明智光秀の謀反により信長が暗殺される
・1583年 織田軍団内の覇権を目指して羽柴秀吉と柴田勝家が激突したのが本能寺の変の9ヶ月後
・山崎の合戦で光秀を下して大きな功績をあげ、さらに織田軍団内での地の利を得た秀吉に有利
・織田軍団内は秀吉、丹羽長秀勢と柴田勝家、織田信雄、神戸信孝、滝川一益勢の二つに分かれる
・1582-11月、勝家は長浜城主の柴田勝豊に命じ、秀吉と和平を図る
北陸にいた、前田利家、不破勝光、金森長近が介添え役
前田利家らと勝家は、北陸方面軍の同僚
利家は、清洲の浪人時代に勝家から世話になって恩義を感
一方秀吉とは4女を養女に出すなど親しい同僚関係
・が、秀吉は長浜の柴田勝豊を囲み、勝豊は勝家の甥の佐久間盛政と不仲だったことからあっさりと降服し、秀吉方
・さらに織田家の後継者とされた信長の孫、三法師秀信を手中にしていた美濃の岐阜城の神戸信孝を降服
・翌2月には滝川一益を攻める
・勝家は、越後の上杉景勝に越中、能登への侵攻を促す一方で、勝家は徳川家康に書状に送るなど外交戦が展開
・1583-2月末勝家軍は越前を出
府中城主の前田利家の長男利長を先陣に、勝家の甥佐久間盛政、前田利家らが次々と出陣
・柴田の近江侵入を聞いた秀吉は伊勢攻めの兵力の大半を近江に向かわせ、佐和山を経て、17日には勝家勢の退いた木之本まで進出
・4月に入って滝川一益が美濃侵攻し、織田信孝が再び挙兵
・秀吉は木之本を秀長に任せ、15000人を率いて美濃に向かう
・戦いの初期に勝家方に寝返った山路将監が、秀吉陣は正面の神明山の守りは堅いが、その奥の余呉湖東の大岩山の守りが薄いと進言
・戦意の高い佐久間盛政が攻撃を強く志願、慎重派の勝家も押さえきれず認める
・4-20日の未明、佐久間盛政は張り切って山中の陣を出る
・近くの岩崎山の高山右近、賤ヶ岳の桑山重晴に急を知らせ、援護を求める
・しかし二人は多勢に無勢と退却、清秀は奮戦するも討ち死
・初戦の勝利を盛政が勝家に知らせ、全軍での攻勢を求めると、勝家は撤退を求める
・賤ヶ岳の秀吉軍の窮地を救ったのが琵琶湖対岸の坂本にいた若狭と近江2郡の領主の丹羽長秀だった
・2000の兵とたまたま舟で賤ヶ岳方面に向かっていた船上から賤ヶ岳方面で戦が行われているのを知った長秀は
部下の反対を押し切って海津から上陸
いったん賤ヶ岳を降りた桑山晴重らと再び登り、拠点を確保
・21日盛政軍は秀吉が駆けつけてきたことを知り、撤退を決意
・勝山城主の柴田勝安がしんがりとなるが、この勝安軍に大垣から来た秀吉の本体が攻めかかる
・福島市松、加藤虎之助ら後に「賤ヶ岳の七本やり」と宣伝される
・新手の勢いをうけて佐久間隊総崩れとなり、勝家与力の不破勝光、金森長近も戦線を離脱し勝家軍はついに総崩れとなった
・賤ヶ岳の七本槍
福島正則 加藤清正 片桐旦元 脇坂安治 加藤嘉明 平野長泰 糟谷武則
西教寺
・総門は1571年織田信長の比叡山焼き討ちの際に焼失
・比叡山焼き討ち後に織田信長から近江国滋賀郡を与えられた明智光秀が坂本の地に築いたのが坂本城
・明智光秀は、坂本城に近かった西教寺の復興に援助
・総門は、坂本城から移築された門
明智光継1468-1538明智長山城主 清和源氏の土岐氏支流
┣明智光綱1497-1535
┃ ┃斉藤利賢?-1586
┃ ┃┣斉藤利三1534-1582
┃ ┃┃ ┣福1579-1643(春日局:徳川家光の乳母)
┃ ┃┃あん(稲葉一鉄の娘)
┃ ┃┃
┃ ┣女
┃ ┣明智光秀1526?-1582 桔梗紋
┃ ┃┃
┃ ┃┃1556 明智城の戦い@斎藤道三✖⇔〇斎藤龍興
┃ ┃┃ 朝倉宗高
┃ ┃┃ ┃ 朝倉景高1495-?
