平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

島原-1 江東寺に眠る板倉重政

2018年11月21日 | 池波正太郎 江戸時代

 松倉重政1574-1630は、筒井城主である筒井順慶の家臣・松倉重信の長男として生まれた。母は秦楽寺氏の娘。筒井定次が伊賀・上野城へ転封となると、父・松倉重信は伊賀名張に約8000石を与えられた。しかし、島左近が筒井定次と合わなく、大和・郡山城主となった豊臣秀長に仕えたのと同様に、子の松倉重政も大和に残った。1600年、関ヶ原の戦いの際に、松倉重政は単身で徳川家康の元に参じ、10000石の大名に取り立てられ大和の五条二見城主となった。現在の奈良県五條市では、松倉豊後守重政の官名から、名君「豊後様」として評価を受けている。1615年、豊臣秀頼との大坂夏の陣では、大和・郡山城を救援し、道明寺の戦いで後藤又兵衛と戦い、松倉重政は1616年、肥前・日野江藩4万3千石と抜擢され日野江城に入った。そして、築城の名手とされた松倉重政は、1618年に島原城を造営する。

 当初はキリシタンに寛容だった松倉重政であったが、1625年に、将軍・徳川家光からキリスト教弾圧が甘いと指摘され、松倉重政は徹底的な弾圧を開始する事となる。松倉重政はキリシタンの根拠地であるルソン攻撃の許可を幕府から取っており、さらなる戦費を領民に課したとされる。1630年11月16日、松倉重政は急死。あとを継いだのは、正室・筒井定慶の娘との間に、1597年誕生していた嫡男・松倉勝家である。 

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佐賀-4 佐賀城

2018年11月20日 | 池波正太郎 江戸時代

 佐賀城は佐賀市の中心に位置し、佐賀神社の南側に隣接している。鍋島直正の像が象徴的で歴史館の周りには鍋島直正が開発したカノン砲やアームストロング砲が配置されている。平安時代末期に藤原季喜が龍造寺村の領主になって土着し、慶長期に鍋島氏が佐賀城を普請した。1569年、大友宗麟は大軍を投じて進攻するが、窮地に追い込まれた龍造寺軍の鍋島信正(後の鍋島直茂)は、夜襲により今山の陣で大友軍の総大将の大友親貞を討ち取った。直茂の城改修計画が実現したのは江戸幕府政権下で正当に佐賀藩主として認められた後の1602年である。1874年、江藤新平を中心とした佐賀の乱が起こり佐賀城はこの反乱軍に一時占拠され、建造物の大半を失った。鯱の門には当時の弾痕が現在も生々しく残っている。

 

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千利休遺構・不審庵

2018年10月16日 | 池波正太郎 江戸時代

 千利休がもと京都大徳寺の門前に建てた茶室。不審庵は利休の次男の少庵,少庵の長男の宗旦,宗旦の3男の江岑 (こうしん) 宗左によって受継がれ,表千家を代表する茶室の席名となり,またその家元の庵号ともなっている。利休好みの草庵茶席の代表とされ,現在,本法寺前の表千家内にある。たびたび火災にあい,現存の不審庵は 1914年に再建されたもの。命名は利休の師,古渓の「不審花開今日春」の言葉からとったものと伝えられる。 

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日光東照宮-6 唐門

2018年08月03日 | 池波正太郎 江戸時代

  陽明門を入った正面、東照宮の最も重要な本社への正門が唐門で、この門を潜るのは、正月や大祭など中祭以上の祭典の時だけだという。桁行3メートル・梁間2メートル弱の小さな建物ですが、彫刻の数は柱などに嵌め込まれた小さな花形の文様彫刻などを含めると611にも及び、柱などの軸部は、総てに地紋彫りが施されています。

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日光東照宮-5 左甚五郎の作・眠り猫と雀

2018年08月02日 | 池波正太郎 江戸時代

 眠り猫は、奥宮に行く入口の日光東照宮回廊にある建築装飾彫刻作品で、伝説的彫刻職人・左甚五郎の作品と伝承されている。眠り猫は踏ん張っていることから、徳川家康を護るために寝ていると見せ掛け、いつでも飛びかかれる姿勢をしているともいわれているが、もう一つの教えとして、裏で雀が舞っていても「猫も寝るほどの平和」を表しているのである。

↑ 眠り猫と雀 ↓

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日光東照宮-4 カトリックの要求を拒否し貨幣経済の先駆者--徳川家康公の墓所

