尾崎秀実1901-1944 以下記載は尾崎秀実逮捕後の尋問調書(一橋大学所蔵)に基づく
→近衛ブレーン、諜報活動、広報活動:中国、日本の共産化
昭和研究会(近衛のシンクタンク)の中心人物
朝飯会 (近衛のシンクタンク)の中心人物
首相官邸に嘱託席を持つ ----近衛内閣の中枢情報取得
ソ連のスパイ ----近衛内閣の中枢情報をソ連に漏洩(ゾルゲ団経由)
昭和熟で若者に人気 ----ナショナリズムと称する
共産主義者 ----東大大学院の助教授・共産主義者の影響か?
1926 :朝日新聞社入社----当時のペンネームは白川次郎
1927 :上海支局転任 ----中国共産党、東亜同文書院大学面々と交流
→1899:日本が南京に設立:南京同文書院
1921:上海に移設後、専門学校に昇格
1939:大学に昇格
1928 :米ジャーナリストアグネス・スメドレー1892-1950と交流:反日運動家。反国民党
1928 :スメドレーの紹介でリヒャルト・ゾルゲと会い、上海ゾルゲの一員となる
支那、満州での日本軍の諜報活動
1932-1:上海事変 ----日本軍は上海に上陸、中国軍と衝突
1932-5:上海より帰国----諜報活動は新聞連合社の山上正義1896-1938
1932-6:奈良公園でゾルゲと再会----日本での諜報活動開始:米共産党員・宮城与徳1903-1943が仲介
1934 :朝日新聞新設の東亜問題調査会主要メンバ----会長は緒方竹虎1888-1956:副総理
1935 :コミンテルン(国際共産主義組織)正式登録
1936-2:牛場友彦(ロックフェラー配下)の斡旋で「近衛文麿を囲む会:中心人物は蠟山政道」に入る
226事件
1936-8:太平洋問題調査会IPR・ヨセミテ会議の日本代表団@ロックフェラー寄贈のヨセミテ国立公園
牛場友彦は近衛文麿の長男・文隆1915-1956を呼ぶ
尾崎は西園寺公一とも交流→松岡洋右→尾崎→ソ連共産党
風見章、ハーバート・ノーマン1909-1957(ソ連スパイ疑惑で自殺)出席
尾崎の会議用書類には「中国共産党と国民党が団結して抗日に向かっている」@一橋大学図書庫
→太平洋問題調査会IPRに対するFBI捜査資料が一橋大学図書庫にある
これはジョセフ・マッカーシーの赤狩り成果
1936-12:西安事件 張学良によって上司の蒋介石が監禁された事件
蒋介石が共産党の息の根をとめようとしていた
このスクープを世界中に発信したのは松本重治は最初----世界の有名人
1937 :中央公論、文芸春秋に投稿した尾崎の記事はことごとく的中
日中戦争の目的は「腐敗した蒋介石政権の打倒」と煽る
太平洋問題調査会IPRでの尾崎の会議用書類内容通り
情報通の尾崎に目を付けたのが近衛文麿
尾崎は朝日新聞論説委員・佐々弘雄とともに近衛文麿と面会@星岡茶寮(北大路魯山人ゆかり)
1937-4:尾崎は昭和研究会に入る
ところが尾崎と近衛文麿は親密ではないことになっている
昭和研究会中心人物の風見章も尾崎とはあったことは無いと証言
風見章は支那問題研究会を設置----大陸政策の立案機関:尾崎秀実が委員長
1937-6:第一次近衛内閣誕生:官房長官は風見章
1937-7:牛場友彦の斡旋で近衛内閣嘱託、朝飯会に参加----尾崎秀実の広報活動影響力が10倍増
ソ連コミンテルン、国際金融資本、近衛文麿の昭和研究会が団結
国民再組織問題対応----政党政治を無くして一党独裁対応:モデルはソ連共産党
1937-7:盧溝橋事件勃発
1938-5:尾崎の推挙で中西功1910-1973が満州鉄道在籍@1938
→中西は共産主義者 中国共産党の工作員
1929~反帝国主義活動
