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太平洋諸島-3 中国、ソロモン諸島と安保協定 :2019年に国交樹立 その意味は?

2024年10月03日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

中国、ソロモン諸島と安保協定
 ・2022-3 
中国外務省は31日、南太平洋の島国ソロモン諸島と2国間の安全保障協定に基本合意したと発表
 ・汪文斌副報道局長は同日の記者会見で「地域の平和と安定に役に立つ」と意義を強調
 ・ソロモンに近いオーストラリアなどは中国の軍事拠点の構築につながると警戒
 ・協定の草案とされる文書によると、ソロモン側が社会秩序の維持などのために、中国に軍や警察の「派遣を要請できる」と明記
 ・「ソロモン諸島で中国の人員の安全や主要な事業を守るため、中国の部隊が利用できる」とも記した
 ・ソロモン側は声明で「全てのパートナーと協力し、全ての人々が平和に共存する安全な国家を提供する」と強調 
 
ソロモン諸島では,1998年末に「ソロモン内戦」が勃発
 ・オーストラリア国防軍を中心とするRAMSI によって暴動鎮圧・秩序維持となった
 ・しかし,その暴動鎮圧・秩序維持はエスニック・テンションに蓋を被せただけ
 ・治安出動は,これまではオーストラリアが担ってきたが、これを,中国に切り替えるというわけである。
 
ソロモンは2019年に台湾と断交して中国と国交を樹立
 ・2021年には親中派のソガバレ現政権1955-に反発する住民らが反政府デモを行い暴動が起きた
    ソガバレ政権 ・2019以降----第四次政権以降は親中路線を取り始めて台湾との国交を断絶
           ・民主主義を後退させ、権威的・独裁的政治を行っていると国民が避難
           ・2021-11-24 中国との関係強化や公約を果たしていないソガバレに不満を持つ住民によるデモが発生
                  翌日暴動に発展
                  オーストラリア政府は警官と軍人の派遣を実施
                 
           ・2022年 中国との間で安全保障協定を締結
           ・2023年 警察協定を締結し、中国の警察官の駐留を認め着々と中国との関係を強化
           ・2023年 9月23日、国際連合総会にて福島第一原子力発電所の処理水の海洋放出を非難する演説を行う
                また中国が主導する巨大経済圏構想、一帯一路を称賛
           ・2024年 4月17日執行の総選挙で与党は過半数を獲得できず、ソガバレは新首相への立候補を断念
                新首相はマネレ1968- :中国関係は継続。ソガバレは財務大臣

 
LDC (Last Developed Country 後発開発途上国)とは,他国からの援助で成り立っている国
 ・独立国ではあるが,他国からの援助で生きている国である。
 ・この国にとって「よい国」は,たくさん援助してくれる国である。
 ・LDC は,覇権主義に自国の活路を求めている国の餌食になりやすい。
 ・援助国は,援助プロジェクの条件として秩序維持を求める,
 ・それは LDC に無理を求めることになるので,「援助」の中身に「援助国が秩序維持も担当」が含められる
 ・こうして,「援助」は「安全保障協定」と込みになる。
 ・そして,「援助国が秩序維持も担当」は,援助国を宗主として頂くということである。
 
ソロモン諸島と中国の関係
 ・ソロモン諸島にとって,中国は「よい国」である。
 ・ソロモン諸島にはもともと台湾系および中国系住民がいる
 ・ソロモン内戦では国外退避となった経緯があるので,この点でも「安全保障協定」は自然なことになる。
 ・日豪米はこの流れをおもしろくなく思っている。
 ・しかしこれは,ソロモン諸島への「援助」競争を中国とやり合うみたいな事柄ではない。
 ・金で相手との関係を繋ぐというのは,中国にとってもそれはそれでなかなか大変なことなのである。
 ・中国には先ず,ソロモン諸島の政情不安を利用するのがいいか,それとも無くしていくのがいいか,の選択肢がある。
 ・政情が不安であることは,中国が政権を支配できることである。しかし,ずっと面倒を抱え込むことである。
 ・政情不安を無くす方法は,ソロモン諸島全国民を均しく豊かにすることであるが,これも簡単ではなくそして金がかかる。
 ・この投資に見合うだけのものが返ってくるかというと,そうは期待できない。
 ・豊かになった国民は,今度は頭の上の中国を煩わしく思うようになる。そして他の国に色目を向けるようになる。
 ・中国にはまた,ソロモン諸島を軍事基地化するのがいいか,しないのがいいか,の選択肢がある。
 ・ソロモン諸島の中国軍事基地化は,アメリカ・オーストラリアをソロモン諸島の仮想敵国に定めること
 ・これはソロモン諸島国にとって「援助」と釣り合う話ではない。
 ・また,アメリカとの潜在的戦線をアメリカに大きく近づけることであり,これはアメリカの逆鱗に触れることである。
 ・よって,ソロモン諸島の軍事基地化は,あり得ない。
 ・ではひとは,ソロモン諸島規模のことでなぜ大騒ぎするのか?

         

  

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太平洋諸島-2 米中軍事防衛ライン :中国の第3列島線への進出と脅威

2024年10月03日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

中国の第3列島線への進出(海上自衛隊コラム@2019/08/19)
 ・中国の海洋進出に対する近隣諸国の対応(「第3列島線」という用語や太平洋島嶼国への関与)
   ・2018-4 ニュージーランドのアーダーン首相1980-労働党(社会主義)
          ・太平洋島嶼国のバヌアツにおける中国による軍事化の可能性がある港湾開発に対し、軍事化反対の旨のコメントを表明
          ・バヌアツ、中国側は否定
           
   ・2018-6 フランスがインド洋・南太平洋地域への関与を続ける旨の主張をアジア安全保障会議で行った
          ・フランスは太平洋にニューカレドニアや仏領ポリネシアなど海外領土を抱え仏軍も常駐させている
          ・中国の海洋進出や、太平洋島嶼国への影響力を拡大する動きに警戒を強めている
          ・2018年には独自のインド太平洋戦略を策定
          ・欧州連合(EU)議長国として、EU諸国やインド太平洋地域の各国を招いた閣僚級会合をパリで開催する計画
           
           
           
   ・2018-11 オーストラリアのモリソン首相が太平洋島嶼国のソロモン諸島を訪問し、今後10年間で188億円もの経済支援を行うと発表
          ・オーストラリアは太平洋諸国における関与を強化し、新しい次元へと高める
          ・オーストラリアには、太平洋の隣国と協力してきた長い歴史がある
          ・安心、安定、政治的主権が保証された太平洋地域を築くために、太平洋諸島のパートナー国との協力を願っている
          ・2017年外交政策白書:太平洋諸島地域の安定と発展は重要で、いかなる国家も独力で課題に立ち向かうことはできない
          ・オーストラリア国防軍は、安全保障上の課題に共に対処するため、相互運用性を構築すべくパートナー国と協力を行う
          ・治安・平和維持訓練や配属前の準備を行う地域の拠点へと再開発する点で、フィジーと合意している
          ・太平洋諸国と協議の上、太平洋治安部隊代表合同会議を毎年開催する
          ・政府は、太平洋諸島地域のためにオーストラリア・インフラ融資ファシリティを設立する--20億豪ドル規模
          
   これら諸国の動きは、中国の太平洋島嶼国への影響力拡大に対する警戒心の表れ

        
 
中国の太平洋島嶼国への影響力拡大を象徴する政治、経済と軍事を絡めた活動状況
 ・2000迄 中国と太平洋島嶼国との公的な関係は活発ではなかった
 ・2006  中国は太平洋島嶼国との間で「中国・太平洋諸国経済発展フォーラム」を初めて開催
 ・2007  05月 :QUAD設立(日米豪印四か国戦略対話) :安倍晋三首相が提唱
 ・2013  第2回同フォーラム開催以降、政治的な動きと軌を一にして急速に太平洋島嶼国との交流を拡大
 ・2014  11月 :習近平国家主席がフィジーを訪問し、国交のある太平洋島嶼国8か国との首脳会談を実施
 ・2017  03月 :「一帯一路国際協力サミット」にフィジーのバイニマラマ首相を招待
 
