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古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

高野山50 伊勢桑名城主本多忠勝墓所

2014年06月30日 | 高野山

 蜻蛉切と赤備で象徴される本多忠勝、関ヶ原の戦いでは家康先発隊として病に倒れた井伊直政に代わって臨時に参戦したため500程度の軍勢であった。本多家の本体は徳川秀忠の軍勢に配属されていた。前回紹介した本多正信の子・政重は前田家家老として徳川将軍家の目付役として活躍したが、なんと言っても忘れてはならないのは本多忠勝である。とにかく徳川四天王のひとりとしてその武勇を全国に轟かせ、織田信長や豊臣秀吉も一目置いた武将であることは良く知られているが、忠勝の子・本多忠政は池田家の後を継いで、天下の名城・姫路城主となっているのである。

  本多氏の出自は、藤原氏北家・兼通流の二条家綱まで遡り、豊後国の本多郷を領した事から本多氏と称したことによる。古くから松平氏に仕えた三河国の譜代の家系で、三河三奉行の一人本多重次(作左家)、徳川家康の参謀となった本多正信(三弥家)、徳川四天王の本多忠勝(平八郎家)のほかにも彦八郎家、彦次郎家、弥八郎家がありいずれも譜代大名であるが、宗家については忠勝の家系とも正信の家系とも言われている。正信の家系では次男の政重が前田家の宿老となるなど徐々に徳川家より重用されたが、忠勝系(徳川四天王の一人である本多忠勝の家系)は本多一門の中で忠勝が最も家康から厚遇され、特に忠勝の子や孫は家康血縁者との婚姻があった。忠勝が勲功を得たのは関ヶ原の戦いで、忠勝に伊勢国桑名藩10万石があたえられ初代桑名藩主になっている。また、上総国大多喜藩5万石も与えらて初代藩主になり、忠勝の次男・忠朝が継いだ。それぞれの家系は幕末まで存続したが、宗家・村上藩主・本多忠孝は幼少で急死したため改易のところ、なんとか家名再興が許されたというのが屈指の譜代名門の行末であった。本多忠勝の晩年は、本多正純などの若く文治に優れた吏僚派が家康・秀忠の側近となり、武功派は幕府の中枢から遠ざけられ不遇であった。

 本多忠勝は徳川四天王として顕彰されているが、生涯において参加した合戦五十七回でかすり傷一つ負わなかったという。軽装を好み、重武装な井伊直政とは対照的である。それを象徴するのが蜻蛉切と赤備である。1572年武田信玄の軍勢が遠江に進入した際、これを偵察にでかけた徳川家康が見破られて迫撃され、一言坂で追いつかれたとき、忠勝は殿軍を勤めて難を救った。徳川勢の本陣の退路を遮断しようとした武田軍の動きにすばやく対応した忠勝は、黒糸の鎧に鹿角を打った兜をつけ、蜻蛉切と呼ばれる大槍を手に、見方と敵軍の間に馬をすすめ、民家を焼いた煙幕を利用し自軍の退却を待って悠然と引き上げたという。武田の近習・小杉右近助はその仔細を観察し、家康の家臣にするにはもったいない男であると賞賛したという。また、忠勝の働きは豊臣秀吉からも認められ、小牧の役後に家康と秀吉の和平が整い、家康と秀吉の妹・旭姫の婚姻の結納を持参した忠勝に対して秀吉からほめられ、小田原攻めの帰路、源義経の忠臣・佐藤忠信の冑を授けられてその武功を称賛されている。

徳川秀忠正室・於江与の方                     池田光政1609-1682
  ┗┳千姫1597-1666(天樹院):豊臣秀頼室、のちに本多忠刻室      ━━┓┣綱政  
  ┃本多忠高?-1549                        ┣勝姫
  ┃ ┣本多忠勝1548-1610(本多宗家初代)              ┃1618-1678 
  ┃ ┃   ┣小松姫1573-1620(母:乙女 真田信之室)       ┃
  ┃上村氏義娘┣もり姫(奥平家昌室)                ┣幸千代
  ┃     ┣本多忠政1575-1631(母:阿知和右衛門娘 姫路城主)   ┃ 
  ┃     ┗本多忠朝┣本多忠刻1596-1626(室は徳川秀忠娘・千姫)┛  
  ┃     1582-1615  ┣本多政朝1599-1638(室は本多忠朝娘)
  ┃     ┣本多政勝┣本多忠義1602-1676(室は森忠政娘)┗政長1633-1679(宗家5代) 
  ┃     ┗千代  ┣国姫               ┗忠国1666-1704(養子)
  ┃          ┣亀姫                ┣忠孝1698-1709
  ┃         松平信康娘・熊姫            池田綱政娘
  ┣徳川家光1604-1651三代将軍 福・春日局に養育 幼名:竹千代 
  ┣徳川忠長1606-1634                         
    ┣徳川和子1607-1678(東福門院):後水尾天皇中宮           
  ┣珠姫    1599-1622(天徳院) :前田利常室             
  ┣勝姫  1601-1672(天崇院) :松平忠直室             
    ┗初姫  1602-1632(興安院) :京極忠高室                         
側室・お静(浄光院)
 ┗保科正之1611-1673(会津松平藩主)    
      ┃┃┣幸松                      
    ┃┃菊姫 
    ┃┣媛姫(米沢藩主・上杉綱勝室)
    ┃┣正経1647-1681(2代会津藩主)
    ┃お万
     ┣摩須姫(加賀藩主・前田綱紀室)
  おしほ 

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高野山49 伊勢亀山石川家墓所 

2014年06月29日 | 高野山

 亀山石川家は家康の筆頭家老から秀吉側に翻った石川数正の家。石川数正は秀吉に信濃松本を与えられた。数正の叔父の家成が石川家の祖となり、子の康通は大垣で5万石を領するまでになる。次ぎの石川憲之がこの伊勢亀山に一旦入るが、山城淀、備中松山を経て総慶の時にまた伊勢亀山に戻ってくる。石川忠総の二男、総長は兄の憲之が伊勢亀山に入ったときに伊勢神戸を分け与えられ、下館藩の石川家に繋がる。石川数正は酒井忠次と共に徳川家康に仕えていたが、小牧・長久手の戦いの後に徳川家を出奔して豊臣秀吉側に寝返った。徳川家康が駿河国の大名・今川義元の人質になっていた頃から仕えていた石川数正が何故寝返ったのか。色々な説があるが、ほんとうのところはわからない。織田信長が死去し、秀吉が台頭してきた頃、数正は家康の命令で秀吉との和睦交渉を担当していたのであるが、逆に秀吉に調略されたのである。この石川数正が信州松本藩の初代とも言われているが、祖は数正の叔父の家成だという。

