を受けて立っていた老松より「陽松寺」と名付けられたと伝えられています。
嘉吉の乱後、小谷城は落城しましたが、応仁の乱によって赤松氏が再興されると、赤松祐尚が城主となりました。祐尚は、敬神、菩提心の厚い武将で寺社の修築、耕地の整理、市場の開設など領内の治世に尽力し、領民から慕われました。しかし、天文11(1542)年播磨に侵攻してきた尼子氏を迎え撃ちましたが敗れて討死し、後にこの地に追善墓として祀られています。この墓の近くには小谷城の戦いで落命した武士たちを供養した五輪塔、一石五輪塔が林立しており、その一角に五輪墓塔の残欠が集められているなど小谷城の戦いが激しかったことを今に伝えています。(説明板より)
深山砲台跡は、友ヶ島地区、淡路島の由良地区の砲台とともに明治時代に築かれた大日本帝国陸軍の由良要塞の一部で、大阪湾を防衛する役割を担っていた施設です。現在は、瀬戸内海国立公園に編入。
陸軍弾薬庫跡を思わせる通路
泉布観(造幣寮の応接所)
イギリスの古典的なコロニアル式を取り入れた日本最初の本格的洋風建築
桜宮橋階段
煉瓦造りの貴重な歴史遺産
旧桜宮公会堂
140年経過する重要文化財 結婚式場&レストラン
帝国ホテル大阪
大阪駅からは無料シャトルバスがある
大阪メトロ四つ橋線、北加賀屋駅近郊の温泉。約60年前に創業、コロナ禍で閉店したものの、少し前に営業再開したというレトロな雰囲気の温泉です。






日本橋商店会界隈
「美園ユニバース」「千日前通」「五階」・・・五階は戦後・・・五階建ての百貨店だったらしく、闇市露天商があったということで「泥棒市場」と呼ばれていたらしい・・・。