・太平洋島嶼国への経済援助も急増
  中国援助     :約18億ドル 2006年から2016年まで
  オーストラリア援助:約77億ドル
  日本援助     :約12億ドル
  アメリカ援助   :約19億ドル
 
・中国による南太平洋海域での海軍所属艦艇の活動
  満載排水量25,000トンの衛星追跡兼弾道弾観測艦「遠望6号」などを南太平洋海域で行動
  2013年までにフィジーのスバ港に8回ほど寄港
  2014年と2018年には、満載排水量23,000トンの「アンウェイ」級病院船を南太平洋海域で行動
     フィジーのスバ港、パプア・ニューギニアのポート・モレスビー港等において医療活動を実施
     これらの艦艇は、純粋な戦闘艦ではない補助艦
     病院船の行動自体は平和的活動として受け取れるが、中国の軍事的進出と見ることもできる
 
・中国による太平洋島嶼国への政治と経済を複合した活動
  パラオに対する中国人旅行客の渡航数は2015年だけで8万人余り
  中国人旅行客による観光収入がパラオの政財界に大きな影響を与える状況
  
 ・2016年の台湾蔡英文政権誕生以降の中国
  パラオ等、台湾との外交関係を維持する太平洋島嶼国への外交攻勢を強める
  2017年 パラオ政府は中国人旅行客の渡航制限を実施 ----観光収入に依存していたパラオ経済は大きな打撃
  中国が2国間の経済的関係を深化させた後に、政治、軍事活動を活発化させることは常套手段

 ・現在の太平洋島嶼国に対する日本の経済的影響力が低下
  海上自衛隊が現在実施している遠洋航海やアメリカ・オーストラリア等と連携した行動(パシフィック・パートナーシップ等)継続必要
  太平洋島嶼国に対するプレゼンスを示し続けられるという観点から意義がある
     現在実施している能力構築支援の枠組みでの巡視船艇の供与等を一歩進め
  OPV(Offshore Patrol Vessels)等の哨戒艦艇の供与や訓練支援など、支援対象の拡大も考慮する必要がある
 
 (以上は幹部学校運用研究部ロジスティクス研究室 石原明徳の見解)

     

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太平洋諸島-1 南西諸島唯一の王国トンガ@ポリネシア 

2024年10月01日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

トンガ王国 

BC500  ラピタ族文化
     土器文化が消失
1000   最初の王・アホエアトゥによるトンガ帝国
1300代  宗教と政治権力が分離
1616   蘭ウイレム・スホーテン+ヤコブ・ルメール(蘭東インド会社設立メンバ)が初到着  
1770頃  英クック漂流
1845   プロテスタントに改宗した国王・トゥイ-カノクポル(トゥポ-1世)
      ・鉄砲隊を率いてトンガを統一 
      ・周りの種族も改宗させてキリスト教を広める
      ・かくして現在までトゥポ王朝は生き残った 
      ・宣教師シャーリーベイカーが国王の側近・首相@1875
      ・シャーリーは憲法制定
      ・隣のフィジー侵攻      
1900   絶対王政 イギリス保護区:独侵略に対抗
1970   独立 
1972   リトアニア・ユダヤ人来航(マイケル・オリバーのフェニックス財団)
      ・島購入---税折半申し出を断る
2000以降 中国が進出 

 

   

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【オーストラリア-1】 最初に大陸を発見したのはオランダ人航海士ウイレム・ジャンス

2024年06月20日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

BC3000 アボリジナルの祖先が移住

1606  オランダ人航海士ウィレム・ジャンスが発見
      ニューギニア島を探検したが,ニューギニアとオーストラリアのヨーク岬半島が陸続きだと誤認

1619  ダーグ・ハートグ1580-1621の訪問
      オーストラリア大陸西岸へのインド洋航路を発見して大陸西岸探検の端緒をつくる
      西オーストラリア州のダーク・ハートッグ島は、ハルトフに因んで命名されたものである
      1616年オランダ東インド会社 に雇われ、エーンドラハト号の指揮をする

1629  バタヴィア号の難破
      オランダ領東インドに向かっていた大型帆船バタビア号が、オーストラリア西岸沖で座礁
      バタビア号の船長と少人数のチームが小さな船で東インド諸島に向う
      一方、座礁したバタビア号のリーダーイエロニムス・コルネリスは反乱
      生存者を虐殺、オランダ領東インドから帰ってきた救助船の乗組員たちは、が一味を捕え
      コルネリスと6人の共犯者たちは、近くのロング島で絞首刑に処せられた。

1642  タズマン1603-1659の航海
      タスマンはオランダ東インド会社の社員、1638年に日本沿岸で金銀の探査
      1642年からオーストラリア大陸の周辺を調査し、ニューホランド大陸と名付けた
      このとき、大陸の南にも島を発見し、タスマン島と呼ぶ
     さらに、タスマン島の東に大きな島を見つけ、タスマン(蘭ゼーラント州出身)新ゼーラント(Nieuw Zeeland)島と名付けた

1688  イギリス人ダンピア1651-1715の訪問
      世界周航を3回成し遂げた最初の人物

1770  ジェームズ・クック1728-1779が大陸の東海岸の測量を行い、この地域がイギリス領であることを宣言
      1768-08 第1回航海 英プリウス港出航
      1769-04 タヒチ島到着 
      1769-10 ニュージーランド到着
      1770-04 オーストラリア到着
      1771-06 バタビア(ジャカルタ)経由で英帰国
      1772-  第2回航海
      1776-  第3回航海
      1779-02 ハワイで殺害され焼かれる

1772  フランス人マーリーアン・デュ・フレインMarion du Fresneのヴァンディーメンズランドへの訪問
      1785 ラ・ペルーズ調査
      1792 ドントラキャストウのヴァンディーメンズランドと本土の南海岸の調査
      1801 ボーダンの探検

1788  英国移民船から羊が持ち込まれて、羊大国となった(1930年代には羊毛輸出が62%)  
     ニューサウスウェールズの流刑植民
     流刑人は原住民・アポリジニ人を虐殺
     
1791  ジョージ・ヴァンクーヴァーによる南海岸の部分的な調査
     
1795  バスとフリンダーズによる共同航海~1803

1823  流刑植民地扱いはやめて自治を承認

1829  英は大陸全土の領有宣言
      1838 牧場労働者が300人の原住民を殺害(1850年代の虐殺が多かったらしい)

1854  この頃から数万人の中国清移民が流入(アヘン戦争後、中国人雇用が承認された)

1901  非白人の移民制限がはじまる :白豪主義加速
      1901 王政連邦が成立 初代国王派ヴィクトリア女王
      1901 エドワード7世
      1910 ジョージ5世
      1936 エドワード8世
      1936 ジョージ6世
      1952 エリザベス2世
      2022 チャールズ3世

1915  ガリポリの戦い
      オスマン帝国との戦いに際して豪輸送船を護衛したのは日本海軍

1942  ダーウインの戦い
      日本は空爆、潜水艦伊142(沈没)攻撃を実施

1951  豪米安保軍事同盟:ANZUS(A+NZ+US)

1955  ベトナム戦争参戦:  