1533 石川数正誕生 : 石川家の祖は八幡太郎義家1039-1106の子-六郎義時?-1125の子-義基?-1180

1560 桶狭間の戦い

1562 清州同盟

1563 三河一向一揆 浄土宗に改宗

1570 姉川の戦い

1572 三方ヶ原の戦い

1575 長篠の戦

1579 岡崎城主・信康切腹 岡崎城代となる

   徳川の柱 西:石川数正  東:酒井忠次

1584 織田信雄と豊臣秀吉対立 → 家康(1万軍-小牧山城)と秀吉(10万軍-犬山城)対立

   長久手の戦い(秀吉別動隊 VS 家康奇襲隊)では家康圧勝

   小牧山城の留守居は酒井(出撃提案)と石川(出撃反対)

   織田信雄が秀吉と単独講和 → 戦は無益 

   小牧長久手の戦い 和睦提言:交渉人 結城秀康人質

1585 秀吉+根来衆+長曾我部+佐々成正 侵攻 → 家康孤立   

   岡崎城代・石川数正は天守前の馬出改造を実施

   秀吉は関白に任官 → 家康に人質求める 

   多くの家臣が交戦求めるなか、石川数正は和議主張 → 数正孤立

   秀吉は真田昌幸に家康成敗を指示   

   数正は秀吉側に出奔@1585-11-13 和議継続のためか?

   織田信雄1558-1630の徳川宛書状@1585-10-14(家康が数正を秀吉の元に参上させることはめでたい)

   天正大地震@1585-11-29 → 和睦がすすむ

1586 秀吉の妹・朝日姫が家康の正室になる 実母人質 

   家康は秀吉に臣従

1590 松本城築城8万石:5層6階 姫路城レベル

   秀吉の小田原攻め

1593 死去@朝鮮出兵出陣の最中 長野松本市・兎川寺に供養塔

 

  

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高野山48 長州毛利家墓所

2014年06月28日 | 高野山

 高野山にはここ長州毛利家墓所のほかに山口毛利家墓所がある。いずれも鎌倉幕府の名臣大江広元の四男・大江季光を祖とするので、大江嫡流ではない。毛利というのは、季光が父・広元から受け継いだ所領の相模国愛甲郡毛利庄を本貫とする。従って中世を通して「毛利」は「もり」と呼ばれていたが、いつのまにか「もうり」となった。ところで、もともと西日本を統治していた毛利家は関が原の戦いで破れて長門と周防の2国に減封された。この周防が山口毛利家であり、長門がここ長州毛利家なのである。

 毛利輝元・長州藩初代藩主の祖父・毛利元就は安芸の国人に過ぎなかった毛利氏をわずかに一代で大大名とした人物である。輝元は父を早くに失い、当初は元就が、後には二人の叔父である吉川元春、小早川隆景が輝元を補佐した。信長の時代には、輝元は石山本願寺と同盟を結び、配下の村上水軍を使って石山に兵糧を運び、本願寺側の唯一の欠点である補給問題を 毛利がカバーすることで 信長を苦しめたのである。信長が本能寺で急死すると備中高松城で対峙していた羽柴秀吉を攻撃せず中立を守ることで毛利の大領土を守った。広島の土地に巨城と城下町を築いたのも輝元である。秀吉は天下をとった後五大老に輝元を加え、毛利の知将である毛利隆景を入閣させている。ところが知将・隆景を失い、秀吉がなくなると輝元の武将としての迷彩は欠いていくのである。そして毛利輝元は、石田三成の意を受けた安国寺恵慧の説得に乗って関ヶ原の戦いの西軍総大将に祭り上げられてしまった。結局関ヶ原の戦いは吉川元春の子である広家が小早川秀秋を裏切らせたために東軍の勝利で終わった。しかし輝元は秀頼という切り札をもって大阪城という難攻不落の要塞にいたのであるが、毛利の本領は安堵する、という家康の誘いに乗って大阪城をでていってしまった。これにより家康は毛利家を完全に取り潰そうとしたが、吉川広家の嘆願により毛利家は大名としてかろうじて生き残ることができたのである。二百数十年を経た長州から吉田松陰、久坂玄随、高杉周作で代表される幕末の志士を輩出し、ついには倒幕を果たすこととなる。これらの原動力になったのは関が原の戦いでの苦渋に違いない。 

  乃美大方殿-1601        高橋興光┓
    ┣               高橋久光娘
  毛利弘元1466-1506(安芸吉田郡山城主) ┣幸松丸1515-1523   
      ┣毛利興元1492-1516(大内興元傘下)   
      ┣毛利元就1497-1571  ⇔ 武田元繁
      ┣女  ┣毛利隆元1523-1563
  福原広俊娘┃  ┃      ┣輝元1553-1625      
        ┃  ┃大内義興┏尾崎局(養女)1527-1572      
        ┃  ┃  ┗大内義隆1507-1551 ⇔ 陶隆房(晴賢) ⇔ 相良武任     
        ┃  ┃     ┣-     (義隆討つが厳島の戦で元就来島水軍に敗れる)
        ┃  ┃   万里小路秀房娘貞子      
        ┃  ┣長女(高橋氏の養女)      
        ┃  ┣五龍局(宍戸隆家室)-1574      
        ┃  ┣吉川元春1530-1586      
吉川経基    ┃  ┃  ┣吉川元長1548-1587    
 ┃(藤原南家)┃  ┃  ┣毛利元氏1556-1631    
 ┣吉川国経  ┃  ┃  ┣吉川広家1561-1625     
 ┃┣元経1459-1522┃新庄局(熊谷信直娘)-1606       
 ┃┣経長     ┣小早川隆景1533-1597    
 ┃┗妙玖 1499-1546  ┣小早川秀包1567-1601     
 ┃           ┣小早川秀秋1582-1602   
 ┗長女        ┏正平娘     ┣羽柴秀行     
   ┃        ┗繁平1542-1574 毛利輝元養女
   ┣政久1488-1518 
   ┃ ┗晴久1514-1561(1540年毛利征伐で敗走)    
   ┣国久 ┣義久1540-1610     
   ┃ ┗娘    
   ┣塩治興久     
 ┏尼子経久1458-1541(宇多源氏)        
尼子清定-1478(出雲守護代)

