平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

ねね@ふたば学舎

2022年12月23日 | 西村美柚 中山悠乃 ねね ねお

コメント

ねね@ふたば学舎

2022年12月22日 | 西村美柚 中山悠乃 ねね ねお

コメント

中山悠乃@広島フォレストGD-3

2016年12月07日 | 西村美柚 中山悠乃 ねね ねお

コメント

中山悠乃@広島フォレストGD-2

2016年12月06日 | 西村美柚 中山悠乃 ねね ねお

コメント

中山悠乃@広島フォレストGD-1

2016年12月04日 | 西村美柚 中山悠乃 ねね ねお

コメント

中山悠乃@尾道-4

2016年11月10日 | 西村美柚 中山悠乃 ねね ねお

コメント

中山悠乃@尾道-3

2016年11月07日 | 西村美柚 中山悠乃 ねね ねお

コメント

中山悠乃@尾道-2

2016年11月06日 | 西村美柚 中山悠乃 ねね ねお

コメント

中山悠乃@尾道-1

2016年11月02日 | 西村美柚 中山悠乃 ねね ねお

コメント

西村美柚さん@大和郡山城-4

2015年06月19日 | 西村美柚 中山悠乃 ねね ねお

コメント

西村美柚さん@大和郡山城-3

2015年06月19日 | 西村美柚 中山悠乃 ねね ねお

コメント

西村美柚さん@大和郡山城-2

2015年06月19日 | 西村美柚 中山悠乃 ねね ねお

コメント

西村美柚さん@大和郡山城-1

2015年06月19日 | 西村美柚 中山悠乃 ねね ねお

コメント

西村美柚さん@大和郡山城下町-2

2015年05月17日 | 西村美柚 中山悠乃 ねね ねお

 

コメント

西村美柚さん@豊臣秀長ゆかりの大和郡山城下町-1

2015年05月17日 | 西村美柚 中山悠乃 ねね ねお

 ここは大和郡山城の外堀。すぐ近くには郡大納言塚、菩提寺がある。大納言とは豊臣秀吉の弟・豊臣秀長、言わずと知れた豊臣政権の安定には欠かせない人物であった。そんなロケ場所で撮影したのは西村美柚さん。

 1592年頃から、名実ともに天下人となった秀吉の奇行が目立つようになる。秀吉の弟・秀長が亡くなったのは1591年であるから、秀長亡き後に秀吉の暴走が始まったのは明らかである。その一端を以下に紹介。

 1590年、秀吉は天下統一の締めくくりとして小田原の北条氏を征伐するため、三万二千の軍勢を率いて京都を出陣すると、伊豆の山中城、韮山城を押さえ、北条氏正・氏直親子を小田原城に囲んだ。この頃鶴丸は聚楽第の北の政所のもとに滞在し、茶々は淀城でわびしく過ごしていた。小田原攻めが長期包囲戦にはいったため秀吉は北の政所を通じて茶々に小田原へ向かわせている。茶々は箱根山の山中では嫌悪感なく、約二ヶ月を秀吉と暮らした。7月、小田原城が開城となると氏正・氏照兄弟は切腹し、功労者である家康には関東八州を与え、家康は早速江戸を中心に関東八州を定め、これが後の江戸幕府開設の本拠地になったのである。奥州伊達政宗も軍門にくわわり秀吉の天下統一は完了したのである。翌年の1591年、異父妹の朝日姫、異父弟・秀長と相次いで亡くすと鶴松は病気になり、いったんは回復を見せたが、秋には息絶えてしまった。跡継ぎをあきらめた秀吉は、養子の秀次に関白を譲ると、秀次は聚楽第で一の台局と久しぶりの再会をするのであるが、秀次は正妻・栄を清洲城においたまま、一の台局の父・晴季も心配するほどの情事を繰り返した。1592年、鶴松の死を忘れるためかのように朝鮮を制圧していたが、母・大政所を失い、死に目にも会えなかった自分を悔いた。丁度その頃養子の秀勝 (信長の四男でお江と結婚していた) が24歳で戦死したのである。その頃茶々は自分のからだに再び異変を感じた。まぎれもなく妊娠の兆候である。1593年、淀君は男子を産んだ。捨て子は元気に育つと信じて鶴松には「捨」と名付けたが、こんどは「お拾」と名付けた。後の秀頼である。秀頼の出現によって一気に身の危険を感じたのが関白秀次である。

 秀吉に実の子ができたとなると、約束されていた後継ぎの権利が剥奪されるのは目に見えているからである。秀次は一の台局の後押しもあってか、秀吉に、秀頼が実の子であるというのは疑わしいと進言したのである。秀吉が逆上したのは言うまでもないことであるが、それ以来秀次は別人のように酒をあおり、何かに怯えるようになった。そして女あさりが始まったようである。関白となった秀頼の関心を得ようと各地の豪族や公家が自分の娘を差し出そうとしていたが、一の台局を除いて25人いた。秀頼はその女達に閨の伽を申し付けたのである。閨には一の台局も一緒に寝かせ、彼女の目の前で女を抱いた。苦労知らずで18歳にして近江八幡城主となり、秀吉の栄達とともに関白の座につき、聚楽第の主となった秀頼の弱さがでている。その後まもなく秀頼は高野山の青厳寺で謹慎の末、自害させられている。また石田三成の処刑奉行により、秀次の側室や子供三十数名も三条河原にて打ち首になった。考えてみれば、秀吉の恨みをかったのは秀次と一の台局だけであり、他の者は巻き添えを食ったに過ぎない。一の台局の父・晴季は娘と孫・実耶姫の助命を秀吉に嘆願したが、聞き入れられず、晴季は右大臣の官位を奪われ、越前に流罪となっている。秀次が亡くなった後の秀吉は、自分を見失うかのように秀頼を寵愛し、体調を崩していった。いよいよ家康が長年の我慢の成果がでてきた。明智光秀征伐を秀吉に許したばかりに、天下取りの先を越された家康は、この日を待っていた。 秀吉が62歳で亡くなると、尾張出身の加藤清正、福島正則を推す北政所と、近江出身の石田三成、長束正家を推す淀殿との対立は周知のこととなるが、家康は尾張勢に接近することとなる。北政所の淀殿も家康が次の担い手であることは認めていたが、淀殿は三成によって家康を阻み、秀頼の安泰を図り、北政所は家康に飛び込むことにより豊臣家の永続を考えていた。淀殿は石田三成の忠誠に心強く思うが、家康の勢力に勝てるはずもなかったが、前田利家の秀頼に対する忠義により、豊臣家と家康はかろうじて均衡を保っていた。 ところが前田利家の病死により一気に展開が変わるのである。というわけで、秀吉の暴走を止めていたのは秀長であったという確証はないが、その変わり様から一理あったと考えることはできる。

コメント