1975  南ベトナムから移民 9万人のボートピープル
     --------------------------------------------------------------------------移民 共和制 
1996  第25代首相 ジョン・ハワード :自由党米ナショナリズム勢力 ✖      白豪主義
2007  第26代首相 ケビン・ラッド  :労働党米グローバリスト勢力 〇      中国とズブズブ
2010  第27代首相 ギラード     :労働党中グローバリスト勢力    支持  海兵隊@ダーウイン
2013  第28代首相 トニー・アボット :自由党米グローバリスト勢力    君主制 親日
2015  第29代首相 ターンブル    :自由党米グローバリスト勢力    支持  ダーウインを中国にレンタル
           2016-5-13記事
           日本のそうりゅう型潜水艦商談が没になった理由は?
            ・仏バラクーダ型(実績無し)を共同開発するという
            ・中国の意向説
            ・積極的に動けない日本@武器輸出
            ・ターンブル政権を刺激@捕鯨
           2021-10-9記事
           仏潜水艦契約破棄
            ・仏激怒
            ・米原潜?
           日本の技術がオーストラリア経由で中国に行かずに良かった
     
2018  第30代首相 スコット・モリソン:自由党米ナショナリズム勢力 〇  君主制 白豪主義 反中国
2022  第31代首相 アルバジーニ   :労働党中グローバリスト勢力 〇  支持 

 

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台北-4 自来水博物館: 建設は日本統治時代の1908年、今は水道博物館

2023年05月17日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

日清戦争後の1895年当時、疫病による死者、病人の数を減らそうと尽力したのは、明治政府で内務省衛生局長だった後藤新平である。台湾全土の衛生環境の調査、上下水道整備を実施し、1903年、公館(現在MRT公館駅界隈)にポンプ場を設置し、台北を縦断する大河川・新店渓に取水口を設けて、市内への給水場、浄水場を設置するに至った。

 

「921大地震@1999年」で変形した台中県豊原市の地下水道管

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台北-3 国立台湾大学:日本統治時代は台北帝国大学

2023年05月17日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

国立台湾大学は、日本統治時代の1928年に台北帝国大学として設立、敗戦後の1945年に現在の名前に変更された。台湾随一の最高学府と位置づけされ、3万人を越える学生が通うマンモス校。李登輝元総統、蔡英文現総統は当大学の出身者である。

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台北-2 博愛地区には100年前の建築物が数多く残る

2023年05月16日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

台北駅の南西側に位置する「博愛地区」には、総統府などの日本統治時代から残る建築物が数多く残っている。日清戦争後の1895年から第二次世界大戦後の1945年までの50年間に建築されたレトロな建物を訪ねてみた。

「台湾総統府」     

中華民国の元首、首脳総統(現在は蔡英文)が仕事をおこなう官邸。日本統治時代の1919年完成、当時は台湾総督府(日本の出先官庁)として利用されていた。現在見学は可能。警備は厳しく問題発生時の即対応のためのバリケードが道路脇に置いてあった。

基本設計は、日銀本支店の建築を多く手掛けた長野宇平治氏で、日本初のコンペ(デザイン競争)で選。真上からみると、日本の「日」の字に見える形になっていて、完成当時、赤レンガの建造物の中では、日本で最も高い建築物となった。

 

「台北賓館」

台湾の迎賓館、国家招待所である。バロック風二階建てで、庭園は日本風。日本統治時代においては、台湾総督の暮らす住居執務場である官邸だった。迎賓館としても利用され、昭和天皇をはじめ、数々の要人が宿泊。

 

「台湾土地銀行」

旧日本勧業銀行台北支店で現在は、国立台湾博物館別館「土銀展示館」になっている。円柱の柱が非常に特徴的。臺灣土地銀行の名は戦後、国民政府が接収、1946年9月1日に台湾土地銀行へ移管されたからである。

 

「台湾大学医学院」

 

「二二八和平記念公園」

日本統治時代の遺産(1908年に開園)であるが、日本の統治が終わった1947年2月28日、新たに統治者となった中華民国(国民党)と民衆が激しく対立するニニ八事件が起こり、政府は武力で弾圧。不当逮捕や処刑、無差別発砲も行われ、2万人超の民が虐殺された。

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台北-1 明星珈琲館 Astoria-Cafe 久しぶりの台湾は3年ぶり

2023年05月16日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

台北:西門町にある「明星咖啡館 ASTORIA CAFE」(Astoriaはロシア語で明星の意味) は1949年創業の喫茶店・西洋菓子屋。ロシア革命時(1917-1923)に中国に亡命していたロシアの皇室軍官George Elsnerさんが1949年に上海霞飛路に開いた「ASTORIA咖啡廳」という名前の喫茶店を作ったのが始まり。それから台湾に渡り、簡錦錐など仲間と共に現在の場所に喫茶洋菓子店をオープン。台湾総統夫人、政界財界の方々、画家、商人など著名な方々が利用したことから有名になった喫茶店だそうです。コーヒー220元、紅茶260元(約1200円)ですが、超レトロな趣やら歴史を感じることができて満足でした。

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【アフリカ-1】 アフリカ分割歴史 & エチオピア紛争-対ティグレ人民解放戦線で市民虐殺

2020年12月04日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【英によるアフリカ占領 ; 縦断政策】

1875   英によるスエズ運河権利購入

1882   英によるエジプトの保護国化

1884   ベルリン・コンゴ会議(By  ビスマルク)ではアフリカ先占権が決められる。スコットランドの探検家リビングストーン1813-1873によりアフリカ大陸を横断、英のジャーナリストで遭難したリビングストーンを探しに行ったスタンリー1841-1904らの探検でアフリカの資源の豊富さが明らかになったのがきっかけである。エチオピア帝国とリベリア共和国以外はすべて植民地化される。

     ベルリン・コンゴ会議(By  ビスマルク)

      → ベルギー(国王:がコンゴに介入) VS ポルトガル(大航海時代から沿線の港を支配)の均衡維持会議

        アンゴラ、モザンビーク → ポルトガル領

        コンゴ         → ベルギーの私有地

     アフリカ先占権 : 先にアフリカに入った国がその地域のインフラに責任を持ち、そこを支配することを認める

1898   英によるスーダン占領

16世紀  ポルトガル@南アフリカ → オランダ@17世紀(蘭移民:ブール人) → 英@1815(ウイーン会議)

     蘭人は北側へ移動@1652(トランバール共和国建国/オレンジ自由国 Byブール人:蘭系)

1889   金/ダイヤモンド産出 → 英はローデシア建国

1899   南アフリカ戦争 : 英・ローデシア(ジョセフ・チェンバレン1836-1914)が金を巡ってブール人の国を侵攻 ~1902

               息子ネヴィル・チェンバレン:英首相@WW2

               息子オースティン・チェンバレン:外務大臣 ロカルノ条約@1925

               現在の南アフリカ連邦  

 

チャールズ・ゴードン1833-1885 :アロー戦争では常勝軍を率いて活躍@1860

 

マフディーの反乱@1881 @マフディー帝国@スーダンの首都ハルトゥームで起きる

            を鎮圧のためにエジプト軍の救出に向かう エジプト総督 1885 敗死

            英植民地化に反対したムハンマド・アフマド1844-1885

仏植民地化に反対したサモリ・トゥーレ1830-1900@サモリ帝国:西サハラ

            ひ孫セク・トゥーレはギニア共和国の初代大統領

 

【仏によるアフリカ占領 ; 横断政策】

1830   アルジェリア侵攻

1881   チュニジア侵攻

1898   ファショダ事件 : 英の縦断政策とぶつかった地ファショダ ~1904

1902   日英同盟    : 

1904   日露戦争    : 露と仏@1894露仏同盟が背景にある

     英仏協商      ファショダ事件でぶつかった英は英仏協商を結ぶ(独侵攻の情報を得て英仏が和解)

1905   モロッコ事件  : 独がモロッコへ侵攻したが、英仏に撃退された事件

1911   モロッコ事件二回目 : 二回も撃退された独は他に植民地を求めることとなる → 第一次世界大戦の要因 

 

1984   エチオピアの大飢饉
      ・100万人が餓死
        エチオピアの政治家は1年ちかく放置
        隣国ケニアは南部が穀倉地帯だったから助かった