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高野山47 安芸浅野家墓所

2014年06月27日 | 高野山

 黒田官兵衛は、いよいよ本能寺の変になります。ネタはたっぷりあるのですが、頭の中で整理ということで、久々の高野山ネタを。浅野氏といえば秀吉五奉行・浅野長政が知られる。この長政は高台院、つまり秀吉の正妻・ねねとは兄妹である。父は長勝、浅野宗家・広島藩主で安芸藩主とも言われている。もともと中国地方は毛利家が治めていたが、関が原の戦いで総大将として参戦し、大敗した毛利輝元は周防、長州の2国に減封されて、安芸・備後の2国は福島正則が入封したのである。しかし福島正則は大阪夏の陣がおわった1619年に広島城を無断で改修したことで武家諸法度違反の罪で大幅に減封の上、信濃川中島」藩に転封となった。これに代わって紀州藩より豊臣政権下で五奉行の浅野長政の次男・浅野長晟が入封することとなった。長晟は福島氏政策を踏襲する一方、土豪に対しては厳しく臨み、統治の近代化を目指したという。長晟の次男・光晟は第2代藩主となって街道整備に尽力するなどして松平姓を名乗ることを許されている。光晟の長男・綱晟は第3代藩主となり、正室、継室にいずれも左大臣・九条道房の娘を迎えた。道房の母は豊臣秀勝の娘・豊臣完子であり、浅野宗家は豊臣氏の血を女系で受け継ぐ事になるのである。綱晟の長男・綱長が第4代藩主の時代1701年に分家の赤穂藩主・浅野長矩が刃傷事件を起こす。この時、宗家への連座を避けるべく色々と働いたが、この頃から財政は悪化に転じたために藩制改革に取り組んだが失敗している。

土田弥平次  
 ┣  
生駒吉乃1528-1566
  ┣1織田信忠1557-1582(岐阜城主)二条御所(本能寺の近く)で討死
 ┃ ┣秀信1580-1605(三法師)本能寺の変時に清洲城へ非難 
 ┃ ┣秀則1581-1625(秀信と共に関ヶ原合戦で西軍)
 ┃┏森可成(祖は河内源氏・源義家)娘(徳寿院)
 ┃┣森可隆1552-1570
 ┃┣森長可1558-1584小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃  ┣-   督姫1565-1615(家康次女)
 ┃┃┏━娘   ┣池田忠雄1602-1632(鳥取藩祖)
 ┃┃┃    ┃┣池田光仲1630-1693(初代鳥取藩主)
 ┃┃┃    ┃三保姫┣池田綱清1648-1711(2代)
 ┃┃┃    ┃茶々姫(徳川頼宣娘)┃┣池田吉泰1687-1739(3代)
 ┃┃┃    ┃        式姫┃┃  ┣池田宗泰1717-1747(4代)
 ┃┃┃    ┃      菊子(側室)敬姫 中村氏┣池田重寛1746-1783(5代)
 ┃┃┃    ┃        (徳川綱紀娘)  久姫  ┃ ┣池田治道1768-1798(6代)
 ┃┃┃    ┃             (徳川宗直娘) 律姫┃ ┃┣池田斉邦
 ┃┃┃    ┃                  上氏(側室)┃於三保
 ┃┃┃    ┃                    生姫(伊達重村娘)
 ┃┃┃    ┃    松平広忠1526-1549
 ┃┃┃    ┃     ┣徳川家康1543-1616
 ┃┃┃    ┃    於大の方1528-1602(水野忠政娘)                
 ┃┃┃    ┃     ┗松平康元 黒田長政娘(正室)
 ┃┃┃    ┃         ┗娘 ┣-
 ┃┃┃    ┣池田忠継1599-1615 ┗榊原忠次1605-1665(姫路藩主)
 ┃┃┃    ┣池田輝澄1604-1662   ┗榊原政房1641-1667(姫路藩2代) 母は寺沢広高娘
 ┃┃┣━池田輝政1565-1613(姫路城主)   ┣榊原政倫1665-1683(姫路藩3代)
 ┃┃┃    ┣池田利隆1584-1616  ┏富幾 ┣榊原政邦1675-1726
 ┃┃┃中川清秀娘・糸姫┣池田光政1609-1682 鍋島娘┗榊原政祐1705-1732(養子)
 ┃┃┃        ┃┣池田政言1645-1700    ┗榊原政岑1713-1743(養子)   
 ┃┃┃        ┃┣池田綱政1638-1714(岡山藩主 後楽園を造営)   
 ┃┃┃        ┃┃┣池田吉政1678-1695    
 ┃┃┃        ┃┃千子(丹羽光重娘)    
 ┃┃┃        ┃┣奈阿姫   
 ┃┃┃        ┃勝姫(本多忠刻娘)   
 ┃┃┃   柳原康政 ┣池田恒元1611-1671   
 ┃┃┃      ┣鶴姫(徳川秀忠養女)
 ┃┃┃      ┗大須賀忠政1581-1607
 ┃┃┃         ┣榊原忠次1605-1665(姫路藩主)
 ┃┃┃       松平康元娘 
 ┃┃┣━池田長吉1570-1614
 ┃┃┃  ┣池田長幸1587-1632(備中松山初代城主)
 ┃┃┃ 伊木忠次娘  ┣長常,長信
 ┃┃┃      松子,宮子(森忠政娘)
 ┃┃┣━池田元助1559
 ┃┃┃ 片桐半右衛門娘
 ┃┃┃  ┣-
 ┃┃┣━池田長政1575-1607(母:荒尾善次娘 犬山城にて生)
 ┃┃┃  ┣池田長明1606-1678(伊賀守)
 ┃┃┃加藤嘉明娘┣長重 
 ┃┃┃     ┣長久1645-1697
 ┃┃┃     妾 ┣長喬1676-1723
 ┃┃┃      香昌院 ┣長處1696-1754
 ┃┃┃         峯松院 ┣長仍1725-1796
 ┃┃┃             妾 ┗長玄1741-1814
 ┃┃┃                 ┗-
 ┃┃┃
 ┃┃┣━━若御前   菊亭晴季(越後流罪)1539-1617娘
 ┃┃┃日秀┣-      ┣
 ┃┃┃ ┣豊臣秀次1568-1595(高野山で切腹)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀勝1569-1592小吉(妻は淀の妹お江与 朝鮮で病死)
 ┃┃┃ ┃┣完子1592-1658
 ┃┃┃ ┃┃┣二条康道1607-1666摂政左大臣
 ┃┃┃ ┃┃┣九条道房1609-1647摂政左大臣
 ┃┃┃ ┃┃┃┣愛姫(浅野綱晟室)
 ┃┃┃ ┃┃┃┗八代姫(浅野綱晟継室)
 ┃┃┃ ┃┃九条幸家1586-1665関白左大臣
 ┃┃┃ ┃お江与1573-1626
 ┃┃┃ ┣豊臣秀保1579-1595
 ┃┃┃三好吉房1522-1600
 ┃┃池田恒興1536-1584(信長の乳兄弟)清洲会議の宿老 小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃                    ↑
 ┃┣森蘭丸1565-1582(長利)本能寺の変で討死 【小牧長久手戦】
 ┃┗森忠政1570-1634
 ┗━━━━━━┓              ↓
        ┣2織田信雄1558-1630(本能寺の変時に伊勢に撤退 宇陀松山藩初代)
        ┃ ┃┣高長1590-1674(宇陀松山藩2代藩主)   
        ┃ ┃┃ ┣長頼1620-1689(宇陀松山藩3代藩主)  
        ┃ ┃┃富田氏      ┣信武1655-1694(宇陀松山藩3代藩主)
        ┃ ┃久保三右衛門娘  津川氏   
        ┃ ┣秀雄1583-1610(亀山城主 関ヶ原合戦で西軍)   
 ┏織田信広-1574┃北畠具教娘(千代御前) 
織田信秀    ┣徳姫(見星院)1559-1636 
   1510-1551 ┃  ┣登久姫                 毛利輝元娘
        ┃  ┃  ┣熊姫┏━━5勝長-1582岩村城主 二条御所で討死┣-  
       ┃  ┃徳川信康┃┏━4羽柴秀勝1568-1586(母不祥)丹波亀山城で病死 
       ┃  ┃    ┃┃┏3信孝1558-1583(母坂氏)伊勢神戸氏継ぐ 四国征伐
      ┗織田信長 1534-1582