満州鉄道から陸軍へ派遣
思想対策研究会@上海の出席(昭和研究会、蠟山政道、酒井三郎、松本重治)
支那の統治が課題@支那事変真っ最中----国民党利用
(日中戦争の目的は「腐敗した蒋介石政権の打倒」と煽る)
日中戦争遂行方針・体力・等々はソ連に筒抜け
1942:ゾルゲ事件で逮捕、死刑求刑
1945:GHQにより釈放
1947:日本共産党から当選@第1回参議院選挙
1950:党中央と対立辞任
1939-1:第一次近衛内閣総辞職
支那研究室を設立:総辞職直前に犬養健(18969-1960 犬養毅の三男)とともに:風見章が資金提供
共産主義者水野茂、西園寺公一、近衛文隆と連携
1939-4:近衛発案で、南朝の北畠親房が「神皇正統記」執筆の地へ見学
数多の共産主義者及び岸道三1899-1962(近衛内閣秘書官)が見学
この時の尾崎秀実の助手は伊藤律1913-1989
→共産主義者
満鉄入社@1939
検挙@1939-11
満鉄職員の内300人が共産主義者だったという
1940-9:近衛文麿の別荘にて共産主義者が集合し、第二次近衛内閣談義
新秩序を社会主義理念とする@コミンテルン・・・と尾崎は発言
1940-3:汪兆銘(蔣介石の政敵)傀儡政権誕生@南京(上海は最大都市)
汪兆銘に対する日本側の交渉人は犬養健
汪兆銘と日本の基本条約:日華基本条約を尾崎秀実が入手し、ゾルゲ経由ソ連へ
ルーズベルト大統領批判 to 日本の支那侵略
1940-7:第二次近衛内閣:司法大臣は風見章
1941-2:対米問題会合@近衛の旧宅荻外荘(てきがいそう)----鬼畜米英を煽っていた頃
松岡洋右によるソ連を挟み撃ち戦略(独ソ戦開始@1941-6)に対して
尾崎秀実は妨害
1941-8:陸軍動静諜報活動@満州 毛沢東に情報漏洩
1941-10:尾崎秀実は雑誌「改造11月号」に投稿
支那事変は永久戦争
疲弊の後は共産主義革命
朝日新聞、NHKだけではなく政治家も煽るべきである----衆議院では煽りが始まる
1941-10:-15日に尾崎秀実は逮捕されて訊問開始
特別高等警察による逮捕理由:治安維持法違反、国防保安法違反、軍規保護法違反、軍用資源保護法違反
内大臣・牧野伸顕(大久保利通の子)は近衛に言う「明治以来政府中枢に赤が!」近衛はすっとぼけた
近衛は平沼騏一郎第35代総理に証拠隠滅をはかり逃げる
-16 第三次近衛内閣総辞職
-18 ゾルゲ逮捕
犬養健(18969-1960 犬養毅の三男)は不起訴----吉田内閣では法務大臣
西園寺公一は禁固18か月、執行猶予2年、爵位継承権・相続権剥奪----閣僚級の待遇で中国に移住
1942-02:検事の訊問に答えた形式の「獄中供述書」は、その後の見通しをあまりにも正確に予測している
尾崎秀実の供述通りに日本は敗戦
東亜新秩序社会、実現の為のシナリオを以下のように述べる
→大東亜戦争が順調で停戦になると困る
拘置所の中から停戦阻止運動を行う
各国で共産化革命実施 世界完全計画経済による平和を目指す
しかし仲間の共産主義者、陸軍軍人のことは隠す
1944-10:尾崎秀実検挙----数日後に「大戦を戦い抜くために」の論文発表@雑誌「改造」
支那事変は世界戦争、日本人は動揺することなく戦い抜く・・・と煽っている
1944-11:-7 尾崎秀実、ゾルゲ死刑@巣鴨
1945-08:敗戦以降の尾崎秀実の扱い
戦後GHQによる共産党開放
当時の共産党員の多くは東京大学の教授となる(ロックフェラー財団の後押し)
尾崎秀実ゾルゲ事件真相究明会----殉教者として英雄視
事績・伝記編纂目的だったが、日本共産党の政治局が究明会の活動を阻止
阻止はGHQのテコ入れか?