2018年08月01日 | 池波正太郎 江戸時代

 国宝であり、世界遺産である日光東照宮には江戸幕府の初代将軍、徳川家康公が祀られている。家康公の亡くなった翌年、徳川家康公の遺言に従い、勧請の総指揮にあたった南光坊天海はじめ家臣たちは、久能山から日光へ向けた盛大な「神霊遷し」を始めた。総指揮・南光坊天海が久能山に残した歌は、「あれハある奈け連ハ奈ひ尓駿河なるく能奈き神の宮遷し哉」 南光坊天海が言うには、実際に勧請したかどうかは自分自身の口から言う必要はない、ということである。江戸時代は火葬ではなく土葬だったため分骨をすることはできないから、掘り起こしてしまったら、睨みを利かすという意味はなくなってしまうものではないのかと南光坊天海は考えたと言われている。

 江戸から離れた西日本は外様大名が多く、まだまだ戦乱の世が終わったが油断できなかったのか、駿府で徳川家康公の薨去が行われ側近たちに、4つの遺言を残した。遺骸は久能山に埋葬すること。葬式は江戸の増上寺で行うこと。位牌は徳川家の菩提寺である大樹寺に立てること。一周忌の後に、日光に小堂を建てて勧請すること。4つ目の「日光小堂」が日光東照宮である。

1600 ウィリアム・アダムス:三浦按針来日(漂着)

   カトリックによる日本の植民地化・キリスト教への改宗を示唆

   プロテスタントとの貿易を推奨

1609 メキシコに向かうスペイン船難破@房総沖
            ┗乗組員ロドリゴ・ビベロ:フィリピン臨時総督
         救助した徳川家康の要求 
                 ┣スペイン新技術提供
                 ┃  ・新鉱山発見の技術
                 ┃  ・銀精製の技術 : 水銀アマルガム法
                 ┃       ①銀鉱石を砕く ②水銀を混ぜて合金化 ③加熱して水銀蒸発 ④高純度銀精製
                 ┃       低品質の銀鉱石にも対応可能(灰吹法では不可能だった)
                 ┃
                 ┃  実は家康、水銀アマルガム法を入手していた(大久保長安1545-1613経由)
                 ┃                        ┗武田領黒川金山の開発者
                 ┃
                 ┗鉱山技師提供

             徳川家康は秀吉所有の金銀(分銅金375g 95%)を接収@1615 600万両(今の5000億円)
               ┗金貨銀貨(慶長小判、長銀、豆板銀)の貨幣製造を開始
                  ┗商品経済発展(江戸末期のGDPはアジア第一位)

         救助されたロドリゴ・ビベロの回答・条件  
                 ┣当時のスペインは財政難
                 ┃ ・英とのアマルダ海戦で惨敗@1588
                 ┃ ・蘭独立 
                 ┃ ・銀価格下落--物価高騰--大量の銀流出 
                 ┃ ・封建貴族の経済力低下
                 ┣帰国用の船を与える
                 ┣スペイン人が発見した鉱山の銀は75%をスペインの物
                 ┗鉱山には教会を建てて宣教師を置く
                 

   オランダとの通商開始@平戸オランダ商館 ← 家康は以下を承諾
                 ┣スペインの提案は拒否(カトリック侵攻防止)
                 ┣オランダは1581年にスペインからの独立を宣言
                 ┣スペインの領土的野心を家康に忠告
                 ┣布教活動はしない
                 ┗通商のみを持ち掛けた

1609 蘭使節団を駿府城に招くとイエズス会が妨害(蘭は海賊だと・・・)。家康はこれを却下 

   欄の御朱印船事件@マカオ : 乗組員60名が殺害される 

   長崎に入港していたポルトガルのゼウス号を沈没させる

1612 キリスト教禁止

1616 家康死去

   家康の神格化:後水尾天皇が勅許 権現号宣下

1636 日光東照宮大規模改築:徳川家光による

1637 島原の乱

   キリスト教信者にとっての最高神ゼウスは、徳川家の脅威

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日光東照宮-3 国宝・陽明門

2018年07月31日 | 池波正太郎 江戸時代

 2017年3月10日、50年ぶりの修復を終えてその光り輝く姿を見ることができました。創建は1617年、徳川家康、2代目将軍・徳川秀忠の発願によるものである。施行は甲良豊後守宗弘、総指揮は天海で、現在の日光東照宮の陽明門は、徳川家康公の21回忌にあたる1636年に徳川家光公によって造り替えされたものである。陽明門は508体の彫刻で埋め尽くされおり、中国の歴史上に存在した22人の著名人を含んでいる。