      ・1984-12-3 Do they know its Christmas?----英チャリティーコンサート
        呼びかけはボブ・ゲルドフ1951-
      ・ 1985-3-28 We are the world----シングル 英チャリティーコンサート
        作曲:マイケルジャクソン1958-2009、ライオネル・リッチー1949-
           ドラムス:ジョン・ロビンソン1954-
        呼びかけはハリー・ベラフォンテ1927-2023
        プロヂューサー:ケン・クラゲン

        録音:1985-1-28@ロスA&Mスタジオ
        指揮:クインシー・ジョーンズ1933- 
        スティーヴィーワンダー1750-   :スワヒリ語を提案----却下
        レイ・チャールズ   1930-2004 :
        プリンス       1958-2016 :ドタキャン マイケルとは犬猿の仲
        シーラ・E        1957-   :プリンスの恋人
        ヒューイ・ルイス   1950-   :プリンスの代役ソロ録音
        クリッシー・キニャンジュイ    :ケニア出身---エチオピア難民が多数だったケニア
                          エチオピアの実情に詳しいとして招待される
      ・ 1985-4-23 We are the world----アルバム
        プリンス       1958-2016 :新曲提供
      ・ 1985-7-13 ライヴエイド
        

        
        

2020   エチオピア北部のティグレ州で市民が虐殺や性暴力の標的になっている(国際人権法違反、人道法違反)。これはエチオピア国防軍によるものとみられる。これらを強く非難したのはアメリカ国防省、プライス報道官である。エ チオピアは80以上の民族が暮らす多民族国家で、首相は最大民族・オロモ出身のアビー、2019年にエリトリアとの国境紛争を終結させたことでノーベル平和賞を受賞している。アビーと対立しているのはかつて首相をだしていたティグレ人民解放戦線TPLFである。2020/8月コロナの影響で選挙が延期となりティグレTPLF側は対立が深まった。そして11月武力衝突に発展し、2020/11/4にティグレ州に駐屯する国防軍がTPLFに攻撃を受けたとして、アビー首相は軍に反撃を命令した。この戦闘にエリトリア人も参戦してティグレの死者は数百人から数千人に及んでいるという。かくして6万人もの難民がスーダンに逃れている。

2020/11/28、アビー首相はティグレを完全掌握したと宣言したが、どうやらゲリラ戦に移行し、無法地帯になっているようだ。そして2021/3/26、アビー首相はテリトリア軍の撤退を発表し、テリトリア政府も当事者兵士への強い措置を取ると明言したという。エチオピア外務省は2021/4/4にエリトリアの撤退開始を発表したが真実は不明だという。

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【イスラム-4】 13世紀 オスマン帝国の歴史 & 中東新国家誕生

2020年12月04日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

BC16世紀  ヒッタイト王国

BC7世紀   ギリシャ人の植民

BC6世紀   ペルシャ人支配

BC3世紀   ベルガモン王国 : 羊皮紙

4世紀    東ローマ帝国  : コンスタンティノープル Byコンスタンティヌス 東方正教会→カトリック

13世紀   バルカン半島に侵攻---イスラム化 :元ユーゴスラビアにはイスラムが多い

 

【オスマン帝国の歴史】   オスマン帝国は中央アジア、現在の新疆ウイグル地区で発祥した。これが西に移って成立したのは

カラ・ハン朝 : 9世紀-1212 :イスラム化
         ・アッパース朝@イスラム王国 750-1258
         ・タラス河畔の戦い@751 キルギス イスラム〇 VS ✖唐
           製紙法伝来
           中華文明浸食防止

カズナ朝   : 1151-1187

セルジューク朝: 1038-1157になるとトルコ人はカスピ海の西へ移動 首都:ブルサ
         ・分家がルーム・セルジューク朝(ローマ人が住んでいたセルジュークの地方)
         ・ルーム・セルジュークがビザンツ帝国を攻めたことで十字軍派遣が始まった
         ・初代オスマン・ベイ 2代オルマン・ベイ
         
  首都ブルサ
           3代ムラト1世 
         
  首都:エディルネ
           メヴレビー教団@13世紀:イスラム神秘主義 → 今は禁止

マムルーク朝 : 1250にはアフリカ・エジプトへ進出し、

1299年     オスマン朝をつくってオスマン帝国となる。
         ・またインド北部には奴隷王朝1206-1290をつくる。
         ・オスマン帝国としての歴史は1299-1922年となる。

【ティムールによる滅亡前後】   

1389年のコソボの戦い  : セルビア滅亡 バヤジット1世

1396年のニコポリスの戦い: ハンガリー侵攻ではキリスト教連合軍(オスマン十字軍)と戦い勝利する

1402年のアンカラの戦い : ティムール1336-1405に敗れて(バヤジット捕縛されて死亡)オスマン帝国はいったん滅亡する

              が、ティムールはオスマン打破が目的ではないので故郷へ帰る

              → サマルカンド+イル・ハン国(農耕民族:今のイラン)+インド(トゥグルグ朝)+オスマン朝

                明を攻める前に死亡

                → 3代:シャー・ルフ

                     → 4代:ウルグ・ベク(天文学者、遺跡多い) 

                          → やがて北移民族(ウズベク族:遊牧民)に敗退/衰退

1453年にコンスタンティノープルを陥落 : 東地中海の覇権喪失 → 大航海時代の始まり

                     By 7代メフメト2世1432-1481(ビザンツ帝国を滅ぼす)オスマン帝国は復活する

                     コンスタンティノープル → イスタンブール 

                                   ・ハギヤ・ソフィア聖堂@1453

                                   ・スルタン・アフメトモスク

                                   ・スレイマン・モスク

                                   ・トプカプ宮殿:中にはハレム博物館   

                     クリム・ハン国(今のクリミア半島)を支配

                    (砲兵イエニチェリ+騎兵シパーヒー)

                     → スラブのマッチョ軍隊

1514年のチャルディラーン戦: 9代セリム1世の時代にチャルディラーン(サファヴィー朝ペルシャ)を陥落

               最終陥落目的はマムルーク朝カイロ → メッカ、メディナ支配(カリフ権威)

                                  スルタン+カリフ 

コンスタンティノープルは金角湾とマルマラ海に挟まれた鉄壁の防御力を誇る要塞であったが、海からではなく山から攻めることによって陥落させたという。オスマン帝国の統治システムは中央集権的な支配体制、イエニチェリ(領土内のキリスト教徒に英才教育を施してスルタンの親衛隊にする)やシパーヒーという騎兵による統治が行われていた。

16世紀半ば : コーヒーハウス → 英 → 仏(カフェ)に広がる :情報交換の場

【オスマン帝国の繁栄と衰退】   

    オスマン帝国の全盛期と言えば10代スレイマン1世(ソロモンのトルコ語読み)1494-1566。

1526年 モハーチの戦い : ハンガリーを獲得

1529年 ウイーン包囲  : 勝てずに諦めて撤退(スレイマンの相手はカール5世)

1538年 プレヴェザの海戦: スペイン・ベネチアに勝利

1571年 レパントの海戦 : スペイン(フェリペ2世)に敗北することで衰退に向かう

              以降王が文化に財を投入→軍事力低下 

1683年 第二次ウイーン包囲 : カルロヴィッツ条約でハンガリーを失い益々衰退する。軍事革命によりシパーヒーの地位が低下し、徴税制による地方分権化、ナショナリズム(多民族国民としての意識)の蔓延すると、ナポレオンの影響を受けて1811年にはギリシャが独立し、ワッハーブ派の離反が始まる。

        トルコの国旗にある月の形にパンを焼いて食べる:勝利の祝 → クロワッサン       

1714  トルコ-ベネチア戦争

1718  パッサロビッツ条約 :ハンガリーの残部、ワラキア西部・セルビア北部・ボスニア北部などをオーストリアに割譲

    ~1830 アフメト3世のチューリップ時代(領土と引き換えに和平)