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高野山45 遠州掛川北條家墓所

2014年05月01日 | 高野山

 遠州掛川 北條家墓所に眠るのは戦国時代の玉縄北条家である。祖は北条早雲、1513年に鎌倉玉縄の地域に玉縄城を築いている。この城、堅城として知られており、水軍などを統括する重要拠点にもなっている。上杉謙信・武田信玄の相模乱入を防ぐなど功績は大きいが、豊臣秀吉による1590年の小田原征伐ではとうとう降伏し、北条氏勝は以降徳川氏の支配下となっている。以降、玉縄城は重要視されて家康側近の本多正信の居城となった。 

 北条早雲は1432-1519元々伊勢氏の出身で実力でのし上がってきた戦国大名の筆頭である。 早雲は出家号であり、伊勢長氏、盛時との説があるがはっきりはしていない。 早雲の父は伊勢盛定、母は伊勢貞国 (室町幕府の執事で子に伊勢貞親がいる。 室町将軍の足利義教・義勝・義政の3代に仕える)の娘である。 北条氏は鎌倉時代に執権を世襲する勢力であったが、足利氏に滅ぼされた後は伊豆の地方豪族に没落した。 伊勢氏は関西地方を基盤としたが関東へ進出する際に北条の姓を得るために婿入りしたと考えられる。  関東・駿河に名を上げようと下ったのは1490年頃で、早雲の妹が駿河守護の今川義忠の側室(北川殿という)として竜王丸(後に今川氏親)を産んでいたためである。 今川家に食い込もうと駿河へ下ったときに、今川家では御家騒動が起こっており、当主義忠は亡くなり妹・北川殿との間の嫡男・竜王丸が残っていたが幼少ということもあり小鹿範満を跡継ぎにする動きがあった。 つまり妹と竜王丸を排除する動きに対して待ったをかけたのである。 早雲は揉め事の調停役である関東管領上杉家の家老・太田道灌をも後ろ盾にして、竜王丸を後嗣とする(この時元服して今川氏の当主・氏親と名のる)とその功により駿河に興国寺城をもらいうけ、今川氏親を補佐する。

 そして隣国の伊豆を狙う(伊豆討ち入り)ことになる。 伊豆では関東堀越公方の相続争いが起こっていたのである。 先の公方・足利政知(足利義教の子)には茶々丸という名前に似ず気の荒い息子がいたが、家督を奪うために義母・円満院とその子・潤を殺害していた(1491年)。 茶々丸は主君になっていたものの真の従者はいなかったのであろう。 早雲は今川家からも兵を借りて挙兵し、堀越御所の茶々丸を攻めて追放したのである。 こうして早雲は伊豆をも領国とし一気に関東領土を手中にしようと目論んだ。 さらには隣の相模・小田原を狙ったのである。 当初小田原の大森氏は勢力もあり手を出せない状態であったが、小田原城主大森氏が急死し、藤頼という若い城主が後を継いだときに、早雲は贈り物をして親交を深めることに努力をした。 これにより大森氏の隙を突いた早雲は、一気に小田原城に攻め入り落としたのである。 小田原城は後に豊臣秀吉に滅ぼされるまで5代に渡って栄えることになる。 早雲が次に狙ったのは三浦半島一帯を勢力圏に持つ三浦氏である。 三浦氏といえば、鎌倉時代からの名族であり、当主三浦義同(道寸)とその息子・義意は三浦半島一帯の豪族である。 そして新井城という難攻不落の名城を持っていた。 大森氏と姻戚関係にある三浦氏は将来の禍根になりかねないと考え、この難攻不落の三浦氏に対して海上、陸上を封鎖することによって三浦氏の篭城作戦に対抗した。 数年の長きに渡って新井城を封鎖し、やっと打ちとった時には早雲85歳であったという。 三浦氏滅亡の3年後の1519年に早雲はその生涯を閉じた。