平安時代の武装した格好の随身像

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日光東照宮-2 三猿の由来

2018年07月30日 | 池波正太郎 江戸時代

 日光東照宮は、江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現を祀る。その歴史は源義朝による日光山造営までさかのぼり、源頼朝がその母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、東国の宗教的権威となっていたという歴史を背景に、徳川氏は東照宮を造営したと考えられる。

 神厩舎の猿の彫刻は猿の一生を描くものであり、「見ざる 言わざる 聞かざる」の三猿は有名である。礼節にそむくことは、見てはいけない、言ってはいけない、聞いてはいけない、行ってはいけないという孔子の四つの戒めの意味があると言われている。ということで、四つ目の行ってはいけないことを8枚のパネル彫刻として残しているようで、作者は不明です。

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米沢-4 米沢藩主上杉家墓所

2018年07月20日 | 池波正太郎 江戸時代

  上杉家廟所、山形県・米沢藩歴代藩主の墓所である。1623年景勝が他界すると現在の廟所に埋葬され、以後十二代藩主までここに埋葬される。現在の廟所は謙信霊廟を中央にして、その左右に歴代藩主の霊廟が並んでいる。二代景勝から九代重定までは、火葬での埋葬が行われ、御堂は入母屋造りの建造物である。十代治憲から十二代斉定までは土葬となり御堂も宝形造りとなっている。上杉謙信の遺骸は甲冑を身に纏った姿で甕に納められ、甕には漆を流し込んで固めてあるという。上杉景勝が越後から会津に移動の際も春日山城不識庵より謙信の霊柩を移動させ、その周囲にある一片の土も運ばせたと伝えられる。さらに越後より会津そして米沢に至る時も謙信の霊柩は運ばれた。明治になって米沢城本丸から謙信の霊柩は上杉家廟所に移築されている。

高梨政盛1455-1513  
  ┃┃┗娘   
  ┃┗娘┣長尾晴景1509-1553   
 ┃ ┣長尾為景1489-1543(守護代)
 ┃長尾能景1459-1506       ┃          
  ┃  ┗娘          ┃ 
  ┃  ┣高梨政頼1508-1576 ┃飯山城主
  ┃  ┃ ┣秀政-     ┃
  ┃  ┃ ┣黒姫     ┃
  ┃  ┃ ┗娘(真田信綱室)┃
  ┗高梨澄頼1492-1547    ┃          
 ┏━━━━━━━━━━━━┛    
  ┣仙桃院1524-1609     桂岩院?-1604(四辻公遠娘)
  ┃ ┣義景(10歳で早世)   ┣定勝1604-1645(直江兼続夫妻が養育)
  ┃ ┣景勝1556-1623 (豊臣5大老の一人)
  ┃ ┃ ┣- 
  ┃ ┃菊姫1563-1604(武田信玄六女)  
  ┃ ┣娘(上杉景虎室 清円院 1556-1579)
  ┃ ┣娘(畠山義春室)   武田信玄1521-1573
  ┃長尾政景1526-1564溺死   ↑
  ┃房長┛          ↓
  ┣長尾景虎(上杉謙信)1530-1578
  ┃ ┃ 宇佐美定満1489-1564 軍師 政景暗殺
  ┃ ┃ 柿崎景家 1513-1575(車掛り 信長と内通?手討)━晴家-1578(景虎派)
  ┃ ┃ 斉藤朝信 1527-1592(内政 蓄財 景勝派) 
  ┃ ┃ 直江景綱 1509-1577(宿老筆頭 内政) 
  ┃ ┃  ┃┃
  ┃ ┃  ┃┃ 樋口兼豊-1602
  ┃ ┃  ┃┃   ┣直江兼続1560-1619
  ┃ ┃  ┃┃   ┣大国実頼  ┣直江景明1594-1615
  ┃ ┃  ┃┃   藤      ┣於松
  ┃ ┃  ┃┣お船1557-1637(直江信綱-1581室)
  ┃ ┃  ┃娘
  ┃ ┃ 山吉政久娘(-1570正国尼)
  ┃ ┃ 甘糟景持 -1604(景勝派 川中島戦で殿軍)
  ┃ ┃ 甘糟景継 1550-1611(景勝派 越後上田衆)
  ┃ ┃ 村上義清1501-1573(葛尾城主)
  ┃ ┃          
  ┃ ┣景勝1556-1623(養子)②代米沢藩主   
  ┃ ┃┣定勝1604-1645(③代)  
  ┃ ┃四辻公遠娘┣綱勝1639-1664(④代)  
  ┃ ┃     ┃┣-
  ┃ ┃     ┃媛姫(保科正之娘)
  ┃ ┃     ┃吉良義央
  ┃ ┃     ┃┣綱憲(⑤代)養子 正妻:紀州光貞娘・栄姫
  ┃ ┃     ┗三姫 ┣吉憲1684-1722(⑥代)
  ┃ ┃ (富子)1643-1704  ┃ ┣宗憲1714-1734(⑦代)    
  ┃ ┃         ┃ ┣宗房1718-1746(⑧代) 
  ┃ ┃         ┃ ┣重定1720-1798(⑨代)正妻:尾張藩宗勝娘豊姫 
  ┃ ┃         ┃祥寿院(山中氏)    ┣治広1764-1822(⑪代)
  ┃
┃         ┃           ┣
幸姫 ┗斉定1788-1839(⑫代)   
  ┃ ┃         ┗豊姫       お登世┃   ┗斉憲1820-1889(⑬代) 
  ┃ ┃           ┣春姫        ┃    ┗茂憲1844-1919(⑭代) 
  ┃ ┃黒田長貞1695-1754秋月藩主┣上杉治憲1751-1822(鷹山)⑩代米沢藩主
  ┃ ┃清円院1556-1579    秋月種美1718-1787
  ┃ ┃ ┣道満丸1571-1579 
  ┃ ┗景虎1538-1590(養子:北条氏康7男)
青岩院(虎御前)1512-1568