異母弟の尾崎秀樹1928-1999は各種関係文献書類を共産党に取り上げられたという
東京裁判での被告は日本陸軍であり共産党(扇動)ではない・・・のシナリオ
近衛文麿及び近衛文隆の毒殺死は証拠隠滅
【陸軍中枢に侵入して軍部情報をゾルゲに漏らす】
梅津陸軍参謀総長1882-1949
永田鉄山1884-1935:統制派の中心人物----相沢三郎陸軍中佐に殺害される
武藤章 1892-1948:皇道派の陸軍中将----軍を挙げてゾルゲに協力 A級戦犯で死刑
→尾崎秀実をゾルゲの指南役に朝日新聞経由で推薦(裏で繋がっているとも知らずに)
ゾルゲ事件(ソ連共産党のゾルゲ氏が日本の政治軍事最高機密を探った事件@1941-1942)で処刑
リヒャルト・ゾルゲ1895-1944
以下の記載は「現代史スクープドキュメント」@1991-10-7 BS2放送
・ソ連のスパイ ソ連の英雄 父はドイツ人石油技師アドルフ 母はロシア人ニーナ
・来日前 ナチス党員(カモフラージュ)
・在日ドイツ大使・オイゲン・オットと親交、大使館では秘書役
・1914 WW1参戦
・1918 ロシア革命に共感、ドイツ革命参加
・1919 ドイツ共産党入党
・1924 ソ連コミンテルンに招かれる@モスクワ
・1929 赤軍諜報局・国際スパイとなる
・1933 独ジャーナリストとして来日@東京麻布
任務は「日本のソ連に対する攻撃等々に関する調査」
ゾルゲからの電報はソ連国防省に保管(ラムゼイ:ゾルゲの暗号名)
・1939 3月ドイツ・ベルリンから三国同盟締結の働きかけを大使館に依頼電文
ゾルゲはそのすべてを掌握、内容をソ連赤軍に打電していた
・1939 6月ノモンハン事件
・ブランコ・ド・ヴーケリッチ1904-1945:は陸軍情報部の招待でノモンハン戦線視察
・ソ連のスパイ・ゾルゲ諜報団員(他に宮城与徳、尾崎秀実、マックス・クラウゼンら多数)
・フランスのアヴァス通信社支局勤務(支局長はロベール・ギラン1908-1998)
アヴァス通信社は日本の同盟通信社と同じビル(電通銀座ビル)に入居
同盟通信社所属:松本重治、松方三郎、
・情報は通信士マックス・クラウゼンにより暗号化送信toウラジオストク
・1939 8月ソ連軍攻撃
・独ソ不可侵条約@松岡洋右
・12月大東亜戦争
・1940 6月ドイツがパリ占領
・7月近衛内閣
・9月三国同盟締結@松岡洋右
・12月独は80個師団をソ連国境に配置Fromゾルゲunder独ソ不可侵条約
・バルバロッサ計画(独のソ連奇襲)
・1941 3月独特使の発言をソ連に打電Fromゾルゲ
・4月日ソ中立条約(独の奇襲を察知したソ連は日本と独の挟み撃ちを警戒)
・5月バルバロッサ攻撃は6月15日の情報をゾルゲは得るFromベルリンのショル中佐
・スターリンはこの情報に懐疑的(電文に懐疑の記載あり)
ドイツは英仏と戦闘中で、ソ連と戦うはずはない
独ソ不可侵条約がある
ソ連はドイツに石油、ゴム、穀物を輸出していた
かくしてドイツは英からの経済封鎖を心配無用
二重スパイ情報
・ソ連の犠牲者は400万人
・ゾルゲは日本の動向(北進有無)を探る(オットー独大使&尾崎秀実(スパイ名インベスト))
・6月松岡洋右は北進論
・尾崎秀実は近衛内閣に影響を与え(@朝飯会)、資源豊富な南に進むべきと。
→BS2で牛場友彦談:「尾崎秀実の思うつぼだった」 牛場の差し金だろ?
・6月23日バルバロッサ作戦開始の翌日 陸海軍首脳部の方針を尾崎秀実は入手
入手先は朝日新聞・田中慎次郎1900-1993
尾崎秀実は西園寺公一に問いただし、ゾルゲに報告
・7月国策決定@御前会議:南進 仏領インドシナへ侵攻--最高機密
スターリンにとっては最重要情報 対ドイツ戦:極東ソ連軍を西に配備・20個師団
日本軍仏印侵攻
・10月18日 日米交渉失敗→近衛内閣総辞職→東条英機内閣成立
・ゾルゲ、宮城与徳、尾崎秀実逮捕
・コミンテルン解散Byスターリン
・1964 スターリン批判のなかゾルゲにはソ連英雄の称号が贈られた@ソ連赤軍博物館
ゾルゲと近しいドイツ人
在日ドイツ大使(オイゲン・オットー)
ドイツ通信社総裁、
ナチス諜報部長
ゾルゲと近しい日本人
軍人 :陸軍・武藤章中将(A級戦犯処刑)、海軍小林仁中将、山県有光陸軍大佐 西郷従吾陸軍大佐
外交官:松岡洋右、東郷茂徳、白鳥敏夫
政治家:中野正剛、近衛文麿
諜報活動目的
対ソ政策、
軍備動向、
日独関係の諜報@1933~
ナチス党員@1934-10月
機密情報を得る目的で尾崎秀実を任に充てる
日独伊三国同盟@1940の後はより多くの機密情報を得る
膨大な尋問調書によって昭和研究会メンバとの親密性はうかがえるが、
近衛文麿は「尾崎をほとんど知らない」と言っている----不可解