        品種改良はオランダ → トルコが逆輸入 (トルコに行くなら4月のチューリップ祭 トプカプ)

 

レパントの海戦とコロンナ宮殿 :スペイン・キリスト教徒とオスマン・イスラム教徒の海戦。ローマにあるコロンナ宮殿には、この海戦を描いたフレスコ天井画がある。また映画「ローマの休日」でオードリーヘップバーン扮するアン王女が記者会見を開いたロケ地がコロンナ宮殿である。イタリアの貴族コロンナ家(イタリア南の小さな町コロンナが発祥)の当主が総司令官として活躍した。

美術品展示のギャラリー:17世紀のコレクション主義から生まれる 1700年完成

              アンニーバレ・カラッチ1560-1609「豆を食べる男」は最も有名な作品

              後にゴッホ、ドガなど印象派の画家に影響を与えた

イザベッテ王女1889-1984の部屋:レバノン貴族出身 コロンナ宮殿修復に尽力

                イタリア社交界の中心人物 

14世紀:宮殿は元々軍事要塞として建てられ、

15世紀:コロンナ家が住み、500年かけて改装されたのがコロンナ宮殿。

    ローマの復興に尽力したローマ教皇マルティヌス5世1369-1431との結びつきで富と権力をえる

17世紀:美術品が収集され、フィレンツェの宮廷画家(ローマ教皇マルティヌス5世1369-1431の肖像画)が描いた絵などもある。

    ローマ教皇、カトリックとの結びつきが富と権力を得たが、やがて美術コレクション主義につながる

 

 

1792  セリム3世によるニザーム・ジェディード改革 

    ロシアのエカチェリーナ2世にクリミア半島を取られたことで改革を進めたが失敗

1798  ピラミッドの戦い オスマン✖ VS 〇フランス ナポレオン1世

             スフィンクスの鼻が砲撃される(鼻@大英博物館)

1826  イェニチェリ廃止(常備歩兵軍団)西洋式化

1829  ギリシャ独立(常備歩兵軍団惨敗)

    エジプト自立(常備歩兵軍団惨敗)(ムハンマド・アリー1769-1849 アルバニア傭兵隊長)

                     ナポレオン1世(1769-)に勝利

                     アレクサンドロス大王の再来  

1839  タンジマート(イスラムの西洋化)

1853~1856年 クリミア戦争が勃発、英仏をバックに勝利するが・・

    最終的には敗戦するとパリ会議ではムスリムと非ムスリムの平等を求められる

1876  ミドハト憲法発布

1877  ~1878 露土戦争停止

1882  エジプトは英による保護国家となる→独立@1922(ワフド党:サアド・ザグルール) 完全独立は1936

    WW1ではエジプト人は英国人として戦う   

1908  青年トルコ革命 : マケドニアに駐留するオスマン帝国軍の部隊がスルタン・アブデュルハミト2世への反乱

              (ミドハト憲法)の復活

 

1914  WW1 開戦

1915  フセイン・マクマホン協定:サウジアラビアが蜂起することで、オスマンから独立することを約束(英の策略)

1916  フセイン・イブン・アリーはビジャーズ王国を設立してダマスカス侵攻陥落(Byファイサル・ハーシム)(英の策略)

    アラビア人ファイサルの監視目的で英が派遣したのが

         トマス・エドワード・ロレンス(父は首相ロイド・ジョージと知り合い)

         ファイサルと共に戦う : 映画アラビアのロレンス

    ビジャーズ王国は後にアラブ人のネジド王国に潰される@1925 (英の策略)

    ネジド国王イブン・サウードがアラビア半島に作った国がサウジアラビア@1932 石油発見@1938

               ┗現在2023年のサウジアラビア国王サルマーンは初代イブンの25番目の子    

1920  セーブル条約 : オスマン帝国敗戦条約 トルコ民族 軍人蜂起            

              領土は70%喪失 今のイラン--英領  今のイラク--仏領 (英の策略)

              西アジア独立:シリア、レバノン、イラク、ヨルダン、パレスチナ

    アンカラ政府設立 Byムスタファ・ケマム1881-1938 

1921  連合軍ギリシャのイズミル奪回  

  

1922  オスマン帝国滅亡 :アンカラ政府(共和制の民族主義)はオスマン政府(帝政)を倒す  

              スルタン制廃止

1923  トルコ共和国誕生 :ローザンヌ条約(連合とアンカラ政府が合意)首都はアンカラ

              ムスタファ・ケマムの改革 :戦争中立 

1925  イラン・パフレヴィー朝初代皇帝レザー・ハーン:イラン改名は1935 

               2代皇帝:息子モハンマド・レザー・シャー:白色革命で近代化するが失脚(英の策略)

1932  サウジアラビア統一---サウード家    

    セーブル条約の英領---イラク、ヨルダン、パレスチナ独立

              英はイラク(ファイサル1世)、ヨルダン(アブドラ王:父はフセイン1世)の王を

              フセイン・イブン・アリー系統に据えた(ビジャーズ王国 ;ハーシム家)

              →中東を不安定(ハーシム家 VS サウード家)にすることによって英との対立を回避(英の策略)

              パレスチナはさらに酷い--ユダヤ VS アラブ(英の策略) ---中東戦争 

    セーブル条約の仏領---シリア、レバノン : 参考--フランス人カルロス・ゴーンがレバノンに亡命

--------------------------------- イラン VS  アメリカ -------------------------------------

1938  石油発見

1941  モハンマド・レザー・シャーパフレヴィー朝2代皇帝即位

1951  石油国有化宣言 Byモサデグ首相

    石油利権を独占していた英アングロ・イラニアン石油会社がイランの石油を無断で奪取(1951-1952)

    モサデグ首相は英アングロ・イラニアン石油会社の財産接収 → 手助けにアメリカ登場

1953  王統派クーデター(モサデグを倒すために米介入) 

1960  白色革命 : パフレヴィー朝2代皇帝は米と組んで近代化(出資は米) → 貧富差拡大

1979  イラン・イスラム革命 

    皇帝を離れてパリに亡命していたホメイニが帰国 → 米資産接収 米大使館員人質 映画「アルゴ」参照

1994  エルドアンイスタンブール特別市市長

カッパドキア
 ・バルーンツアー120€@2024-9
 ・ギョレメ野外博物館20€----教会内のフレスコ画
 ・トルコアイス500円 
 ・70%がイスラム教
 ・アルコールOK
 ・トルコのラビオリ
 ・洞窟ホテル

  

【第一次世界大戦後のトルコ】   1922年にトルコ革命が起きてスルタン制は廃止されてケマル・アタトゥルクによる西欧化政策がとられた。宗教色を無くす文字革命、婦人解放(イスラムの装束解放)、太陽暦採用などで少数民族の自覚による民族問題を招く。1923年のローザンヌ条約で主権を回復し第二次世界大戦では中立国として連合国に加入する。1947年にはアメリカン・ドクトリンといってトルコ、ギリシャを経済的に支援して、共産主義の影響が至らないようにした。1952年にはNATOに加盟し、1955年にはバグダード条約機構に加盟する。が、2010年のエルドラン大統領は、EU加盟は不必要として西欧化政策に反してイスラムを尊重しソ連に接近する。

因みにトルコは親日家と言われているのは1890年のエルトゥール号の海難事件のときに、500人もの犠牲をだしたが、日本の串本町の人達が救助を行ったことが一因としてある。「海難1890」という映画はこれを描いたものである。

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【イスラム-3】 13世紀 モンゴル イル・ハン国はイスラム化~17世紀