中央にある二代上杉景勝公霊廟

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米沢-3 直江兼続と上杉景勝

2018年07月20日 | 池波正太郎 江戸時代

 軍師といえば山本勘助、竹中半兵衛、黒田官兵衛などが有名であるが、武田信玄は山本勘助がいなくても、今語られる信玄であったであろうし、秀吉も官兵衛がいなくても秀吉であったであろう。しかし直江兼続がいなければ決して上杉景勝はいなかった。つまり豊臣政権の五大老のひとりにはなれなかった。兼続1560-1620は樋口与六として身分の低い家に育ったが、幼き頃から頭角をあらわし、名門直江家を入り婿として相続し、上杉家の重臣となり与板城主となった。上杉謙信が倒れ御館の乱というお家騒動が起こったとき、北条家から養子にはいった上杉景虎が圧倒的優位に立っていた。景虎が後継者になれば実家の大大名である北条家と同盟が結ばれる。そして北条家から嫁を迎えていた武田家の当主・武田勝頼とも同盟ができあがり、北条・武田・上杉の義兄弟同盟によって大敵である織田信長にも対抗できるという目算があった。従って北条家の当主・北条氏政は義弟・武田勝頼に対して上杉景虎の援護をするようにと依頼していた。

 窮地にたっていたのが上杉景勝(謙信の姉の子)である。ところが景勝は絶対不利のこの状況をひっくり返し武田勝頼を味方につけたことにより、御館の乱で勝利して上杉家を継いだのである。これにより武田勝頼は北条家を敵に回しただけではなく、同盟のチャンスの逃し、北条氏政を信長との連合に走らせ、1582年滅亡することとなる。今から考えればありえないことであるが、これは直江兼続の軍師としての采配によるものである。上杉謙信の遺産により勝頼を寝返らせたことと、父信玄のなし得なかった上杉家が武田家の家臣として仕えると景勝が誓ったことで、謀略は成功したのである。1584年末から上杉家の二大巨頭のひとり秀治が病に倒れ、兼続は単独執政を行ない、兼続死去まで続くことになる。1588年には関白太政大臣豊臣秀吉から豊臣の氏を授けられ、豊臣兼続として佐渡征伐に景勝と共に従軍すると平定後には佐渡の支配を命じられる。越後・佐渡の金山支配を任せられ、秀吉の命令で景勝が越後から会津120万石に加増された際、兼続には出羽米沢に6万石の所領が与えられている。

