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幕末247 四堺の役・撃退の地

2020年08月08日 | 幕末

 ここは第二次長州征伐においての芸州口の戦いの古戦場。天皇から長州征伐の勅許がでたのが1865年9月、幕府が出兵を決意し長州征伐を開始したのは1966年5月末であるから8か月も幕府の大軍勢は大坂にとどまっていたことになる。第一次長州征伐では、幕府軍と薩摩郡を相手に長州は戦ったから惨敗を喫した。西郷隆盛を総司令官とする薩摩は、米英仏蘭が日本に睨みを聞かせているなか、内戦をしている場合ではないという勝海舟の進言で、長州側に歩み寄っっていた。そして薩長同盟を結ぶまでに至っていたのである。しかも薩摩の援護で長州は大量の銃や蒸気船を手に入れていたのである。一方幕府軍は2月にはいって老中となった小笠原長行が指揮をとって、長府・徳山・岩国の藩主に召集をかけたが応じた藩はいなかった。こういう状況の中で第二次長州征伐は始まったのである。

 この戦い、四境戦争ともいわれ、4方向から攻め入る作戦であったが、薩摩担当の萩口は薩摩が長州側に就いたので消滅。広島藩担当の芸州口は広島藩戦闘に参加しないと表明している。代わりに担当した彦根藩井伊家、高田藩榊原家は徳川四天王の家柄であるが、赤備の鎧兜に身を固めた騎馬武者が主流だったから時代遅れも甚だしかったという。100%ミニエー銃を持った長州は、敵の大将を狙い撃ちにしたことで、一気に敗走に追いやった。

 

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