2020年12月04日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【13世紀:モンゴルの世紀】   1258年フラグがアッパース朝を滅ぼしカリフ制度が消滅する。マムルーク朝(スンナ派)はモンゴル勢力を撃退することによって、イラン近辺にイル・ハン国が誕生する。ところがイル・ハン国はイスラム化する。この時期にイスラムは東南アジアに進出し、イスラム文化ではギリシャヘレニズム文化がアラビア語に翻訳されてシチリア島やイベリア半島でラテン語に翻訳されて西ヨーロッパへ伝わる。

【14世紀:ティムールに打撃を負ったオスマン帝国(スンニ派)が復活】    この頃中央アジアではチャガタ・ハン国の軍事指導者ティムール1336-1405率いるティムール帝国が領土を広げてアンカラの戦い1402でオスマン帝国を壊滅寸前に追い込む。ところがティムールの死後はウズベク族の侵攻を受けて滅亡するとオスマン帝国は復活して。

【16世紀の全盛:サファヴィー朝は(シーア派12-イマーム)--イラン人国家】  1501年イスマーイール1世1487-1524(スーフィズムのサファヴィー教団:イスラムの神秘主義)によりサファヴィー朝が建てられアリー派を認めるシーア派に改宗し「シャー」を名乗った。絶頂期はアッバース1世1571-1629が1597年にイスファハーンという都市を建設し、絹織物やペルシャ絨毯(幾何学模様は偶像崇拝を許さず、信仰の対象となる)を流行させた。この頃が大航海時代でポルトガル人の侵攻に悩んだ。

【17世紀:アッバース朝の時代】   アッバース1世がポルトガルを撃破(オランダ全盛の時代)して都イスファハーンを建設、これが現在のイランに通じる。

以降1736年にはアフシャール朝、1796年(フランス革命の頃)にはカージャール朝が始まり、この頃にはイラン地域は英国(インド植民化のルート途上)、ロシア(南下政策の対象地域)などの大国の関心の的となる。カージャール朝はシーア派で主都はテヘラン。この頃1828年はトルコ・マンチャイー条約でアルメニアをロシアに割譲したことで産業革命の英やロシアの影響下に置かれることとなる。1848年のバーブ教徒の乱や1891年のタバコボイコット運動を経て1905年にイラン立憲革命が起きて1925年にパフレヴィー朝ができて現在のイランに至る。

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【イスラム-2】 11世紀 セルジューク朝はトルコ系

2020年12月04日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【11世紀-セルジューク朝:トルコ系】   スルタンの称号を名乗り、マンジケルトの戦い1071年でビザンツ帝国を破った。エジプトのアイユーブ朝のスンナ派創始者サラディン1138-1193(第3回十字軍でエルサレム奪回、アッコンは奪われる):アルメニアのクルド人一族の出身も活躍。後に洞ズム朝ができるがモンゴル勢力に敗北(モンゴルの使者を殺害したことでモンゴル激怒)。やがて13世紀のモンゴル最盛期に突入する。そして北アフリカのバルバロイ:ベルベル人によるムラービト朝はアフリカを南下してガーナ王国を滅ぼして黒人のイスラム化を推進する。12世紀にはムワッビト朝がレコンキスタの阻止を失敗し、ナスル朝グラナダが陥落。

サラディン:映画キングダムOFヘブン

セルジューク朝のガザーリー1058-1111という神学者、神秘学舎がスーフィズム(職人農民に受け入れられた信仰形態)という神秘主義を理論化する。これでサファヴィー教団が台頭して後のサファヴィー朝に繋がる。

統治システムにはアター制があり、イスラム初期の財政システム。カリフは住民から租税を徴収すると軍人に給料(アター)を支払って軍役を任せる。一方イクター制はブワイフ朝から始まり、カリフは軍人にイクターという土地と徴税権を与えたから、民衆を絞り上げることとなる。

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【イスラム-1】 6世紀 預言者ムハンマドによるイスラムの歴史

2020年12月04日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【6世紀:ジャーヒリーヤ時代】

  ユスティニアヌス1世482-565@ビザンツ帝国 VS ホスロー1世501-579@ササン朝
  
シルクロードをふさぐように戦っている
 
 シルクロードを避けてアラビア半島沿岸沿いが商業ルート
  
 → 貧富の差+多神教 
   → 是正Byクライシュ族ハーシム家 :
     イスラーム(絶対服従という意味)

【570-:ムハンマド誕生】  最後の預言者・ムハンマド570-632が登場。
  ・幼いころはたらいまわしの生活、やがてメッカの商人(キャラバン貿易商人)であったが、
  ・15才年上の富豪ハディージャ555-619に求婚されて悩みながらも結婚、趣味は洞窟ヒラーでの瞑想。
  ・そうした時にガブリエルが降臨してきてアッラーの神の啓示があったという
  ・「神は自分だけ、昔イエスに言葉を与えたが誤解されている。お前に言葉を託すから人々を導け」
  ・神が憑依したとしか思えないほどの詩のうまさに信者が惹かれたという。
  ・また当時は商売による活発な経済が貧富の差を生み、不満が溢れていた状況下で皆平等という教えに賛同する信者が増えた一面もある。

イスラムには聖職者はおらず布教活動は難しくはないから広まるが、メッカの大商人から迫害を受けたために、622年(イスラム暦の元年:聖徳太子の死亡日)に本拠地をメッカからメディナへ移した(聖遷:ヒジュラ)これを機にムハンマドはイスラム教団を組織した(イスラム暦の紀元が始まる)。かくして630年にはメッカに攻め込んでアラビア半島を統一すると、632年に死亡。

 

【632-661:正統カリフ時代】  
  ・ムハンマド(クナイシュ族:ハーシム家)が死んだ632年から661年のウマイヤ朝が始まるまでの期間を正統カリフ時代という。
  ・初代カリフはアブー・バクル573-634(クナイシュ族)、
  ・2代はウマル592-644(クナイシュ族:636年ヤムルークの戦いで東ローマ帝国に勝利 暗殺)、
  ・3代はウスマーン574-656(クナイシュ族:アリーと敵対するウマイヤ家出身 暗殺されたことでハーシム家との溝が深まる)、
  ・4代はアリー600-661(657年カーディーシャの戦い)であるが、
  ・初代を除いて全員が暗殺されており、激しい主導権争いがあった。
 642年、ニハーヴァンドの戦いではササン朝ペルシャを壊滅させた。
  ・これら選挙によって選ばれたシーア派はアリー以外のカリフは認めていない。
  ・これに対してアリーの血統に拘らずにカリフを認めているのがスンナ派
であり、こちらは90%を占める。
  ・ウスマーン・アリーが661年に暗殺され(殺害した犯人は同胞の過激派)、その後はイスラム世界が危うくなる。
  
 エジプトのイスラム化
  ・エジプトは随一の穀倉地帯
  ・インド貿易の通路
  ・7世紀以降にイスラム化
    以前はキリスト教(コプト教)であった
        ⇒エチオピアに波及 右手首の十字の入れ墨
  ・672 ニハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシャに勝利
  ・正統派カリフはエジプト、シリアを征服
  ・エジプトなど北アフリカにはベルベル人(コーカソイド系白人)が原住民

ムハンマド-632:クナイシュ族:ハーシム家
 ┃
 ┃ ①バクル  573-634  :クナイシュ族:アディー家 ムハンマドと教友 病死@メディナ 
 ┃ ②ウマル  592-644  :クナイシュ族:アディー家 暗殺
 ┃ ③ウスマーン574-656  :クナイシュ族:ウマイヤ家 暗殺byアリー?
 ┃ ④アリー  600-661  :クナイシュ族:ハーシム家 暗殺@クーファbyハワーリジュ派のアブド
 ┃   ┣ハサン・イブン・アリー 625-669毒殺?→正統カリフ(シーア派--イマーム派:イランの国教)⇔ ムアーウイア603-680
 ┃   ┣フサイン・イブン・アリー626-680 :カルバラーの虐殺byヤズィード                 ┣ヤズィード
 ┣ファーティマ614-632
アイーシャ614-678(バクルの娘✖:ラクダの戦いVS◎アリー)