 1598年1月、豊臣秀吉から上杉景勝の元に命令が下った。越後を離れて会津に移るべし。背景には実力者徳川家康に不穏な動きがあったからである。家康は関東七か国を統治し、伊達政宗や最上義光など東北の大名と関係を深めようとしていた。秀吉が上杉家を会津に移したのは、この動きに睨みを利かせるためであった。さらにこの年景勝は、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、徳川家康錚々たるメンバとともに徳川五大老の一人に選ばれている。景勝は家康の独走を抑えるキーマンに抜擢されたのである。ところが、1598年9月18日に秀吉が死去すると、徳川家康が台頭する。石田三成と懇意であった兼続は、家康と対立する。

 1599年家康は伊達政宗と縁組を結び、東国での勢力拡大に動いた。奉行の一人石田三成はこれに反発、前田利家の力をかりてこれを阻もうと試みたが、前田利家は死去し石田三成は佐和山に蟄居させられた。そして家康が次なるターゲットに定めたのが上杉家であった。1600年4月、兼続の元に家康の外交僧・西笑承兌から書状が届いた。西日本最大の城郭である神指城築城という、上杉家に謀反の疑いがあるというものである。一刻も早く上洛して家康に弁明すべきという。直江兼続は返書をしたためたが、これを直江状という。15項目にわたって家康に反論したのである。これに対しての家康の回答は、即刻上洛しなければ会津へ出兵であった。かくして1600年6月家康による会津征伐が始まった。家康軍総勢10万に対して上杉勢は総勢5万で若松城を出陣したそのとき、石田三成が挙兵、大阪城の奉行衆を説得し、豊臣政権を掌握したうえで全国の大名に打倒家康の檄を飛ばしたのである。これを知った家康は全軍に会津征伐中止を通達し、江戸への撤退を開始した。これらは会津の景勝と三成の間に交わされた密約によるものである。このとき上杉は東北の最上義光、伊達政宗の問題を解決した後で関東に出兵するとした。上杉は最上の10倍の兵にて侵攻し長谷堂城へ攻撃、ここに北の関ケ原といわれる合戦が始まった。ところが上杉は最上以上の死者を出して総崩れとなってしまった。かくして最上攻略は深入りせずに断念した。ちょうどこの頃、家康率いる東軍と三成率いる西軍が関ケ原で戦い、決着はわずか一日でついた。美濃での関ヶ原本戦で西軍が敗れた事を奥州で知った上杉軍は長谷堂城攻略を中止して撤退を開始した。この撤退戦の見事さは語り草となり、旧日本陸軍参謀本部の日本戦史でも取り上げられている。1601年7月、兼続は景勝とともに上洛して家康に謝罪し、上杉氏の存続を許された。その後は徳川家に忠誠を誓い、兼続は新たな土地の開墾を進めるために治水事業に力を入れるなど新田開発に努め、町を整備し、殖産興業・鉱山の開発を推進するなど米沢藩の藩政の基礎を築いた。1614年からの大坂の陣においても徳川方として参戦し、鴫野の戦いなどで武功を挙げた。

 ところで、直江兼続の豊臣秀吉からのかわいがられようは尋常ではなかった。あの石田三成は近江佐和山で18万石の大名であったが、直江兼続は米沢に30万石を与えられたくらいである。秀吉が死んで政権が分裂すると、徳川家康と石田三成が関が原で戦うこととなったが、このとき直江兼続は主君・上杉景勝に石田三成方に就くように進言し、景勝は承知した。いまの景勝があるのは直江兼続のおかげであると認識していたから異論はなかったのである。しかし関が原で石田三成が大敗し、上杉景勝は会津120万石を没収されたとき、直江兼続は家康にこういった。故太閤殿下からいただいた米沢30万石を返上するかわりに、返上分はそのまま主人・上杉景勝にお与えいただきたい。家康はこの申し出を承認したのである。このとき直江兼続は自分の贖罪のつもりもあってか会津から連れてきた上杉家の家臣をひとりもくびにしなかった。このことが後々までも上杉家の財政難の原因となるのであるが、直江兼続はこれを覚悟で荒地の開墾指示を行った。このときの農業指導は、こうである。田植えの時期には農家の女性は化粧をし赤い腰巻を推奨した。苗を植える男性農民のやる気向上が目的である。米の生産を向上させて主税をあげる目的であることはいうまでもないが、代を重ねるごとに赤字額は増えていき、江戸中期にはどうにもならなくなっていた。藩籍を幕府に返上との案もあったが、養子を向かいいれての財政再建をねらい、日向高鍋藩主秋月家の次男を向かいいれたのである。これが後の上杉鷹山で、再建の基本は直江兼続が行った農業立国であったという。