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高野山44 出羽庄内藩酒井家墓所

2014年04月30日 | 高野山

  酒井家といえば、姫路城主としては最後の家系となることで知られている。その系統である酒井忠勝1594-1647が出羽国庄内藩の初代藩主となっている。それまでの経緯を見ると越後高田藩主、信濃松代藩主を経ているのである。ここで酒井と越後高田藩について。宗家の越後高田の騒動などによって不安定であった越後に陸奥福島より、本多忠国が入ってくる。しかしまもなく越後村上へ移動。入れ替わって上野前橋より、酒井忠恭が15万石で入ってやっと安定し、以降酒井家の支配で、明治に至る。酒井家は松平親氏の子が酒井広親となったことから出る松平庶流であり、酒井忠次・家次父子を祖とする出羽庄内の左衛門尉系酒井家と、酒井重忠を祖とするこの姫路に至る雅楽頭系酒井家がある。ここ高野山の墓所は前者にあたるのである。尚、江戸生まれで幼少から神陰流、北辰一刀流を学んだ山岡鉄舟とともに浪士隊を結成した清河八郎は庄内藩出身である。また出羽国庄内藩の初代の酒井忠勝が藩主をつとめた信濃松代藩からは幕末の砲学者・佐久間象山1811-1864がでている。

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高野山43 久留米有馬家の墓所

2014年04月28日 | 高野山

 ここでいう久留米有馬家はもともとは摂津有馬家で、三好長慶や別所長治に仕えてきた家柄である。摂津国三田藩主・有馬則頼は羽柴秀吉が織田信長の命を受けて1580年中国攻めを行ったときには先導役を務めて功を得ている。摂津有馬家は元々別所長治を主君として仕えていたから、中国攻めの前に播磨平定を狙った秀吉について別所長治を破っているから驚きである。1584年の小牧・長久手の戦いでは長男を失い、関が原の合戦のときには67歳という長老で、徳川側について勝利を得た。翌々年70歳で死去すると、次男の有馬豊氏が継承し、のちに大坂の陣の軍功により久留米藩有馬家初代藩主となっているのである。

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高野山42 日向飫肥城主伊東家墓所

2014年04月27日 | 高野山

 宇佐は神武天皇が東征するときに最初に立ち寄った場所で、宇佐彦・宇佐姫の歓待を受けている。その宇佐八幡宮とゆかりのある飫肥城が日南にあり、去年2013年秋に九州の小京都と呼ばれる城下町・飫肥、そして武家屋敷、飫肥城を訪れた。日向・武士団として勢力を伸ばした土持氏が南北朝時代に築城したのが始まりである。室町時代末期に九州制覇を狙う薩摩島津氏は、日向で勢力を蓄えてきた伊東氏の南下に備えて、一族の新納忠続を飫肥城に入城させたことに始まる。日向中北部を支配する伊東氏が土持氏を裏切り飫肥に侵攻、この侵攻は断続的に続けられ、1567年念願は叶う。しかし、1572年に伊東氏が木崎原の戦いで没落すると、日向国全土を島津氏が治めるところとなり、飫肥も再び島津氏の支配下となる。飫肥を失った伊東祐兵が羽柴秀吉に仕えて飫肥の地を取り返すと大名として復活した。以後、飫肥藩廃止になるまで伊東氏の領するところとなる。実は高野山へ行ってこの墓所を写真に収めた2013年5月のときには日向伊東氏のことは知らなかった。その半年後に日向の南から20kmほど西側へ入り込んだところにある飫肥城を訪れたときに高野山との接点を見出すこととなる。歴史の散策をしていて面白いのはこういうところにある。

飫肥城追手門を内側から見た 

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高野山41 奥州相馬家墓所

2014年04月23日 | 高野山

 桓武平氏の祖といえば高望王である。その孫・平将門は、実は自ら相馬小次郎を名乗ったという。将門一族が滅んだのは939年、将門の乱後、将門の子・将国が常陸国に落ち延びたが、後の胤国が再び相馬郡に戻って相馬氏を名乗った。また、千葉常胤の子・師常が平将門の子孫・相馬小次郎・師国の養子となって相馬氏を名乗ったという説もある。師常は源頼朝の奥州藤原氏征伐の頃に活躍して功を挙げた人物である。頼朝から陸奥国行方郡を与えられたことで、この系統が奥州相馬氏として発展して奥州における惣領家となっていった。

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高野山40 上州高崎安藤家墓所  

2014年04月22日 | 高野山

 高崎には徳川四天王の一人である井伊直政によって1598年に築かれた城があった。それ以前には当地を豪族・和田氏が支配していた。元々は、相模国三浦に勢力をもっていた和田義盛の一族が落ち延びてきた。戦国時代の和田氏は上杉氏の支配下にあったが、後に武田信玄の配下となり小田原北条氏に従ったが、豊臣秀吉の小田原城攻めの際には前田利家に攻められて和田城は落城したのである。徳川家康の関東入封によって、井伊直政がこの地を封じ高崎の地としたのである。信州方面、越後方面とをつなぐ交通の要衝として徳川幕府にとって非常に重要な場所だった。井伊直政は、和田という地名を「高崎」に改めるとともに、和田城を拡張して「高崎城」を築城。しかし、高崎城を築いた井伊直政が1600年に近江に移ったことで高崎城主は、酒井家、松平家、安藤家、間部家と変わっていく。

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高野山39 長州益田家墓所

2014年04月19日 | 高野山

 益田家は長州藩の家老として毛利氏に仕えた御家であり、藤原北家道兼の末裔と云われているから系統は抜群である。幕末には 禁門の変において長州軍の指揮を執り、長州征討で責任を取って切腹した益田親施1833-1866は益田家33代である。このときより約200年遡った頃、小西行長の家臣・益田甚兵衛の子が奇跡を起こした。島原の乱であり、その子とは天草四郎。島原の乱(1637年に起こったキリスト教徒の最大の反乱) が起こった地はもともとキリシタン大名・有馬晴信の支配にあったが、有馬晴信が転封によりこの地を去ると、キリスト教弾圧を使命としていた大名・松倉重政がこの地に入り圧政を始めたのが事の起こりである。これに耐え切れなくなった百姓が一揆を起こし、この一揆が肥後国天草へも及び、天草四郎時貞というものの奇跡を起こしていくというものである。天草四郎は、小西行長の遺臣・益田甚兵衛の子として母の実家のある天草諸島の大矢野島で生まれたとされているが、はっきりしない。小西行長といえば、関ヶ原の戦いで石田三成の盟友として活躍したキリシタン大名で、肥後南部の領主であったが関ヶ原で敗れたために京で首を斬られ、小西家は滅亡している。  益田家などの小西家滅亡後に浪人百姓として隠れ住んでいた天草は、キリシタン大名である有馬家の領地の隣であった。 それがキリスト教弾圧の松倉重政が入ってきたことによって生活は脅かされたことで、 松倉家の暴挙に立ち上がった元武士の勢いに手を焼いた幕府側の松平伊豆守信綱は、一揆勢の拠点である原城を攻撃する。

