ペリー来航の50年も前のこと、1800年頃、鎖国政策をとる江戸幕府に対してアメリカなどの船が現れ交易を求めていた。そうした状況の中、1807年択捉島がロシアの軍艦から襲撃を受けた。幕府が交易を断ったことにたいする報復である。当時北海道、樺太、択捉は蝦夷地と呼ばれ支配の範囲外であった。樺太北部の地形、民族、支配体制などの情報は全くわからず、この調査に乗り出したのが下級役人だった間宮林蔵である。旅に同行したのはアイヌの人達。間宮が北海道の測量を始めた1800年頃の厳寒期、その厳しさが間宮を襲った。それは水腫病とも壊血病とも言われるもので足などに激しいむくみを引き起こすものであった。この時、アイヌの生活を見習えば水腫病にならないと聞いた。かくして間宮はアイヌの食生活や防寒方法を学び、困難を乗り切るのである。
樺太北部の探検にさしかかると、アイヌ人とは違った民族に出会う。ノテトに住むニブフというスメレンクルの人たちである。間宮はスメレンクルの長に北上の方法を聞くと、遠浅の海でも北上可能な船を借り、ノテトから150km北にあるナニオーという場所に着いた。このとき間宮は樺太が島であることを発見したという。樺太の地形調査という密命を果たした林蔵であったが、その土地に住む人たちの調査にいきずまっていた。間宮はスメレンクルの長の家に居候することとなり、その時の状況を「北夷分界余話」という絵に残している。そうしていると長から大陸に渡ってデレンに行くよう勧められた。デレンとは交易を行い、雑多な民族が集まる場所であることを教わった。間宮はデレンという巨大な交易所に行くと、皆は清の役人に貢物をしていたのである。この成果を幕府に報告すると咎めを受けるどころか大いに称賛されたという。