高梨政盛1455-1513  
  ┃┃┗娘   
  ┃┗娘┣長尾晴景1509-1553   
 ┃ ┣長尾為景1489-1543(守護代)
 ┃長尾能景1459-1506       ┃          
  ┃  ┗娘          ┃ 
  ┃  ┣高梨政頼1508-1576 ┃飯山城主
  ┃  ┃ ┣秀政-     ┃
  ┃  ┃ ┣黒姫     ┃
  ┃  ┃ ┗娘(真田信綱室)┃
  ┗高梨澄頼1492-1547    ┃          
 ┏━━━━━━━━━━━━┛    
  ┣仙桃院1524-1609     桂岩院?-1604(四辻公遠娘)
  ┃ ┣義景(10歳で早世)   ┣定勝1604-1645(直江兼続夫妻が養育)
  ┃ ┣景勝1556-1623 (豊臣5大老の一人)
  ┃ ┃ ┣- 
  ┃ ┃菊姫1563-1604(武田信玄六女)  
  ┃ ┣娘(上杉景虎室 清円院 1556-1579)
  ┃ ┣娘(畠山義春室)   武田信玄1521-1573
  ┃長尾政景1526-1564溺死   ↑
  ┃房長┛          ↓
  ┣長尾景虎(上杉謙信)1530-1578
  ┃ ┃ 宇佐美定満1489-1564 軍師 政景暗殺
  ┃ ┃ 柿崎景家 1513-1575(車掛り 信長と内通?手討)━晴家-1578(景虎派)
  ┃ ┃ 斉藤朝信 1527-1592(内政 蓄財 景勝派) 
  ┃ ┃ 直江景綱 1509-1577(宿老筆頭 内政) 
  ┃ ┃  ┃┃
  ┃ ┃  ┃┃ 樋口兼豊-1602
  ┃ ┃  ┃┃   ┣直江兼続1560-1619
  ┃ ┃  ┃┃   ┣大国実頼  ┣直江景明1594-1615
  ┃ ┃  ┃┃   藤      ┣於松
  ┃ ┃  ┃┣お船1557-1637(直江信綱-1581室)
  ┃ ┃  ┃娘
  ┃ ┃ 山吉政久娘(-1570正国尼)
  ┃ ┃ 甘糟景持 -1604(景勝派 川中島戦で殿軍)
  ┃ ┃ 甘糟景継 1550-1611(景勝派 越後上田衆)
  ┃ ┃ 村上義清1501-1573(葛尾城主)
  ┃ ┃          
  ┃ ┣景勝1556-1623(養子) 初代米沢藩主 120万石  
  ┃ ┃┣定勝1604-1645(2代)  
  ┃ ┃四辻公遠娘┣綱勝1639-1664(3代)  
  ┃ ┃     ┃┣-
  ┃ ┃     ┃媛姫(保科正之娘)
  ┃ ┃     ┃吉良義央 1641-1703 吉良上野介→米沢4代に多額の援助
  ┃ ┃     ┃┣上杉綱憲(4代)養子 正妻: 紀州光貞娘・栄姫 15万石は初代の1/8だが、派手で豪華な生活ぶり(毎年25000両生活)
  ┃ ┃     ┗三姫 ┣上杉吉憲1684-1722(5代)   今の150億財産は使い切ってしまう    (参勤交代)
  ┃ ┃ (富子)1643-1704  ┃ ┣宗憲1714-1734(6代)   また、上杉家の家宝を抵当に商人から借金(江戸藩邸出費) 
  ┃ ┃         ┃ ┣宗房1718-1746(7代)   判治借上を行うまでに追い込まれる   (お手伝い普請)
  ┃ ┃         ┃ ┣重定1720-1798(8代)正妻:尾張藩宗勝娘豊姫 寛永寺修復で6万両出費@1753年
  ┃ ┃         ┃祥寿院(山中氏)    ┣幸姫(?-?)   1763年には藩の借金は16万両となる →借金返済の為領地返上を進言→踏みとどまる 
  ┃ ┃         ┗豊姫         豊姫┃         構造改革ができなかった時代の典型 
  ┃ ┃           ┣春姫        ┃
  ┃ ┃黒田長貞1695-1754秋月藩主┣上杉治憲1751-1822(鷹山)9代米沢藩主  9歳で上杉重定の養子→江戸桜田邸へ@1761年 家老・竹俣当綱から藩の苦境を訴えられる
  ┃ ┃清円院1556-1579    秋月種美1718-1787(日向高鍋藩主3万石) 鷹山は1767年藩主となる ①倹約 ②農業政策 ③籍田の礼 ④会計一円帳 ⑤土木事業(開墾、堤防)
  ┃ ┃ ┣道満丸1571-1579                      会津・蘆名氏の家臣、武田勝信(侍組)が反発 →クーデター 
  ┃ ┗景虎1538-1590(養子:北条氏康7男)
青岩院(虎御前)1512-1568
 