そしてウマイヤ朝(スンニ派)は繁栄、イスラム勢力は欧州、インドにまで広がる。カルバラーラの虐殺が行われた10月10日にはシーア派による追悼祭が行われる。虐殺されたフサインの末裔はサイードと呼ばれる。

 

【661-750:支配領域が急拡大したウマイヤ朝】  ムアーウイア603-680(ウマイヤ家の軍人:イスラム教5人目のカリフ 混乱を鎮める)が建国して661年から始まるのがウマイヤ朝で、スンナ派が多数を占める時代である。勿論異を唱えるのがハーシム家(シーア派)。かくしてイスラムはこの時点からスンナ派とシーア派に分離するが、イスラムはウマイヤ朝に於いて強大な武力で一気に領土を広げる。

  シーア派:イラン、イラク、イエメン、レバノン

  スンナ派:

本来カリフは選挙で選ぶものであるが、5人目は軍事力を行使。以降もウマイヤ家がカリフを継ぐこととなる。

フランク王国の制服は失敗するが、イベリア半島の西ゴート王国やインドを含む中央アジアを征服して領土を拡大した。フランク王国との戦いが732/10トゥール・ポアティエの戦い。カール・マルテル686-741が勝利してイスラム教徒の侵入をイベリア半島でとどめた。これでカロリング朝が誕生し、息子ピピン3世がローマ教皇に寄進したことで800年にカールの戴冠が行われた。

 

【不平等税(アラブ第一主義)で750年に滅亡したカロリング朝】   イスラム教は皆平等という教えをもとに広がっていった(イスラム教に改宗)。ところがカロリング朝では、人は皆平等というイスラムの教えに反してアラブ人は免税されるが、非アラブ人などの異教徒(マワーリー)は税(ジズヤ:人頭税とハラージュ:土地税)を改宗していても課せられた。これによって不満が反乱にまで発展した。また、シーア派(アーリーとその子孫イマームを認めなかった)とスンナ派の対立もあったということでウマイヤ朝は滅亡する732年。ただしイベリア半島のコルドバは滅亡を免れる。

 

【750-1258 :税の面で平等となったアッパース朝】    
  ・不平等税に不服のマワーリー(非アラブ人などの異教徒)と
    ハーシム家の流れをくむアッパース家(選挙を行わずに武力行使でカリフになったウマイヤ家に反感)が
    協力してクーデターを起こして勝利。

750年 アブー・アルアッパース721-754
  ・によりすべてのムスリムは税の面で平等(ジズヤ免除)になった(首都はバクダッド)
  ・そして敗戦したウマイヤ家はイベリア半島西ゴート方面に逃亡し、ここに後ウマイヤ朝を建てる(首都はコルドバ)

751年 タラス河畔の戦い
  ・唐と戦い唐の蔡倫が捕虜になったことで製紙法がイスラム世界に広がる。
  ・これが後にヨーロッパに広がり宗教改革やルネッサンスにもつながる。
  ・5代目カリフのハールーン・アッラシード766-809は官僚制度、中央集権支配体制を確立する(オリエントの特徴)
  ・が、やがてトルコ人軍人マルムークと対立し、各地の総督アミールの権力が高まり税の収集が低下して、アッパース朝が崩れていく。


イスラム文明を造ったのはアラブ人だが発展させたのはペルシャ人(イラン人 建国叙事詩シャーナーメ) 
  ・イブン・スィーナー980-1037イラク典範著
  ・イブン・ルシュド   1126-1198 哲学者
  ・イブン・ハルドゥーン 1332-1406 イスラーム世界最大の学者
  ・サアディー      1210-1291 詩人
  ・ハーフェズ      1325-1389 詩人
  ・ガザーリー      1058-1111 イスラム神学者 
  ・フワーリズミー    750-820  数学者
  ・アラブの国のトップはアラブ人であるが、官僚、学者はほぼイラン人
  ・アラブ地域の分断は上記に在り
  ・イランの語源はアーリア 

  

【10世紀頃-アッパース朝衰退後:3-カリフ分立時代】   サーマーン朝(イラン)、ファーティマ朝(北アフリカ:973年首都カイロのシーア派)、ブワイフ朝(イラン)、カラ・ハン朝やカズナ朝(トルコ系、インド) などが乱立していずれもカリフを名乗る。軍事力の弱いアッパース朝が衰退している証ともいえる。今現在ではイスラム教の中心、情報発信地はカイロ。

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【中東戦争-6】2020 米がイランに対して経済制裁

2020年12月04日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

1961年 英資本の支援を受けてイランは西欧化政策を実施するが、石油の恩恵をあまり受けていない国民の不満が高まった。  
     そしてモサデク首相1882-1967は石油事業の国営化を計画した。  
     ところがこれに反対の米はCIAを使ってクーデターを計画実行、モサデク首相を失脚させたのである。  
     かくして米はパフラビー国王1919-1980による傀儡政権を樹立する。  
     これを【白色革命】という。  
     この頃のイランは親米であったが・・・革命家のホメイニ1902-1989は白色革命を批判したことで国を追放された。

1979年 いよいよ米傀儡政権に対して国民の不満は高まり、ホメイニ氏を立てて【イラン革命】を起こす。  
     パフラビー国王政権のみが富を得て、一般国民に分配しなかった  
      ホメイニの呼びかけによりイラン国民は国王打倒を掲げる  
      やがてホメイニは国外追放 デモ隊が王宮を囲んで国王は逃亡  
      これによってイランと米の関係は悪化・断交 
      米はイランでの石油ビジネスを失う  
     コーランに従う新政権誕生 :イラン・イスラム共和国   
       
     1980年にはアメリカの画策でイラン-イラク戦争が勃発。  
     米はイラクの支援をすることでイランを攻撃した。  
     2002年には米艦隊がイランの旅客機を撃墜。(米は誤発射と言っているが謝罪はしていない)  
     2002年にはイランを北朝鮮と同じく悪の枢軸と呼び、イランに対して経済制裁を実施した。

2014年頃   2001年の同時多発テロ以降、イランとイラクは良好な関係となっていた。また2014年のISIL(イスラム国)が台頭してくると、イランはイラン革命防衛隊を結成してISILに対抗し、イラクは米兵5000人の支援を受けてISILに対抗した。つまりこの時点では米とイランはISILという共通の敵を相手にして問題を起こすことはなかった。そしてイラン核合意に米は参加したが、しかしISILの勢力が弱くなると、2015年米オバマ大統領はイラン核合意を離脱する。そして経済制裁を再開したことでイラン経済は不安定となり、失業者は30%、インフレ率は140%を超えた。2019年には、イランは間接的にサウジアラビア・アラムコ石油の施設を攻撃した。そして米はイラン革命防衛隊をテロ組織に認定した。

2020年    かくして米は核ミサイル開発に関与したとしてイランに対する経済制裁を強めた。この時イランのザリフ外相は自国への影響はたいしたことはない・・・、と言っていたが、1月3日 米はバグダッド空港に於いて、イラン革命防衛隊のソレイマン総司令官及び首脳陣を射殺した。テロ組織の司令官だというのが理由であるが、ソレイマン司令官はイランでは英雄であり、このときはさすがにイラン・ザリフ外相は憤り、1月8日、イラン革命防衛隊は米軍が駐留するアルアダドのイラク基地をミサイル攻撃した。米-イランで一触即発の事態になったが、米側は軍事報復はしない、経済制裁を強化すると会見している。またイランの出方によっては平和裏に解決する用意もあると言っていた。

サウジアラビア石油施設が攻撃された直後の絵

 

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【中東戦争-5】2015以降 アサド政権、クルド人の中東・山岳地帯の石油・鉱物が闘争原因