┃ ┃┃ ┃ ┗朝倉義鏡1525-1574
┃ ┃┃ ┗□・・・朝倉孝景1493-1548(越後の守護)
┃ ┃┃ ┣朝倉義景1533-1573
┃ ┃┃ 高徳院?-? ┣愛王丸1570-1573
┃ ┃┃ (武田元信の娘) 小少将1573-?
┃ ┃┃1565 朝倉義景1533-1573(第11代最後の当主、政務は宗滴)に出仕
┃ ┃┃1570 金が崎の戦い@織田信長✖⇔〇朝倉義景
┃ ┃┃ 姉川の戦い@織田信長〇⇔✖浅井長政
┃ ┃┃ 野田、福島城の戦い@織田信長✖⇔〇三好三人衆
┃ ┃┃1571 比叡山延暦寺焼き討ち@織田信長〇⇔✖延暦寺 ⇒近江坂本城主となる
┃ ┃┃1573 槇島城の戦い@織田信長〇⇔✖足利義昭 ⇒室町幕府終焉、義昭追放
┃ ┃┃1575 越前一向一揆鎮圧@織田信長〇⇔✖一向一揆衆
┃ ┃┃1575 黒井城の戦い@織田信長✖⇔〇赤井直正/波多野秀治
┃ ┃┃1577 黒井城の戦い@織田信長〇⇔✖赤井直正/波多野秀治 ⇒亀山城主
┃ ┃┃1582 本能寺の変〇⇔✖織田信長/織田信忠 ⇒安土城、長浜城攻略
┃ ┃┃1582 山崎の戦い@天王山✖⇔〇秀吉
┃ ┃┃
┃ ┃┣明智光春室
┃ ┃┣明智光忠室
┃ ┃┣珠(細川ガラシャ)1563-1600 丹後幽閉@1582
┃ ┃┃ ┣細川忠隆1580-1646
┃ ┃┃ ┣細川興秋1583-1615
┃ ┃┃ ┣細川忠利1586-1641(熊本藩初代藩主)-光尚-綱利
┃ ┃┃細川忠興1563-1646 縁@1584
┃ ┃┣織田信澄室
┃ ┃妻木煕子?-1576(妻木範熙の娘)
┃ ┣御ツマキ殿(織田信長側室)-1581
┃お牧の方
┃藤田伝五(明智重臣)?-1582
┃
┣明智光安1500-1556
┗小見の方(正妻)1513-1551
近江最古の大社
・第11代垂仁天皇ゆかり
・皇女倭姫命が社殿を御創建
・第40代天武天皇の頃@675「比良明神」の号を賜る
・社の縁起は謡曲「白鬚」<観阿弥(かんあみ)作>にも謡われる
・御祭神の猿田彦命は、天孫・瓊瓊杵尊降臨の際に道案内をされた神
・猿田彦命 白い鬚を蓄えた老人、御社名の由来にもなっている長寿神
・大昔から白鬚明神前の湖中には鳥居があったと伝
・室町時代の屏風絵「近江名所図」に描かれている
・この神秘的な鳥居が実際に建てられたのは1937年、大阪の薬問屋小西久兵衛氏の寄進
第26代継体天皇の第2皇子が都に行くまで過ごされたとされる宮跡。都に上り、後に第28代宣化天皇になられました。ちなみに、第1皇子は第27代安カ天皇、第3皇子は第29代欽明天皇になられています。