米沢城跡にある景勝と兼続の像

直江兼続の菩提寺である林泉寺を訪れ忘れたのは悔いる

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元々武田遺領の駿河・駿府城

2018年07月16日 | 池波正太郎 江戸時代

 元々ここには今川氏の館が築かれ今川の支配下であった。室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏は隣接する甲斐の武田氏、相模の後北条氏と同盟を結び領国支配を行っていたが、武田氏の駿河侵攻により今川氏の館は失われた。武田氏が1582年に織田・徳川勢力により滅亡し、駿河の武田遺領は徳川家康が領有し、この時代に駿府城は築かれた。徳川家康は秀忠に将軍職を譲り、駿府に隠居した。1616年に駿府城で家康が没するまで、駿府は江戸と並ぶ政治・経済の中心地として大いに繁栄した。 

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会津 若松-2 直江兼続の屋敷跡

2018年06月22日 | 池波正太郎 江戸時代

 軍師といえば山本勘助、竹中半兵衛、黒田官兵衛などが有名であるが、武田信玄は山本勘助がいなくても、今語られる信玄であったであろうし、秀吉も官兵衛がいなくても秀吉であったであろう。しかし直江兼続がいなければ決して上杉景勝はいなかった。つまり豊臣政権の五大老のひとりにはなれなかった。兼続1560-1620は樋口与六として身分の低い家に育ったが、幼き頃から頭角をあらわし、名門直江家を入り婿として相続し、上杉家の重臣となり与板城主となった。上杉謙信が倒れ御館の乱というお家騒動が起こったとき、北条家から養子にはいった上杉景虎が圧倒的優位に立っていた。景虎が後継者になれば実家の大大名である北条家と同盟が結ばれる。 そして北条家から嫁を迎えていた武田家の当主・武田勝頼とも同盟ができあがり、北条・武田・上杉の義兄弟同盟によって大敵である織田信長にも対抗できるという目算があった。従って北条家の当主・北条氏政は義弟・武田勝頼に対して上杉景虎の援護をするようにと依頼していた。窮地にたっていたのが上杉景勝(謙信の姉の子)である。ところが景勝は絶対不利のこの状況をひっくり返し武田勝頼を味方につけたことにより、御館の乱で勝利して上杉家を継いだのである。これにより武田勝頼は北条家を敵に回しただけではなく、同盟のチャンスの逃し、北条氏政を信長との連合に走らせ、1582年滅亡することとなる。今から考えればありえないことであるが、これは直江兼続の軍師としての采配によるものである。上杉謙信の遺産により勝頼を寝返らせたことと、父信玄のなし得なかった上杉家が武田家の家臣として仕えると景勝が誓ったことで、謀略は成功したのである。1584年末から上杉家の二大巨頭のひとり秀治が病に倒れ、兼続は単独執政を行ない、兼続死去まで続くことになる。1588年には関白太政大臣豊臣秀吉から豊臣の氏を授けられ、豊臣兼続として佐渡征伐に景勝と共に従軍すると平定後には佐渡の支配を命じられる。越後・佐渡の金山支配を任せられ、秀吉の命令で景勝が越後から会津120万石に加増された際、兼続には出羽米沢に6万石の所領が与えられている。1598年9月18日に秀吉が死去すると、徳川家康が台頭するが、石田三成と懇意であった兼続は、家康と対立する。関ヶ原の戦いの遠因となる会津征伐を引き起こしたときに家康を激怒させ、会津遠征を決意させた直江状は有名である。美濃での関ヶ原本戦で西軍が敗れた事を奥州で知った上杉軍は長谷堂城攻略を中止して撤退を開始した。この撤退戦の見事さは語り草となり、旧日本陸軍参謀本部の日本戦史でも取り上げられている。 1601年7月、兼続は景勝とともに上洛して家康に謝罪し、上杉氏の存続を許された。その後は徳川家に忠誠を誓い、兼続は新たな土地の開墾を進めるために治水事業に力を入れるなど新田開発に努め、町を整備し、殖産興業・鉱山の開発を推進するなど米沢藩の藩政の基礎を築いた。1614年からの大坂の陣においても徳川方として参戦し、鴫野の戦いなどで武功を挙げた。