2020年12月04日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【2015年以降よく見聞きするクルド人】    
  ・トルコ、シリア、イラン、イラクにまたがってどこにも属さない山岳民族がクルド人。    
  ・国家建設の目的の為には戦いもいとわないという。    
  ・10世紀ごろこの山岳地帯に乱立したが12世紀ごろには最盛期を迎えるも、モンゴルやオスマンの支配下に置かれる    
  ・1920年のセーブル条約(第一次世界大戦後に連合軍とオスマン帝国との間でかわされた)でクルド人自治区が誕生したのもつかの間    
  ・1923年のローザンヌ条約でトルコ共和国建設のかわりに、それ以外についてはオスマン帝国は放棄。    
  ・クルド自治区は消滅してイラク、シリアに分断された。    
  ・1946年にクルド王国が誕生するがすぐに崩壊、クルド王国のカージ・ムハンマド初代大統領(IKDP:イランクルド民主党)は処刑された。    
  ・やがてイラン革命1978が起こると、それまでアメリカと敵対していたクルド人は、アメリカと手を結ぶ。    
  ・(米はイラン革命後にイランと敵対し、クルド人と友好的となる)    
  ・国家独立ができないのは、クルド山岳地帯で産出される豊富な石油、鉱物などの天然資源の利権がからんでいるに他ならない。

【イラク国内のクルド人同士の内乱】      
  ・1970年にクルド人自治区がイラク北東部に誕生した。    
  ・アメリカの支援を受けてアメリカ村などができて発展する。    
  ・ところが1975年に内乱が発生    
  ・西側のKUD(クルド人民主党:党首は保守系バルザニ1946-)、と    
    西側KUDから離反した東側のPUK    
    (クルディスタン愛国同盟:党首は社会民主主義系タラバニ1933-2017 2005年にクルド人初のイラク大統領)に分裂・対立する。    
  ・PUKはイランと同盟関係を結んでKDPを攻撃した。するとKDPはイラクに支援を要請、    
  ・かくしてイラク・フセインはPUK(クルディスタン愛国同盟)に対して毒ガス攻撃を行い、5000人もの犠牲者を出した(1988年)。    
  ・この情報は世界中を駆け巡ったが、このとき内乱に介入したのがアメリカである。イラクの支援を受けていたKDPは撤退した。

【シリア国内のクルド人とトルコ】       
  ・アサド政権シリアの北側に住むクルド人は2003年にシリア・クルド統一党PYDを結成した。    
  ・この母体はクルディスタン労働党PKK(1978年に成立し1984-2013迄武力闘争をした     
    会長はムスリム・モハメド1951-)で、PKKはトルコ国内、PYDはトルコ国境近くのシリアで活動しており、    
    トルコ政府・エルドリアン大統領から頻繁に攻撃を受けていた。    
  ・このPYDの中でも特に過激なクルド人民防衛軍PYGは2011年以降勢力を拡大していた。    
  ・やがてイラクとシリア近辺でテロ活動を行うISIL(アメリカと敵対するイスラム過激派組織)が台頭する(2006年)。    
  ・2011/5月にビン・ラディンが殺害されると報復を宣言し、爆弾テロを起こして全世界に警戒を発した。

【ISIL掃討作戦】      
  ・かくしてアメリカはISIL撲滅に向けてPYGに武力・兵力支援をする。    
  ・また、PYGはシリア政権に協力を持ち掛け、アメリカとシリアとクルド人・PYGがISIL掃討作戦を行うのである    
   (敵の敵は味方という典型的な複雑な構図)。    
  ・この時トルコは、今まで攻撃を仕掛けていたPYGの攻撃ができない状態となる。    
  ・何故ならトルコと友好関係にあるアメリカ兵がPYGクルド人ととともに戦っているからである。    
  ・このときトルコにとってはISILはテロリストであるが、クルド人PYDやPYGもテロリストなのであるからややこしい。    
  ・いよいよトルコのエルドリアン大統領は、アメリカのトランプ大統領に対してシリアからの米兵撤退を要請したようである。    
  ・理由はトルコ侵攻によって米兵に犠牲が及ぶことを示唆したかった。    
  ・かくしてトランプ大統領は2018年に米兵を撤退させたことで、トルコのクルド人に対する侵攻が始まり、    
    多くのクルド人犠牲・難民を生み出すこととなった。    
  ・後にトランプ大統領がクルド人を見捨てた形となって非難を受けたことは言うまでもない。    
  ・ISILの創始者・バグダディーは2019年に米軍特殊部隊に追い詰められ、自分の子供3人とともに自爆・死亡した。    
  ・現在ISILの勢力は兵力1000人以下となっているようだ。

【トルコ国内のクルド人】       
  ・トルコ国内のクルド人は人口比で15%は何十年も抑圧され、    
  ・1978年に成立したクルディスタン労働党PKKは、し1984-2013迄民族自治権を求めて対トルコ武力闘争を行った。    
  ・(会長はムスリム・モハメド1951-)    
  ・2013年以降は休戦による和平状態であったが、2014年にはシリア、イラクのクルド人地区に於けるISILとの戦いに参加。    
  ・これらが原因で世界テロ組織としての認定を受け、激しく制限・監視されることとなる。 

     
      
【アサド政権崩壊】    
  ・50年続いたアサド独裁政権は崩壊    
  ・親露、親イランで、反米    
  ・露からの支援が弱体 Byウクライナ戦争    
  ・イランからの支援が弱体 Byイスラエル戦争    
  ・アサド政権批判する反政府勢力がダマスカスを征圧@2024-12-8    
  ・アサド大統領1965-はモスクワへ亡命    
  ・反政府勢力はシャーム解放機構(HTS) :指導者はジャウラーニー1982-   
  ・サイドナヤ刑務所を開放して多くの市民を救出   
  ・ここでは2011以降13000人が処刑   
  ・しかし反政府勢力はテロリスト指定されており今後も混迷するか??   
     
【アサド政権を崩壊させたのは米オバマ政権?】   
  ・反米独裁主義国家(リビア、エジプト)の共通点     
    -ある程度の福祉充実   
    -ロシア支援  
    -アラブの春で民主化の波  
    -民主化の指揮はオバマ-クリントン   
    -民主化の実行はCIA-マイケル・モレル1958-    
    -資金源はユダヤの投資家ジョージ・ソロス1930-   
    -独裁政治の打倒は成功したが、社会混乱--内戦状態--国民生活破壊  
  ・反米独裁主義国家(リビア、エジプト)の場合   
    -2004:ISISバクダディー1971-2019は米に拘束    (ヌスラ戦線ジャウラニー1982-)
    -2009:なぜか釈放される(米の手先となった?)   
    -2009:アルカイダ幹部との連絡役    
    -2011:ビン・ラディン死亡   
    -2014:イスラム国建国宣言   
    -2015:米空爆による負傷  
    -2017:構成員激励   
    -2019:自爆 後任にハシミ1976-が反政府勢力に就任    
  ・反政府勢力活動の資金源はアメリカ  
  ・反政府勢力活動作戦はティンバー・シカモア作戦@2016公表  
    -「ティンバー・シカモア作戦」は、  
    -アメリカの中央情報局(CIA)が運営する機密兵器供給および訓練プログラム  
    -シリアのバッシャール・アル・アサド政権を打倒することを目的  
    -この作戦は、オバマ大統領の指導  
    -過激派イスラム主義者グループに資金提供、訓練、情報提供を行い@2012~  
    -シリア内戦での反政府勢力を支援  
    -具体的には、リビアからシリアの聖戦主義者に武器を運ぶ「ラット・ライン」も含まれていた  
  ・ロシアの対応 
    -ロシア空軍基地がシリア・フメイミームにある 
    -ロシア海軍基地がシリア・タルトゥスにある 
    -しかしアサド政権(親ロシア)崩壊に至るまで空海軍ともに動いていない :謎
    -アサド政権崩壊後、アサドはロシアに亡命 
    - 
    

   

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