いい伝えによれば、古代の継体天皇の宮居の跡といわれ、中世になっては足利将軍義満の次男義嗣が上杉禅秀の乱@1416に連座して殺され、その子嗣俊がこの地に住み、鞍谷氏と称し3代栄えたという。最近の説では、斯波義俊の館跡といわれる。義俊は、応仁の乱の原因にもなった斯波家家督相続争いの斯波義廉の子息で、朝倉氏によって名目上の守護として越前に迎えられ、はじめ一乗谷に存在したが1486にはこの地に移っている。子孫は代々鞍谷氏を称し朝倉氏と婚姻関係を結びながら居住し、朝倉氏滅亡後は小丸城を築城した佐々成政と臣従関係をむすんでいった、とある。
春日大娘皇女
24代仁賢天皇449-498 ┣-
┣ 第25代武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯尊)489-507 大臣:平群真鳥
┣ 春日山田皇女 堅塩姫(石川渡来系豪族)
┣ 手白香皇女 ┣ 大兄皇子(第31代用明天皇)
春日大娘皇女┃ ┣ 磐隈皇女,臘嘴鳥皇子,額田部皇女,椀子皇女
┃ ┣ 大宅皇女,石上部皇子,山背皇子,大伴皇女
┃ ┣ 桜井皇子,肩野皇女,橘本稚皇子,舎人皇女
蘇我石川宿禰 ┃ ┣ 豊御食炊屋姫(推古天皇)
┗木満致 ┣ 第29代欽明天皇 509-571 ┣ 菟道貝鮹皇女
┗韓子 ┃ ┣32代崇峻天皇 ┣八田大兄皇子┣ 竹田皇子
┗高麗 ┗┓ ┣茨城皇子 ┣第30代敏達天皇
┗稲目 ┃ ┣穴穂部間人皇女┣笠縫皇女 ┣ 押坂彦人大兄皇子
┣堅塩姫 ┃ ┃┃ ┃ 広姫(息長真手王・娘)
┣小姉君 ┃ ┃┃刀自古郎女 ┃-623
┣巨勢麻呂┃ ┃┃┣山背大兄王┃595-643
┗馬子 ┃ ┃┃┣財王 ┃
当麻倉首比里古 ┃ ┃┣厩戸皇子 ┃574-622
┗━━━━┃━ ┃┃伊比古郎女 ┃
┃ ┃┃┣麻呂子王 ┃
┃ ┃用明天皇 ┗━┃┓
┃ ┣穴穂部皇子 ┃┣□-□-当麻公広嶋・当麻公広麻呂
┃ ┣宅部皇子 ┃舎人皇女
┃ 小姉君(物部系) ┃
┃ ┃
┃倭媛(三尾君堅楲) ┃
┃┣赤姫皇女 ┃
┃┣椀子皇子(三国氏祖┃
振姫 ┃┣耳皇子 橘仲皇女 ┃(仁顕天皇娘)
┣ 第26代継体天皇 ┣石姫皇女
┃ (450-531) ┣小石姫皇女(欽明妃)
┃ ┃ ┣倉稚綾姫皇女(欽明妃)━石上皇子
┃ ┃ ┣上殖葉皇子
┃ ┣ 神前皇女 ┃ ┏日影皇女(欽明妃)━倉皇子
┏ 迂斯王 ┣ 第28代檜隈高田皇子(宣化天皇)467-539
┏ □ ┣ 第27代勾大兄皇子(安閑天皇)466-536
┏ 大郎子 目子媛(尾張連草香の女) ┃┃┃┃
┣ 伊自牟良君 ┃┃┃春日山田皇女(仁賢天皇皇女)
美美濃美濃豪族娘(息長氏系?) ┃┃紗手媛(許勢男人大臣の女)
┃香香有媛(紗手媛の妹)
宅媛(物部木蓮子大連の女)