哲学者・梅原猛は仏教哲学に通じた学者であり、古代の歴史を数々紐解いてきた人物である。 著書に「飛鳥とは何か」がある。 僅かに100年余りの歴史しかもたない飛鳥時代に日本は大きく変動した。 その理由は何かについて触れている。 しばらくはこの本から引用して飛鳥時代について触れてみたい。 飛鳥時代として忘れられないのはもちろん聖徳太子(厩戸皇子)である。 厩戸皇子は20台後半601年に斑鳩宮を本拠地として活動を開始する。 小墾田宮から20kmも離れた斑鳩から小墾田宮まで毎日通うことは並大抵ではないが、小墾田宮から難波への最も近い道の途中にある斑鳩を選んだということは、外国に通じる利便性を選んだということである。 厩戸皇子の功績として知られることとして、603年小墾田遷都・冠位十二階制定、604年冠位十二階実施・憲法十七条制定、605年法興寺釈迦仏建造、607年遣隋使派遣があり、そして斑鳩遷都を目指していたのかもしれない。
飛鳥時代100年というのは推古天皇の592年から持統天皇の694年までをいい、その遷都の推移をみると豊浦宮に始まり、飛鳥浄御原宮まで実に遷都を20回も繰り返している。 一番長い期間でも推古天皇の小墾田宮24年である。 もともと中国は韓からの文化を取り入れてきたから恒久的な都を必要としながらも、天皇一代限りの風習から脱出できず、恒久的な宮建造が始まったのは難波宮からなのである。 飛鳥時代以前の飛鳥はといえば、飛鳥直という天事代主命の末裔が先住民として居り、神を祭っていた。 ところが5世紀末から渡来人の侵入によって変貌していく。 応神天皇のとき(3世紀後半)に百済から多くの学者、技術者が渡ってきた。 和爾氏・阿直岐氏、阿知使主などが代表格で、阿知使主の子孫が飛鳥檜隈を本拠とした東漢氏である。 彼らが渡来してまもなく日本の政治において極めて重要な地位に至った。 仁徳天皇の死後、後継者争いで住吉仲皇子は長男のイザホワケ(後の履中天皇)を焼き殺そうとする。 このときにイザホワケ皇子を馬に乗せて大和に避難させたのが東漢氏の祖・阿知直なのである。 ちなみに履中の弟が允恭天皇となったとき、飛鳥宮に遷都して政治を行ったことがあり、 これは東漢氏の影響が大きい。 この允恭天皇のした有名なことに盟神探湯がある。 盟神探湯とは熱い湯に手を突っ込ませて真偽を確かめるというもの。 そして盟神探湯が行われた場所が飛鳥の甘樫丘なのである。
飛鳥時代以外で飛鳥に宮が置かれたのは允恭の時代のほかに、もう一回ある。 それは宣化天皇のときである。 そのときに初めて蘇我氏から稲目が大臣になっている。 場所は飛鳥の 檜隈廬入野宮で、檜隈は東漢氏が本拠地とした国中からは遠くはなれた山の中にある。 そんな山中に宮を建てたというのも東漢氏との関係の深さを示すものである。 因みに宣化の時代は短かったが、その皇子(後の欽名天皇)の時代になると益々東漢氏の力を借りて安定した時代となる。 宣化帝のあと欽明天皇の時代になると蘇我稲目は二人の娘・堅塩姫と小姉君を妃として入れている。 この欽明の時代に仏教が伝来すると、崇仏の蘇我氏と反仏の物部氏との対立を恐れて、蘇我氏に私的に仏教礼拝を許可する。 これが発端となって厩戸皇子の父・用明天皇の死後には蘇我・物部戦争が起こって物部氏は滅亡した。 この頃の天皇の宮を見てみると、敏達帝の百済大井宮、用明帝の磐余池辺双槻宮、崇峻帝の倉梯柴垣宮と、次第に宮は山の中へ入っていった。 それは帝の権力が弱まり、正当な皇位継承権を主張することが困難になってきたことを示している。 特に崇峻帝のときには、飛鳥寺の建造という事件が起こった。 つまり僅かに帰化人が居住するさびしい所に帝がいたのに、蘇我氏は飛鳥に巨大寺院・法興寺を建てたということは、崇峻帝が傀儡にすぎないことを意味し、挙句の果てには崇峻は蘇我氏の側近・東漢駒によって殺された。 いよいよ推古帝の時代になると、蘇我馬子の時代となり、そのときの皇太子が厩戸皇子なのである。 ここで宮は豊浦という甘樫丘から一望できるところに移っている。