 ついには益田甚兵衛親子は天草を中心に活動を始め、反徳川の兵を挙げたのである。1637年、一揆軍は完成したばかりの島原城を急襲したが、落城には到らなかった。もともとの領主有馬家は日野江城を本拠地としていたのであるが、松倉家は日野江城を廃墟とし、頑強な島原城を築いていたからである。このとき、天草四郎という宇土に居住していたという人物が、小西氏の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立・神格化されたと考えられており、さまざまな奇跡(盲目の少女に触れると目が見えるようになる、海を歩く等)を起こした伝説や、豊臣秀頼の落胤・豊臣秀綱であるとする風説も広められたようである。島原の乱では十字架を掲げて戦闘を指揮したと伝わり、幕府軍の原城総攻撃により火の中で自害したと言われている。また死後に首を切断されて幕府へ送られたと言う話もあり、首は長崎の原城大手門前にて晒されたとも伝わる。そのとき幕府側は天草四郎の姿素性の情報を全く知らず、原城に立てこもった反乱軍が皆殺し(内通者、山田右衛門作を除く)にされている為、旗印の近くにあった立派な服装を着た少年の死体を天草四郎と断定したと言われている。その為、首実検しようにもその首自体が天草四郎本人の物かどうかは最終的に分からなかったという。一説には、幕府軍に捕えられた四郎の母は「今ごろ四郎は白鳥になって伴天連の国へ向かっているでしょう」とうそぶいたが、四郎の首を見せられると悲嘆して泣き崩れたともいう。四郎の秀頼落胤説は、馬印が豊臣秀吉のものと同じ瓢箪であることなどから、大坂夏の陣において死去したはずの秀頼が大坂城を脱出して九州・薩摩へ逃れていたとする論拠によるものであり、原城跡には銅像があり、又、後年民家の石垣から発見された、四郎の母が建立したと思われる墓石も立っているという。 

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高野山38 高遠藩内藤家の墓所

2014年04月18日 | 高野山

 信州高遠藩の初代藩主が内藤家で、河内富田林藩の第2代藩主である内藤清枚1645-1714が果たしたということであるが、事績としてはほとんど表に表れないようでわからない。高遠藩が表にでてきたのは武田信玄の家臣として名を挙げる頃で、内藤清枚の100年ほど前のこととなる。諏訪一帯を高遠頼継が治めていたが、武田信玄に滅ぼされたあとは武田氏の支配下にはいって生き延びている。後に信玄の5男で勝頼の異母弟仁科盛信が高遠城主となったが織田軍の攻撃により落城すると自害した。これが1582年のことであるから、皮肉にも同年、織田信長は本能寺の変で暗殺されている。

 ところで、江戸時代を代表する高遠藩の名君に保科正之がいる。父は2代将軍徳川秀忠である。しかし母は正室・お江与(お市の方の末娘)ではない。秀忠の乳母の侍女で北条氏の家臣の娘・お静である。つまり侍女に手をつけたのである。将軍・秀忠は恐妻家で有名であり、正妻・お江与にお静の妊娠を知られないように見性院(武田信玄の次女)に預けられ養育された。見性院の縁で旧武田家臣の信濃の高遠藩主・保科正光に預けられて正光の子として養育され、後に高遠藩の藩主となっている。お江与は秀忠に側室を許さなかったほど気の強い女性であったから、お静の子の存在を知らせるわけにはいかなかったのである。しかしお江与は正之がいずれ将軍の子として認められるときのために秀忠の子であることの証文を取っている。お江与が亡くなり正之が18歳のときに初めて秀忠との対面を果たし、松平姓を名乗るように勧められたが、正光の弟が保科家を立てて大名になるまでは保科姓を通し、やがて会津松平藩主となったのである。保科家に恩義を感じてのこの姿勢に人々は好感をもち、同母弟・忠長を切腹に追い込んだ新将軍・家光も正之をかわいがった。やがて家光は幼い子(後の4代将軍・家綱)を残してこの世を去るときに正之に将軍家を頼む、と言い残したという。感極まった正之は後に会津藩の掟となる「家訓15か条」を作り、将軍家への絶対の忠誠をうたっている。また、会津藩は旗本とは違って武を重んじる藩となっていった。幕末の時代にあっても京都守護職を引きうけ、武芸に長けた新撰組の後ろ盾となったのは、そのへんに理由がある。保科正之は家光の死後、4代将軍家綱を補佐し善政を敷いた。大名取り潰しの要件を緩め、大名が亡くなった際の殉死の禁止を徹底させた。

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高野山37 島津家久墓所

2014年04月17日 | 高野山

 関ヶ原合戦の舞台で島津隊として陣を敷いたのが島津家久の息子・島津豊久1570-1600である。母は樺山善久の娘である。1584年の沖田畷の戦いに初陣し、敵一人を討ち取ると翌月に元服を果たす。父・家久は、島津氏が豊臣秀吉に降伏した年に死去したためか秀吉は豊久に特別に所領を与えるよう島津義弘に命じたという。父の後を継いで日向佐土原城城主となり、豊臣秀吉に従い小田原の役や文禄・慶長の役など各地を転戦する。関ヶ原の戦いでは伯父・義弘と共に西軍として参陣したが、義弘提案の夜襲を聞き入れなかった西軍への不信から戦闘には参加せず、豊久も積極的な戦闘を起こさなかった。 やがて戦いが東軍優位となり、西軍敗戦の色が濃くなると、義弘を逃れさせるためにここ烏頭坂で奮戦し時間を稼ぎ戦死したとも、島津隊は家康本陣を霞める形で伊勢街道方面に撤退した後、義弘の身代わりとなって討死したとも云われている。 