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会津 若松-1 蒲生氏郷の墳墓

2018年06月22日 | 池波正太郎 江戸時代

 1590年の小田原征伐などの功により、1590年の奥州仕置において伊勢より会津に移封され42万石の大領を与えられた。これは奥州の伊達政宗を抑えるための配置である。会津において、氏郷は重臣達を領内の支城に城代として配置し、黒川城を蒲生群流の縄張りによる城へと改築した。氏郷の幼名にちなみ、蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで鶴ヶ城と名付けられた。築城と同時に城下町の開発も実施し、町の名を若松へと改めた。

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日光東照宮-1 甲良宗広

2018年06月22日 | 池波正太郎 江戸時代

 甲良宗広は、江戸幕府棟梁甲良氏の初代である。1574年、近江国の大工の家系に生まれ祖父光広の代より京で活動していた。1596年、伏見城で徳川家康に謁見後、召し抱えとなって作事方の用務を任され豊後守を賜った。江戸へ下ると、増上寺三門、山王社、江戸城の改築、江戸城天守閣などを担当し、1632年に江戸幕府の大棟梁となる。1636年、日光東照宮の式年造替にともない、当時西日本の建築界を代表する京大工の名門・中井氏に代わって同宮の新社殿造営をおこなっている。この頃に甲良氏も既に江戸を拠点とした東日本における建築界の代表格に上り詰めていた。1646年3月17日没。墓は京都真如堂にある。

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徳川光圀の隠居所・西山荘から始まった朱子学

2017年12月29日 | 池波正太郎 江戸時代

 1600年関ヶ原の戦いで西軍であった佐竹家が秋田に移ったあと、徳川家康の末っ子、11男の頼房は水戸に入部し御三家水戸徳川家初代となった。二代藩主は徳川光圀、大日本史の編纂にとりかかった。完成したのは明治時代であるから、大事業である。これは朱子学の大義名分論ともいえ、光圀が藩主を引退した後に隠居所として選んだ西山荘で執筆した。1690年から約10年間、家臣の佐々宗淳(佐々木介三郎)らを各地に派遣して史蹟調査を行っている。この御仁は別名助さん・・・水戸黄門の助さんであり、水戸黄門の全国行脚は大日本史編纂のための調査の旅なのである。これらによって大成された学問を水戸学という。明治維新の志士達の思想は、ここで生まれた水戸学である。忠臣として大きく評価されているのがもちろん楠木正成であり、神戸・湊川神社には、光圀が書いた「嗚呼、楠木公」の石碑が今も残っている。

 この楠木正成、光圀が評価するまでは手本となるような人物ではなかったという。武士の政権である幕府を否定した後醍醐天皇に忠誠を誓ったのだから武士にとっては裏切り者ともいえる。しかし光圀は天皇に忠を尽くすことこそ最高の道徳であるとし、倒幕を正当化した。徳川幕府の御三家が・・である。これが後に倒幕思想に繋がっていくのである。かくして、桜田門外の変では、水戸徳川家自信が本家に対して逆らうこととなった。大老井伊直弼を襲撃したのは水戸の脱藩浪士であり、まさに水戸学によって将軍を討つに等しい行為を行い微塵も怯むことはなかった。このようにして天皇こそ真の主君という考え方が江戸時代に定着していった。その天皇が日本の統治を幕府に任せたのであるから、倒幕は天皇家への反逆という考えも一方ではあった。

 老中・堀田正睦は、アメリカとの通商条約はやむなしと判断したが、水戸のご老公・徳川斉昭は批判した。斉昭は孝明天皇からの信任が厚い鷹司政通という大物の義弟であり、第9代水戸藩主である。日本刀では黒船には勝てない・・・と堀田が諭しても斉昭は耳を貸さない。そこで堀田は孝明天皇から勅許を得ることで斉昭を黙らせようとしたが、これがなかなか前にすすまない。孝明天皇はお飾りではなく政治的意識をもって、手足を動かした。その手足が岩倉具視である。

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