16代島津義久1566-1587       
 ┣17代義弘━18代忠恒(初代薩摩藩主)━2代光久━3代綱貴━4代吉貴━5代継豊┓      
 ┗━━家久1547-1587(義弘 家久の父は貫久)               ┃        
     ┣島津豊久1570-1600                      ┃        
    樺山善久娘                           ┃        
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛        
┃        
┃        徳川宗尹1721-1764(一橋家初代当主・徳川吉宗の四男)
┃           ┗保姫1747-1769
┃            ┣悟姫
┗6代宗信━7代重年━8代重豪┓        
┏━━━━━━━━━━━━━┛        
広大院1773-1844(篤姫・茂姫)    
┃┣-                     
一橋家斉1787-1837(
治済1751-1827(一橋家二代当主)の長男)                     
┃                      
┃                     徳川宗尹┓
┗島津斉宣1774-1841(第9代薩摩藩主 母:春光院 養母:保姫)
 ┣島津斉興1791-1859(第10代薩摩藩主) 
 ┣┃┃━島津忠剛1806-1854(今泉家10代当主)     
 ┃┃┃  ┃┃     ┣忠冬1824-1859(今泉家11代当主)  
 ┃┃┃  ┃┃     ┣久敬1829-  
 ┃┃┃  ┃┃島津久丙 ┣一1836-1883 
 ┃┃┃  ┃┃  ┗お幸(島津久丙娘)-1869
 ┃┃┃  ┃┣島津忠敬1832-1892(今泉家12代当主)  
 ┃┃┃  ┃河野通記娘  
 ┃┃┃  ┣お熊1838-1842  
 ┃┃┃  ┣お龍1840-1840
 ┃┃┃ 海老原庄蔵娘  
 ┣┃┃━松平勝善1817-1856(伊予松山12代藩主)
 ┃┃┃  ┗松平勝成(聟養嗣)
 ┃┃┃              貞姫(斉彬娘)
 ┗┃┃━郁姫(島津興子)1807-1850  ┣篤麿1863-1904
   ┃┃          ┣忠房1838-1873
   ┃┃ 近衛忠熈1808-1898(安政の大獄で失脚)
   ┃┃  
   ┃┃直仁親王┓
   ┃┃   鷹司政熈(関白)┓一条忠良(公卿)┓堀利邦(旗本)┓
   ┃┃   鷹司任子(天親院),一条秀子(澄心院),お志賀(豊倹院) 
   ┃┃徳川家慶1793-1853 ┣-
   ┃┃ ┣13代徳川家定1824-1858
   ┃┃実津 ┣-
   ┃┃ ┏篤姫1836-1883(近衛忠熈養女)   
  ┃┣島津斉彬1809-1858
  ┃┃ ┃┃┣夭折  
  ┃┃ ┃┃恒姫(徳川斉敦娘)1805-1858
  ┃┃ ┃┣寛之助1845-1848
  ┃┃ ┃横瀬克己娘
  ┃┃ ┣篤之助
  ┃┃ ┣暐姫(島津忠義室)1851-1869 
  ┃┃ ┣典姫(島津珍彦室)
  ┃┃ ┣寧姫(島津忠義室)1853-1879近衛忠熈養女
  ┃┃ 伊集院寿満
  ┃┣池田斉敏1811-1842
  ┃┣候姫1815-1880
  ┃┃┣- 督姫(家康次女)
  ┃┃山内豊熈1815-1848
  ┃弥姫(周子:鳥取藩主・池田治道娘)
  ┣島津久光1817-1887
  ┃┃┣忠義1840-1897薩摩藩12代藩主
  ┃┃┣久治1841-1872宮之城家15代当主
  ┃┃┣珍彦 重富家
  ┃┃島津千百子
  ┃┗忠欣 今和泉家
  ┣唯七郎
  ┣智姫
 お由羅1795-1866斉彬廃嫡を謀略(お由羅騒動)

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高野山36 明智光秀墓所 本能寺の変覚書

2014年04月16日 | 高野山

 明智光秀といえば本能寺の変で織田信長を討った人物である。その本能寺の変の詳細を知る手がかりとなるのが、本城惣右衛門覚書。本能寺の変で明智光秀に従軍していた光秀配下の足軽・本城惣右衛門が、江戸時代に入って晩年、親族と思われる三人の人物に宛てた記録の内の一番乗りで本能寺に侵入したという部分を掲載したものである。この覚書から本能寺の変がどのように行われたのかが伺える貴重な資料となっている。 

現代文訳:守天働児

『明智光秀が謀反を起こし、織田信長様に腹を召させた時、本能寺に私たちより先に入ったと言う人がいたら、それは嘘です。まさか、信長様に腹を召させるとは夢とも知りませんでした。その時は、太閤秀吉様が備中で毛利輝元様と対峙していたので、明智さまが援軍を申しつけられたのです。京都の山崎の方へ行くと思っていたら、逆の京都市内の方へ行けと命じられましたので、、。討つ相手は徳川家康様であるとばかり思っていました。また、本能寺というところも知りませんでした。進軍の途中、軍勢の中から馬に乗った二人の武将が前に出てきたので、誰かと思ったところ、斉藤内蔵助殿(利三)の子息で小姓を二人連れていました。本能寺へ向かう間、我々はその後ろについて行きました。片原町に入った時、子息殿は北の方へ行き、我々は南の堀に沿って東に向いて進んだところ、本能寺に入る道に出ました。橋の側に門番がいたので私たちは殺して首を取りました。そこから本能寺内に入ろうとしたところ、門は簡単に開いて、中は、ネズミ一匹いないほど静かでした。門番の首を持っていたところ、北側から入ってきた三宅弥平次殿と伝令将校の二人がやってきて、「首は討ち捨てろ。」と言われましたので、堂の下に投げ入れました。本堂の表から中に入ったところ、広間には誰もいなくて、蚊帳が吊ってあるだけでした。寺の台所の方を探索したところ、白い着物を着た女を一人、捕らえましたが、侍は誰もいませんでした。捕らえた女は「上様は白い着物を着ておられます。」と言ったのですが、その時は、その女が言った「上様」が「信長殿」とは分かりませんでした。この女は斉藤内蔵助殿のもとに連れて行きました。旗本衆の二、三人が肩衣に袴の裾をたくし上げた姿で堂の奥に入って行き、そこで首を一つ取りました。一人の男が、奥の間から、麻の単衣(寝間着)を着て、帯もしないで、刀を抜いて出てきたので、私は蚊帳の陰に入り、その者が通り過ぎるのを待って、背後から切って首を取りました。その頃には建物の中には我が軍の多くが入っていました。この襲撃時には、以上のとおり、敵の首を二つ取りました。褒美として、槍を貰ったので、野々口西太郎殿に伝えます。』

 と、こうである。公家に反信長の動きは存在し、更に義昭、堺衆、本願寺、雑賀衆、丹波衆等、反信長勢力は各地に数多く存在し活動していた中で、本能寺の変の当時、光秀は在京信長軍団幕僚のトップとして織田軍に関わる情報のすべては光秀のもとに集っていた。そして、光秀は変前の一年間、ほとんど信長の周辺にいた。 そして覚書にあるように、本能寺攻めは明智光秀方の将兵達にも敵が信長であることを知らせないまま、粛々と実行されたのである。明智軍兵士達は、「徳川家康」を攻撃するとばかり考えていた。本能寺攻撃の現場に明智光秀はおらず、直接指揮をとったのは、斉藤利三や明智秀満勢であった。本能寺には信長以下100人に満たない将兵が、守りをほとんど行わないまま滞在していた。本能寺では戦いらしい戦いはされず、しかも、信長のみを狙った襲撃作戦であった。

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高野山35 石田三成墓所

2014年04月15日 | 高野山

  1590年、秀吉は天下統一の締めくくりとして小田原の北条氏を征伐するため、三万二千の軍勢を率いて京都を出陣すると、伊豆の山中城、韮山城を押さえ、北条氏正・氏直親子を小田原城に囲んだ。 この頃鶴丸は聚楽第の北の政所のもとに滞在し、茶々は淀城でわびしく過ごしていた。 小田原攻めが長期包囲戦にはいったため秀吉は北の政所を通じて茶々に小田原へ向かわせている。 茶々は箱根山の山中では嫌悪感なく、約二ヶ月を秀吉と暮らした。7月、小田原城が開城となると氏正・氏照兄弟は切腹し、功労者である家康には関東八州を与え、家康は早速江戸を中心に関東八州を定め、これが後の江戸幕府開設の本拠地になったのである。奥州伊達政宗も軍門にくわわり秀吉の天下統一は完了したのである。翌年の1591年、異父妹の朝日姫、異父弟・秀長と相次いで亡くすと鶴松は病気になり、いったんは回復を見せたが、秋には息絶えてしまった。跡継ぎをあきらめた秀吉は、養子の秀次に関白を譲ると、秀次は聚楽第で一の台局と久しぶりの再会をするのであるが、秀次は正妻・栄を清洲城においたまま、一の台局の父・晴季も心配するほどの情事を繰り返した。1592年、鶴松の死を忘れるためかのように朝鮮を制圧していたが、母・大政所を失い、死に目にも会えなかった自分を悔いた。丁度その頃養子の秀勝 (信長の四男でお江と結婚していた) が24歳で戦死したのである。その頃茶々は自分のからだに再び異変を感じた。まぎれもなく妊娠の兆候である。1593年、淀君は男子を産んだ。捨て子は元気に育つと信じて鶴松には「捨」と名付けたが、こんどは「お拾」と名付けた。 後の秀頼である。

 秀頼の出現によって一気に身の危険を感じたのが関白秀次である。秀吉に実の子ができたとなると、約束されていた後継ぎの権利が剥奪されるのは目に見えているからである。秀次は一の台局の後押しもあってか、秀吉に、秀頼が実の子であるというのは疑わしいと進言したのである。秀吉が逆上したのは言うまでもないことであるが、それ以来秀次は別人のように酒をあおり、何かに怯えるようになった。そして女あさりが始まったようである。関白となった秀頼の関心を得ようと各地の豪族や公家が自分の娘を差し出そうとしていたが、一の台局を除いて25人いた。秀頼はその女達に閨の伽を申し付けたのである。 閨には一の台局も一緒に寝かせ、彼女の目の前で女を抱いた。苦労知らずで18歳にして近江八幡城主となり、秀吉の栄達とともに関白の座につき、聚楽第の主となった秀頼の弱さがでている。その後まもなく秀頼は高野山の青厳寺で謹慎の末、自害させられている。また石田三成の処刑奉行により、秀次の側室や子供三十数名も三条河原にて打ち首になった。考えてみれば、秀吉の恨みをかったのは秀次と一の台局だけであり、他の者は巻き添えを食ったに過ぎない。一の台局の父・晴季は娘と孫・実耶姫の助命を秀吉に嘆願したが、聞き入れられず、晴季は右大臣の官位を奪われ、越前に流罪となっている。

  秀次が亡くなった後の秀吉は、自分を見失うかのように秀頼を寵愛し、体調を崩していった。いよいよ家康が長年の我慢の成果がでてきた。 明智光秀征伐を秀吉に許したばかりに、天下取りの先を越された家康は、この日を待っていた。 秀吉が62歳で亡くなると、尾張出身の加藤清正、福島正則を推す北政所と、近江出身の石田三成、長束正家を推す淀殿との対立は周知のこととなるが、家康は尾張勢に接近することとなる。 北政所の淀殿も家康が次の担い手であることは認めていたが、淀殿は三成によって家康を阻み、秀頼の安泰を図り、北政所は家康に飛び込むことにより豊臣家の永続を考えていた。   淀殿は石田三成の忠誠に心強く思うが、家康の勢力に勝てるはずもなかったが、前田利家の秀頼に対する忠義により、豊臣家と家康はかろうじて均衡を保っていた。 ところが前田利家の病死により一気に展開が変わるのである。

 三成が昵懇にしている常陸水戸城主 佐竹義宣が火急を告げてきた。 加藤清正、黒田長政、浅野幸長、福島正則、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明の七将が三成襲撃を企てているというのである。 このとき三成は家康のふところに飛び込むと、家康は保護し、息子の結城秀康の警護の元、近江佐和山城へ送り届け、石田三成の地位は失墜し発言権もなくなった。 徳川家康は伏見城から大阪城へ入城して政務を指揮することとなった。  石田三成が挙兵したのはそれから1年半後のことである。天下分け目の関ヶ原の合戦である。 結局、小早川秀秋の寝返りにより家康側の勝利となると、家康は大阪城に入り、淀殿と秀頼親子と会見を持ち、危害は加えない旨を伝えた。 家康の孫・千姫7歳が大阪城に入り、秀頼11歳と結婚の儀をかわしたのは、それから3年後のことである。 家康は征夷大将軍となり、秀頼は内大臣が約束され、家康の孫・千姫が嫁になったことで、淀殿は、秀頼が成人すればいずれは天下を譲ってくれるのではないかとの望みを捨てきれないでいたのであるが、家康は征夷大将軍を辞し、秀忠に譲ると徳川家の世襲として代々天下の政権を握ることを表明した。 千姫が嫁いできたことによって秀頼の将来が保証されたと思い込んでいた淀殿は衝撃を覚えた。 それ以降、淀殿は鬱状態になり暗雲立ち込めるようになる。

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